第4章 無伴奏

 公団住宅が斜め上空から夕陽を一心に浴びて、淡い橙色に染まっている。

 時が経つにつれて、真っ白な壁は日に焼け、色褪せる。改修工事の際にペンキでべったりと白を上塗りし、さも新築ですと見栄を張る。

 人も死ぬまで何かを誤魔化し、騙し、生きている。


 パイプ椅子が5つ並んでいるうちの窓際から2番目の席に座った。席に座ってから前方を眺めると、30代と思しき女性社員と40代後半と思しき男性社員が学生5人をじっと品定めするように眺めている。もう一人の男性社員は手元の資料―おそらくエントリーシートだろう―に目をやっていて顔は見えなかった。

 真ん中に座った40代の男性が「では、初めに自己PRをお願いします。一番右端の佐藤さんから」と言うと、僕とは反対側に座った佐藤さんという女子学生が滔々と自己PRを始めた。女子学生が練りに練った自己PRをしている間に、右端から順々に指名されるから僕は4番目だなと思いながら、もう何度話したかわからない本当に自己PRになっているのか最近わからなくなってきている自己PRを反芻し始めた。

 女子学生が自己PRを終え、ほっとしているのがなぜだかわかる。話を終えた後の呼吸の音というか息遣いでわかる。

 次は先ほどの女子学生の隣の男子学生が指名されるかと思いきや、僕の隣に座った男子学生が指名され、体がびくっと反応したのがわかった。学生の対応力や即応性を判断するつもりで意表を突いたつもりだろうが本当にくだらないと思った。

 最後に必死にこねくり回した志望動機を披露したが、話している途中からそれが本心かわからなくなった。いや、本心ではないだろう。

 7階建ての立派なオフィスビルを出たときには自分自身の志望動機も他の4人が何を話したのかも忘れてしまった。

 リクルートスーツで武装して、わずか数か月の間に頭の中で必死にこねくり回した理想論で理論武装して一体何の意味があるというのだろう。

 かつては他人なんてどうでもいいと人間関係の一切を拒絶していた時期もあったけれど、いざ就職活動という企業側に受け入れられた人から抜けていく早抜け競争に身を投じてみると、他人に受け入れられないというのがこんなにも辛いし切ないというのが身に染みてわかった。就職活動なんかで気づいてしまったという事実がそれに拍車をかけていた。

 地下鉄に乗り込み、かばんからウォークマンを取り出した。親指で素早くタップし、選んだのやはり更新を止めてしまった彼らの曲だった。突然の活動休止宣言から少しして彼らはアルバムを発売した。一聴してすぐに、彼らはこんなにも世界を肯定するかのような開けた曲を作るようになったのかという感動とともに、活動休止前に出す作品ではないし余計に悲しくなると思った。でも、良い意味で憎らしくも感じた。

 どの曲を聴こうかと悩んだ末にアルバムの一番最後の曲を選んだ。「苦しいことがあってももがいてもがいて、その苦しさごと背負って前に進もう」という趣旨の歌詞に何度、心をふっと軽くしてくれたかわからない。「だってそういうもんだろ?」と背中を押してくれている気がした。

 家の最寄り駅の改札口を抜けると、後ろポケットに入れたスマートフォンが震えた。地上に出てから、スマートフォンのロックを解除すると神田からのLINEだった。かつては神田から「メールの返信が遅い。LINEの返信が遅い」などと言われていたが、就職活動を始めて企業からのグループディスカッションや面接の日程連絡、合否連絡などが頻繁に届くようになり嫌でも確認し返信せざるを得なくなったので、スマートフォンを見る頻度が圧倒的に増した。不幸中の幸いとは違うが、そんなところだ。

 卒業に必要な単位はほとんど取り終えているので、大学4年生になってから学校に行くことはほとんどなくなった。だから神田とは最近あまり会っておらず、つい先日、内定が出たとLINEで報告を受けて以来の連絡だった。

『最近どう?』

「最近どう?」と訊かれても返答に困るが、人が気にしていることを何の躊躇いもなく不躾に訊いてくる人も多いので、遠慮がちに訊いてくれているのは彼の精一杯の優しさなのだろう。

『普通という表現が一番ぴったりくる』

『有坂は普通とか微妙って言葉が多いよな』

『辛すぎて死にたいとか、楽しすぎてやばいみたいなそこまで振り切ったことってそうそうないから』

『確かにそうだな。就活は順調?』

『順調』嘘だが、語尾に音符をつけておいた。

『そっか。お前、音符もよく使うよな』

『よく気づいたね。ほとんど死んだ顔で音符つけてるけどね』再度、音符をつけておいた。

『じゃあ音符つけるなよ』語尾に「笑」とついていた。神田はよく語尾に「笑」とくっつける。

『音符付けたら気分が高揚するだろ』

『でも死んだ顔なんだろ?』

『うん』

『めちゃくちゃだな』

 気づいたときには家の近所までたどり着いていた。

 公団住宅が斜め上空から夕陽を一心に浴びて、淡い橙色に染まっている。

 時が経つにつれて、真っ白な壁は日に焼け、色褪せる。改修工事の際にペンキでべったりと白を上塗りし、さも新築ですと見栄を張る。

 人も死ぬまで何かを誤魔化し、騙し、生きている。


 玄関のドアを開けると、また後ろポケットのスマートフォンが震えた。着替えたら返信しよう。母親はまだ帰ってきていない。

 自分の部屋のクローゼットを開け、スーツが皺にならないように丁寧にハンガーにかけた。なぜだか虚しくなって、クローゼットを勢いよく閉めた。

 洗面所に行き、わずか数時間しか着ていないワイシャツと下着を洗濯かごに放り投げた。

 家着に着替えてベッドに身を投げた。枕元に置いたスマホを見るとやはり神田からのLINEだった。神田は本当にマメだなあと思った。

『なあ』

『何?』

『今度、飲みに行こう』

『おお、行こう。最近、行ってなかったな』

『忙しかったからなあ。予定はどんな感じ?俺はバイトがない日はいつでも行ける』

 神田は1年生のときから塾講師のアルバイトをずっと続けている。継続は力なり、だ。

『とりあえず面接とバイトが入ってなかったら僕も大丈夫』

 僕は大学1年生の後半から家庭教師のアルバイトを始め、大学2年生の夏頃からチェーンの雑貨屋でのアルバイトを始めた。家庭教師と雑貨屋のアルバイトを掛け持ちしていた時期もあったが、最近は雑貨屋の方の人手が足りないこともあり、家庭教師のアルバイトは入れていない。

『了解。予定決まったら連絡して』

『了解』

 しばらくしてからLINEに既読マークがついたので、そっとスマートフォンをロックして枕元に置いた。

【×××】が突然の活動休止宣言をしてから2年以上が経つ。あのときは咄嗟に何が起きたのかわからず、手に持った携帯端末に浮かぶ「【×××】、無期限活動休止」という言葉が視神経から脳内にうまく伝達されず文字がまったく読み取れなかった。脳みそが自然と拒絶したのかもしれない。

 滝口さんが活動休止の経緯をラジオで話したというようなことを見聞きした記憶があるが、僕自身が聴いていない―というよりもラジオを聴けるような心境ではなかった―ので、真偽の程は定かではない。滝口さんのラジオを聴いていて不穏な空気を察したものの、まさか裏では活動休止という事態にまで発展していたとは当然、僕だけではなくファン全員が知る由もなく、活動休止の原因は誰しもが推し量るしか方法がなかったし、どれだけ原因を突き止めようとも彼らの活動が、歩みが、あらゆるものの更新が止まってしまったという事実は揺るがない。僕たちは彼らが再び歩み始めるのをただひたすらに待ち続けるという苦行を強いられることになった。活動休止を発表してから僕は滝口さんのラジオをずっと聴けないでいた。

 玄関のがちゃりという音で物思いは遮られた。すぐに慌ただしい音が廊下に響き渡り、僕の部屋のドアが開いた。

「ただいま」母親がドアから顔だけを出していた。

「おかえり」僕も首だけドアの方に向ける。

「寝てた?」

「ううん、起きてたけど」

 そ、と言うと母親は部屋のドアを閉め、リビングの方に向かったようだ。台所の方では蛇口から勢いよく水が流れる音が聞こえる。少しすると、野菜を切る小気味の良い音が聞こえてきた。それを聞いているうちに眠ってしまった。

 僕は晩餐会の会場にいて、ちょうどモナリザの「最後の晩餐」に出てくるような長いテーブルの一番端に座っていた。僕以外には20人ほどの男女が座っていて、食事をしながら歓談している。テーブルには5つのろうそくが灯されている。僕は食事もせずにそのろうそくの火を眺めていると、ふいにそのろうそくの火が揺れたと同時に、会場全体を轟音が包み込んだ。誰かの悲鳴が聞こえたので、その方向に目をやると、大津波が押し寄せてきていた。そう思った瞬間には時すでに遅く、津波に流され意識が遠のいた。意識が戻り、周りを見渡すと、当然ながら晩餐会の会場は跡形もなく、瓦礫で覆われていた。木造の建物は倒壊し、鉄筋コンクリートの建物ははかろうじてその原形は留めてはいるものの窓という窓のガラスは割れて飛び散り、建物は傾いでいた。自分自身に起きた事態が現実のものと思えず、座ったまま途方に暮れていると、後ろから低い声で「おい、手を挙げろ」と恫喝され全身が硬直した。

 体を揺すられている。母親の、省吾と呼びかける声でやっと目が覚めた。どうやら夢を見ていたようだ。汗で背中がびっしょりと濡れている。

「なんかうなされてたみたいだけど」

「うん、変な夢を見た」

「ストレスね」

「たぶんそうだね」

「ご飯、できたから」

「うん、少ししたら行くよ」

 リビングに行くと、父親が帰ってきていた。昔はいつも帰りが遅く、父親だけ後でご飯を食べることがほとんどだったが、最近は帰宅が早いことも多々あるので、3人でご飯を食べるときも増えてきた。

「おかえり」

「ただいま。寝てたのか?」

「うん。面接から帰って来て疲れちゃって、そのまま」

「そうか……どうだった?」

 台所から甘辛い醤油の香りが漂ってきて食欲を刺激する。しょうが焼きだろうか。

「お母さん、今日の晩御飯は?」

「しょうが焼きとポテトサラダ」

 好きな組み合わせだと思いながら、父親の方に向き直った。

「面接の感想って難しいんだよなあ。手応えがなかなか掴みづらい。いい感じだと思ったら落とされるし、逆に無理だろうなあと思ってたら意外と選考に通ったりするから、ほんとにわからなくなる」

「面接官としては学生が喋ってるのをうんうんって頷きながら聞いてるけど、実際はそうとは限らないしね。学生側が何気なくぽろっと零した言葉が面接官には良い意味でも悪い意味でも引っ掛かることもあるから」

「自分では何気なく言ってるから怖い」

 自分以外の他者に弱音を吐くことがない僕がこうして弱音を吐くということはよほど追い詰められているということだろう。前方に走っている人が次々にゴールテープを切って水を飲んでひと息ついているのに、僕はどれだけ走っても前方にはゴールテープが見えてこない。

 こんな焦燥に駆られたことが以前にもあったなと思ったら、大学受験のときだ。当時はどうしてこんなにも横並びなのだろうと思ったけれど、それは数年経った今でも変わらなかった。

 就職活動が解禁されたのが確か土曜日だった。週が明けて、大学の講義室に入って景色が一変していて愕然とした。茶髪にしていた大勢の男女が髪の色を黒に染め直し、髪の色が緑のロック好きの女の子も黒に矯正されていた。

 人は死ぬまで何かを誤魔化し、騙し、生きている。

 父親はビールを飲みながら、人にはそれぞれのスピードがあるからと言った。父親の言葉にうんと言おうとしたとき、母親がご飯を運んで来たせいで返答のタイミングを失ってしまった。


 久しぶりに会った神田は溌剌としていた。元々短かった髪は就職活動を経てさらに短くなっている。

 大学の講義がある日に飲みに行くときはほとんどが大学の近くの大衆居酒屋だったが、大学4年生になりお互い講義もほとんどなく大学に行くこともなかったので、そんなときにはいつも神田が本を買い漁っていた本屋で待ち合わせをし、そこから適当な居酒屋で飲むのが習慣になっていた。

 本屋の前で待っていると、神田が現れた。

「久しぶり」

「久しぶり。何処行く?」

「とりあえず歩こう」そう言うと神田はさっさと歩きだした。

 一人で歩いているときは声をかけないのに二人で歩いているとやはりキャッチの餌食になる。神田は目的があるのか華麗にキャッチをスルーし颯爽と歩いて行く。僕はと言うと、いちいちキャッチに会釈したり手で制したりしている。

 5分ほど歩いた先に神田がここだと手で示したのは何の変哲もないチェーンの居酒屋だった。少し拍子抜けした。

 店内はなかなか賑わっている。案内されたのは奥の方のテーブル席だった。座ると同時に神田はビールでいいかと訊いてきたので、いいよと答えた。

「あっそうだ。改めて内定、おめでとう」

「ありがとう。でも、内定おめでとうってのも変だけどな」

「変だね。大変なのは今からでしょ」

「おっしゃるとおり」

 神田は「何、頼む?」とメニューをこちらに向けた。

「枝豆、きゅうりの浅漬け、出し巻き、もつ煮込み」

「即決だし、渋いね。さすが。エイヒレの炙りも頼もう」

「神田の方が渋いよ」

「よく言われる」

 ちょうどビールが運ばれてきたので、渋い料理たちをすべて注文した。

「よっしゃ、じゃあなんやかんやあるけど乾杯」

「なんやかんやって」危うく僕は噴き出しそうになった。

 しばし無言でお互いビールを呷っていると続々と注文した料理が運ばれてきた。

「そういやさ」枝豆を頬張りながら言った

「何?」神田も枝豆を頬張っている。

「お前、どこの会社の内定、出たの?」

「ああ、言ってなかったな。出版社」神田はエイヒレにマヨネーズをつけながら平然と言ってのけた。

「はあ?マジで?すごすぎるよ」

「まあ、と言っても出版業界は斜陽産業なんて言われてるけどな」

「いやいや、それでもすごいよ。電子書籍もあるから色々やれるんじゃない?」正真正銘の本心だった。

「出版業界は夢と言えば夢だったから良かったよ」

「さすが読書ジャンキー」これも正真正銘の本心だった。

 褒めてんのか?と神田は笑った。

「それで、お前はどうなんだ?順調?」この間のLINEと同じことを訊いてきた。

「順調……とは言えないね。順調だったらとっくに終わってるからねえ」この間のLINEとは真逆の返答だった。

「そうか……ゼミで一緒の知り合いもまだ続けてるけど、もうほとんど心が折れかかってる。俺だって、もうこれ以上は無理だと思ってようやく内定が出たからやめられたようなもんだし」

「心が折れたって仕方がないでしょ。就職活動は続けるしかない。負け続けたって前に進むしかない。安西先生だって、あきらめたらそこで試合終了だよって言ってたじゃん」

「有坂、スラムダンク好きだったけ?」

「読んだことないし、バスケも好きじゃないし、集団スポーツも嫌い」

「そういやお前、大学に入ってすぐくらいのときもそんなこと言ってたなあ」神田は腹を抱えて爆笑している。

「そんなに面白いこと言ったかな」

「言った言った。面接官の連中はお前のこと何もわかってない」

「僕も面接官のことは何もわからないけどね。初対面だし」

 店員がお待たせしましたと出し巻き玉子を持って来た。飲むとも言っていないのに神田は勝手にビールを2つ注文していた。

「飲むつもりなかったんだけど」

「まあまあ遠慮せずに飲め」

「それは奢る側が言う言葉だと思うんだけど…ということは奢ってくれるのね。ゴチになります」僕はジョッキを片手に軽く頭を下げた。

「奢るか」

 でも正直な、と神田は話題を変えた。

「ほんとはもっとどんよりしてると思った。さっき言ってた知り合いがかなりしんどそうにしてたから。だから安心した」

「空元気だよ」これは本心だった。だからこそ、と思った。

 だからこそ、辛いときに辛いと吐き出せたら、その思いを誰かにぶつけられたらどれほど気持ちが楽だろう。時には誰かに縋りたいと思うのにできない。信頼できる人間を頼ればいいということは十分に理解しているはずなのに、自分でも整理できていない妙なプライドが邪魔をし、自分だけで解決しようとする。

「それを言われると安心できない」

「安心させるつもりはないよ」

「親不孝な奴だ」

「それを言われると、参るなあ。親もそこまで直接的には訊いてはこないけど、心配してるだろうから」

 特に母親の方は気にするからと話題には出さないようにしているふしがある。大学受験のときもそうだった気がする。

「俺も内定が出る前はどうすんだって口酸っぱく言われてげんなりした」

「でも、お前は結果的に親孝行だ」

 テーブルの上には料理はほとんど残されておらず、焼け野原な状態だった。

「有坂も親孝行しないと」

「いつも思うんだけど、僕たちの会話っておじさんみたいじゃない?親の面倒を見ないとなって感じで」

「俺ら、ゆとり世代だから達観してんじゃない?」

「ゆとり世代って言ってもパリピもいっぱいいるし、その逆もいっぱいいるからなあ。ゆとりとひとくくりにするのってナンセンスだよなあ。テレビでゆとり世代は云々って言いだしたらチャンネル変えるし」

 お前らしいな、最高だと神田はまたもや腹を抱えて笑った。


 居酒屋を出たときには神田はかなり酔っ払っていた。

「おい、大丈夫か?」

「酔ったねえ」

「じゃあ気をつけて帰れよ」

「おい、冷たいなあ」神田は僕の肩に両手を置いて体重をかけてきた。

「僕は酔っ払いの相手はしないことにしてんの」

 神田はけっと言って舌をべろんと出した。

「そんなドラマみたいな返し、する人いるんだ。ドラマの世界に閉じ込められろ」

「いいよ。ドラマの世界で長澤まさみと結婚するから」

「こっぴどくずたずたにフラれろ」

「じゃあ俺、一駅歩くから」

「そうだったな」

 神田はひどく酔っ払うと、酔い覚ましのために一駅分だけ歩いて電車に乗るのを習慣としていた。理由は訊いたことはないが、いつもそうしていた。

 じゃあと言って神田は歩き出したが、すぐに振り返ると妙に真面目な表情で頑張れよと言うとまた歩き出した。顔を真っ赤にした奴に言われてもなあと苦笑はしたものの彼なりに励ましてくれているということが痛いほどにわかったので、こみ上げてくるものがあった。


 神田と別れてから駅まで歩く。明後日は面接だ。

 日はとっぷりと暮れている。赤信号で目の前を右から左へとびゅんびゅんと駆け抜けていく車をぼおっと眺めている。車が過ぎ去って行った方を眺めると、夜のネオンで煌めいている道路が一直線に伸びている。僕は昔から遥か遠くまで伸びている道路が、掴むことのできないあの遥か遠くの景色が好きだった。いつかあの遥か遠くまで辿り着くことができるだろうか。

 酔いもあってか、しばしぼおっとしていたらいつの間にか青信号に変わっていた。慌てて歩き出すと、前方に見覚えのある女性が歩いているのが目に入った。

 新垣さんと呼び掛けると、彼女は振り返って顔の赤い僕を認めると少し驚いた様子だった。

「お酒飲んでるんですか?」

「神田に飲まされた」少しだけ嘘をついた。 

「嘘でしょ。有坂君は弱いけどお酒が好きなことくらい知ってますよ」

「バレたか」

「バレバレです」

 そう言うと新垣さんは薄く笑った。

 僕と新垣さんの関係は何度考えても不思議なものだった。神田にも「お前らの関係は一体何なの?」と飲んでいるときに言われたことがあるが、それは僕にもわからなかった。新垣さんにもわからないのかもしれない。お互いの精神的な距離感がお互い掴めていないような気がする。

 当然、恋人ではない。もちろん彼女のことは嫌いではないし、彼女も少なくとも嫌いではないはずだ、と勝手に僕は思っている。でも一つだけ確かなことは、【×××】のことを好きになりライブ会場にまで足を運ばなければ、決して出会わなかった人だということだ。【×××】がもたらしてくれた縁だということだ。その事実は決して揺るがない。

 僕たちは信号を渡ると自然と立ち止まり、ガードレールに身を預け、話し始めた。初めて彼女に会ったときも確かこんな感じで話していた記憶があるが、ずいぶん昔のことのように感じられる。

「就活ってやっぱり大変ですか?」

 突然、話題が変わったので、驚いた。

「うん、大変というかなかなか上手くはいかないね。落とされると自分を丸ごと否定されたような気持ちになる」

「そうなんですね」そう言うと新垣さんは下を向いた。

「新垣さんは来年からか」

「そうなんです。将来やりたいことが漠然としすぎて、だから何をやっていいのかわからなくて。だから滝口さんのラジオに一度メール送ったんですよ」

「まだ滝口さんのラジオ、聴いてるんだ」

「はい。有坂君、聴いてないんですか?」

「うん。なんか活動休止してから聴けなくなってしまって……滝口さんの言葉をどう受け止めたらいいかわからなくて」

「確かに活動休止は辛いし、本人がその話題には触れないから余計に気になるけど、でも今の滝口さんの言葉を私は知りたいと思って」

「そっか。それで滝口さんは新垣さんのメールにどう答えたの?」

「俺も今はやりたいことがまったくわからないし、すべきこともわからない。そういう時期にあれこれ焦って色々なことに手を出してもどうせ失敗するから、自分は悶々と考えてる。結局は自分の中に答えを見つけるしかないって」

「滝口さんらしいね」思わず笑ってしまった。

「でしょ?」新垣さんも同じく笑っている。

 夜風に当たっていると少しずつ酔いが醒めてくる。酔いが少しずつ醒めていく感じが僕には心地良かった。あとね、と新垣さんが再び話し始める。

「自分が下した決断は誰に何と言われようと絶対に正しいって思い込め、ていうか正しいって」

「やっぱり滝口さんらしいね」

「でしょ?活動休止しても変わらない何かがそこにあって、だから安心するんですよ、聴いてて」

 新垣さんは変わらない何かに励まされ、少しでも前に進もうとしているのかもしれない。僕は変わらない何かに目を伏せ、逃げているだけなのかもしれない。

 ちらっと時計に目をやるとかなり時間が経ってしまっている。

「時間、大丈夫? 明日も大学でしょ?」

「はい、1限目からです。眠いだろうなあ」

「僕も明日、面接だから、そろそろ帰ろう」

「大丈夫なんですか? そんなに飲んで」

「そこまで飲んでないよ」

 改札口を抜けると、僕は南方面に、新垣さんは北方面の電車に乗る。別れ際、「明日、頑張ってください」とガッツポーズをする新垣さんを見て泣きそうになってしまった。


 朝起きたときの目覚めは思った以上に心地良かった。

 面接は10時からなので、家を8時半に出れば、余裕を持って会社に着くはずだ。家を出るまでまだ1時間もあるので、入念にシミュレーションをすることにした。

 今まで受けた中では今日、面接のある会社が本命だった。ここを落とすわけにはいかなかった。

 スーツに着替えて鏡に映った姿を眺める。

 自分は他人にどう見られているのだろう。

 就活を始めてから僕の頭の中はこのことだけで埋め尽くされていた。他人にどう思われているかなんて考えたところで無駄だと思ってきたけれど、結局のところ自分はそこをないがしろにしてきたからこその現状なのではないかと思うようになってしまった。大勢の人間が少ない情報量で次から次へと合格と不合格の判断がなされる。生き残った者は、どう自分を見せれば相手に自分がよりよく映るかわかっている。負け続ける者は、自分をよりよく見せる方法が間違っているし、そもそもわかっていないし、僕のようにないがしろにしているのかもしれない。

 そろそろ家を出る時間だ。自室を出ると、母親が洗濯かごを持って廊下を忙しなく歩いていた。

「もう行くの?」

「うん」

「就活の面接って受験票みたいなのってあるの?」

「ないよ、大学受験じゃないんだから。息子が就活生なんだからちょっとは就活のことくらい知っておいてよ」あまりのばかばかしさに笑ってしまった。

「私はジャニーズの子たちの名前を覚えるのに忙しいから」

「ちょっと何言ってるかわからない」

「なんで何言ってるかわからないのよ。あっそうだ、今日何の番組か忘れたけど、夜にサンドウィッチマン出るわよ。あんた、好きでしょ?」

「何の番組かが重要だと思うけど、一応ありがとう」

「早く行きなさい。遅れるわよ」

「お母さんが呼び止めたんでしょ。まあいいや、行ってきます」

 玄関のドアをバタンと閉めると、ふっと息を吐く。ほんとに能天気な母親だと呆れたものの少しだけ心持ちは軽くなった気がした。

 電車を乗り継いで意中の会社にたどり着いたのが面接の30分前だった。社内に入るのにはまだ少し早い。遅すぎてはいけないし、早すぎても迷惑だ。絶妙な時間に入らないといけないので、10分前に入ることに決め、辺りをぶらぶらすることに決めた。

 ビジネス街にはサラリーマンが大勢、闊歩している。約1年後、僕自身もああいう風に働いているという姿がまだ想像できなかった。

 今日は天気が悪く、ビジネス街は梅雨目前のぬるい風が吹いている。そんな天気が面接前の独特の嫌な緊張感を表しているようで嫌になった。

 頭の中で面接のシミュレーションをしながら歩いていると、あっという間に時間になった。

 慌てて会社の前に戻り、ガラス扉の前でスーツの乱れを直す。

 受付で名前を名乗ると、5階に上がるように支持される。エレベーターに乗っているときも胸の鼓動が止まらなかった。

 通された部屋には40代くらいの男性が3人いた。パイプ椅子の前まで歩み出ると、真ん中の男性が「どうぞお座りください」と手で示したので、失礼しますと言って着席した。

 パイプ椅子に座って前方を眺めると、両端の男性はじっと手元の履歴書に目を通している様子で、真ん中の男性はじっと僕の方を見ている。僕もじっと彼を見つめる。数秒してから真ん中の男性は「では、まず初めに自己PRからお願いします」と言った。それからは次々と矢継ぎ早に質問が繰り出され、それに頭をフル回転させて答えていくうちにいつの間にか面接は終わっていた。最後に真ん中の男性は「合否は来週の水曜日までにご連絡いたします」と言って面接を締めくくった。

 これまで数十回の面接を経験してきたが、面接の手応えというのは今だによくわからない。だから今日も受かったという自信も確信もないが、少なくとも悪い印象は与えていないのではないかという曖昧な感想しか抱くことができない。世の就活生は皆そうなのだろうか。

 今日受けた会社の入ったビルの玄関を出たとき、両肩に背後霊でも憑いてるのではないかというくらい肩が重く感じた。元々、肩凝りが慢性化していたのに就活を始めて、悪化したような気がする。就活という大学生が誰しも通過する消耗戦に疲れ切っていた。もうこれ以上は耐えられないような気がする。

 いわゆる大人は「何を甘いことを」なんて言うだろうが、何が原因かもわからず来る日も来る日も不合格の烙印を押され、自分自身が丸ごと否定されたように感じたことがあるのだろうか。

 これまで僕が正解と思っていたことのすべてが不正解なのかもしれない。

 これまで僕が不正解と思っていたことのすべてが正解なのかもしれない。

 客観的に判断しても今日の面接も決して悪くはなかった。なのにどうして、こんなにもネガティブな思考になるのだろう。それが僕にはわからなかった。

 夕方からバイトが入っていたから、一度、家に帰るつもりだったが、すぐに帰る気にもなれなかった。

 時間は物理法則など無視するかのようにありえない速度で流れていく。いつも気づけば、あっという間に1時間は経っているし、陽は沈むし、日曜日ののほほんとした時間も訪れる。

 だから、恐れていた水曜日はすぐに訪れた。

 就活において合格の場合は早いときには次の日に連絡が来るときがあるし、3日後くらいのときもある。だから、相手先の企業が指定した合否連絡の期限ギリギリに連絡してくることはほとんどないと言っていい。なぜなら、面接をして「この人はうちの会社に欲しい」と思ったならば、連絡の期限まで待つ理由がないからだ。

 4日が経過した段階で落ちたのだろうと思った。でも、もしかしたらという淡く儚い希望を胸にそっと抱えて、連絡期日である水曜日はスマートフォンを常に身近に置いて待っていた。でも、スマートフォンが告げるのは、TwitterやLINEなどの今の僕にとってはどうでもいい通知ばかりで、本当に重要なお知らせを告げることはなかった。


 もはやどれくらい企業の選考を受けたかわからなくなっていた。

 今、自分がどの企業の選考を受けているのか思い出すのに数秒必要になるほどだ。

 続ける理由もわからないし、辞める理由もわからない。

 この日は一日中、家にいた。履歴書を書くことも、次の面接の準備をすることも、就活サイトを開くことすら嫌だった。

 ベッドに身を預け、傍らに置いたウォークマンで【×××】の音楽をシャッフルで聴いてみようと思ったけれど、苦しさの中に引き摺りこまれそうな気がして、イヤホンを耳に突っ込むのをやめた。

 昼ご飯は食べた気がするが、夜ご飯は食べていないような気がする。

 時刻は夜の11時55分を差していた。カレンダーの曜日を確認すると、ふと気がついた。そうか、今日は滝口さんのラジオか。【×××】が活動休止してから、ほとんど聴けていなかった。ラジオは一度聴かなくなると、再び聴き始めるということが億劫になってしまうことがよくある。これまでにも何度もそういったことがあったし、事実、二度と聴かなくなってしまった番組もいくつかあった。

 でも、この日は違った。脳裏に過った言葉があった。新垣さんが言ったあの言葉。今の滝口さんの言葉を私は知りたいと思って、というあの言葉。

 時計は夜の11時58分を告げている。慌ててスマートフォンのロックを解除して、radikoのアプリを起動した。しばらくすると、聞き慣れた落ち着いた声でラジオが始まった。

『こんばんは、今週も始まりました。【×××】のボーカルギター滝口です。連日、じめじめとして嫌ですね。ほんとに気分が滅入りますよ。昔から梅雨が嫌いで、毎年なぜだか体調が悪くなるんです。なんででしょうねえ。梅雨って雨がしとしと降るじゃないですか?それが嫌いなんですよ。降るなら降る、降らないなら降らない、どっちかにしろって思うわけです。どっちつかずの中東半端な状態というのが堪らなく居心地が悪い』

 どっちつかずの中途半端な状態というのは活動休止も含まれるのだろうか、とふと思ってしまった。そんな僕の物思いをよそに滝口さんは話し続ける。

『ほんとに優柔不断な天気だなあ。まあ、こんなことを言ってはいるものの俺も割と優柔不断な部分もあるんですけどね。決めきれないというか、これはほんとに俺のダメな部分ではありますね。人生に絶望してもうこれ以上は無理って思って自殺する人は大勢いるけど、ある意味すごいなあと思う。俺には自分自身で自分自身の命を絶つって決断が絶対にできない。死ぬのって大変ですよ。マンションの屋上から飛び降りたり、線路に飛び込んだり……そんなところで勇気を振り絞るんなら、毎日が苦しくて苦しくて仕方がなくても、どうしようもない昨日を引き摺ってでも今日を生きる勇気を振り絞れって思うんです。他人事だって言われても構わないです。俺だって毎日苦しいことが多いから』

 滝口さんはやはりもがいている。正体のわからない何かに対して。思えば、彼はずっと見えない何かに対してもがいていたような気がする。僕がラジオで滝口さんと出会ってからずっと。そのもがき苦しんだ末の結晶はいつだって【×××】の音楽に表現されていたじゃないか。

『ここでメールを1通、紹介します。ラジオネーム、コースケさん。滝口さん、こんばんは。はい、こんばんは。昨年、大学受験をしたんですが、第1志望の大学に落ちてしまいました。自信があっただけにショックでしたし、何よりも一緒に大学合格を目指していた親友が受かって自分だけが落ちてしまったので、余計にショックでした。今は浪人して再度、同じ大学合格を目指して勉強していますが、あのとき受かっていたらと考えてしまう自分がいます。滝口さんは報われなくて苦しんだ経験はありますか?という質問をいただきました。それはありますよ、もちろん。音楽をやっていて先が見えないと感じたことは何度もあります。曲を作っても作っても、前は真っ暗でゴールにたどり着かない。何をやっても好転しない。なんで音楽なんてやってるの、なんて言われたこともあって傷ついたこともあります。今だってそうです。自分の活動の先がどうなるのかまったく想像がつかない。でも、だったらなぜ続けてるかというかというと、さっきも言いましたが、どうしようもない昨日を引き摺った先に嘘みたいな景色が見られたからです。これまで何度もそんな光景に出くわしました。だから、苦しくて辛くてももう少しだけ続けてみようと思って、今日があります。』

 答えになってるかなと快活に笑う滝口さんに安心した。どうしようもない昨日を引き摺った先に嘘みたいな景色が見られた。僕にも嘘みたいな景色が見られるかな。でも、滝口さんが、今日があると自信を持って言うのならば、僕にもその今日があるのかもしれないと根拠のない自信がむくむくと沸いてきた。

『えっとですね、もうそろそろお時間です。FMラジオなのに曲もかけませんでしたね、今週は。少々おしゃべりが過ぎたようです。まあ、そんなときもあるさ。それでは来週もこの時間で』

 僕の力だけではどうしようもない焦燥や絶望をそっとそばにいて溶かしてくれたような気がした。【×××】の音楽に通じる言葉の魔法のようなものだと思わずにはいられなかった。

 それから滝口さんの言葉を胸にそっと抱き締めて、うだうだ文句を言わず、前だけを向いて歩いて行くことにした。結果はすぐにはついてこなかったが、それでも自分の中の見えない何かが変わっているように感じた。自分自身でそれを言葉で説明するのは難しかった。


 梅雨が明け、連日のようにじめじめとしていた天気が嘘のように毎日晴れ渡っていた。夏休みに入ると大学も残りわずかになる。そろそろ卒業論文にも手をつけなければいけない季節になってきた。就活がまだ終わってない中で、卒業論文の事前準備もしなければいけないことにただただ不安が募るばかりだったが、やるしかなかった。前を向いて歩いて行くと決めたのだから。どうしようもない昨日を引き摺ってでも今日を生きる勇気を振り絞るという言葉が僕のお守りのようになっていた。

 この日は久々に大学に行くことになっていた。神田もそろそろ卒業論文の準備を始めるとのことで大学の図書館で卒業論文のテーマに沿った文献探しや資料探しを一緒にやろうと誘われていたのだ。

 待ち合わせの時間にはまだかなり余裕があったので、大学のメインストリート沿いのベンチでぼおっと考えごとをしていた。僕の通う大学の敷地はかなり広く、近隣住民の散歩コースになっている。この日も犬を連れた近隣住民を何度か見かけた。

 スマートフォンを見ていると、突然、犬の鳴き声がした。目を上げると、近隣住民と思しき人が連れている犬が四十代前半の男性に襲いかかろうとしていた。その男性は驚いて尻もちをついた拍子に手に持っていた用紙を落としてしまい、それが僕の近くまで風で飛んできた。手に取って見てみると、それは色々な大学名が記載された用紙でいくつかチェックがついていた。すると、すみませんと先ほどの男性が小走りで駆け寄ってきた。すでに犬を連れた近隣住民と思しき人は目の前から姿を消している。

「あっこれ、さっき風で飛んできましたよ」

「そうなんですよ。犬に吠えられちゃって。お恥ずかしいところを見られてしまいまして」

 恥ずかしそうにしている男性に飛んできた用紙を渡した。

「君はここの学生?」

「はい、そうですよ」

「そうですか。私、実はある会社の採用担当の者でして。色んな大学を回ってるんですよ」

「だからさっきの紙、色んな大学の名前が書かれてたんですね」

「そうそう。今日もここの大学の就職課に用事があって。まだ就職が決まってない学生で良い人材がいないかヒアリングに来たというわけ。就職課ってどこかわかる?」

「わかりますよ。一緒に行きましょうか?」

「えっいいの?じゃあせっかくだからお願いしようかな」

 採用担当というこの隣の男性の物腰の柔らかさに驚きを隠せないでいた。今まで就職活動で出会った人たちに対して緊張感を覚えることが多かった。もちろん企業側は良い人材を確保しようと必死なので、ある種の緊張感を覚えてしまうのも仕方がないことなのかもしれないが。

「君、名前は?」

「有坂省吾と言います」

「有坂さんね。申し遅れました、井村と申します」

 それから井村さんは働いている会社の名前を告げたものの僕自身はその会社は名前すら知らなかった。

「君は何年生?」

「大学四年です」

「ということは就活は……終わった?」

「いえ、終わってないです。まだ続けてます」

「そう、なんとなくそうじゃないかと思いました」

「えっ?なんでわかるんですか?」

「なぜだと思う?」

「いえ、わかりません」

「それだよ」

 そう言うと、井村さんは僕の肩をぽんと叩いた。

「これは僕の推測。もちろん君と会ってほんの数分しか会ってないし、ほんの少ししか喋ってないからわからないけど、君は人と話すとき、無意識のうちに身構えてる。怖がっているような気がする。そのせいか、肩肘を張りすぎていて君のほんとに良いところが隠れてしまってる」

 僕は次に言うべき言葉が見つからず呆然としてしまった。そうだ、昔からそうだ。僕は高校時代からどこかで他人を恐れている。

 井村さんは図星かなと朗らかに笑った。それとは反対に僕は夏の殺人的な暑さに殺されそうになった。

 それにしても暑いねと井村さんは扇子で顔を扇いでいる。

「そうだ。君さ、うちの選考受けてみない?」

「えっ」

「もちろん僕も君のことはまだ全然わからないし、君もうちの会社のことは全然知らないと思う。さっきうちの会社名、聞いてもぴんとこなかったでしょ?」

「はい」

「そんな申し訳なさそうにしなくてもいいよ。誰だって知らないことはあるし、知らないことを知らないと言える方が偉いよ」

 井村さんはそう言うと、もし興味が出てきたら電話してみてくださいと名刺を差し出した。

 目の前に就職課のある講義棟が見えてきた。

「ここです」

「おっありがとう。助かった」

「いえ、どうしたしまして」

 井村さんは講義棟のドアをくぐるときに振り返ってこう言った。

「他人に自分の正直な気持ちを伝えるのはすごく大事なことだと思う。難しいだろうけど、肩肘を張らずにね」


 二日が経って、僕は井村さんが働いている会社に電話をした。少ししてから電話口に井村さんが出てきた。忘れているのではないかという心配を他所に井村さんの口調はこの前とまったく変わらなかった。

『電話してきたということはそういうことでいいのかな』

『はい、よろしくお願いいたします』

 そこから具体的に面接に移行した。

 一次面接は井村さんとのほとんど面談に近いものだった。話の内容は半分が会社紹介、もう半分が僕のこれまでの就活の経緯だった。

「これまで何度も何度も落とされ続けてきたわけでしょ?もう諦めようと思ったことはなかったの?もちろん諦めたら就職できないし、もしかしたらプー太郎になってしまう可能性もあるけど」

 面接という場で飛び出したプー太郎という言葉に笑いそうになりながらも正直に答えることにした。

「もちろん苦しくて苦しくてもう嫌になるときは何度もありました。でも、ある人の言葉でなんとか踏みとどまれたんです」

「ある人?」

「はい。私の大好きな方です。その方がこう言ってたんです。どうしようもない昨日を引き摺ってでも今日を生きる勇気を振り絞れ、と」

「なるほど。その方のことはずっと前から好きなの?」

「はい、高校生のときからずっと」

「長いね。その人は有坂さんにとってどういう存在?」

 井村さんは僕のことをじっと見つめながらそう訊いた。

「そうですね、言葉にするのが難しいですが……、遠い海の真ん中でそっと灯を灯してくれる一生追いつけない憧れのような存在です」

 彼女ではないですよね?と真面目な口調で井村さんは訊いてきたので、思わず笑ってしまった。

 そこからはとんとん拍子だった。僕自身が井村さん始め選考で会って来た人たちと一緒に働いてみたいという思いが日増しに強くなり、だからこそ正直な気持ちをぶつけることができたのかもしれない。

 最終面接の待ち時間のとき、井村さんが話しかけてきた。

「有坂さんの大学で僕が言ったこと、覚えてる?」

「えっと何でしょうか?」

「もしかして忘れてる?」

 僕が答えようとしたとき、社長室の扉が開いた。秘書の女性がそれではどうぞと手で示している。

 忘れるはずがない。

 他人に自分の正直な気持ちを伝えるのはすごく大事なことだと思う。難しいだろうけど、肩肘を張らずにね。


 次の日、井村さんから内定の連絡があった。嬉しいというよりほっとしたという気持ちが強くて、リアクションが薄くなってしまったようだ。自分の正直な気持ちを伝えるのはすごく大事なことだよとまた言われてしまった。

 他者をすべて拒絶していた高校生のときの僕に他者から受け入れてもらえないことはこんなにも苦しいと教えてあげたい。でも、ずっとどうしようもない昨日を引き摺ってきた結果が今日であるし、その苦しさを背負って歩いて来たから今がある。【×××】の音楽に、滝口さんの音楽に何度救われたかわからない。

 ポケットから音楽プレイヤーを取り出し、イヤホンを耳に突っ込む。

【×××】の音楽を再生し、初めて【×××】の音を聴いたときのことを思い出して涙が止まらなかった。






































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