第5章 サウンドトラック
子供の頃、夕方の5時半が門限だった。
どれだけ寒くても5人くらいの友人といつも鬼ごっこをして遊んでいた。友人の中には冬だけ門限が早くなる子たちがけっこういた。門限になると一人ひとり公園から消えていく。いつも僕と同じ門限のA君だけが残っていた。そして、いつもどちらからともなく、帰ろっかという話になる。子供ながら寂しいと思っていたし、今にして思えば、あれが虚しいという感情なのだろう。
夜の8時。オフィスは照明が落とされ、キーボードを打つ音だけが響いている。キーボードを打ちながら、子供の頃のことを思い出していた。
社内システムからログアウトし、パソコンの電源を切る。途端に空調の音が自己主張を始める。外線が鳴ったが、聞こえなかったことにしてオフィスを出ることにした。
会社が入っているビルの守衛さんに鍵を渡して、お疲れ様ですと挨拶をする。出社したときは、できるだけ大きな声で、できるだけ笑顔で挨拶をしている。でも、今のこの疲れきった体ではそれも難しい。僕の弱々しいお疲れ様ですという声が空しく響く。守衛さんは、元気にお疲れ様ですと返してきた。守衛さんは朝も夜も元気だ。
発表は突然だった。あまりにも唐突だった。それだけにここ数日は抜け殻のように過ごしてきた。虚しさに押し潰されそうだった。
昨年の夏休みの直前に内定が出て、僕はそのまま内定者研修、卒論制作、アルバイトに明け暮れた。
大学生活なんてあっという間で、気づけば3月の卒業式を迎えていた。信頼できる友人に恵まれ、それなりに楽しい大学生活だった。就職活動は大変だったけれど、友人たちに支えられたし、何よりも【×××】の音楽が救いだった。
3月まで研修があり、4月から本格的に配属となった。働き始めて10日ほど経ったある日のことだ。夕方の4時くらいに足元に置いた通勤かばんの中に入れたスマホの微かな振動音には気づいていた。ただ、そこまで緊急な連絡ではないだろうと高をくくっていた。
配属されたばかりでまだ仕事量は多くない。4月のこの時期は僕の所属している部署はまだそれほど忙しくはなく、よほどのことがない限り他の同僚も定時で仕事を終えることが多い。この日も18時の定時になったので、30分ほど残務処理をしてから帰ろうと思っていた。
今日、作成した資料のチェックを終えたら帰ろうと思い、エクセルを立ち上げたとき、またもやスマホの振動音が聞こえた。全身を強烈なる嫌な予感が襲い、スマホを持つ手が震えた。以前にも似たようなことがあった気がする。スマホのロックを解除すると、音楽ニュースサイトの通知だった。恐る恐るニュースサイトのアイコンをタップする。目に飛び込んできた文言に案の定と言うべきか、頭が真っ白になった。
【×××】、解散を発表。
そのあまりに感情を排した無機質な文字群が僕には到底受け入れられなかった。残った仕事を片付ける気にもならず、すぐにオフィスを飛び出した。その日はどうやって家まで帰り着いたのかまったく思い出せなかった。
数日の間、スマホを見ることにも躊躇を覚えた。そこには僕自身が知ってしまっては二度と立ち直れない何かが隠されているような気がしたからだ。LINEとTwitterの通知は溜まっていく一方だった。
ようやくざらついた気持ちが少し凪いできたのは土曜日になってからだった。ただ、この日は起きたときから頭痛が酷く、11時頃まで布団の中に閉じ籠っていた。
リビングに向かい、頭痛薬を胃に流し込んでから自室に戻る。ベッドに腰かけ、枕元に置いたスマホを手に取る。そう言えば、【×××】の解散の一報はほとんど見出ししか見ていなかったような気がする。
解散の記事を見たものの、そこから新たに得た情報は、【×××】が9月に東京の野外音楽堂で解散ライブをするということと、9月の解散ライブまでの間に新譜を発売したりツアーを行ったり、といったことは行わないということのみだった。
どうして解散しなけばいけないんだ?という納得のいかない感情とそのあまりにも呆気ない幕引きに一種、清々しさにも似た感情がない交ぜになった大層居心地の悪い感覚に襲われた。そういった複雑な感情がない交ぜになったかと思えば、憤りが頭の中を覆いつくしたり、一方で解散を受け入れてしまうような清々しさが全身にすうっと浸透してしまうこともあり、頭の中はぐちゃぐちゃにかき乱された。
どうして解散してしまうのか?
活動休止の間、滝口さんは何を思い、何を考え、解散という道を選んだのか。
それは僕がどれだけ頭をこねくり回してもわからないことだった。
ただ、一つだけ言えることは、深海に沈み込むように鬱屈した感情を少しずつ少しずつ浮上させてくれたのは【×××】であったし、滝口さんの歌声だったし、言葉だったということだ。だからこそ彼らの最後を見届けないことは彼らと出会った約7年間の自分自身を否定することになるのではないかと感じた。
でも、僕に彼らの解散を目の前で受け止めきれるだろうか。彼らの最後を見届けてしまったら、僕の中から【×××】が永遠に失われてしまうのではないかと思うと恐怖で堪らなかった。だとしたら、自分の中にある【×××】を活動休止したバンドとして永久に閉じ込めておきたいとすら思った。そんなことをぐるぐると考えているうちにまとまらない思念とともに意識は混濁していった。
目が覚めると、午後の3時を回っていた。
せっかくの休日を無駄にしていると感じる。入社したばかりで仕事はまだまだ忙しくないはずだからそこまで疲れているという自覚はないはずだが、休日になると猛烈に眠くなってしまう。まだわからないことばかりだけれど、同僚には恵まれていると感じる。就職活動のときからお世話になっている井村さんはじめ親切な人が多い。もちろん仕事だから厳しいこともたくさんあるが。
昔から休日でも早く起きていることが多かった。それこそ小学生のときは朝から晩まで遊んでいたように思う。だからほんの少し寝過ごすだけで我慢ならないし、意図せず眠ってしまうとひどく時間を無駄にしてしまったと感じる。
また今日も終わる。二日休みといえど人間が活動している時間は「二連休」という少しだけ心が弾む言葉に反して思いのほか短い。その度に胸の中にすうーとすきま風が通り抜けていくかのような妙な虚しさを感じる。
LINEとTwitterの通知は溜まっていく一方だった。と言ってももそれほど多くはない。ただ、それら1件1件に丁寧に返信していたら、時間がいくらあっても足りないし、心がすり減るだけだ。
通知欄の海に潜り、その中から返信すべきものを探す。会社の先輩から来ているLINEスタンプに対して同じく気軽にスタンプで返せるはずもなく、仕方なくありきたりな文章を推敲に推敲を重ねて送る。Twitterのリプライは返さなくていいやと思うものに対してはそっと封を開けて中身を確認した後、封筒に戻し、返すべきものに対してはそっとお気に入りボタンを押す。そうして消印が押されないままの封筒がうずたかく積まれていくことになる。
通知欄の海にはそれでもきらりと光るものもある。新垣さんからLINEが来ていた。新垣さんとはごく自然な流れで連絡先を交換した、と僕は勝手に思っている。何がきっかけで交換したのかは覚えていない。彼女からは何かあれば連絡が来たし、僕も何かあれば連絡していた。その何かとはほとんどが【×××】の話題だった。彼女からは「解散ライブ行くんですか?」と来ていた。
『行くか迷ってる』
『なんでですか?』
『なんでと言われてもなあ』
自分の頭の中でこねくり回した理屈を新垣さんに伝えるのは何だか恥ずかしいし、情けない気がしたので、お茶を濁した。
『行かないと後悔しますよ。【×××】が私たちに最後を見届ける場を用意してくれたんなら、私たちにはそれを見届ける義務があります』
文章からも彼女の決意のようなものがはっきりと伝わってくる。いつの間にか一歳年上の僕と彼女の間の上下関係が逆転しているような気がして苦笑した。
週が明けてもまだ僕は迷っていた。決断力のない自分にもほとほと呆れる。
仕事を終えて本屋に寄った。学生時代よりも本を読むことが多くなったし、休日は本を読んで過ごすことが多い。本と言っても資格の勉強のためだから読書と言えるのかどうかは正直なところ怪しい。この前、神田と偶然会ったとき、「最近、本読んでる?」と訊いたら、読んでると言った。でも、よくよく問いただすと学生時代のときもよりも読んでいるらしく、僕がいくら学生時代よりも本を読んでいると自慢したところでその差は一向に縮まらない。読書ジャンキーは健在だった。
本屋を出たところで新垣さんとばったりと出くわした。そういえば、先週末からLINEの返事は途絶えていた。新垣さんはリクルートスーツに身を包んでいる。
「就活帰り?」
「はい、今日も面接でした。突飛な質問してくるから詰まっちゃいました」
「変な質問してくる面接官いたなあ。あなたを色に例えるととかあなたを動物に例えるととか、ね」
就職活動をやっていたときのことを思い出して深くうないずいた。
「そうそう、それ。色の質問で詰まっちゃいました」
「もうご飯食べた?」
「食べてないです」
「行く?」
「行く」
恋愛というそういうややこしい感情は抜きにして気軽にご飯に誘える異性は僕にとっては珍しいし、元々異性と話すのが得意ではない僕にとってどうしてこうも気軽に新垣さんとは話せるのか自分でもわからないし不思議だった。
入った店はどこにでもあるチェーンの居酒屋だった。気負わなくていいから楽だ。
居酒屋に入ったからといって新垣さんはお酒を飲むわけではない。新垣さん曰く、お酒が飲めないのではなく、飲まないようにしているとのことだ。なぜ飲まないようにしているか訊いたとき、一言だけやらかしたからですとこぼしたので、それ以降、訊かないようにしている。
テーブルの上に枝豆、出し巻き、きゅうりの漬物が並んでいる。僕はビール、新垣さんはウーロン茶を注文していた。
「渋いですね」並んだ料理を見て、新垣さんはそう言った。
「ウーロン茶も渋いと思うよ」
「渋いですかねえ。でも健康的でしょ?」そう言うと解放されたかのように快活に笑った。
新垣さんの焼き鳥盛り合わせがまだ来ていない。焼き鳥盛り合わせもかなり渋い気がするが、言わないことにした。
料理を食べ始めてから、新垣さんはふっとため息をついた。
「まさか解散するとは思いませんでしたね」
暗く声が沈んでいた。先日のLINEの文面との落差に動揺してしまった。
「そうだね。上手くいっているわけではなかったけど、まさかね」
何かを好転させようと必死にもがいているとずっと思い込んでいた。でも、現実は違った。好転しなかった理由もわからないし、僕たちにはただただ推し量ることしかできない。僕たちのこの絶望感や焦燥感とは裏腹に意外にもメンバーはあっさりと解散という現実を受け止めているのかもしれない。それも含めてやはり推し量るしかない。
SNSを始めとしたネットには様々な憶測が流れているが、仮にそれらが本当のことだとしても僕の前から【×××】がいなくなることには変わりはない。だからそれらは僕にとってはほとんど意味のないことだった。
「活動再開を信じてずっと待ってたから」
下を向いてそうこぼす新垣さんは心底ショックを受けて立ち上がれないように見えた。でも、次の言葉で立ち上がれないという表現は少しずれているように思った。
「だからこそ、最後を見届けるんです。【×××】が私たちに最後を見届ける場を用意してくれたんだから、私たちにはそれを見届ける義務があると思いませんか?」
そうだ。その通りだ。鬱屈した感情をここまで浮上させてくれたのは他でもない【×××】だ。感謝しかないではないか。今までの自分自身を肯定するために最後を見届けるべきではないか。
「どうしようもない昨日を引き摺ってでも今日を生きる勇気を振り絞れ、だな」
「私もそれを言おうと思いました」
居酒屋を出ると、すっかり遅くなってしまった。色々な話をした、僕の仕事の話、就活の話。
別れ際、「あっそうだ」と言って新垣さんは立ち止まった。
「有坂君、ちゃんと覚えてます?」
「何を?」
「今日ですよ、今日」
「ん?」
「飲み過ぎて頭が回らなくなってません?弱いんだからそんなにいっぱい飲まなきゃいいのに」
新垣さんは呆れている。
「ほんとにわからない」
「だから、今日は滝口さんのラジオですよ」
「そうだ。忘れてないよ、さすがに。お酒が悪い」
「だったらいっぱい飲まなきゃいいんです」
そう言うと、新垣さんは改まった口調で
「今の滝口さんの言葉を受け止めましょうよ。私は今の滝口さんの言葉が知りたい」
そう言えば、かつて新垣さんは同じことを言っていた。彼女はそれを覚えているのだろうか。それとも、意図してそう言ったのかは彼女の表情からは読み取れない。
彼女はかつてこうも言っていた。変わらない何かがそこにあって、だから安心するんです、と。
家に帰り着いたときにはすっかり酔いが冷めていた。
まだ夜の10時だ。滝口さんのラジオまでかなり時間がある。
ラジオまでに明日の準備を済ませておこう。でも、その前にやることが一つだけあった。
着替えもせずにベッドに腰かけ、胸ポケットからスマホを取り出し、チケット購入サイトにアクセスする。バンド名を入力すると、すぐに公演名が表示される。公演名をタップすると、すぐに申し込みページに遷移し、呆気なく申し込みは完了した。
スマホ一台あれば、何でも完結してしまう。すべては親指が解決してくれる。それは便利な反面、少し怖くもある。誰しもその怖さに蓋をして、見て見ぬ振りをして、便利さだけを享受する。そういえば、僕の母親はスマホなんて全然使いこなさせていないから、便利さを享受することもなければ、怖さを知ることもない。それはある意味では幸せなことなのかもしれない。そんなことを考えていたら母親が入ってきた。
「省吾。あんた、いつ帰ってきたの?」
「さっき」
「全然気づかなかった。忍者なの?」
「義務教育でも大学でも忍法は習わなかったから、たぶん忍者じゃない」
「帰ってきたら声くらいかけなさい。物音がしたら不審者と思ってタコ殴りにしちゃうから」
「お母さんは不審者よりもよほど物騒だね」
「今の時代、何が起きるかわからないから。備えあれば憂いなしって言うでしょ?」
「大昔の人もびっくりだろうね。未来の人間が不審者をタコ殴りにするための準備としてこのことわざ使ってるんだから」
「色んな使われ方してくれて大昔の人も喜んでるわよ、きっと」
謎の持論を開陳する母親をそっと無視して
「着替えて風呂入るわ」
と言った。
「仕事は順調なの?」
「まあ、まだ入社して全然経ってないし、わかんないよ」
「それはそうね。最初から何もかも上手くいくんなら誰も苦労しないよ」
「お母さんも苦労したの?」
「そりゃあねえ……苦労しかしてないかも」
珍しく真面目だなあと感じた。それから母親は妙に真剣な眼差しで
「この世に順風満帆なんて言葉、存在しないんだから」
そう言うとばたんと扉を閉めた。
確かに「仕事も私生活も順風満帆でしょ?」と「そうですね、毎日すごく楽しいです」という会話には何か作りものめいた違和感を覚えてしまう、かもしれない。僕にはわからない。順風満帆と感じたことはないから。
毎日が楽しいとはなかなか思えない。でも、ガリガリ君で当たりが出るくらいの確率で自分にも楽しいと思える一瞬が訪れる。楽しいと思える一瞬をシャッターを切るように胸にそっと仕舞っておいて、それを更新し続ければいいのではないかと思う。順風満帆なんて言葉を使って、さも毎日が楽しいなどと自分自身を取り繕わなくていい。そう思う。
お風呂に入って、ワイシャツにアイロンをかけるなどしながらだらだらと明日の準備をしていたらラジオの時間が近づいてきた。
radikoのアプリを立ち上げて番組前のCMをしばらく聴いていたら、深夜12時の時報が鳴った。
耳慣れた番組のBGMが鳴り、滝口さんが話し始める。
『こんばんは、今週も始まりました。まず初めに突然でごめんなさい。驚かれたかと思いますが、我々【×××】は解散することになりました。活動休止をしてから再開に向けてメンバー各々で努力してきましたが、一言で言うと難しかった。その一つひとつにをここで事細かに言うつもりもないし、メンバーがいない中で俺だけ発言するのはなんか卑怯でしょ?だから言いません。でも、俺自身としては昨年の10月くらいにはある程度の決心はついていました』
昨年の10月と言えば、滝口さんがリスナーに対して「どうしようもない昨日を引き摺ってでも今日を生きる勇気を振り絞れ」と鼓舞した時期ではないだろうか。その頃にはすでに決心していたということか。どうしようもない昨日を引き摺ってでも今日を生きる勇気を振り絞れという言葉はリスナーに向けてというより、滝口さんは自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
ここで、滝口さんはふっと笑って続けた。
『意外なんですけどね、俺も解散っていう二文字をメンバー二人に伝えなきゃなあって思ってたら、メンバーの田中も武田も同じことを同じタイミングで思ってたらしくて、だから誰が解散っていう二文字を切り出したのかほとんど記憶にないんですよ。結成時のエピソードとしてはね、誰がバンドを組もうって切り出したのかもはやわからないみたいなことってありがちですけど、解散でこんなことってないですよね。でも、それくらい俺も含めてメンバー全員の心が固かったということなのかな。二人に訊いてないからわからないけど』
もっと悲壮感があると思っていた。むしろ悲壮感を漂わせて欲しいとすら思っているファンもいるかもしれない。あまりにも呆気なくて清々しかった。
『もちろん寂しいという感情がないわけないですよ。十代の頃からずっとやってきて、誰よりもお互いのことがわかっていて、青春なんてたった二文字では語り切れないです。世の中には色々なバンドがいます。階段を駆け上げっていくように名曲を生み出し続けるバンド、同じペースでマラソン走者みたいに活動し続けるバンド、他にも色々あるでしょう。じゃあ【×××】は何だろうって思ったときに俺たちは時計だなと。メンバー全員が集まって、解散だねってなったときに俺たちは時計だって。しかも針が一周回ったらそれでおしまいの時計。深夜の12時に結成して活動が始まる。曲を作ってライブをやる。その繰り返しをしていくうちに少しづつライブの動員が増えていく。でも、気づくんですよ。活動休止をしてから悩みに悩んで、もう解散かなって思ったとき、メンバー三人が集まって、誰からともなく解散という言葉が出たとき、一周回ったんだと。三人で集まったとき、高校のときにガレージで集まって練習していたときの新鮮な気持ちを思い出したんですよ。だとしたらまた同じことをしてしまう、また繰り返してしまうって。新鮮な気持ちになったんならまた新しい気持ちでできるんじゃないと思うかもしれないけど、なかなかそう上手くはいかないんですねえ。少なくとも俺たち三人は、ね』
それから滝口さんは「ほんとにこの番組はFMラジオなのに曲なんて全然流さないよねえ」と朗らかに笑った。何かから解放されたような清々しさすらその声色から窺えた。
『あともう一つ大切なお知らせがあります。我々【×××】は9月13日に解散するわけですが、その週の放送でこの番組も終わります』
なんとなく予感はしていたからそこまで驚きはしなかった。番組名にバンド名を冠しているのだから当然といえば当然だろう。あまりにも淡々とした口調というのもそれに拍車をかけていた。
ここでふと新垣さんのことが過った。
彼女は滝口さんのラジオが終わるということを予測していただろうか。僕みたいに薄々感づいていただろうか。
番組もそろそろ終わりに差し掛かろうとしていた。FMラジオなのにまた一曲も流さずに放送を終えそうだ。
『それではそろそろお時間ですね。一曲もかけなかったから俺のマネージャーが呆れてます。最終回までこんな感じでいつものようにやりますので、また来週もお聴きください』
ラジオが終わること、予測してた?
新垣さんにLINEをしてみようと思ったもののなんとなく憚られた。
それはたぶん新垣さんがラジオは終わらないとずっと信じ続けていたような気がするからだ。
月日は残酷なまでに過ぎ去っていく。
春というある種、呑気にも感じられる季節から蝉が慌ただしく鳴き出す季節に移り変わっていくまであっという間だった。それにしたがって仕事も少しずつ忙しくなっていった。
僕は医薬品の営業という仕事をしている。
入社して間もない頃は先輩と一緒に営業周りをすることばかりだったが、徐々に一人で営業周りをするようになっていった。僕が働いている会社には営業事務がいない。だから、得意先に提示する資料の作成もその後の報告資料などもすべてそれぞれの営業担当が行っている。仕事量が増大していくにしたがって、徐々にそれらが重荷となっていく。
一日中、営業周りをしていると、帰ってくるのが夕方の5時や6時になることが多く、その後で報告資料や翌日以降の得意先への資料作成をしているとどうしても帰りが遅くなってしまう。
ワイシャツの下に着た下着が汗で濡れて気持ちが悪かった。
この日も終日、営業回りで会社に帰ってきたときにはすでに夕方の6時を回っていて、くたくただった。思わずしかめっ面をしてしまった。
会社が入っているビルに入ろうとしたとき、肩をぽんと叩かれた。振り返ると井村さんの顔があった。
「お疲れ様。しかめっ面しないの」
「お疲れ様です。見てたんですか?」
「見てた、というか見えた。いつでも笑顔でいろとは言わないけど、誰が見てるかわからないからね。って俺が入社当時、先輩に教えられた。最初は俺も営業だったからね」
「井村さん、営業されてたんですか?」
「そうだよ」なぜか井村さんは胸を張る。
それは今の部署でも活きてるなあ。学生の前でさすがにむすっとはできないからね。と、答える井村さんはおそらく大学訪問をしてきたにも関わらず疲れを感じさせない笑顔を僕に向けた。
「井村さんっていつも笑顔でにこにこしてますけど、イラっとすることないんですか?」ずっと気になっていたが、なかなか訊くタイミングがなかったからこの際だから訊いてみた。
「あるよ、もちろん人間だから」
ようやくエレベーターが来たので、素早く乗り込み操作盤の前に陣取る。
「でも、それを周りに悟らせたら、全然関係のない人たちまで不快でしょ?それは大人がやるべきことじゃないと思う」
「なるほど、確かにそうですが、でもそんな人ばかりじゃないですか?」閉ボタンを押しながらそう答えた。
「誰を思い浮かべながら言ってるのかな?」井村さんは意を得たかのようにいたずらっぽく笑った。
僕が所属する営業部にはイライラを隠そうとすらしない人が1人だけいた。保田というその女性営業部員はイライラすると、電話口で早口になり、受話器をそっと置かずにがちゃんと切る。入社当社はその部署全体に響き渡る音に一日に何度びくっとしたかわからない。だから、その光景を見るたびに「今はイライラしてるから話しかけないでおこう」と誰に教えられたわけではないが、肌で学んだ。といっても僕は保田さんに用事がないからこちらから話しかけたことはほとんどない。
「誰も思い浮かべてないですよ」
「根はいい奴なんだけどな、どうしてもイライラするとああなってしまう」
「だから思い浮かべてないですって。勝手に話を進めないでください」
「いや、顔にそうだって書いてるよ」
井村さんと保田さんは同期入社だから、お互い阿吽の呼吸のようなものがあるのかもしれない。
自分の席に戻ってしばらく書類整理をしていると、再び肩を叩かれた。振り返ると、やはり井村さんだった。
ほいと言って僕に手渡したのはデカビタチャージだ。疲れたときにはいつも飲んでいた。それにしてもどうして僕がデカビタチャージが好きなことを知っているのだろうか。
「これ、飲んで、とっと仕事終わらせて帰れ」
「ありがとうございます。なんで僕がこれ好きなのご存じなんですか?」
「えっ覚えてないの?この前の飲み会で熱弁してたじゃない。これ飲むと疲れが取れるんですって。気のせいだって言っても聞きやしない」
「全然覚えてないです」
「まあ遠慮せず飲め」
「いただきます」デカビタチャージを片手に持って軽く会釈した。
今の仕事を決してやりたかったわけではない。この仕事を猛烈にやりたいと思えるような会社を就職活動中には見つけることができなかった。でも、少なくとも井村さんはじめこの会社の人たちと働きたいと思えたことは事実だ。
まだ入社して半年にも満たないから仕事が楽しいと思えることは少ないし、嫌なこともたくさんある。こうして今もいつ終わるとしれない残業もしなくてはならない。
でも、誰にも受け入れてもらえない苦しさを知っているから、こんな自分でも受け入れてくれる場所があるということはとてつもないほどの安心感をもたらしてくれた。
再び肩を叩かれた。また井村さんだろうかと思いきや、振り返ると3年先輩の富永さんだ。
「どれくらいかかりそう?」
壁にかかった時計を見る。
「7時半から8時くらいですかね」
「俺もそれくらいかかるかな」
「どうしたんですか?」富永さんが言いたいことはわかっているが、あえて訊いてみた。
「終わったら飲みに行こうか」
「はい」
人とまともに面と向かって笑い合えるようになるまで本当に時間がかかった。だから、たぶん今の自分はそれなりに幸せなんだと思う。
仕事終わりに富永さんと飲みに行った。
富永さんとは頻繁に飲みに行っている。
なぜだろうと考えたときに答えは一つしかなかった。
それはお酒を飲んでいる最中に仕事の話を一切しないことだ。
僕は飲み会の場で仕事の話をするのが嫌いだった。8時間みっちり働いたのに、楽しい飲みの場でも仕事の話をするのは堪えられない。それは就業時間内にすればいいと思う。飲み会の場ではひたすらに馬鹿話に花を咲かせ、ストレスを発散したいのだ。ただ、同僚とその思いを共有できることは意外と少ない。こんなことを考えてるのは僕だけだろうかと思っていたが、富永さんと飲みに行くようになって気づくことがあった。
富永さんと飲みに行くときは仕事の話をしたことがないなあ、と。
あるとき、気になったので訊いてみたことがある。
『富永さんと飲みに行くときっていつも馬鹿話ばっかですね』
『もっと真面目な話がしたいの?仕事の相談?』
『いえ、むしろ馬鹿話の方が心地良いので』
『飲み会で仕事の話したがる人、多いでしょ?俺、嫌なの。飲み会で仕事に対する熱い話されるの。両隣でたばこを吸われてるくらい煙たいって思っちゃう』
『すごくわかります』
『仕事にかける思いは就業時間内にしろって話』
僕が思っていたことをそっくりそのまま代弁してくれたような気がした。どうしてこの人と気が合うのかそのときようやくわかった。
今日も馬鹿話で大いに盛り上がった。
いい感じで酔っ払いながら、最寄り駅にたどり着いた。
家まで10分ほど歩かなければならない。酔い覚ましにはもってこいだ。
イヤホンを耳に突っ込んで好きな音楽を流す。外界の音をシャットアウトして、耳馴染みの良い音が体中に浸透していく瞬間が最高に好きだ。
【×××】の音楽をシャッフルで流す。流れてきたのは僕が初めて滝口さんのラジオで聴いた曲だ。前奏のないこの曲は滝口さんの短いブレスの後、鋭利な歌詞が耳にすっと突き刺さる。ただ、人間関係の息苦しさを歌ったこの歌は僕が高校生のときに初めて聴いたときと今とではその鋭利な歌詞の響きは微妙に違っていた。
なぜかはわからない。
でも、少なくともこの歌詞から目を背けずに歩いて来たことだけは紛れもない事実だった。
成長したかどうかなんて自分ではわからない。それは他人が決めることだ。他人が評価することだ。
すべての人間関係を拒絶したあのときから僕はちょっとは変われただろうか。
滝口さんの優しい声が全身を包み込む。
解散まであと1ヶ月しかなかった。いまだに終わりという事実が信じられずにいた。
布団にくるまって、ひっそりとこっそりとこの曲を聴いた深夜12時を思い出す。
家にたどり着く頃には涙で視界がぼやけて歩けなくなっていた。
あれだけ蝉の鳴き声がやかましかったのに、今はもうそんな声も聞こえず、陽が沈むと鈴虫の鳴き声がどこからともなく聞こえてくる。
淡々と漫然と日々が過ぎ去っていくのが怖かった。そんな僕の恐怖にも似た感情なんてどこ吹く風で、滝口さんはラジオで淡々と主に日常の些細なことや時にはリスナーからのメールに自身の体験を重ね合わせて語っていた。
人によって受け取り方は様々なように思う。
滝口さんの淡々とした様子に困惑する人もいるだろうし、腹を立てる人もいるかもしれない。
でも、僕の印象は少しだけ違っていた。
滝口さんの淡々とした語り口の中にこれまでの、一言では説明のしようがない複雑な感情が紛れて込んでいるように思う。複雑すぎて言語化が難しいから、あえて話し方が平坦になっているのだと。僕が言うべき言葉ではないが、改めて不器用な人だなあと感じた。
今日という日を迎えるのが怖かった。
今日を終えてしまうと、数年間、僕のそばで寄り添ってくれた言葉が目の前から消えてしまうし、何よりもゴールテープなどという言葉では表現したくはない解散という現実がいよいよ眼前に迫ってしまう。
深夜11時55分。僕は枕元に置いたスマートフォンからradikoのアプリを起動する。
やがて深夜12時を告げる時報が鳴り、馴染みの洋楽の曲が流れ出す。
『こんばんは、【×××】のボーカルギター滝口です。いよいよ今週で最後の放送です。2日後には我々【×××】の解散ライブです。今日の放送もライブも最後まで駆け抜けていくので、よろしくお願いします』
いつも通りの安定した話し方に僕は安堵した。
『この放送もね……スタッフさんに訊いてみたらもう7年ですって。そんなたいして面白い話なんてしてこなかったのに、我慢強く付き合ってくれたスタッフさんとかリスナーさんには感謝しかないですねえ』
しみじみと語る滝口さんにいくばくかの郷愁を感じ取れ、僕も7年も前のことをまた思い出していた。初めて滝口さんのラジオを聴いたときのことを。
あのときなぜラジオを聴こうと思ったのだろうか。何度考えてみてもわからない。
大袈裟な言葉を使えば、これは運命と評するしかないように思う。
『今日で最後の放送なので、だからこそ今まで通りの放送にしようと思います。だから曲は流しません。放送前にスタッフさんにそう言ったら、でしょうねって言われました。特別なことなんてしなくていいと思うんです。毎日毎日が特別なこと、サプライズばかりだったら胃もたれしてきます。そう思いませんか?日常は日常のまま流れていくに任せれば、その中に何か思わぬ発見があるかもしれませんし、ないかもしれない』
滝口さんは一息にそう言うと、ふっと息を吐いた。
『その日常の積み重ねの中で俺たちは解散をしてしまう。そしてまた日常に戻っていく。俺たちの曲を聴いてくれた人たちもその日常の中で好きだったバンドが解散をし、そしてまた日常に忙殺されていく。朝早く起きて満員電車に揺られて会社に行く人もいるだろうし、学校に行く人もいる。毎日が楽しいかと言われれば、気持ちよくうんとはうなずけないだろうし、次の日のことを思うと暗澹とした気持ちにもなる人もいると思う』
でも、と滝口さんはさらに続ける。
『その日常の中でふとしたときに【×××】のことを思い出して欲しい。10年の活動の中で誇れる曲がそこにはいっぱいあるから』
滝口さんは清々しいにも程がある口調で自信満々にそう言い切った。
『2日後は最後のライブです。唐突に活動休止をしてしまってからもうずいぶん経ちます。リハーサル初日は不安でしたが、3人で音を合わせたときに感動してしまいましたよ。もうね……完璧で。1曲目の終わりで思わず3人で顔を見合わせて、にやっとしましたね。俺も含めてさすがだな、と』
最後のところで滝口さんは快活に笑った。
『もうそろそろ最後ですね。ほんとに7年間ありがとうございました。こんなわがままな奴に我慢強くついてきてくれたスタッフさん、聴いてくださったリスナーさんには感謝しかないです。この番組は終わってしまいますが、2日後、最後のライブです。全力を尽くします。それではまたライブ会場で』
滝口さんはそう締めくくった。「それでは来週もまたこの時間で」という言葉がないことは至極当然なことなのに、何とも言えない感情に襲われた。
滝口さんのラジオも日常の些細な一コマで、あっという間に過ぎ去って行く。
その日常の中でおそらく僕は何度も何度も【×××】を思い出すのだろうなとぼんやりと考えていたら、知らない間に眠ってしまっていた。
東京行きの新幹線に乗り、窓ガラスの外を見やると、厚い雲に覆われていた。雨が降るのかなあとぼんやり考えていると、やがて窓ガラスにはぽつぽつと滴が伝い始めた。
窓の外の景色をぼんやり眺めていると、東京も雨なのだろうかとふと感じ、スマホで調べてみると、夕方から雨との予報が出ているようだ。
最後のライブが雨なのかと思うと、少し残念に感じた。
彼らの最後のライブは東京の官公庁がひしめくど真ん中に位置する野外音楽堂で行われる。
ライブハウスではなく、野外音楽堂なので、雨が降れば、ライブの間中、雨に曝されることになる。
カッパなんて持って来てないなあと思い、ふと外を眺めると、雨足は強くなる一方だった。東京駅に着いたら、どこかでカッパを買おう、そう思った。
東京には今までの人生で一度だけ行ったことがある。
僕がまだ小さかったとき―どれくらい昔のことなのか思い出せないが―家族旅行と称して行った記憶がある。父親からは「東京旅行のとき、土産物屋で買って買ってと泣きつかれて困ったよ」という話を何度もされていたので、僕が幼稚園のときくらいの話なのだろう。だから、今日は人生で二度目の東京ということになる。その二度目の東京が本当に大好きなバンドの解散ライブという事実が少し悲しくあった。
東京駅まで二時間ほどかかるが、特に何もすることがないので、ウォークマンで【×××】の音楽を聴くことにした。
流れてくる一曲一曲に思い入れがあり、胸が苦しくなってしまった。不覚にも泣きそうになってしまったが、ちょうど売り子のお姉さんが通りかかったので、かろうじて堪えた。
今まで色々な感情を我慢してきたように思う。喜怒哀楽のすべてを封じ込めてきた。でも最近は自分の感情にとても素直になっているような気がする。昔の僕であれば、こんなにも簡単に感情を揺り動かされて、泣くような奴ではなかった。そのことが良いことなのかどうかの判断は今の僕にはつきようもなかった。
【×××】のアルバムを通して聴き終えた頃、まもなく東京駅というアナウンスが流れた。テーブルに出していたパソコンやお菓子、飲み物などを片付ける者、上着を羽織る者などにわかに車内が慌ただしくなってきた。僕もテーブルに出していたお茶を斜め掛けのかばんに仕舞い、立ち上がろうとしたとき、東京駅にたどり着いた。
東京駅に降り立つと、やはり天気予報通り厚い雲が垂れ込めていた。まだ雨は降ってないようだ。
ライブ自体は18時開演だった。今はまだ16時だったが、早めに会場に向かうことにした。
東京駅から会場までの行き方をスマホで調べてみると、色々な経路が出てきたので、そのうちの1つを選択して向かうことにした。
方向音痴の僕でも比較的迷わずに電車に乗り、目的地に到着することができた。
地下鉄の階段を上り、地上に出ると、周囲はぐるりと高層ビルに囲まれていた。ここは日本の中枢とも言える官公庁が多く立ち並ぶ地域で、一種、威圧感を感じさせる。
駅を出て、しばらく歩くと前方には若い女性二人組が見え、左に見える公園の方に消えて行った。彼女たちもおそらく【×××】の最後を見届けに来たのだろう。
僕も彼女たちに吸い寄せられるように公園の方に歩いて行った。鬱蒼と生い茂った木々に囲まれた小道を抜けると広場のようになっており、大勢の人たちがすでに開場を今か今かと待ち侘びていた。雨に備えてすでにカッパを着ている人もいる。
会場入口の近くでぼんやりと待っていたら、時間が経つごとに天気が悪くなっていった。
風が吹き、周囲の木々がざわめき揺らめく。そのとき、顔にぽつんと滴が垂れてきた。雨が降り出したようだ。
会場近くのコンビニで買ったカッパを取り出そうとしたとき、ふと斜め前方に目をやると、見慣れた後ろ姿を見つけた。ショートカットの黒髪に、緑色のリュックサック。彼女が振り返ったとき、目が合った。
僕は透明の安っぽいビニールカッパに袖を通しながら、彼女の方に歩き始めた。彼女はまだカッパを着ていなかった。
「降り始めましたよ」
「ほんとですね」新垣さんは天を仰ぐ。
木々に囲まれてるから、空模様は見えない。
「カッパ、着ないの?」
「最後が雨だなんてちょっと切なくて。着てしまったら終わってしまうような気がして」
そんな繊細な感覚を僕は持ち合わせていないと思った。
新垣さんがいくら抗おうと雨足は強くなるばかりだった。
「さすがに着ないとまずいですね」
新垣さんがカッパに袖を通そうとしたとき、ギターの音が不意に鳴ったせいで、新垣さんが固まってしまった。
リハーサルが始まったみたいですねという僕の言葉はギターの激しいノイズに掻き消されてしまった。
悲しそうに会場の方を見上げる新垣さんの横顔から思わず目を逸らしてしまった。なぜなら、リハーサルで滝口さんのどこまでも伸びていくような透き通った歌声を聴いただけで涙が零れてしまいそうだったからだ。そんな姿は見られたくない。
一時間ほど経つと、係員から入場準備が整ったので列に並ぶようにアナウンスがあった。いよいよ最後だ。
徐々に長い列が作られていく。そして、まだまだ会場近くには大勢の人が集まっていく。つくづく大勢の人に愛されてるなあと感じた。
少しずつ場内に人が吸い込まれていく。その度に心臓の鼓動が早まっていく。
やっと僕の番が回ってきた。係員にチケットを見せてから、前に進む。
スロープを進んで、右に曲がると、一番奥にはステージがあり、そこから扇状に客席が広がっていた。
煌々と光を放つ都会のビル群に囲まれた会場には大勢の観客が押し掛けていた。
僕は大切に握り締めたチケットに記載された座席番号を確認し、席へと急ぐ。自分の座席を探し出し、ふうっとため息をつく。緊張感が拭えず、落ち着かなかった。まだ時間はたっぷりとあるのに。
陽が沈み、鈴虫が鳴いていた。
僕はただ鈴虫が奏でる音色に耳を傾けていた。彼らと出会ってからの約7年間が走馬灯のように思い出された。終わりという事実がまだ信じられずにいた。
ステージの照明がふっと消え、会場が静まり返る。そして、またステージが明るくなり、3人の男性が姿を現す。
相変わらず鈴虫が鳴いていた。心臓の音と鈴虫の鳴き声の波長が合わず、居心地が悪かった。
最後が始まる。その事実が会場を包む空気で伝わってきた。
1曲目の演奏が始まった瞬間、鈴虫の鳴き声は掻き消され、会場が震えた。
鋭いギターの音色が夜の空気を切り裂いていく。
確実に雨足が強くなってきているのは、濡れているカッパの水滴でわかる。それなのに雨の降る音は聞こえず、会場をギターの音色が包み込んでいる。
やがて曲のイントロが終わり、滝口さんが歌い始める。その瞬間、ライブが始まるまでの間ずっと抑え込んできた感情が自分自身でもよくわからない経路で揺り動かされた。滝口さんの伸びやかな透き通る歌声を聴いて、涙が止まらなくなってしまった。
僕は彼らが歌い、演奏する姿をただ呆然と眺めることしかできなかった。それ以外に一体僕に何ができようか。
数曲を演奏したのち、ふいに静寂になる。その瞬間、現実に引き戻されたような不思議な感覚を覚える。今まで僕はどこにいたのだろうか。
雨足は強くなる一方だった。深めに被ったカッパのフードに強く雨が打ちつけられる。
鈴虫は凛とした音色を響かせている。
前方のステージの後ろにそびえ立つビルに目をやると、いくつか灯りが灯っている。今日は土曜日なのにまだ仕事をしている人がいるのかとぼんやりと思った。
静かにギターの音が鳴り始めた。丁寧にどこまでも遠くに響くように滝口さんが演奏しているのだと感じた。
やがて聴き慣れたアルペジオが会場を包み始めた。
演奏された曲は【×××】で唯一と言っていい、雨について歌った曲だ。
いつ降り止むともしれない雨と人間関係の脆さを綴ったこの曲を、雨が強くなっていく一方のこの状況で歌う滝口さんを憎らしく感じた。
曲の後半にいくにしたがって武田さんの力強いドラムと田中さんのうねるようなベースが盛り上げていき、それに呼応して滝口さんの歌声もギターもボルテージを上げていく。
やがて滝口さんの静かな叫びとともに曲が終わる。
曲が終わるごとに一瞬、会場が静寂に包まれ、たちまち雨の音と鈴虫の音色が耳に飛び込んでくる。それによって、今日が最後なんだと現実に引き戻される。ただそれの繰り返しだった。
そういえば、今日はまだ滝口さんは一度も喋っていないなと思った。そう思っていたら、滝口さんが話し始めた。
「あいにくの雨ですね……。こんな雨の中、俺たちのためにこんなにもいっぱい集まってくれて言葉がありません。ありがとうございます」
その言葉の後、滝口さんは深々とお辞儀をした。
「まだまだ歌いたい曲はいっぱいあります。伝えたい言葉はいっぱいあります。最後まで突っ走りますので、よろしくお願いします」
その言葉の後、滝口さんの言葉通り、【×××】の歴史とも言うべき曲たちが演奏されていった。その一曲一曲に思い入れがあり、泣くことも忘れ、ただ呆然と眺めているしかなかった。
次で最後ですと言って滝口さんが演奏したのは、紛れもない僕が初めて【×××】のことを知った曲だった。布団にくるまって聴いた滝口さんのラジオから流れてきたあの曲だった。
滝口さんの透き通った声に魅かれ、鋭利な歌詞に胸を射抜かれたあの瞬間がまざまざと思い出された。
もう僕はあの頃にはどうあっても戻れない。あの頃から少しは前に進めたはずだ。
この曲はあの頃の鬱屈を救ってくれた。今ではこの曲を聴くと、あの頃の鬱屈を少しの胸の痛みとともに思い出す。
僕はこの胸の痛みとこの曲とともに生きていく。
この曲がなかったら、滝口さんのラジオがなかったら、【×××】がいなかったら、今の僕はおそらくまだあのどうしようもない鬱屈に苛まれていた頃のままだったはずた。今ならそう言い切れる。
やがて曲が終わり、会場は拍手に包まれる。やがてそれはアンコールの拍手に変わる。アンコールに堪えかねたように三人がまた姿を現す。そして、また会場は拍手で包まれる。
会場を包み込む拍手に滝口さんは軽く手を上げて応える。ドラムの武田さんはにこっとした笑顔を浮かべ、ベースの田中さんはぺこりと頭だけを下げる。
滝口さんは再び深々とお辞儀をし、
「今まで本当にありがとうございました。こんな俺たちに辛抱強くついてきてくれて感謝という言葉以上では表しようがありません」
滝口さんはそう言うと、雨でぬれているであろう足元をじっと見つめていた。どれくらい時間が経ったかわからないけれど、思い出したかのように話し始めた。
「バンドが解散しても作品は残るからという言葉をよく聞きます。でも、ずっと好きで聴いてくれて、ずっと追いかけてきてくれた人にとっては気休めにしかならないと思います。確かにそれは事実だけど、俺たちが言う言葉としては不誠実なのかもしれない。俺たちの都合でバンドを終わらせるんだから。でも、一つだけ確かなことがあります」
滝口さんはそう言うと、会場いっぱいに集まった観客を見渡した。
「俺たちは今日、今までで一番の最高のライブをしたという自負がある。それをずっと胸に仕舞っておいて欲しい。俺たちはここにいる。今まで本当にありがとうございました。次の曲で最後です」
それから滝口さんは武田さんと田中さんと目を合わせ、ふうと息をついた。
三人が呼吸を合わせるように演奏が始まった。
最後の曲は【×××】のライブのアンコールでいつも演奏されている曲だった。
何度聴いてもライブの最後、バンドの最後にふさわしい曲だと思った。
眠れない夜に繰り返し聴いて朝を迎えたことが何度あっただろうか。
本当にもう最後なんだと思ったら、ライブの中盤ではずっと堪えていた涙がまた溢れて止まらなくなった。
雨は相変わらず降り続いている。
もはや自分の濡れた顔が雨によるものなのか、涙のせいなのかわからなかった。
あっという間に駆け抜けた最後のライブだった。思えば、この約7年間もあっという間だった。
滝口さんが絶唱しているのをただ呆然と眺めていた。
振り絞るように滝口さんは最後の一音を歌い、ギターが静かに鳴り止んだ。
滝口さんがありがとうございましたと頭を下げ、会場は大歓声に包まれる。
いつまでも拍手は鳴り止まなかった。それは三人が会場を去っても鳴り止まなかった。降り続ける雨の音を聴きながら、この時間がずっと続けばいいのにと願った。
ふと気がついたときには周囲にはほとんど人がいなかった。視界を遮る観客もいないし、ステージ上には楽器だけが空しく残されていた。
雨は変わらず降り続いている。
本日の公演は終了ですという会場のアナウンスで我に返り、慌てて会場を出ることにした。
会場を出てすぐのところには大勢の観客でごった返していた。カッパを着ている人ばかりでもはや誰が誰だか判別はできない。僕は無意識のうちに新垣さんの姿を探していた。人混みをかき分けながら周囲を見渡す。すでに時刻は夜の8時を越えている。木々に囲まれ、夜の光は届かない。見つかるはずがなかった。
どこにいる?という僕のLINEは何分経っても読まれる気配はなかった。
人混みに流されるように公園の出口へと歩いて行く。
どんなことを考えればいいのか、どんなことを頭に思い浮かべればいいのかがわからない。昔から歩くときには何かしら考え事をするのが癖だった。何かを考えていないとどうも居心地が悪かった。でも、今は何も頭の中に思い浮かぶことがないし、何を考えればいいのかわからなかった。
ようやく雨が小降りになってきた。最寄り駅に近づいたときにはカッパもいらないほどだった。
地下鉄で東京駅に向かう。
外を眺めても変わり映えのしない黒画用紙のような景色が後ろへ後ろへと流れていくだけだ。
バンドが解散しても作品は残る。滝口さんは最後にそう言った。
その言葉を額面通りに受け取れば、確かにそうだ。理解できる。でも、何かが違う。いくら作品が残っても【×××】の解散によって僕の前から何かもが失われてしまったように感じるのはなぜだろう。
やがて車両は東京駅へとたどり着く。東京駅で降りゆく人々に押し出される形でホームへと降り立った。空しさが込み上げてきてどうにもならなかった。ホームのど真ん中で数分間、呆然としていた。通り過ぎる人々の視線を受けて、思い出した。帰りの新幹線の切符はすでに買ってある。こんなところでぼおっとしていては新幹線に乗り遅れてしまう。そのあまりに現実感を伴った感情のせいで余計に悲しくなった。
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