第3章 シューゲイザー

 どうやらまだ桜は咲いていないようだ。

 大学構内のメインストリート沿いに植えられている木々を眺めながら、ふとそんなことを思った。桜が咲くかどうかなんて興味がないはずなのに脳裏にほんの少しでもそんなことがよぎるなんて不思議だと感じた。

 大学構内には人気がない。どうやら早く来すぎてしまったようだ。まだ8時20分を少し過ぎたところだった。

 大学の初日から遅刻するのは絶対に避けたかった。これだけ大学構内が広いと僕みたいな方向音痴の者にとっては迷路に迷い込んだねずみ同然だった。迷う時間も考慮に入れて家を出たのだった。

 僕の心配は杞憂に終わり、あっけなく1時限目の授業のある棟にたどり着いてしまった。大学の門をくぐって10分も経っていなかった。その棟は黄土色の南北に広がった建物で、一見して古い建物だとわかった。周囲を見渡すと、縦に長いマンションのような近代的な棟もあるようだが、この古めかしい建物が僕のイメージしていた大学像とぴったりと一致していて好感が持てた。B1棟と名付けられているようだ。

 B1棟は建物の中央とその両端に入口がある。僕はなんとなく中央の入口から入ることにしたが、すぐにその選択が間違えだったことに気がついた。どうやら1時限目の授業がある教室は建物の端の北入口に近いようだった。建物に入り、すぐ右に曲がると、左側に教務室のような部屋があり、人の気配はするもののひっそりと静まり返っていた。廊下には僕の靴の足音だけが響いている。廊下の突き当たりに目指すべき教室があった。ドアをそっと開けてもまだ誰も来ていなかった。まだ8時30分を少し過ぎたくらいだった。いくら初日でもそんなに早く来る学生はいるはずもなかった。

 真ん中くらいの席に座り、授業が始まるまで音楽を聴くことにした。しばらく目を瞑って音楽に没頭した。4曲ほど聴き終えて目を開けると、目の前は大勢の人で溢れていた。時刻は8時50分になっていた。もうすぐ授業が始まる。

 9時を少し過ぎて、1時限目の担当の講師が現れた。佐竹と名乗った男は列ごとにA4用紙を配った。その用紙には「基礎ゼミナールAシラバス」と書かれていた。

 僕は特に望んだわけではないが、経済学部に進学した。ほとんど消去法と言っていい。数学が好きだというのは後付けの理由に過ぎない。

 基礎ゼミナールAという授業は経済学の基礎を学べるのだろう。だが、この日の授業は経済の「け」の字も出なかった。担当講師の冗長な自己紹介が終わると、近くの席の人と一緒にグループワークをする羽目になった。グループは男性が3人、女性が3人だった。グループワークはそれぞれが自己紹介をし、他のメンバーがそれに対して質問をし、掘り下げていくといったものだった。

 僕の番が回ってきた。何を話そうか何も考えていなかった。数秒間の沈黙。それで余計に焦ってしまった。

 すでに関係性が成り立っている間柄であれば、こういった場合にも茶化し、茶化されるという行為によってその場はある意味上手く回り、乗り切ることができる。しかし、今の場合は全員が初対面ということもあり、そんな芸当はできない。それゆえ、気まずい沈黙が流れてしまう。それでも、しどろもどろになりながらもなんとか自己紹介をしていると、僕の目の前に座っていた神田と名乗った男は僕の要領の得ない話をうんうんとうなずきながら聞いていた。彼の自己紹介は僕がする前にすでに聞いていたが、とても理路整然としていて、聡明な印象を受けた。

 まだ汗をかくほどの季節ではないのに嫌な汗をかいてしまった。大勢の人間の中で言葉を発するということにここまで臆病になっていることに自分でも驚いた。言葉を発する度に高校生活の嫌な思い出が脳内をかけ巡っていた。

 発言しようといくら脳みそをこねくり回してもその場にふさわしい言葉は僕の口からついに出てくることはなかった。そんなことを繰り返しているうちに授業は終わっていた。

 かばんに教科書類を仕舞い、足早に教室を出た。廊下を少し歩いたところで、ねえと話しかけられた。振り向くと、同じグループの神田だった。

「さっきは言いそびれてしまったのですが」僕の目を真っすぐ見て神田は言った。

「はあ……なんでしょうか?」

「えっと、消去法で学部を選ぶって面白いですね」神田は満面の笑みでやはり真っすぐ僕のことを見つめた。

「えっ何の話ですか?」目の前の男が何の話をしているのかさっぱりわからなかった。

「さっきのグループワークで話してたじゃないですか。行きたい学部がなかったから消去法で学部を選んだって」

「ああ、そういうこと」そう言えば、そんな話をしたような気がする。

「いえ、緊張していて何の話をしたのか覚えてなくて」苦笑いを浮かべるしかなかった。

「あっていうか、次、授業ありますよね?」

「いえ、僕はないですよ」

「同じです。俺も次の授業ないんですよ」

 そこからは自然の流れで大学構内の食堂で話をすることになった。

「でさ、消去法の理由が面白くて、笑いそうになったよ。みんな笑ってなかったから、なんでみんな笑ってないのって思った」神田は席に座るなり話の続きをし始めた。

「まったく覚えてない」僕はそう言うしかなかった。

「法学部を選ばなかった理由は確か……法律とかは解釈で意見が変わるから嫌いって」

「ああそれはだって、そうでしょ。元からある文章をこねくり回して都合の良いように解釈するなんてずるいよ」どうやら知らない間に本音をぶちまけていたらしい。

「そう、そういう考え方が面白くて、うんうんってうなずいちゃった」

 食堂の外を眺めると、大勢の学生が歩いていた。僕たちと同じ新入生は一目で見分けがついた。上級生とたった1歳や2歳しか違わないのに不思議だなと感じた。

 他人から面白いと言われるのは初めてのような気がする。ついつい、お世辞だろうかと考えてしまうのが自分でも堪らなく嫌だ。他人からの評価を素直に受けとめられたらどれだけ楽だろうか。少し話してみて、おそらく神田はそういうタイプだろう。

「神田君もああいう人がいっぱいいるところで自分の意見を主張できるってすごい。僕にはなかなかできないから」

「まあ、俺は声が大きいだけだよ。ほんとに必要とされるのは信念をちゃんと持ってて、必要なときに自分の意見を言える人だよ」

 妙に納得してしまった。たまにニュースに国会中継の映像が映し出されるが、目立っているのは声の大きい人ばかりだ。神田の言う、必要な意見はどれだけの人に伝わっているだろうか。僕の父親に言わせれば、それが彼らの仕事だからとなるのかもしれない。

 大学初日はあっという間だった。自分が想像していたより、大学の授業は楽しかった。

 時間の経過というのは恐ろしい。大学での日々もどんどん過ぎ去っていく。気づけば半年が経っていた。大学生活の初日に神田と出会い、知らない間に仲良くなっていた。今まで人間関係というものに肩肘を張り過ぎていた。というより、肩肘を張らざるを得なかった。最初は彼に対して慣れ慣れしいと思ったものの、それは次第に他者と間合いを取るのが上手いという好意的なものに変わっていった。でも、なぜ彼が僕に話しかけようと思ったのかいまだにわからない。

 神田と仲良くなったのには1つ理由がある。

 ある日のこと。僕は1時限目の授業が始まる15分前に教室に着いた。すると、神田はすでに来ていて、本を読んでいた。

「おはよう」神田の隣に座りながら言った。

「おはよう」神田は読んでいる本から目を上げて言った。

「何読んでんの?」

 すると神田は読んでいる最中の本に栞を挟んで、「これ、知ってる?」と表紙を見せた。知ってるも何も、と思った。

「森博嗣、めちゃくちゃ好きなんだけど」

「えっマジで?森博嗣、知ってるの?」

「最近、読んでる」

「俺、ほとんど読んでる」

「それはすごいな、さすがに僕もまだ全部は読めてないなあ」

 よくよく話してみると神田は無類の小説好きだった。月に10冊は読むらしい。かなりの速読派だ。僕は読むのが遅いからそんなにいっぱいは読めない。

 その日から彼とは頻繁に本屋に行くようになった。今日もそうだった。

 昼休みのとき、「そろそろ本を補充しないと」と言い始めた。神田はその月に読む本を一気に買い行く。読むべき本が少なくなってきたら、神田は「よし、今日行くぞ」と言って、僕を本屋に強制連行した。僕は読み終わったらその都度、買い行く派だ。だから、ある意味ではそれは甚だ迷惑だったが、嫌ではなかった。

 授業が終わった後、校門で待ち合わせをし、繁華街にある大きな本屋に電車で行くのが常だった。

 目指す本屋は駅のすぐ目の前にあり、お客さんはいつも多い。この店に来る度に、みんな本が好きなんだなと感じる。

 店内の自動ドアを抜けると、扇状に空間が広がっている。本棚には色々な種類の本が置いてあり、本が好きな人で溢れている。店内に入った瞬間、何か既視感めいたものを感じたが、すぐにその正体はわかった。周りは知らない人ばかりだけれど、本が好きという思いを持ってここに集まっている。ライブハウスに似ているなあと感じた。「何、ぼおっーとしてんの?」と肩を叩かれ我に返った。

「ごめん、ごめん」

「行こうぜ」

「また10冊くらい買うの?」答えはわかりきっているが、訊いてみた。

「もちろん」神田は満面の笑みだ。

 店内を真っすぐ奥に進んでいくと、小説のコーナーがある。僕は基本的に小説しか読まないが、神田は小説だけでなく、色々な本を読む。以前、本屋に来たときは世界の絶景が載っている本を買っていた。もう読み終わったのだろうか。

 しばらくの間、別々に本を探していた。まだ読み終わってない本はあるが、面白そうな作品を見つけたら買ってしまおうと意気込んだもののなかなか見つからなかった。少し離れたところに神田がいるが、もうすでに3冊も手に持っている。

「良いの見つかった?」近づいて後ろから声をかけたみた。

「うん、見つかった。でも、1冊だけ見つからないんだよなあ」手にしていたのは3冊ではなく、4冊だった。左手では持ちきれずに右手に1冊持っていた。

 訊いてみると、日本で三大奇書と呼ばれている作品を探しているらしい。どうやらそれが3冊ともないらしい。以前どこかの本屋で平積みされているのを見た気がするが、どこだっただろうか。

「店員さんに訊いてみたら?」

「そうだな」

 神田は辺りをきょろきょろするが、近くに店員さんはいないようだ。「レジまで行ってみる?」と提案しかけて、子供向けの児童書コーナーの方から小柄な女性店員が歩いて来た。緑色のエプロンをつけている。

「あっ、来たよ」

「ほんとだ、ちょっと行ってくる」そう言うと神田は小走りで店員さんの方に駆けていった。

 ゆっくり歩いて近づいていくうちに、おやと思った。見覚えがあるというより、知っている人だ。神田はすでにエプロン姿の女性店員に話しかけている。

 神田の隣までやって来た。何かあったわけではないのに、妙に気まずさを感じるのはなぜだろう。

「ないってさ」

「だったら仕方ないね」話しかけるべきなのにどう話しかけていいかわからない。

 逡巡しているうちに彼女は僕に気づいたようだ。やはり僕から話しかけるべきだった。

「あっ」

「お久しぶりです」

 新垣さんはショートカットだった髪が肩くらいまで伸びている。雰囲気は少し変わっていたけど、それでもすぐにわかった。

「ここでバイトしてるんですか?」

「そうなんです。3年生になってから始めたんです」

 新垣さんは今年、大学受験なのではとふと思ったが、いや、専門学校に行くのかもしれない、あるいは就職かとも。でも、進学校だから、就職はないだろうとすぐに打ち消した。

「知り合い?」神田が当然の質問をした。

「そう、高校が一緒で」高校では一言も話したことないし、まだ一回しか会ったことない、とは言わなかった。

 とりあえず神田の前ではなんだか気恥ずかしいので、この場を離れたかった。

「三大奇書って置いてないんですよね?」

「そうなんですよ。申し訳ございません」新垣さんはぺこりと頭を下げた。

「だってさ、仕方ないし。諦めろ」

「そうだな。まだまだいっぱい読みたい本はあるからね」

 じゃあまたと言うと、新垣さんの「はい」という笑顔が返ってきた。「じゃあまた」がまだあるのか僕にはわからなかった。

 結局、神田はこの日も予定通り10冊買って満足気だった。店を出た瞬間、質問責めにされた。

「あの可愛い子は一体なんなんだ?どういう関係だ?」

「どういう関係って、高校の後輩だよ」隠しても言ってもめんどくさいなら、言ってしまった方が楽かもしれない。

「怪しいな」

「そう言われると思ったよ」

 思い切って全部話すことにした。ラジオで【×××】を知ったこと、【×××】のライブで新垣さんと会って、少し話したこと。

 運命の出会いだなと囃し立てる神田に、そんなんじゃないよと否定する僕。そのやり取りを何度か続けるうちに駅にたどり着いた。

「じゃあな、また明日」

「うん。明日までの課題あるの覚えてる?統計学の分析するやつ」

「うわ、忘れてた」

「おいおい」やはり神田は忘れている。本なんかのんびり選んでいる場合ではなかった。

「家でやるわ」

「家ではできないんじゃない?ソフトが学校のパソコンでしか使えないと思う」

「うわあ、終わった。明日、早めに学校行ってやるわ」

「ご愁傷様」

「明日は早起きだ」

「頑張って」

「早起きは苦手だなあ。モーニングコールよろしくね」神田はおどけてみせた。

「嫌だよ。彼女にやってもらえよ」

「彼女なんていねえんだよ。ああ最悪」

 肩を落として神田はホームへと向かう。僕は反対方向のホームに向かった。

 課題見せてと僕に頼まず、何があっても絶対に自分でやり遂げようとするところが神田の良いところだと、この半年でわかった。

 そういえば、中学時代の友人や高校1年生のとき―まだ僕が友人と形容される人たちとの交友関係が存在していたとき―は、友人たちはいつも宿題をやっていなかったりすると、見せてと時には申し訳なそうに、時には横柄に懇願してきた。そのたびに、いいよと笑顔で応えていたけれど、ほんとは堪らなく嫌だった。自分でやれよとずっと思っていた。宿題を他人に見せたところで­僕には何もメリットがない。

 地下鉄に揺られながらイヤホンで音楽を聴く。後ろ後ろへと流れていく変わり映えのしない景色を眺めながら。

 最近、色々な音楽を聴くようになった。いわゆる邦楽ロックというやつだ。音楽プレイヤーのシャッフル機能で2000年代前半に爆発的に流行ったメロディックパンクが流れ出した。メロディックパンクって何と問われて、明確な回答ができる自信が僕にはない。

 3曲聴き終えたところで、ふいに【×××】の曲が流れ始めた。【×××】の初期の楽曲で、イントロの美しいアルペジオとは対照的に、「他人なんて関係ない。お前はどうなんだ?」と突きつける歌詞。初めて聴いたとき、背中にひやりとしたものを感じて戦慄としたし、今もそうだ。ただ、何かが違う。

 初めて聴いたとき、「他人なんて関係ない」というメッセージを「自分は自分だ」と受け止めて殻に閉じ籠ってきたように思う。でも、本当は違うのではないか。他人なんて関係ない、自分は自分。確かにそうだ。でも、どう殻に閉じ籠ったところで一人では生きていけない。誰かと交わらなければ生きていけない。「いつまで殻に閉じ籠ってるんだ、お前はどうしたいんだ?」と問いかけてきているように感じた。

 僕はどうしたいのだろう。他人に受け入れてもらいたいのか。そうではないのか。他人と交わりたいのか。そうではないのか。後ろ後ろへと流れていく変わり映えのしない景色を眺めながらずっと考えていた。

 家に帰り着くとどっと疲れていた。季節の変わり目はいつも体調が悪くなる。帰宅の挨拶もそこそこに眠ってしまった。

 目が覚めると、夜の11時だった。リビングに行くと、しんと静まり返っていた。母親も父親も寝てしまったようだ。ずっと眠っていたせいで何も食べてないからお腹が空いた。お茶漬けでも食べよう。幸い、温かいご飯もお茶漬けの素もある。さっさと食べて、お風呂に入って寝よう。

 10月も半ばになると少し肌寒くなる。脱衣所で服を脱いでいると、途端に寒くなってきた。急いで湯船に飛び込むと、お湯が少しぬるくなっていた。前の人がお風呂に入ってかなり時間が経っているようだ。蛇口を捻ってお湯を足すと、ぬるくなっていたお湯がじんわりと温かくなっていった。なんとも言葉では表しがたい感覚だ。

 お風呂に入るとつい考えごとをしてしまう。昔のこと。中学や高校のとき。今のこと。友人のこと。大学生活のこと。他人とどう関わればいいのか。自分はどうありたいのか。将来のこと。それらが断片的にぐるぐると頭の中を回っていく。次第に暖かさで頭がぼおっとしてきた。どうでもよくなってくる。出よう。

 脱衣所で体の水滴を拭っていると思い出した。今日は滝口さんのラジオだ。最近、疲れて眠ってしまって聴けていないときも多い。今日は久しぶりに聴こう。

 自分の部屋に戻って髪を乾かしていると始まる時間になった。髪を乾かすのに時間がかかるからそろそろ髪を切らないといけない。そう思っても、めんどくさいという感情がつい表に出てしまう。

 窓を開けると鈴虫が鳴いている。しばし耳を傾けていると、ラジオが始まる時間になった。携帯電話に内蔵されたラジオのアプリを立ち上げる。立ち上がって窓を閉めると、しんと静まり返った自室に滝口さんの落ち着いた声が広がる。定刻になると、必ずそこにある声と音。これほどの安心感はどこを探しても見つからないような気がする。

『こんばんは。今週も始まりましたね。いやあすっかり涼しくなりました。つい最近まで暑い暑いと蝉が喚いていたのに。季節は巡るもんですね。コンビニ行くとね、いつもメンバーがアイスのコーナーに目を輝かせてたのに、今じゃ見向きもしませんよ。田中も武田もアイスが好きだから。まあ俺も好きだけど。ここで1曲かけましょう。季節を少し先取りで、より涼しくなってもらいましょう。Oasisで”Champagne Supernova”』

 滝口さんがラジオでメンバーの話をするのが新鮮な気がする。僕が聴き逃していただけだろうか。そう思っていたら、洋楽に疎い僕でもどこかで聴いたことのある曲が流れてきた。心地良いなあと思った。ベッドに身を預け、ぼんやりと聴いていたら、眠たくなってきた。気づいたときにはすでに曲は終わったいた。

『聴いてもらったのはOasisで”Champagne Supernova”でした。父親の影響でOasisが好きで、ずっと聴いていて、だからこそ解散はショックでしたね。もう彼らの道が途絶えるのか、更新されないのかと思うと悲しくて。でも彼らの音楽は残ってるじゃないかなんて言葉は俺にはまだまだま受け入れられそうにないですね。受け入れられる日なんて来るんだろうかなんて思います。もはや使い古された言い回しだけど、たとえ陳腐だと思われても、やっぱり始まりがあれば終わりがあるわけで、バンドマンであれば誰しもそれは意識せざるを得ない。この先もずっと続けていくという決断が自分たちにとって絶対的な善になるかどうかなんてわからないし、かといって解散という決断が絶対的な悪かと言えば、そうは思わないし。難しいですね。何かの決断にはとてつもない苦痛が伴う。苦痛の先に何があるだろう。ってネガティブな感覚にどうしても囚われてしまいます。ちょっとまずいね。公共の電波に乗せて何を喋ってんだろう。ディレクターさんが完全に苦笑いです』

 滝口さんはそこまで言うと、やっと笑った。久しぶりに聴いたからか、最近はずっとそうなのか、滝口さんのトーンがやけに低い。僕が心配するようなことではないが、心配になる。何かにもがき苦しんでいるという印象を受けた。

『気を取り直して、明るい話をします。今、日々の憂鬱や諍いを振り払って、制作に没頭してます。どれだけかかるかわかりませんが、待っていてください』

 下界を見下ろすように悠然と構えてきた滝口さんがやけに弱気だなと感じた。待っていてくださいという言葉になぜだか妙に不安にさせられた。

『メールが何通か来ているので、読みます。ラジオネームは……弱肉強食はこの世の真理さん。すごい強気なラジオネームですね。メール内容にざっと目を通すと悩みが書かれてて、でも、あなたなら乗り越えられる気がしますが、読みます。滝口さん、こんばんは。初めてメールします。僕は大阪で現在、会社員をしています。色々ありましたが、自分なりに4年ほど頑張ってきました。でも、最近になって自分はこの仕事をずっと続けていていいのだろうかと思うようになりました。というのも、僕には日々に忙殺される中でずっと自分の中に隠し続けてきた夢、というと大袈裟ですが、やりたいことがありました。今まではそれを隠してきたけど、そのやりたいことを実現させたいという思いが強くなってきました。やってみたいという思いの一方で、今の生活を捨てる決断ができないでいます。滝口さんは自分の決断が揺らいだことはありますか?長文、失礼しました。はい、メールありがとうございます。俺自身は今まで自分の決断が揺らいだことは一度もないです。やりたいことは全力でやってきたし、やりたくないことは絶対にやりませんでした。そうでないと音楽をやっている意味がないと思うんです。でも、今はあることで自分の決断が少し揺らいでいます。これを皆さんに聞かせても仕方ないんですが。でもね、もう弱肉強食さんはわかってると思いますが、結局ね、どれだけ他人にアドバイスを求めても決めるのは自分自身なんで。だから俺も弱肉強食さんも自分で決めるしかないんです。俺から1つだけ言わせてもらうならば、やりたいことは絶対にやった方がいいです。思ったときに、思いついたときに。でないと、おっさんになったら、できないことがほとんですからね』

 そこで滝口さんはほっと息をついた。本来の滝口さんの調子が戻ってきたので、ほんの少しだけ安心した。

『それでは、もう1通読みましょう。これは……ラジオネーム、サヨコっちさん。いつも送ってくれて、ありがとうございます。では、読みます。滝口さん、こんばんは。突然ですが、滝口さんは音楽を自分の職業にするとき、両親に反対されましたか?私は将来やりたいことがあります。でも、両親は2人とも教師をやっていて、ごく当たり前のように私も将来は教師になるもんだと決めつけていたようです。ドラマでよく見るシーンだと思って見くびっていましたが、ほんとにあるんだと思ってびっくりしました。結局、進路を選ぶときに両親を説得して、自分の行きたい大学を選びました。長文乱文、失礼しました』

 ほとんど面と向かって話したことのない新垣さんの一部分を知ってしまって、なんだかむず痒いような不思議な気持ちになった。滝口さんは一呼吸を置いて話し続ける。

『そうですねえ、反対というか、強く念を押されましたね。中学のときから楽器に興味を持ち始めて、文化祭でライブやって、曲を作って。それで、今のメンバーとバンドを組んで。インディーズで曲を出すってときに、特に父親がね、「お前、ほんとにいいのか?」って。父親の、「お前、ほんとにいいのか?」には色々な意味が含まれてるなあと今になって思いますね。当時は「いいに決まってるだろ」って突っぱねましたけど。まあもちろんしんどいことは多いですが、後悔はまったくないし、自分たちが作った曲がこんなにもたくさんの人たちに届くということが何にも代えがたい幸福だと思ってます。それだけでもバンドマンやって良かったと思います』

 これだけ自分のやっていることに確固とした自信を持てることに憧憬の念などという言葉では足りないほどの感情を抱いた。悔しいとさえ。少なくとも僕はここまで自分に自信を持つことはできない。

『サヨコっちさんの両親が具体的にどんな言葉で、どんな方法で反対をしたのか、このメールだけではわからないので、なんとも言えませんが、少なくともちゃんと親と話し合って説得して進路を決めたということはすごいことだと思います。俺みたいに親の助言なんかろくに聞かずに突っぱねて暴走する奴なんかいくらでもいますからね』

 そこまで言うと、滝口さんは当時のことを思い出したのか、なんとも愉快そうに笑った。

『たぶんね、これは俺の予測ですよ。だから真に受けないで欲しいんですけどね。サヨコっちさんの両親は自分の仕事に誇りを持ってるんだと思うんです。だからこそ、自分の子供にも同じ職業に就いてもらいたいと。若造が生意気言ってますね。でもね、教師であってもサラリーマンであっても芸人であってもミュージシャンであっても、どんな仕事をしていても誇りを持ってないないと、自分の仕事が誰かの役に立ってる、そう思わないとやってられないでしょう?さて、そろそろお時間になりましたね。今週はここまでです。それでは、来週またこの時間に。おやすみなさい』

 いつも滝口さんのラジオを聴き終わった後はぐっすりと眠ることができていたが、この日はなかなか寝付けなかった。胸の中に言い知れぬ不安が押し寄せてきて、それがぐるぐると滞留していた。その正体がわからないから余計に不気味だった。【×××】の曲を聴いて心を落ち着かせようとしても不安は増幅するばかりで、止めどなかった。気がつけば、カーテンの隙間から弱々しい陽光が差していた。ほとんど眠ったという実感はなかった。

 寝不足のせいでこめかみがズキズキと痛む。起き抜けに頭痛薬を胃に流し込み、重い頭を引き摺るようにして大学へと向かった。

 1時限目の労働経済学の講義が行われるB1棟の小教室には10分前に到着した。教室を見渡すと、7割近くの学生が集まっている様子だ。入口から神田の姿を探すと、真ん中の後ろから2番目の席にいるのを発見した。彼の方に近づいていくと、どうやら隣の席が空いているようだ。

「おはよう」

「おはよう。珍しく遅いな」

「昨日ちょっと眠れなくて」

「不眠症?」

「そこまで深刻じゃない。だったら、今日はこんな講義は行くのはやめて病院行ってる」

「それは賢明な判断ね」

「中国人っぽいな」

「私、広東省から来た中国人アルヨ」

「中国人はアルヨなんて言わないよ」

「完全に銀魂の読みすぎだ」

「僕もよく読んでた」

 上着を脱ごうかと思ったが、やめにした。神田も脱いでいないようだ。この教室は冷暖房が効きにくいことで有名らしい。特に冬などは極寒で、学生の誰もが上着を脱がずに講義を受ける。なぜ修理しないのか意味がわからない。この大学の七不思議の1つらしい。残りの6つが存在するのか僕は知らない。

 時間になっても橋本教授は現れない。いつもきっかり3分後に教室に姿を現す。左手首の腕時計を見ると、9時3分。入口に目線をやると、見慣れたふてぶてしい顔が覗いた。

 授業始めるぞと言いながら、教室の隅っこに立て掛けられたスクリーン用のアルミフック棒を手に持ち、中央の黒板の前に立った。橋本教授の講義には教科書もなければ、プリントもない。いつもふらっと教室に現れ、90分間話し続ける。

 橋本教授は何も言わずに黒板に文字を書き始めた。書き終わると、「これ、知ってるか?」と手に持ったスクリーン用のアルミフック棒を黒板にこつこつと2回叩きつけた。教室中がぽかんとしているに違いない。少なくとも僕はそうだ。すると橋本教授は「これ、知ってるか?」と前から2番目の学生をアルミフック棒で指差した。学生は首を2回横に振ると、橋下教授はわからんのかとひとりごちた。

 この教室には立派なスクリーンがある。本来はそのスクリーンを上から引き下ろすためにアルミフック棒があるが、橋本教授はスクリーンは使わないし、アルミフック棒は指棒代わりに使う。第1回目の講義のときはこのアルミフック棒を自在に操る橋本教授が如意棒使いの孫悟空に見えた。

 胃に流し込まれた頭痛薬は効くどころか、頭痛は酷くなる一方だった。緊箍児が僕の頭を締め付けているとしか思えない。段々と意識が朦朧としてきて、気がついたときには講義は終わっていた。記憶に刻まれていたのは如意棒が黒板を打ち付けるリズミカルな音だけだった。

「おい、授業終わってんぞ」

「おう、わかってる」

「どうした?大丈夫か?」

「ちょっと頭が痛くて」

「無理するなよ。頭痛持ち?」

「いや、そういうわけじゃないんだけどなあ。頭痛薬は飲んでるから、効いてくるはず」

「次の授業受けるの?」

「もちろん」

「じゃあ行こう。急がないと、間に合わない」

 僕が通う大学は休み時間が10分しかないので、講義棟が離れている場合、次の授業に間に合うように大急ぎで移動する。この日もそうだった。

「間に合うかな」

「ギリギリだな」

 講義棟を出ると、同じように次の授業へと早足で移動する学生が大勢いた。

 今日はよく晴れていて日差しが暖かい。

「そういや、有坂はさ、バイトやってるの?」

「ううん、やってない。神田は?」

「塾講、始めた」

「へえ、すごいね。僕にはできそうもないな」

「そんなことないだろ。有坂は俺なんかよりも頭良いだろ」

「確かにな」

「おい。あっさりと肯定するなよ。謙遜しろ」神田は茶化すように笑った。

 人前に出て自分の言葉で大勢の人間に対して何かを伝えるということが僕にはできそうもなかった。その能力も度胸も。

「なんとか間に合ったな」

「ああ」

 次は一般教養の講義だ。一般教養の講義はなぜだかB3棟という7階建てのマンションのような建物で行われる。B3棟の前には2階建ての図書館があるが、B3棟の7階にも小さめの図書館がある。その理由はよくわからなかった。その図書館の存在はあまり知られていないのか、いつも人は少なかった。だから、僕は人がいなくて落ち着ける場所として好んで利用していた。

 後ろポケットに入れたスマートフォンが震えた気がした。いわゆるガラケーというものからスマートフォンに変えても、携帯電話をあまり見ない癖は治らなかった。神田からは「昨日のメール、まだ見てないだろ」と何度言われたかわからない。


 頭痛薬は一日中、僕には効果をもたらさなかった。僕のこめかみを緊箍児で絞めつけたまま離さなかった。

 大学の講義が終わったので、重い頭を引き摺るようにして神田といつも行く本屋に赴くことにした。いつも神田から誘われていくことばかりだったが、試しに誘ってみると「お前から誘われるの珍しいな。でも、今日はバイトだから」とすげなく断られた。

 特に買いたい本があるというわけではなかったが、なんとなく本屋に行きたいという衝動に駆られた。僕にはしばしば起こることだ。本が整然と並べられている空間に身を置くと落ち着く。

 平積みされている新刊を本棚の端から端まで眺めていく。琴線に触れるような作品はなさそうだ。

 視線を感じた気がしたので、本を置いて周囲を眺めてみたけれど、僕のことを見ている人はいなさそうだ。「有坂さん?」と呼びかけられて振り返ると、本が大量に積まれているカートの傍らに新垣さんがいた。

「本、お好きなんですね」

「好きですね。ただ、この前、僕と一緒に来ていた奴―神田って言うんですけど―の方が好きですね。あいつは中毒です」

「そうなんですね」新垣さんは口に手をやって薄く笑った。

 以前、話したときから新垣さんは物静かなで自分から多くを語るタイプではないのだろうと思っていた。高校や大学には騒々しいだけの女子が多いので、何かを内に秘めている印象を受ける新垣さんを新鮮に感じた。ただ、今日は前に話したとき以上に寂しげで、それとは逆に内に秘めている何かを外に出してしまいたいとうずうずしているような印象を受けた。僕は感受性が優れているタイプではないのになぜだかそう感じた。

「読むときは月に10冊も読むらしいですよ。狂信的です」

「月に10冊ってすごい。私、そんなに読んだことないです」

「新垣さんも本、好きなですね。本屋でアルバイトしてるくらいですもんね」

「はい、好きです。でも、そこまで読書家ってわけではないんです」

「そうなんですね。でも、そんなに読めないですよ。10冊は異常です」

 新垣さんは傍らにあるカートにちらっと目をやったのがわかった。彼女は仕事中だ。

「あっすみません、仕事中に」

「いえ。あっ、あの、有坂さん、ニュース見ましたか?」

「ニュースって?」

 新垣さんが口を開きかけたとき、遠くから「新垣さん」と呼ぶ男性の声がした。

「あっすみません。呼ばれたので、行きますね」

 そう言うと、新垣さんはカートとともに本棚の角を曲がっていった。それから本を探してみたが、結局、僕の琴線に触れるような作品は見つからなかった。本で溢れた空間に身を置くのは好きだけれど、読みたい本が見つからなかったときの焦燥感はなんだろうか。焦りを感じる必要なんてないのに。

 本屋を抜けると、途端に喧騒に包まれ、現実に引き戻されたような気がした。それと同時に、後ろポケットに入れたスマートフォンが震えた。そういえば、昼頃にもスマートフォンの通知があったが、見ていなかった。

 スマートフォンのロックを解除すると、どうやら昼頃に音楽ニュースサイトの通知が、つい今しがたは神田からのメールの着信があったようだ。少し逡巡したのち、音楽ニュースサイトを開くと、僕の脳みその処理能力が追い付かず、頭が真っ白になった。やっとのことで手のひらの携帯端末を睨みつけると、「【×××】、無期限活動休止」との記述が現実感もなく宙に浮いていた。










 


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