第2章 セレナーデ

 夏という季節は生きているだけで試練を課されているような気がするから嫌いだ。ただ息をしているだけ、体を動かしているだけ。人間としての至極当たり前の活動をしているだけなのにこんなにも辛いのはどうしたことだろう。人間がこれまで行ってきた数々の悪行の報いだろうか。

 この殺人的な暑さの中、僕はただひたすらに自転車を漕いだ。自転車を漕いで風を切ったときの、あの涼しげな風は都会ではまったく期待できない。あるのは、沸騰した鍋の蓋を開けたときに立ち上る湯気のような熱風だけだ。

 なぜ僕はこんなにも勉強しているんだろうとふと分からなくなる。大学で何か特別なことを勉強したいという思いもなかった。

 僕の中にあるのは、課された試練を乗り越えるということだけだった。

 そういえば、思い出したことがある。

 殺人的な暑さの中、僕は自宅で数学の過去問を解いていた。今まで以上に自信があった。それなのに結果は散々で、解答を見てもまったく理解ができなかった。

 頭に血が上り、気がついたときには自室の壁に大きな穴が空いていた。どうやら何度も壁を蹴ったらしい。蝉のかまびすしい鳴き声を聞いて、我に返った。僕は一体何をしているのだろう。

 これもおそらく僕にとっての試練なのだろう。

 無理なんて誰が決めたんだという滝口さんの言葉は脳みその中の鍵をかけられる場所に格納された。夏休みの間、勉強をしていて辛くなったときに、その場所に赴き鍵を開けて、揺れる心を元に戻した。その繰り返しだった。

 試練の夏は終わり、秋を迎えた。

 やかましい蝉の鳴き声は涼しげな鈴虫の音色に変わった。

 ただ、季節の移ろいも時間の経過も残酷だ。そんな過ごしやすい季節はあっという間に過ぎ去り、再び試練の季節を迎えた。

 【×××】の音楽と出会ってから1年が経とうとしていた。

 彼らの音楽は僕の日常に何の違和感もなく、溶け込んでいた。

学校生活は相変わらずだった。クラスメイトと最後にどんな会話をしたのか思い出せない。その最後の会話がまともな会話だったのかすら怪しく思えてくる。

 冬になると必ず体育でマラソンの授業が行われる。大抵の生徒はマラソンの授業を嫌がるが、僕はそれほど嫌ではなかった。

 マラソンは自己完結のスポーツだ。タイムが早かったら自分のおかげ、タイムが遅ければ自分の責任。成功の対価や失敗の代償はブーメランのように必ず自分の元に戻ってくる。運動が苦手な僕にとって5キロも10キロも走るのは苦行だが、責任逃れのできないところが僕の性格に合っていた。

 サッカーや野球などでミスをしたときのチームメイトからの冷たい眼差し。「お前のせいで負けたんだ」という無言の批難。針のむしろのようなあの時間が堪らなく嫌だった。

 1月下旬に高校生活最後のマラソン大会がある。高校の近くにある県内でも有名な競技場を使って行われる。男子は15キロ、女子は10キロ走ることになっている。

 その日の体育の授業では、マラソン大会の練習も兼ねて本番の約半分の距離の7キロを走る予定だった。

 受験の近いクラスメイトなどは疲れることを嫌って本気では走らない人も多かった。それは本番のマラソン大会にしても例年そういう人が多いようだ。

 走っているときは頭の中が非常にクリアだ。受験に対する焦燥感などはすべて消え去っていた。その代わり、僕の頭の中では【×××】の音楽が鳴っていた。彼らの音楽は走っているときに聴いて心地いい音楽ではなかった。何かに悩み、悲しみに暮れているときに布団にくるまりながら聴く音楽だ。呆然と立ちすくむ音楽だ。だからマラソンとは水と油の関係性のはずだった。なぜ頭の中で彼らの音楽が鳴り続けるのか僕にはわからなかった。

 センター試験の2週間前、僕は予備校に向かっていた。

 数か月前には前方から熱風が吹きつけてきたけれど、今は凍てつくような寒風が吹きつけてきた。

 やっぱり僕は夏も冬も嫌いだ。

 僕の通う予備校には学力に応じてクラス分けがされており、クラスごとに担任もいる。今日はこれまでの模試の結果も踏まえ、センター試験前最後の面談だった。

 予備校の受付で待っていると、すぐに担任の鈴木先生が出てきて、隣の応接室に案内された。

「どうぞ、座ってください」

「はい」

「夏休みに入る前はどうなることかとひやひやしましたが」手元の模試の結果を繰る手を止めて、僕のことをじっと見つめた。

 鈴木先生は真剣な表情から一転して相好を崩した。

「よく頑張りましたね。今の状態で本番に臨めば問題ないでしょう。体調には気を付けるように」

「はい、ありがとうございます」

 そう口にしたときに笑顔が引き攣っていないかどうかだけが心配だった。面談はすぐに終わった。

 帰り際、鈴木先生は「油断するなよ」と真剣な表情に戻っていた。「もちろんです」と僕も真剣な表情で応じた。

 センター試験当日はひどく底冷えのする日だった。

 5時半になり、布団から出た瞬間、冷気が体を覆った。パーカーを羽織り、リビングに向かうと母親は既に起きていて、弁当を作ってくれていた。

 おはようと声を掛けると、今日は冷え込んでるから暖かくしていかないとねと返ってきた。そうだねと口にして席に着く。

 朝食はトースト、ヨーグルト、ココア。いつもの顔ぶれだった。ただ、いつもと違うのはココアはいつもより熱かった。熱すぎて、飲むのに時間がかかってしまった。ただ、そのおかげで体の芯から暖まった。

 家を出るとき、父親はまだ起きていなかった。

「じゃあ行ってくるね」

「受験票は持った?」母親はありえない質問をしてくる。

「そんなミスしないよ」

「行ってらっしゃい。頑張ってきなさいよ」

「うん、じゃあ行ってきます」

 センター試験の会場である大学へは電車で1時間半かかる。かなり早めに出たせいで、陽はまだ昇っていない。

 最寄り駅まで10分ほどかかる。歩きながらかばんからウォークマンを取り出し、再生ボタンを押す。

 【×××】の曲が流れ始める。

 受験勉強を始めて約9ヶ月の間、色々なことがあった。悔しいことや辛いことの方が多かった。でも、負けずにここまで来た。

 僕は彼らに背中を押して欲しかった。でも、彼らはそうはしなかった。うん、とうなづいて背中に手を置くだけだった。【×××】らしいなあと思い、笑みがこぼれた。

 会場に着くと、まだかなり時間に余裕があるにも関わらず続々と受験生が校内に入っていた。

 試験が始まるまで、ずっと彼らの音楽を聴いていた。ずっと側にいてくれているような気がして、不思議と緊張しなかった。

 センター試験は2日に分けて実施されるが、始まるとあっという間だった。最後の科目が終わった瞬間、肩の荷が降りるようにどっと疲れてしまった。

 家に帰り着いたときには、燃料切れの使い捨てライターのように消え入りそうだった。ほとんど両親と言葉を交わさず、自室に引っ込み寝てしまったので、試験の出来が悪かったのではないかと心配されてしまったようだ。

 センター試験終了後、各予備校は解答速報というもの出す。それに基いて受験生は自己採点をし、進路選択をする。したがって、自己採点を行うにはあらかじめ問題用紙に解答を転記しておく必要がある。センター試験は全問が選択問題になっているので、問題用紙に自分の解答を控えておくのも難しくはない。

 解答速報が出された後、僕も自己採点を行った。正直なところ、思っていた以上に点数は伸びなかった。ただ、数々の模試を受けてきた中では最高得点だったし、国公立大学の二次試験でも十分勝負できる点数だった。

 二次試験はセンター試験から約1ヶ月後だった。

 二次試験はセンター試験の選択式の問題とは異なり、ほとんどの問題が記述式だった。最後の1ヶ月は記述式の問題や志望する大学の過去問の対策を行っていると、あっという間に本番を迎えた。

 僕の志望校は地下鉄で1時間のところにある。センター試験の日と違って、朝は多少時間に余裕があったので、出かけるときには父親も起きていた。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい。悔いのないようにやるんだぞ」父親は言った。

「受験票は持った?」母親はセンター試験の日と同じことを口にする。

「いや、だからそんなミスしないって」

 二次試験はセンター試験と打って変わり、数学と英語の2科目のみだったので、お昼の2時には試験が終了した。試験が終わり、解答用紙がすべて回収され、教壇で試験監督が枚数の確認をする。会場になっている階段教室は静寂に包まれ、心臓がどくんどくんと鳴っていた。

 試験監督の「二次試験の全日程が終了しました。忘れ物のないようにお帰りください」の言葉でしんと静まり返っていた教室は受験生の帰り支度をする物音に包まれた。

 正直なところ、できたという実感はなく、やり切ったという清々しさの方が勝っていた。後は結果を待つのみだった。

 帰りの電車に乗って、ぼんやりと【×××】の曲を聴いていて、思い出した。

 今日は滝口さんのラジオの日だ。センター試験が終わってから、ほとんど放送を聴けていなかった。

 家に帰り着くころには体の芯まで冷え切っていた。

 玄関で母親は心配そうに出迎えた。

「どうだった?」

「上出来かな」なぜか微妙に上方修正の嘘をついた。まあまあかなって言えばいいのにとちらっと思った。

「そう、良かったじゃない」母親は安堵の表情を浮かべた。

 リビングに入るなり、僕は石油ストーブの前に陣取った。僕の家はエアコンも使うが、基本的に冬は石油ストーブを使う。石油ストーブの方が暖かさという意味では圧倒的だった。

 冬休みに入ってから特にやりたいことをずっと我慢していた。音楽を聴いたり、ラジオを聴いたり、漫画を読んだりといった趣味の時間に制限をかけていた。だから、久しぶりに今日はゆったりとした時間を過ごせた。

 久々に滝口さんのラジオを聴く。

 深夜の12時。今日の放送はいきなり【×××】の曲からスタートした。彼らの曲の中でも珍しく激しめのナンバーだ。

 曲が終わり、滝口さんが話し始める。

『すでに告知されていますが、来月からツアーが始まります。いよいよですね。場所によってはチケットが若干余ってるみたいなので、お時間ある方はぜひ遊びに来てください』

 よく耳にするんですけどねと言って、滝口さんは話題を変えた。

『ライブハウスって怖そうって言われるんですよ。そういうイメージがついてしまうのも分からなくはないけど。そういうイメージというか固定観念は音楽にとってマイナスです。ライブハウスはみんなが自由に音楽を楽しめる場だから。もちろん「自由」とは言っても最低限のルールはあるけどね。敷居は低くていいんです』

 メールが来てますねと言って、滝口さんは一旦話を中断する。

『タイミングが抜群ですね。今話してたことに近い内容のメールが来ました。ラジオネームサヨコっちさんからです。いつも送ってくれてる方ですね。ありがとうございます。「滝口さんにとってライブとはどういう場ですか?」というメールです。そうですね。ライブハウスと言う意味ではさっき話した音楽を自由に楽しむ場ですね。お客さんはもちろんのこと、俺たちメンバーもそうです。楽しくなかったらやってる意味がないです。まあ、もちろん思うように歌えなくて、演奏できなくて悔しい思いをすることは多々ありますが、基本的に楽しいです』

 もう1つは、と言って話を再開したときの滝口さんの声のトーンが先ほどと違っているように感じられた。

『感情をぶつける場ですね。俺は普段ほとんど怒らないんですよ。いつも体の奥深くに潜り込ませてしまうので、外に出てこないんですよ。でも、俺らが作った曲はまぎれもなく10代のときに抱えていた怒りとかいたたまれなさとか孤独を歌ってるものがほとんどなんですよ。不思議なもので、ライブになると普段抑圧されてた色んな感情が表に出てくるんですよ。だから俺にとってライブは感情をぶつける場ですね。もうそろそろお時間です。来月からツアーが始まるので、楽しみにしててください。俺も楽しみです。それではまた来週もこの時間で』

 真っ暗な部屋で布団にくるまりながらラジオを聴いていた僕の脳内には「感情をぶつける場」という言葉がリフレインしていた。ここ数年、喜怒哀楽という人間にとって当たり前の感情を誰かにぶつけただろうかとふと感じた。我慢をすることがもはや当たり前になっていた。

 滝口さんはライブハウスは自由な場だと言った。一体どんな場所なのだろう。自由に音楽を楽しむ場とは一体どんな場所なのだろう。

 彼らが鳴らす音楽を目の前で聴いてみたいと初めて思った。

 合格発表は約2週間後だった。その間に卒業式も行われる。

 いよいよ高校生活も終わりに差し掛かっていたが、寂しいという思いは特になかった。

 学校にいると、あちらこちらで「あと少しで卒業だね。寂しい」という会話を耳にするが、僕はなんとも思わなかった。大学進学に対する明るい希望があるわけではないが、高校は早く卒業したいと思っていた。

 毎日、家と高校を往復する日々の中で何度も思い起こされるのはやはり滝口さんの「感情をぶつける場」という言葉だった。

 彼らの音楽が鳴る様を自分の目に焼き付けたいという思いが日に日に強くなっていった。こんなにも何かをしたいと思うのが自分でも意外だった。

 家に帰り着くなり、携帯電話で【×××】の公式サイトを調べてみた。この前のラジオで滝口さんは確か「場所によってはチケットが余っている」と言っていた。幸い、僕の住む県で行われる公演のチケットも余っているようだった。勇気を振り絞って、購入のボタンを押した。

 リビングに行くと、母親が夕飯の支度をしていた。

「今日の夜ご飯は?」

「鍋料理」母親は僕の方を向きながら言った。

「ふーん」

「ふーんってあんた、好きでしょ」

 冷蔵庫を開けて麦茶を取り出した。僕の家では冬でも冷たい麦茶を飲む。世間一般ではどうかわからないけれど、珍しいのではないかと勝手に思っている。

「お母さん」麦茶を飲みながら、母親に話しかけた。

「何?体調悪いの?」

「今度さ、ライブ見に行こうと思ってて」

「ライブ?」母親が首をかしげた。

「好きなバンドがあってさ。その人たちのライブ」

「そういえば、ずっと聴いてたね」

 野菜を切るときの小気味のいい音が台所に響いている。母親は野菜を切ることに集中していた。

「うん」

「やっぱ体調悪いんじゃない?」野菜を切る手を止めて、僕に笑いかけた

「体調はすこぶる良いよ」僕も同じく笑いかけた。

 翌日、少し早めに家を出た。

 学校に行く途中にライブチケットの入金をするためだった。支払い期限はまだあったけど、早めに入金を済ませたかったのだ。

 僕の通う学校の前にはコンビニがある。そこはお昼時にはうちの学生でいっぱいになるから、店員さんも大変そうだった。僕はいつも母親の作ってくれた弁当を持って行っていたが、たまに母親は弁当作りをお休みすることがあるので、そのときは昼ごはんを買いに行くことがあった。だから、お昼休みに店員さんが慌ただしくする様子を何度も見て知っていた。

 コンビニの前に自転車を停め、店内に入った。この時間はまだ数名の学生がいるだけで、店内は空いていた。

 レジでチケットの支払いをしているときに背後に誰かが並んでいるのが気配で分かった。支払いを済ませ、後ろを振り返ると、女の子が並んでいた。制服から察するにうちの学生だろう。僕が手にした領収証をちらっと見た後、僕の方に視線を移した。目が合ったが、僕はすぐに目を逸らし、その場を後にした。黒髪のショートカットの女の子だった。緑色のリュックサックにはディズニーか何かのキャラクターのキーホルダーがぶら下がっていた。ディズニーに疎い僕にはそのキャラクターの名前は思い出せなかった。

 横断歩道を渡って、後ろを振り返ると、先ほどの彼女はお店を出たところだった。彼女は下を向いていた。僕は再び前に向き直り、校門をくぐった。

 卒業式の日はあっという間に訪れた。

 式は感傷に浸る間もなく粛々と行われ、あっけなく終わった。友人たちと涙を流す生徒も多くいた。僕にはそれが理解できなかった。楽しかった中学時代でさえ、卒業式で涙を流す生徒を見て首をかしげていたし、僕は泣くべきなのかと申し訳のない気持ちになった。

 最後のホームルームが終わった。

 クラスメイトは先生と話し込んだり、友人たちと語らっていた。

 僕は身支度を済ませ、そっと教室を後にした。階段を降り、下駄箱で靴に履き替え、上履きも持ち帰る。運動場に沿って伸びた長い廊下を渡り、駐輪場へと歩いて行った。さすがにこんなに早く帰っている人はいないようで、駐輪場には誰もいなかった。自転車を押して、校門をくぐった。

 埃っぽい教室も、電気が消えていて常に薄暗い階段も、運動場にぽつんと置かれた誰も使わないバスケットゴールももう見ることはなくても寂しいとは思わなかった。

 呆気ないなあ。僕はつぶやいた。3年という時間が流れたことに実感が湧かなかった。こんなにも呆気ない時間の経過をこれから何度も味わうのだろうか。そうだとしたら、そこにどれだけの意味があるのか僕には分からなかった。

 合格者発表の日もあっという間に訪れた。

 玄関先で母親から「頑張ってきなさい」とお尻を叩かれた。

 いや結果はもう出てるからと言うと、祈ることが大事なのよと返ってきたが、その意味はよく分からなかった。

 大学は市営地下鉄で1時間ほどの所にある。合格発表は11時からであるが、混雑するのが嫌なので、お昼の1時くらいに行くことにした。

 正門の横には合格発表の場所が示されていた。その地図の通りに進むと、広場のような場所があり、校舎の壁には白い垂れ幕が張られていた。

 時間を遅らせて行ったはずなのにその垂れ幕の周りに人だかりが出来ていた。なんでだろうと思ったけれど、すぐに合点がいった。おそらく在校生だ。嫌な予感がした。

 垂れ幕に近づくと、人だかりが僕を見つめているのが背中でわかる。かばんの中から受験票を取り出して、縦に並んでいる受験番号と照合していく。何度目を凝らしても僕の受験番号はそこにはなかった。言葉がなかった。

 すると、後ろから「受験番号、何番?」と声をかけられた。やはり在校生のようだ。在校生の男に自分の受験番号を告げる。

「あっ、あるよ。あったよ!」

「えっ?」僕は訳が分からなかった。

「ほら、見てみて!」

「あっ、ほんとですね」受験番号は縦に並んでいるとばかり思い込んでいたが、どうやら横に並んでいたようだ。

 周囲から「おおっ!」という歓声が上がり、僕は宙に3回舞った。降ろされたあと、周囲にありがとうございますとだけ何度も言った。それ以上の言葉は何も思い浮かばなかった。たぶん恥ずかしさで顔が真っ赤になっていたと思う。

 家に帰ると母親は家にいなかった。1時間ほどで母親は帰ってきた。「どうだった?」と不安そうに訊く母親に僕はにやりと笑ったので、すぐに結果は伝わったみたいだ。

 合格発表の次の日が【×××】のライブだった。

 チケットには18時開場の19時開演と書かれていた。会場に入ってから1時間も待たされるのかと不思議に感じた。音楽を生で聴くのもライブ会場に行くのも初めてなので、家を出るまでずっとそわそわしていた。

 ライブ会場は市営地下鉄を北に乗ること5駅の場所にあった。初めて行くところだったので、開場の1時間前に着くように家を出た。

 駅に着くと、ファンと思しき男女が会場の方に歩いて行くのが目についた。まだ1時間も前なのにもう来ているのかと驚いた。

 駅から西の方に歩いて行くと、やがて大勢の人だかりが見えてきた。どうやらここがライブ会場らしい。正方形の建物で、尖った屋根が特徴的だった。開場の前には番号の書かれた札を持っている係員が数名いた。チケットには整理番号が記載されていて、開場の際にその番号順に並び、入場していくようだ。

 あと1時間ある。2月下旬のこの寒さで1時間も外で待つのかと思うと、ライブが楽しみなのに、少し暗澹たる気持ちになる。周りを眺めてみると、寒さでぶるぶる震えながらもみんな一様に楽しそうだ。

 当然ながら僕はライブハウスに来ている人たちのことは知らない。彼らも僕のことなんて知らない。でも、誰もが【×××】のことが好きで今日この場所に集まっている。性別も年齢も、これまで生きてきた道筋も違う。今まで決して交わることのなかった人たちがほんの数時間だけ同じ時間を共有する。そのことが不思議に感じられた。

 開演15分前になり、大勢の人たちが自分の整理番号が書かれた札のところに移動し始めた。僕は自分の整理番号を確認しようとして、かばんの中からチケットを入れたファイルを取り出した。寒さで手が震えていたせいでチケットを取り落としてしまった。チケットを取ろうと、腰を屈めると今度は風で飛ばされてしまった。やってしまったと思い、すぐに飛ばされた方に視線を向けると、女の子が履くようなピンクのスニーカーの前に僕のチケットが落ちていた。顔を上げたとき、おやと思った。目の前の女の子のショートカットには見覚えがあった。彼女も同様の反応をした。

「拾ってくださってありがとうございます」

「いえいえ、とんでもないです」

 ふと背中を見ると、彼女は緑色のリュックを背負っていた。何か見覚えがあるなあと思っていたら、思い当たることが1つあった。

 あのもしかしてなんですけどと僕の通う学校名を告げた。

「えっどうしてわかるんですか?」

「僕も通ってたので。この間、卒業式でした」

「なんか見覚えあるなあと思いました」彼女はそう言うと笑った。

「学校の前のコンビニで一度見かけました」

「もしかしたら、そのときかも」

 ちょっと話している間に次々と整理番号順に列が出来上がっていた。

「もう行かなきゃですね」

「そうですね。行きましょうか」

 僕たちはそこで別れた。

 整理番号順に続々と入場していく。今まで経験したことがないくらい胸の鼓動が早かった。列の流れに沿って歩いて行くと、いつの間にか会場に入っていた。立ち止まって高い天井を眺めていたせいで色んな人に体をぶつけられてしまった。

 右側にステージがあるので、僕もそちらの方へと進んでいった。ステージの真ん中辺りに陣取り、ふと後ろの方を見てみると、もうすでに会場は満員になっていた。

 聴いたことのない洋楽が流れていた。音楽に詳しくない僕なのだから、それも当たり前かとも感じた。

 周囲を見回すと、携帯電話をじっと見ている人や友人と話す人、流れている音楽に体を揺らす人など様々だった。僕にとっては何もかも初体験で、終始そわそわしていたが、それを周囲の人間に悟られないようにするのに必死だった。

 薄暗いステージ上で何人かの人たちがマイクチェックや楽器のチューニングをしている。その様子を見るともなしに眺めていた。やがてステージ上から人がいなくなる。

 時刻は19時。ステージ上がふっと明るくなり、すぐに暗くなる。それとともに会場が短い歓声に包まれる。流れていた音楽が切り替わり、また別の洋楽が流れる。やはりこの曲も聴いたこともない音楽だった。ゆらゆらと体を揺らしたくなるような音楽がひとしきり流れたあと、ふいに音楽が消える。それと同時にステージ左の袖から黒い影が3つ現れる。歓声が会場いっぱいを包み込む。

 拍手が鳴り止むと、静寂が会場を包み込む。ひりひりと張り詰めた空気に押し潰されそうになっているのは僕だけだろうか。

 1曲目はドラムの小気味のいいリズムで幕を開け、そのリズムに乗っかるようにギターの激しい音色とベースの体を揺さぶるような重低音が会場を切り裂いた。大袈裟でも誇張でもなく本当に体が揺さぶられた。ただ、そんな衝撃なんて一瞬で忘れてしまうほど、滝口さんの伸び上がるような歌声が放射状に広がっていき、打ちのめされた。

 会場はまだ暗い。ステージ上では3人の黒い影が躍動していた。彼らが躍動する様を僕は凝視していた。滝口さんは身長が高く、男性にしてはかなり痩せている。この華奢な体の一体どこにこれほどの力が眠っていたのだろう。

 曲は終盤に差し掛かっていた。何もかも馬鹿みたいだと諦めながらも、でも少し先の未来を笑って過ごせるように夢見ている、そんな曲だ。1曲目からドラマの最終回を見ているような気分になり、呆然とした。

 1曲目が終わり、照明は暗いまま、立て続けに曲が演奏されていく。数曲を演奏したのち、照明が明るくなった。初めて滝口さんをこの目で見た瞬間だった。アンプの脇に置いてあるペットボトルを取り上げ、水を一口飲んだ。空調の音が静かに鳴る中、会場に集まったファンは固唾を飲んで見守っていた。

 ゆるくパーマのかかった髪をくしゃっとしながら滝口さんは話し始めた。「みなさん、こんばんは」の声を聴いた瞬間、ラジオで聴いていた声だと妙な感想を持ってしまい、にやにやしてしまった。

 滝口さんは挨拶をしたあと、ギターを触り始め、不審に思っているとまた話し始めた。

「こんなにもいっぱい集まってくれて嬉しいです。ツアーが始まって色んな場所でライブをして、こうやって色んな人に自分たちの曲を聴いてもらって、すごく嬉しいです。でも、時々不安になるんです。いつかこうやって聴いてくれる人たちの気持ちが離れてしまうんじゃないかって。考え過ぎかな。ツアーが終わったら曲を書いて、曲を書いて、曲を書いて、書かないと……書いてないと猛烈な不安感に襲われるんですよ。自分の中のどこかに気持ちが離れていくんじゃないか、忘れさられてしまうんじゃないかっていう感情があるんですよ」

 そういや以前にも滝口さんは似たようなことをラジオで言っていた気がする。何かに急かされているような気分になると。滝口さんはいつも何かに追い立てられている。危ういと、ふと思った。

 絶対に忘れないよという若い女性の歓声が飛んだ。滝口さんは「そうは言っても忘れる奴は忘れるんだよ」と切り返し、苦笑した。

 空調の音が場内を流れていく。こんなにも空調の音を耳にすることなんてないくらい静まり返っていた。半ば呆然としていた。

 ギターの音色と同時に滝口さんの歌声が重なり、広がる。透き通っている。体の隅々に浸透していくようだった。演奏されたのは僕が初めてラジオで聴いた【×××】の曲だった。優しい歌声に人間関係の息苦しさを歌う歌詞が刺さる。

 僕は言葉にして誰かに思いを伝えるのが本当に下手くそだ。嬉しかったこと、楽しかったこと、辛かったこと、それらの感情をもっとストレートに伝えられたらどれだけいいか。僕にもいつかできるようになるのだろうか。

 文化祭の出し物を決めるとき、どうして僕はあんな曖昧な感情に自分を偽ったのだろう。おかしいものはおかしいと言わなかったのだろう。どうして冗談半分にしてしまったのだろう。どうして我慢してしまったのだろう。

 君もいつか言葉にして伝えられたらいいねと、そっと歌ってくれているような気がした。

 いつまでも続いて欲しいと願ったけれど、そうはいかなかった。気がつくとライブは終わっていた。

 あれだけ静寂に包まれていた空間が一瞬にして喧騒に包まれる。現実に引き戻された気がした。人の波にさらわれるようにして出口へ向かった。

 会場を出てすぐのところに公式グッズが売られているブースがあった。そこにはグッズを求めるファンで溢れていた。ちょうど一人の女の子が会計を済ませ、立ち去るところだった。緑色のリュックを背負ったショートカットの女の子だ。開場前に会った同じ高校の女の子だ。

 人混みを掻き分け、出口へと消えていった彼女を追いかけた。どうしてそんなことをしたのかわからなかった。予感めいたものがあったのかもしれない。

 出口付近には人が行き場がないかのように渋滞していた。たった数時間でも自分はこの場所にいたんだという足跡を残しているかのように思えた。

 人混みの中に彼女を見つけた。声をかけたわけではなかったけれど、彼女は振り返り、あっという顔をした。やっと見つけたという表情に見えた僕はとんだ妄想野郎だなと下を向いて笑った。

「終わっちゃいましたね」

「そうですね。一曲一曲に呆然として、いつの間にかライブが終わってました。」整理されていない感情を必死に掻き集めてなんとか言葉にした。

「もしかして【×××】のライブは初めてですか?」風で乱れた髪を直しながら彼女は訊いてきた。

「そうなんです。あっ、この辺、人多いんで場所変えませんか?」

「そうですね」そう言って彼女は薄く笑った。

 周りには人だかりができていて、彼女のか細い声を聞き取るのに苦労した。

 ライブハウス前の道に逃れたはいいが、隣はすぐ道路で、自動車が頻繁に行き交っていた。とりあえず駅まで歩くことにした。

 冷たい風が頬を打ちつける。それだけで全身が強ばった。

「なんの話してましたっけ?」緊張しているのか咄嗟に忘れてしまったので、尋ねた。

「【×××】のライブは初めてですかって話です」

「そうでしたね……すみません。そもそもライブに行くこと自体が初めてで」

「そうなんですか?」彼女はひどく驚いている様子だ。

「何をどう振る舞っていいのやら、全然わかりませんでした。緊張しっぱなしです」「私も【×××】以外のライブはそんなに行ったことないんで、偉そうには言えませんが、【×××】のライブはちょっと特殊かもしれません」

「特殊?」特殊とは一体どういう意味だろう。

「そう。特殊はちょっと言葉がおかしいかな。ロックバンドのライブって激しいんですよ。音楽を聴きながらお客さんが暴れるんです。私は最初、そう見えました。モッシュって言うんですけど、お客さんはみんながみんな、踊りながら音楽を楽しむから自然とおしくらまんじゅうみたいになるんです。あと、ダイブっていうのもあります。お客さんがお客さんに抱え上げられて、その名の通りダイブするんです」

「考えただけでも恐ろしい」

「でしょ?」彼女はそう言うと笑った。

 ちょうど信号に差し掛かった。僕たちはただひたすらに前を向いて話していた。

 信号機が青に変わる。信号を渡りきったところは私鉄電車の高架下だった。そこから右方向を見ると公園が見えた。

 電車が僕たちの頭上を一瞬にして通り抜ける。レールの軋む音が響き、大気が震えた。彼女が何か言葉を発した気がした。

「何か言いましたか?」

「すみません…声が小さくて」彼女は申し訳なさそうな表情をした。

「いえ、電車が通ったんで仕方ないです」

「名前を聞いてなかったなあと。同じ高校なのに」

「そうですね。忘れてました。有坂省吾と言います」

「有坂さん…私は新垣小夜子と言います」

「小夜子……」小さな小さな豆電球がぱあっと灯るような感覚があった。ただ、その正体が掴めない。

「何かおかしなこと言いましたか?」彼女は訝しげに僕のことを覗き込んだ。

「いえ、何もおかしなことは言ってないんですが」掴めそうで掴めない、もどかしさを感じていた。

 また電車が通り過ぎていく。風が吹き、また彼女の髪をさらっていく。

「あの…新垣さんって【×××】のことはいつ知ったんですか?」

「えっと、元々好きなバンドがあって、その人たちがラジオをやってたんです。ずっと聴いてたんですけど、ラジオをやめることになって。その人たちのあとにラジオを始めたのが滝口さんで、それで【×××】を知りました」

 掴めそうで掴めなかったものをようやく掴めた瞬間だった。

「新垣さんって滝口さんのラジオにメール送ってませんか?」まっすぐに彼女を見て、そう訊いた。

 彼女はひどく驚いた様子だった。それだけで、最初、顔を見たときから感じていた予感めいたものが正しかったのだとわかった。

「なんでわかったんですか?」彼女は寂しげに笑いながら、そう訊いた。

「なんででしょうね。わからないです。でも、僕が【×××】を知ったのがラジオで、しかもそのときに新垣さんがサヨコっちって名前で新曲の感想メールが紹介されてて、印象に残ってたんだと思います」

「あのときですか……。サヨコっちは思いつきでつけたんで、恥ずかしいです」彼女は嬉しさと恥ずかしさがない混ぜになったような表情をした。

 僕たちはずっと高架下で話をしていた。何度も電車が通り過ぎて行った。時間が経つにつれて、一段と寒さは増していった。どちらからともなく、行きましょうかという話になった。

 僕たちは無言で歩き続けた。何か話さなければと思った矢先、彼女が口を開いた。

「ずっと一人だったんです」彼女は下を向いて歩いていた。

「ライブに行こうって誘える友達もいなくて、だからずっと一人で【×××】を見てたんです。だから、【×××】の話ができて良かったです」

「僕も話せて良かったです。初めてライブに行って知らない人と話すなんて思いませんでした。人と話すの苦手なんで」ちらっと横を見ると、彼女も僕のことを見ていた。慌てて目を逸らす。

「初めてのライブが一人で参加ってすごいです。私にはそんな勇気はないです」

「そうなんですかね。基本的にいつも単独行動なんで、その辺りはあんまりよくわからないです」

 もう一度、彼女を見ると、「えーそうなんですか?」と暗闇の中に眩しい笑顔が浮かんでいた。あまりに眩しすぎて直視できなかった。

 大通りが見えてきた。そこを左に曲がると駅がある。

「僕は地下鉄に乗って帰ります。そういえば、新垣さんはどの辺に住んでるんですか?」

「私、この辺りに住んでるんですよ。なので、自転車で帰ります」

 なぜか僕たちは、うんとうなずき合った。

「じゃあ……」このあとに続くべき言葉が見つからなかった。

「はい、では」彼女はもう一度うなずいた。

 彼女は小さく手を振って、くるりと後ろを向いた。駐輪場へと続く道を左に曲がるまで彼女を見送った。

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