第6章 夜想曲
雲ひとつない晴天だった。
翌朝、目覚めたときそこには【×××】はいなかった。嘘みたいだと思った。
今日は休みだというのに家には誰もいない。父親は朝早くから10年ぶりに高校の同級生と会うんだと言って出かけ、母親はシフト通りに出勤していった。
自分で昼ごはんくらい作ってもいいのだが、なんだかそんな気分にもなれなかったので、近くのスーパーまで買いに行くことにした。近くといっても歩いて10分はある。
さっと身支度を済ませ、出かけることにした。エントランスを出たところで立ち止まり、イヤホンを耳に突っ込む。
ウォークマンのシャッフル機能で流れてきたのは、昨日のライブのアンコールで演奏された曲だった。特徴的なドラムのフレーズで始まるこの曲を聴いた瞬間、昨日のあの光景が脳裏に蘇ってきた。
気づいたときには涙が溢れて止まらなくなっていた。手でどれだけ拭っても拭っても溢れてくるばかりだ。涙ってこんなにも溢れてくるんだと驚いた。
天を仰ぎ見たとき、雲ひとつない晴天で、なんでこんなにも晴れているんだとお天道様に甚だ理不尽な怒りが込み上げてきた。
エレベーターが僕の前でちょうど閉まろうとしていた。
諦めかけたところでまたエレベーターの扉が開いた。
「おはよう」
エレベーターの中にいたのは井村さんだった。
「おはようございます」
「駆け込み乗車はおやめください、だよ」
「そうですね」僕は思わず苦笑した。
「どうした?顔が死んでるよ」こういうときに目敏く感づくのが井村さんだった。
「いつも死んでますよ」
笑ってごまかすしかなかった。たった1日足らずで【×××】の解散のショックを整理できるはずがなかった。
「仕事は忙しい?」
「そうですね。色々任せていただくことが多くなったので、ちょっとしんどいですね」
ちょっとしんどいというよりかなりしんどいかもしれない。
今月から一人が産休に入り、来月には長年勤めてきたベテラン社員が一人退職することになり、その仕事の半分が僕に割り振られることになった。先月から徐々に引き継ぎが始まり、今月から日を増すごとに仕事が増えていった。だから、本当は東京に行かずに休日出勤しないといけないくらいだった。でも、さすがに僕にはその選択はできなかった。
「そっか、だから顔が死んでるんだね。先週も遅くまで残ってたもんね」
「はい、そうなんです」
やがてエレベーターは止まる。扉が開き、意気揚々と井村さんが出て行く。
よし今週も頑張るぞと肩を回しながら歩く井村さんを見て、仕事がつらいと思うことはないのだろうかと思った。でも、そう思った2秒後にはそんなわけないよなと自分の考えを打ち消した。
絶望的な忙しさだった。殺人的と言ってもいい。
外回りから帰ってくると、資料が山のように積まれている。机の上を整理するだけで小一時間かかってしまう。
周囲を見渡すと、多くの社員が残業している。僕だけがしんどいのではないと無理矢理念じて、業務に集中することにした。
3時間の残業を超えたところで完全に集中力を切らしてしまった。もう無理だ。帰ろう。そう思ったとき、同じく残業をしていた富永さんが声を掛けてきた。
「お疲れ様」両手で僕の肩に体重を乗せてくる。
「お疲れ様です。富永さんも遅いですね」首だけ後方に回してそう言った。
「二人の分の仕事が俺にもけっこう降ってきたからねえ」
産休に入った社員と退職した社員の仕事はほぼ僕と富永さんに割り振られる形となった。
「もう仕事は終わり?」
「はい、終わりです」
「飲みに行く?」
「いえ、今日はやめておきます」
「珍しいね」
「ちょっと疲れてて」
「まだ若いのに、何が疲れて、だ」富永さんは呆れるようなそぶりで笑った。
まあでも、と富永さんは続けた。
「1年目でここまでの仕事量をこなさないといけないのはさすがにしんどいと思うわ。俺が1年目のときはそうじゃなかったし」
じゃあと言って、富永さんは帰って行った。
家に帰り着いたときには夜の11時近くになっていた。
お風呂に入って、だらだらしていたらあっという間に日付を跨ごうとしていた。もう寝よう。そうだ、忘れていた。今日は滝口さんのラジオだ。
夜の12時になり、僕は布団にくるまった。充電中のスマートフォンからradikoのアプリを起動する。自分でも驚くほどごく自然だった。
しかし、定刻になっても、彼の落ち着いた、それでいて説得力のある声は聞こえず、見知らぬ女性の妙にテンションの高い声が聞こえてきた。
その場所に集えばいつでも、僕にははるか遠い存在の彼が僕の一番近くでそっと語りかけてくれた。永遠なんてないんだと、このとき改めて実感した。
そうだ、もう終わったんだ。
彼の声がもう聞こえるはずはなかった。握り締めたスマートフォンをそっと枕元に置き、眠りについた。
季節は巡っていくし、記憶は薄らいでいく。
余韻に浸る間もないまま、現実に引き戻されていく。
でも、【×××】を忘れた日なんて一度もなかった。【×××】の曲を聴かなかった日なんて一度もなかった。【×××】の解散という事実に対してどう折り合いをつければいいのかわからなかった。そもそも折り合いをつけるという時点でおかしいではないか。折り合いなんてつけられるはずがない。
あの日から地に足がつかないまま、空中にひらひらと漂い続けている気がする。
実感が沸かない。あの日から【×××】がいなくなったという実感が沸かない。どれだけ【×××】の曲を聴いても生々しく感じられない。
誰かとこの思いを共有したい。
だからといって、見ず知らずの他人に打ち明けたところで、たかがバンドの解散でしょと一笑に付されるに決まっている。
あの日から半年が経過していた。
3月に入ったからといって急に暖かくなるわけもなく、風は冷たいままだ。
僕はあの雨の日に置いてきぼりにされたままだった。
妙な噂を耳にした。というより目にした。
平日の社内。昼休みにぼんやりとSNSの投稿をぼんやりと眺めていたら、こんな投稿を目にした。
『滝口さんって歌えなくなってるらしいよ』
『滝口さんって【×××】の?』
『そうそう。活動休止したときから』
『でもラストライブでは普通に歌えてたじゃん?』
『歌えてたけど、高音とか苦しそうだったよ』
根も葉もない噂だと一笑に付すのは簡単だ。でも、思い当たる節がないと言えば、嘘になる。確かにラストライブでは高音を苦しそうに歌う場面が何度もあったが、そこまでコンディションが悪いとも感じなかった。
俺たちは今日、今までで一番の最高のライブをしたという自負がある。
何よりもラストライブで滝口さんがこう言い切った言葉には嘘も偽りもないはずだ。
遅くまで仕事をしていて、仕方なく会社の近くのラーメン屋に入ることにした。
僕が働く会社の近くには仕事が終わって気軽に食べに行ける定食屋というものがほとんどない。家に帰ってから食べればいいのだけれど、夜遅くまで仕事をしていると、一刻も早く胃に何かを入れてしまいたいという衝動に駆られてしまい、ラーメン屋で妥協してしまう。食生活は荒れる一方だ。
電車は行きも帰りも座れないことがほとんだ。だから、仕事が終わった後、飲食店の椅子に座るときは本当に心が休まる瞬間だった。
メニューをさっと見て、店員さんを呼び、注文内容を告げる。
ラーメンが運ばれてくるまで、しばしぼおっとする。今日の出来事を回想する。
働き始めてから、曲がりなりにも1年が経過していた。それくらいの時間が過ぎると、大きな意味でも「働く」ということに関して色々なことが目に見えてくるようなる。良い面も多くはあるが、それと同じくらいに悪い面も見えてくるようになる。
たかが1年働いたくらいの奴が社内のあるゆることに対して指摘をするのは正直なところ生意気だと思っていた。でも、従来のやり方が機能しなくなり、明らかに弊害の方が多いのに、それに目を瞑って思考停止のままでいるのはおかしいのではないかという思いが日に日に強くなっていった。だから、今日の会議の場で上司に進言したのだ。上司から返ってきた言葉はこうだった。
今までのやり方で何の問題もないのだから変える必要はない。
問題があるんだ、と何度言っても聞き入れてもらえなかった。
会議が終わり、富永さんが僕の肩をぽんと叩いて会議室を出て行った。その日の帰り際、富永さんは仕方がないんだと言った。よくよく富永さんの話を聞いてみれば、確かにたかが1年しか仕事をしていない僕ではわからない自分の会社や部署の方針、しがらみ、業界の歴史や慣習などがあった。早計に過ぎたのかもわからない。でも、無理だと言って諦めて何も動かなければ、この先、何も進展も発展もしないではないか。
ふいに、かつて滝口さんが言った言葉を思い出した。
無理なんて誰が決めたんだ。
そうだ、彼はいつだって自分の目の前の高い壁なんてどこ吹く風で乗り越えていたではないか。
今はもう昔の僕ではない。できないはずがない。
店員の呼び掛ける声で我に返った。どうやら注文したラーメンが出来上がったらしい。
食べようと思い、箸に手を伸ばしたところでふと思い出した。そういえば、仕事が終わってスマホを見ていなかった。いつのまにか仕事が終わったら、スマホを確認するのが癖になっていた。昔は携帯電話なんて一切見なかったのに。不思議なものだ。
とりあえず箸を置いて、スマホを見てみると懐かしい人から連絡が入っていた。神田からLINEが入っていた。彼とは卒業式以来、会っていないので、もう1年になる。彼は出版社に入社後、東京配属になったので、今は東京に住んでいるはずだった。
LINEの画面を開くと、一目ではよく理解できない文面だった。
『今日、時間ある?』
夕方の5時半に連絡が来ていたようだ。ちなみに現在の時刻は夜の7時半だ。
『えっ?どういうこと?』
僕のメッセージにものの数分で返信が来た。
『今日さ、有給使ってこっちに帰ってきててさ、もし時間あれば飲みにでもどうかなって』
『は? 正気かよ』
呆れて店内で一人で笑ってしまった。
『さすがに無理だよなあ』
『いやいや、無理だよ。急すぎる。先に言ってよ。先に言ってくれたら、必死で定時に仕事、終わらせたのに』
『だよね』
『いつまでこっちいんの?』
『明日のお昼くらいまで』
明日は土曜日だった。予定もないし、仕方がないから会ってやるか。
『明日なら時間あるけど』
『ほんと?』
『うん』
『じゃあ明日のお昼に』
神田は市内の喫茶店を指定してきた。
『これは大きな借りだよ』
待ち合わせの10分前には神田に指定された喫茶店にやって来ていた。昔ながらの喫茶店というよりいわゆるカフェといった感じだ。こんなお洒落なカフェを指定してくるなんて東京に行って少しは変わったということだろうか。
水を飲みながら待っていると、神田が現れた。遠目で見ても変わってないなと思った。
神田が席につくまでの間、どんな憎まれ口を叩いてやろうかと考えていたけど、顔を見た瞬間、出てきた言葉は非常にシンプルでありきたりなものだった。
「久しぶり」
「おう、久しぶりだな」
「急すぎるよ」一番言いたいことはこれ以外になかった。
「すまん。急に休みが取れたからさ」
「最近はどうなの? 仕事は忙しい?」
「呆れるほど」
「有坂は? 忙しい?」
「呆れるほど」
神田はアイスコーヒーを、僕はホットコーヒーを注文した。
「神田はなんでこんなお洒落な店、知っての?」
周囲を見渡すと、女性客かカップルばかりで、男二人で来ているのは僕たちだけだった。
「ちょっと気になっててさ、行ってみたくて」
「女子かよ」
「それは問題発言じゃないか?」神田は笑った。
「どうってことないよ」
神田が、そういえばと話そうとしたとき、コーヒーが運ばれてきた。僕はそのまま湯気が立ち昇るコーヒーに口をつけた。神田はというと、ミルクと砂糖をたっぷり入れていた。
「さっきなんか言おうとした?」
「あっそうそう。あの子……あの可愛い子ちゃんとはどうなった?」
可愛い子ちゃんとは新垣さんのことだろうか。
「可愛い子ちゃんって……中身はおじさんなの? とても20代の若者とは思えないなあ」
「相変わらずだな。変わってないね」神田は苦笑した。
「神田もある意味では変わってない」
仕方がないから僕の方から切り出すことにした。
「新垣さんでしょ?」
「そうそう、どうなった?」
「何も変わらないよ。現状維持」
「君たちの関係性は一体、何なのさ」
かつて似たようなこと神田に言われた気がするが、黙っていることにした。
「僕にもわからない。上手く説明ができない」
「嫌いじゃないんだろ?」
「嫌いじゃないねえ」コーヒーを飲もうと思ったけれど、まだ思いのほか熱かった。
「好きじゃないの?」
「好き…かな」
「じゃあ、好きって言えよ」神田は真っすぐ僕のことを見つめた。
「そういうんじゃないんだよ。君にわかるかな?」
「わからん」呆れた様子だ。
「でしょうね」
おそらく神田は僕が新垣さんの話題をはぐらかしたと思っているだろう。でも、僕には本当にわからなかった。僕と新垣さんがどういう関係性なのかも、僕がこの先、どうしたいのかも。白黒はっきりつけたい人がいる。曖昧性を認めない人がいる。でも、曖昧なままでいいと思う。無理に名前なんてつけなくていい。僕はそう思う。
「やっぱり変わらないな、有坂は」
「揶揄? ショックだな…」
「違うわ」
「違うの? 成長してないって聞こえるよ。僕の脳みそはそういう風にできてるから」コーヒーがかなり温くなったおかげで飲みやすくなった。
「物事とか人に対する判断が正しくできる。お前、昔からそうだっただろ。自分自身を客観視できる。さっきだってそうだっただろ」
「ありがとう。照れるな」
さっきとは、新垣さんとの関係性のことだろうか。新垣さんとの話題をはぐらかしたと神田は考えていると思ったが、どうやら思い過ごしのようだ。
「時間、大丈夫なの?」
「おっ…もうそろそろだな。新幹線に乗り遅れる」
「じゃあ行こう」
神田と会ったカフェは駅の近くだったので、新幹線に乗り遅れる心配もないだろう。
「もう切符は買ってるの?」
「もちろん」
「じゃあ…また。仕事、頑張れよ」
「有坂もな」
「またね」
付き合いが長くなっても所詮は他人だ。お互いの何もかもを知っている、分かっているなんてことはなかなかない。でも、付き合いが長ければ長いほど、相手の知らなかった一面が垣間見えるということもある。神田の、相手の良いところを素直に褒めるという一面を長い付き合いの中で初めて知った。
他者を拒絶するのはある意味、簡単なことかもしれない。逆に相手を受け入れるということは、僕にとっては大変な苦労を要することだった。長い時間かかった。
人とまともに面と向かって笑い合えるようになるまでにも本当に時間がかかった。だから、たぶん今の僕はそれなりに幸せなのだと思う。
さらに半年が経過した。つまり、あの日からもう1年だった。
1年って早いねなどという年寄りじみた言葉をこの歳で使うようになるとは思いもよらなかった。
どういう心持ちでこの1年を過ごしてきたのか自分でもよくわからなかった。あっという間だった。だからこそ、気持ちの整理がつかず、空中にただ彷徨うだけの1年だった。
そういえば、半年ほど前に滝口さんに関する噂がネット上で流布した。人の噂も75日なんて言うけれど、たった数日で消えてしまったし、僕も今の今まで忘れてしまっていた。
そんな世間の噂など知ってか知らずか発表はあまりにも突然だった。
滝口さんはいつでもどこ吹く風で自分のペースを貫いていた。
嫌な予感がした。【×××】の解散発表のときの、通勤かばんに突っ込んだスマートフォンの通知音が思い出された。この日もそれと同様の通知音が耳に飛び込んできた。
時刻はもう夜の7時を回っている。まだまだ片付けるべき仕事は残っているが、もう帰ってしまおうかと思った。その前に先ほどの通知音の正体だけも確認しておこうと思った。
スマートフォンを開くと、音楽ニュースサイトからの通知で「元【×××】の滝口恭平、声明を発表」とあり、すぐに滝口さんのブログへ促された。滝口さんってブログを書くんだと少し意外に思った。
お久しぶりですと題されたブログは「声明を発表」という言葉とはあまりにかけ離れていた。ただ、それは読み始めてすぐに崩れることになった。
お久しぶりです。【×××】の解散からもう1年です。早いものですね。
1年前のあの日から歌わなくなって、すっかり歌い方を忘れてしまいました。声の出し方というか。さすがにこれはまずいなと思い、楽器だけはずっと練習していました。たまに楽器を見るのも嫌になるときはありましたが。でも、毎日、練習したおかげでめちゃくちゃ上手くなりました。
楽器は常に触っていたように思いましたが、それ以外でこの1年という時間を何に費やしたかというと、治療です。
ごく限られた人たちにしか言っていなかったので、読まれた方は驚かれるのではないでしょうか?
【×××】は長い活動休止の末、昨年に解散しました。活動休止の少し前から声の違和感に苦しむようになりました。最初は自分でも気づかないほどの違和感でした。でも、それが、その気づかない程度の違和感が徐々に形となって俺を苦しめることになりました。自分の思った声が出ない、最高のパフォーマンスができないことがとてつもなく苦しかった。活動休止前に行った最後のライブは今、思い出しただけでも悔しさが体中から滲み出てくるほどです。あのライブで俺は活動休止を決意しました。
その当時、俺がやっていたラジオ番組では活動休止の理由をどのように説明したのか正直に言うと思い出せません。霧が立ち込めたように記憶が曖昧です。なぜか?ラジオの本番が始まる2日前に事務所のスタッフとメンバーの勧めで俺は病院に行きました。
結局のところ詳しい病名は分かりませんでした。ただ、原因はおそらく楽曲制作などにかかる極度のストレスが引き起こしているのではないかということです。同時に医者には、「あなた、完璧主義でしょ?」と言われてしまいました。確かに、曲ができるまで夜通しパソコンに向かっていたり、ギターを弾いていたりといったことは日常茶飯事でした。
でも、アーティストであれば、バンドマンであれば 、こんなことは当たり前のことでしょう。誰だってやっている。こんなことを医者に詰め寄ってしまいました。
すると医者はこう言いました。
あなたのストレスの原因は何も楽曲制作だけではないでしょう?
今回、あなたが診察に来るということで事前にバンドの曲を聴いたり、色々なインタビュー記事を読ませていただきました。あなたはまだ若いのに多くの人の人生を背負い過ぎています。バンドメンバーのこと、事務所のスタッフ、ライブハウスのスタッフ、聴いてくれているファン。数えれば、切りがありません。それではあなたの身が持ちませんよ。
俺は知らず知らずのうちに背負い過ぎていたようです。
だから、自分自身がもう一度、フラットな状態に戻れるように活動休止しましたが、やはり上手くいかなかった。活動休止という中途半端な状態ではまた背負い込んでしまう。だから、解散することにしました。
本当はもっと早く言うべきでしたね。今さら言われてもって思うでしょう。たぶん、自分が歌えなくなったから活動休止になった、解散したと言いたくなかったのでしょう。ちっぽけなプライドだなと思います。そういうありのままの自分を曝け出せないということはやはりまだどこかで何かを背負っていたのでしょう。
活動休止してから長らくライブはしていませんでした。だからといって、そのまま解散ということには絶対にしたくなかった。だから、最後に歌わせてくれとメンバーとスタッフに懇願したところ、そう言うと思ったと言われてしまいました。何もかも見抜かれていたようです。
声は本調子ではありませんでした。
でも、ラストライブの日にも言いましたが、俺らは最高のライブをしました。それは紛れもない事実です。
今も治療は続けています。なぜ続けているのかはあえて書かなくてもわかると思います。
またどこかでお会いできることを楽しみにしています。
またどこかでお会いできることを楽しみにしています。ブログの文章はそう結ばれていた。
気づいたときにはスマホの画面は涙で濡れ、文章がまともに読めなくなっていた。何度、手で拭ったかわからない。
周囲にはまだ残業している社員は多くいる。泣いているのを見られるのは不都合だと思い、慌ててトイレに駆け込んだ。
僕は彼の何を知っていたのだろう。いや、何も知らなかったのかもしれない。
何もかも背負い込んでしまうという彼の一面を初めて知った。
滝口さんはもがきながらも前に進んでいる。その反面、僕はなんだんだ。
僕はいつまであの日に置いてきぼりにされているんだろう。あの日をそっと抱き締めて前に進むしかないじゃないか。
しばしぼんやりとしていた。呆然としていた。
LINEの通知音で突然、我に返った。
画面を見て見ると、新垣さんだった。そういえば、昨年のあの日、送ったLINEの返信はなく、1年が経過していた。
『見た?』
『見た』
『久しぶりだな』
『送れなくてごめんなさい』
『気にしなくて、いいよ。それより驚いたね』
『びっくりした。滝口さんらしいなって発表の仕方が』
『そうだね』
それはまさしく僕も送ろうとしていた内容だった。
『安心した』
『何が?』
『滝口さんは、全然変わってない。でも、いつでも前に進んでいける力がある』
僕の言いたいことを過不足なく要約してくれたので、僕の言うべき言葉は見つからなかった。
仕事はまだまだ残っているけれど、今日は帰ろうと思った。僕には明日も明後日もある。滝口さんが前に進めと鼓舞してくれているように感じた。
1年ぶりに会った新垣さんは突き抜けるような明るさがあった。
「久しぶり」
「久しぶり」
お互い仕事帰りだから、スーツ姿だ。それがなんだか妙におかしく思えた。思えば、初めて会ったのは高校生のときだ。
「なんで笑ってるんですか?」
「ううん、なんでもない」
「変ですかね?」
新垣さんはスーツ姿の自分自身の恰好を見ながら、言った。
「変じゃないよ。笑ったのはこっちの話だから」そう言って、僕は話を逸らした。
時間も遅いから、近くのファミレスに入って話そうということになった。
席に座って早々、僕は切り出した。
「いや、驚いたね」
「驚くなんて話じゃないですよ。毎回ですよ、毎回」新垣さんは怒りながら笑っている。
ほんとにそうだ。僕たちは一体、何度、滝口さんに、【×××】に驚かされるのだろう。今後もそれは変わらない気がする。
早くも料理が運ばれてくる。さすがファミレスなだけあってボリュームが桁違いだ。
「バンドって面白いですね。活動休止したり、解散したり、はたまた再結成したり、紆余曲折があって今がある。そのバンドを知ることで、色んな人に会ったり、別れたり」
「そうだよ、【×××】を知ったからこそ会えた人、仲良くなった人もいる」
「有坂君とファミレスでご飯、食べることもなかったし」新垣さんはハンバーグに添えられたじゃがいもをフォークで刺しながら言った。
改めて新垣さんは顔に似合わずよく食べるなと思った。
「最近よく思うことがあって」
「何?」
「【×××】を聴いていたからこそ知り合った人って大勢いたわけじゃない?新垣さんも僕も」
「うん」
「なんかさ。バンドの始まりと終わりという一つの時間軸の中で僕と新垣さんは【×××】を好きだという純粋な思いを共有してる。始まりから終わりという長い長い景色を眺めてる。その時間軸にたまたま乗り合わせて、ただその一点のみで繋がってる。それってすごいことだと思う。偶然に偶然が重なり過ぎてる」
「すごいね、有坂君」新垣さんはにっこりと笑って言った。
「何が?」
「私も全く同じこと思ってた」
「それはすごいね」
「友達でも恋人でもない。私は同志だと思ってる」
同志か。そうだ、その言葉が一番しっくりくる。新垣さんはいつだって僕の一番言いたいことを要約してくれる。
「恋人ではないのね」こうも率直に言われてしまうと笑うしか術はない。
「うん、正直が一番ですよ」
「それは確かにそうだね」
ファミレスを出ると、すっかり人通りは少なくなっていた。食事を終えた後、どうやら話し過ぎたようだ。
「帰らないと、明日も仕事だ」
「そうですね」
本当はもっと繁華街で会おうということになっていたが、よくよく話を聞いてみると、新垣さんの仕事場が僕が外周りに行く場所の近くだったので、急遽、待ち合わせ場所を変更した。そして、いざ来てみると、けっこうない田舎でびっくりしたのだ。
「ごめんなさい、こんなところまで来てもらって」
「いいよいいよ、びっくりはしたけど。なかなかの田舎で」
「でしょ、でも会社が近くだから便利で」
「歩いて出勤?」
「いや自転車」
「いやあ、それがいいよ。満員電車は地獄だよ」
「ですよね。友達も言ってました」
しばらく歩いていくと、左側に鬱蒼とした木々に囲まれた公園が見えてきた。僕は小さく声を漏らしたが、やはり気づかれたようだ。
「なんか雰囲気が似てるでしょ、ラストライブの場所に」
「確かに似てるな」
「思い出しますね。入ってみます?何の変哲もない公園だけど」
「うん」
時刻はもう夜の9時をゆうに越えている。この時間ではさすがに公園内を歩いている人は僕たち以外にはいないようだ。
森のざわめきだけが耳に入ってくる。
季節的には鈴虫が鳴いていてもよさそうだが、耳をすましても鳴き声は聞こえてこない。
突然、新垣さんが立ち止まったので、驚いた。街頭に照らされた新垣さんの横顔を眺めてみると、目を瞑っていた。僕も同じく目を瞑る。
森のざわめきに呼び起されて、脳裏にあの日の景色が浮かんできた。
しきりに雨がカッパのフードを濡らしている。
雨は止む気配を見せない。
滝口さんが静かに歌い終わったあと、雨が少し小降りになる。
それと同時に鈴虫の音色がどこからともなく聞こえてくる。
ふと目を開けると、新垣さんも目を開けている。
周囲を見渡すと、当然、ここはあの日のあの場所ではない。
でも、耳をすませばいつだって聞こえてくるような気がする。雨の音も鈴虫の音色も。
もう一度、目を瞑る。
僕の耳には雨の音も鈴虫の音色もずっといつまでも鳴り響いている。
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