第1章 伴奏

 今日はここまでといった具合に伸びをした。実力テストを来週に控えていた僕は日々の憂鬱を振り払うかのように勉強に明け暮れていた。

 母親が持って来てくれた、すっかり冷めきったココアを飲み干し、ベッドに潜り込んだ。部屋はぽかぽかと暖かいけれど、布団の中はひんやりとしていた。このひんやりとした空間を自分の体温で温めていくのが僕は昔から好きだった。

 勉強中は携帯電話を絶対に見ないようにしている。僕は枕元に放置してあった携帯電話を手に取ってみた。当然ながら、メールボックスの受信件数は0件だった。それでも、携帯電話でネットサーフィンをしてから寝るのが習慣になっていた。その時、自分の携帯電話にラジオの機能が付いていることにふと気づいた。ラジオを聴いてみようと思った。正直なところ理由はわからない。

 布団を抜け出し、机の上に置いてあったイヤホンを手に取って、再びベッドに潜り込む。夜に音楽をかけると、母親が怒鳴り込んでくるのが目に見えているので、予防線を張っておく。

 ラジオを起動した。流れてきたのは地元のFM放送だった。

 男性のパーソナリティーが一人で何やら話をしている。声を聞いた瞬間、男性と分かるものの地声は高めだった。

「俺達、【×××】の新曲が来月の1月10日に発売されます。ということで今日は新曲の初OAです。それでは聴いてください」とラジオの向こう側の男性は新曲のタイトルを告げた。

 前奏がなく、いきなり男性ボーカルの透き通っていて伸びやかな歌声が僕の耳に流れ込んできた。その彼の歌声に反して、とてつもなく鋭利な歌詞が僕の心に突き刺さった。人間関係の息苦しさを代弁するその歌に僕は心を鷲掴みにされた。

 曲が終わる。胸が苦しくなってしまった。高校という閉鎖された箱の中での人間関係の息苦しさを嫌でも実感させられた。

 そんな僕の胸の苦しさを当然知る由もなく、電波に乗って「いい曲でしょ?」と微笑んだ。顔も知らない彼が微笑んでいるように感じた。

『続々と感想メールが来ているようですよ。では、これを読みましょうかね。ラジオネームはサヨコっちさん』

 そのまま彼はサヨコっちという、おそらく女の子であろう人のメールを読み上げた。

『滝口さん、こんばんは。初めてメールを送ります。新曲、聴きました。私は今、高校1年生なんですが、友達関係とか部活の人間関係ですごく悩んでます。毎日色んなことが上手くいかないです。この曲は胸に鋭く刺さるけど、そっと近くにいてくれるような曲だと思いました。もう少し頑張ってみようと思います。ツアーも行きます。読みづらい文章ですみません』

 まさしく僕が言いたかったことを代弁してくれたような気がした。

『そうですね。やっぱり学生生活にしろ、働いてるにしろ、毎日辛いことの方が多いんですよ。報われることなんてほとんどないし。俺だってそうですよ。でも、生きていかないといけない。そういうことを曲にしたかった。少しでも多くの人に届いてくれたら嬉しいです。それではまた来週もこの時間で』

 そうラジオの中の彼は締めくくった。

 その日はなかなか寝付けなかった。興奮もしていたし、何よりも胸が苦しくて苦しくて堪らなかった。

 何とか2時間ほど微睡むことのできた僕は重い頭を引き摺るようにして起き上がった。布団を脱ぐと、途端に寒さが全身を覆う。着ていたパジャマに急いでパーカーを羽織り、自室を出る。

 リビングへと通じるドアを開け、おはようとつぶやくと、父親とぶつかった。

「おお、省吾、今日は珍しく早起きだな」

「なんか眠れなくて」

「そうか。来週からテストだもんな。あんまり根を詰めすぎるなよ」

「分かってるよ」

 じゃあ父さん行ってくるからと廊下へと消えて行った。

 リビングに入ると、母親が「おはよう」と僕に顔を向けた。僕も「おはよう」と言って、席に座る。テーブルにはすでに朝食が用意されていた。トーストに目玉焼き、ココア。飽き飽きしていた。毎日、喉が通らない。ここ数年、朝食の変更を要求しても聞き入れてもらえた試しがなく、もはや諦めていた。

 無理やり朝食を喉に押し込んで、家を出た。

 僕は昔からマフラーが嫌いだ。毛糸が首にちくちくと刺さって、首が痒くなるからだ。だから、冬はいつも首元が寒い。でも仕方がないので、我慢している。今日も自転車を漕ぎながら、前方から強烈な寒気が打ちつけてくるので、首元から冷気が忍び込んで、ぽかぽかしていた体は一瞬にして冷え切ってしまった。

 8時半のチャイムと同時に2年3組の教室に滑り込んだ。

 担任の荒木の「有坂、遅刻だぞ」という注意を無視し、席に座る。

 僕の学校生活は「授業、寝る、授業」の繰り返しだ。進学校ということもあり、授業は真面目に受ける。授業が終われば、次の授業の準備をし、机にうつ伏せる。15分の休み時間を睡眠に当てられればいいのだけれど、なかなかそう上手くは行かない。当然ながら、休み時間なので周りの生徒は騒ぐ。うるさいと思いながら、周囲の雑音に耳を傾け、15分というこの世で最も無駄な時間を過ごす。

 この日も誰とも言葉を交わさず、ふと窓の外を眺めると、すでに陽が暮れていた。

 自転車を押しながら、校門を抜けると、毎日解放感に包まれる。今日もやっと終わった。毎日が退屈で堪らない。

 自転車を漕ぎながら、昨日ラジオで聴いた顔も知らない彼のあの曲を思い出していた。単純にとてもいい曲だと思った。でもそれ以上に切なさで胸が覆われる。そして彼のあの鋭い歌詞には強烈な覚悟を感じるのだ。どうしてあんな曲が書けるのだろう。僕よりは年上だろうけど、でもまだ若く感じた。彼のことがどうしようもなく気になった。

 家に帰ると、帰宅を告げる挨拶もそこそこに自室に引きこもった。携帯電話を片手に昨日の曲のこと、彼のことを調べようと思ったのだ。ただ、曲名も彼の名前も彼が所属するバンド名も思い出せなかった。我ながら呆れて物が言えなかった。どうして何かしら書き留めておかないのだ。でも、その隙を与えなほど彼らの曲に魅了され、呆然としたのだろうと無理やり自分を納得させた。

 脳裏に刻み込まれている歌詞の一部を検索してみると、1組のバンドがヒットした。「【×××】、1月10日にニューシングル発売決定」との見出しの音楽ニュースサイトだった。そこから色々なサイトを見て回った結果、【×××】はボーカルギターの滝口恭平、ベースの田中奏太郎、ドラムの武田直人が2007年に結成したバンドだということが分かった。彼らはまだ19歳だった。僕とほとんど歳が違わなかった。

 翌日は学校が休みだった。僕は自転車で15分ほど行ったところにある市内では有数の繁華街へと出かけていった。自転車を違法駐輪の多い雑居ビルの前に止め、商業施設のところまで歩いて行った。そこの9階には大きなCDショップがある。そこだったら彼らのCDも置いているだろうと考えたのだ。予想は見事に的中した。彼らの過去の作品がそこにはすべて並んでいた。金銭的にすべてを買うことはできなかったけど、その中から気になる作品を手に取り、購入した。

 家に帰って早く聴きたくて、真冬の寒風を切り裂くように自転車で駆けた。


 学校が休みの日にほとんど勉強が捗らなかった。【×××】のCDを聴くだけで週末を終えてしまった。こんなことは初めてだった。

 ベッドに腹ばいになって、歌詞カードにじっくり目を通しながらCDを聴く。こんな音楽の聴き方は初めてだった。そもそも僕自身がこんなにも音楽を熱心に聴くこと自体が初めての経験だった。母親が部屋に入ってきていることすら気がつかなかった。

 ご飯できたわよと僕のいるベッドのところまで来ないと気づかないほどだ。

「珍しいわね。あんたが音楽なんて」

「まあね」

 母親は心底驚いている様子だった。夕食を終えるとすぐに自室にこもり、続きをむさぼるように聴いた。彼らの音楽を聴いている、ただその瞬間だけ現実を忘れさせてくれた。ただ、滝口さんの、背中をすっと冷たい何かで撫でるような歌詞はやはり同時に現実の残酷さを思い起こさせた。でもそれは刃を喉元に向けるようなものではなく、もっと違う何かだった。その正体が僕にはまだ何かわからなかった。

 実力テストは自分が予想していた以上の出来だった。土曜日と日曜日を彼らの音楽を聴くことだけに費やしたが、そんなことはなんの影響もなかったらしい。戻ってきた答案用紙を見て僕自身が驚いたほどだ。

 今日は実力テストの返却だけでほとんど一日が終わった。クラスの子の中にはテスト返却の時は授業をほとんどしないから妙にテンションが高い子もいる。逆にテスト返却を早々に切り上げて、授業を再開する先生がいると、休み時間になって「なんなんだよ、あいつ」と愚痴を垂れる。それに対して、周りの連中は「ほんとわかってないよな、あいつ」と同調する。「あいつがあそこでミスしたから負けたんだよ」とこぼす者がいれば、「あいつ、またミスしたのかよ。あいつが同じチームだとうんざりする」と同調する。

 学校内の人間関係は愚痴と同調で成り立っている。

 僕は元々、高校に入学してから少しするまで、こういった人間関係の中にいた。どちらかと言うと、同調する側だった。

 きっかけは非常に些細なことだったように思う。

 高校1年生の秋のことだ。クラスで文化祭の出し物を決める際に僕のクラスではなぜか劇をやることになった。まだ1年しか経っていないけれど、理由は正直思い出せない。役割分担は大きく分けて2つで、演者と裏方だ。

 クラスで仲が良かった友人達は皆、口を揃えて、演者だろと言った。本当は演者なんてやりたくないし、裏方が良かったけれど、僕は「だよね」と同調して演者の欄に丸印をつけて用紙を提出した。でも、蓋を開けてみれば、僕以外の皆は裏方になっていた。僕だけが演者だった。僕は半分は笑って、もう半分は怒ったような表情で「なんで皆、裏方にしてんの?」と言った。友人の中の1人が「急に裏方やりたくなっちゃってさ」と言い訳がましく笑った。

 その時から、どう頑張ってみても僕が友人たちに話しかけるのがぎこちなくってなってしまった。友人達の態度は一見すると変わりないように見えるけれど、でも何が違っていた。高校1年生が終わる頃には友人達に話かけること自体が億劫になっていた。今まで気に留めていなかった友人たちの些細な振る舞いが妙に気になるようなった。

 年次が変わり、僕は2年3組の教室の扉をくぐった。そのクラスには1年生の時のクラスメイトはほとんどいなかった。ここからやり直そう、そう誓った。でも、できなかった。前の席にも後ろの席にも男子がいるのにどうやって話かけていいのかわからなかった。話しかけられても上手く言葉が出なかった。

 中学校のときまで友人関係にはほとんど問題がなかった。だからこそ、他人に対してどう接したらいいのか分からなくなってしまったことは自分自身を動揺させた。

 2年生になってなんとか頑張ってみようと毎日願ってはいたけれど、やはり無理だった。次第に誰からも話かけられなくなってしまった。

 今日もまた陽が沈む。厚い灰色の雲が垂れ込めていて、鋭い寒気が地上に生きる人間たちを虐げる。

 自転車を懸命に漕いでいても前方から吹きすさぶ風のせいでなかなか前に進まない。家に帰り着いたときにはくたびれていた。

 ただいまと言うと、おかえりが返ってくる。両親との関係は非常に良好だ。上手くいかないのは他人だけだ。

 通学カバンを勉強机の横に置き、ベッドに潜り込む。ベッドの上にはウォークマンが放置されていた。イヤホンを耳に押し込み、再生ボタンを押す。流れてきたのは滝口さんの透明感のある伸びやかな歌声だ。僕のウォークマンには【×××】の曲しか入っていなかった。たまたま流れてきたのは彼らが初めて作った曲だった。この曲もやはり優しい歌声とは裏腹に言葉が鋭く突き刺さる。どうして彼はこんなにも辛い現実を真正面から眺めて言葉にするのだろう。そんなことを考えながら聴いていると、知らない間に眠ってしまっていた。

 母親の呼ぶ声で目が覚めた。

 夜の7時。リビングに行くと、夜ごはんはもう出来上がっていた。今日は鍋料理だ。夜ごはんはたいてい母親と2人で食べる。

 父親の帰りはいつも遅かった。早くて夜の9時で、遅い時は夜の11時になるときもある。父親は休みの日、ほとんど寝て過ごしていた。父親は昔から風邪ひとつ引かない健康体だけれど、それでもやはり父親の体は心配だった。

 中学生の時はよく両親に学校生活の話をしていた。高校生になってからはほとんど学校生活の話をしていない。その変化を母親は気づいているのだろうか。もっとも母親は少し鈍感というか、抜けているところがあるから些細な変化に気づいていないだろうなとも思う。

 夜ご飯を終え、早々に自室に引っ込むと、明日提出の数学の宿題に取り掛かった。僕は数学が得意だし、何よりも好きだった。

 宿題はあっという間に終わった。楽勝だな。数学のノートをカバンに放り込んだ時にベッドに放置された携帯電話が目に入った。ふと思い出す。そうだ。今日は滝口さんのラジオだ。

 先週の深夜、たまたまラジオを聴いて、彼らの曲に出会ったのだ。もうあれから一週間が経っていた。

 深夜11時55分。 【×××】の曲を聴きながらラジオが始まるのを待っていた。

 定刻になると、聴いたことのない洋楽が流れてきた。音楽が次第に小さくなり、滝口さんが話し始めた。そういえば、先週聴いたときは番組のオープニングは聴き逃していた。

 オープニングトークもそこそこに滝口さんは先週も聴いた彼らの新曲を流した。曲が終わり、滝口さんは「最近ね」と話し始めた。

『1分1秒が惜しいんですよ。1月10日に新曲が出るんですけどね、もうスタジオ入って曲作ってるんですよ。とにかく曲を作らないと、歌詞を書かないとって、もう一人の自分が急かすんですよ』

 彼は「全然できやしないし」と笑う。

『時間は待ってくれないよ、ぼやぼやしてたらおじいちゃんになるよって。俺、まだ若いよって言い返すけど、もう一人の自分には全然響かないの。うわっやばいよね、俺、二重人格みたいに思われるから、この話はやめよう』

 滝口さんはどうしてこんなにも生き急ぐのだろう。

 でもね、と彼は続ける。

『俺って本当に孤独だなあって思う。家族もいるしメンバーもいる。でも、孤独なんですよ。特に曲作りしてるときはね。曲作りしてるときはほんとにしんどい。だからこそみんなに「この曲いい」とか言ってもらえたときが本当に嬉しい。ライブで放心状態で聴いてもらえたときが嬉しい。誰しも孤独だなあって感じるときはあると思うけど、俺たちの曲を聴いてるときだけはほんの少しだけでも救われるんなら音楽をやってる意味があるなあと思う。もうそろそろ時間ですね。なんか暗い話してしまいましたね。メールも読まないし。最後くらい明るい曲かけようかと思ったけど、俺たちの曲に明るい曲なんてなかったね。まあ、落ち着いた曲の方がぐっすり寝られるでしょ?あっ忘れてましたね。今、スタッフさんのカンペ見て、気づきました。今日が年内の放送、最後です。それではよいお年を』

 明日は、正確に言うと今日だが、終業式だ。それを終えると冬休みに突入し、今年も終わる。

 年末年始はあっという間だった。僕はと言うと、出かける理由も特にないので、ずっと家にいた。もちろんおせちは食べた。さすがにおせちを食べないと、気が引き締まらない。そこまで新年にかける意気込みなどないのだけれど。

 日常は当たり前のような顔をしてやってくる。そんなものなんて当たり前じゃないんだよと神様に教えてやりたい。神様の存在なんて信じてないけど、おみくじは引くし、お賽銭は投げる。僕も慣習として毎年やっているけれど、意味はあまり感じない。今年は大吉だった。だからなんだという思いに囚われるし、特に幸運なんて訪れないだろう。

 1月10日、【×××】は新曲を発売する。授業のチャイムが鳴ると同時に、僕は教室を飛び出した。

 校門を出て、ずっと西に自転車を漕いだところに僕の家はある。いつも僕は真っすぐ家に帰るが、この日は珍しく寄り道をした。

 校門を出て、南に下ると大通りが見えてくる。そこを東の方に進むと、その街では唯一のショッピングモールがある。そのショッピングモールの中にCDショップがあったはずだ。

 すでに陽は沈み、今にも雪が降り出しそうな気配があった。雪が降る前の大気がしんと静まりかえるあの感じ。信号待ちのときに夜空を見上げると、空は灰色の分厚い雲で覆われていた。

 信号を渡り、緩やかなカーブに沿って自転車を漕ぐと、やがて意中のショッピングモールが見えてきた。煌々と明かりが灯っている建物が僕にはひどく不釣り合いに思えた。

 自転車を停めて、建物の中に入る。エスカレーターで2階に上がり、フロアーを奥へと進む。2階の奥の方にCDショップが入っていた。

 新譜のコーナーに行くと、「【×××】、待望のニューシングル!」と色鮮やかなポップ付きで置かれていた。CDの発売日にCDショップに駆け込む。そのことが僕自身、意外で堪らなかったし、手に取ったときの感動は言葉では表しがたかった。

 いつからかラジオを聴くのが習慣になっていた。

 最初は滝口さんのラジオだけ聴いていたけど、それがきっかけとなって、色々なラジオを聴くようになった。学校がない日は一日中ラジオを流していた。朝、昼、夜と時間帯によって番組の色が異なるのも聴いていて心地が良かった。新曲が発売されたことで、様々なラジオ番組にゲストとして 滝口さんも呼ばれていた。

 滝口さんは自分のラジオでは思いを一つひとつ届けるように話すけど、ゲストとして他のパーソナリティーのラジオに出演するときは少し印象が違うように感じた。滝口さん自身のラジオではどちらかと言うと「暗」の部分が、誰かと対面しているときは「明」の部分が際立っているように感じた。でも、やはり言葉の端々に「暗」の部分を覗かせた。

『タイトルトラックの曲は人間関係の息苦しさがテーマになってると思います。作詞にも相当な時間を要したとお聞きしましたが、どうでしたか?』

 パーソナリティーの女性が滝口さんにそう訊いた。

『そうですね……人間関係の苦しさは誰しも抱えてることだとは思うんですよ。なんで自分の思いがこんなにも他人に伝わらないんだろうとか、理解して欲しいのに理解されないとか。俺自身もそうだったし、今もたぶんそんな思いを悶々と抱えてるんだろうと思うんです。でも、伝わらないからもういいやとか、理解されないならもう別にいいよって諦めたくないと最近思うようになって。たとえ伝わらなくても伝えようと必死にならないとなあ、と。それを言葉にするのが大変で、何回書いてもしっくりいかなくて、俺、才能ないのかなあとまで思いましたよ』

 僕はと言うと、周囲の人間に理解なんてされなくていいとまで思っていた。どうしてこの曲を聴いてこんなにも胸が苦しくなるのかわかった気がした。「君はそのままでいいのか?」と僕の隣で問いかけてくるからだ。その問いに対して僕はまだ明確な回答は持ち合わせていなかった。


『こんばんは、以前メールをお送りしたサヨコっちです。今月のお題は「言葉」ということで、友人から言われたことを書こうと思います。先週、友人からサヨコっちってあざといよねと言われました。正直、今になっても冗談なのか本音なのかわからないでいます。自分自身にその自覚はまったくないし、そのときは笑ってごまかしたんですが、後になって色々と考え込んでしまって……自分で自分が分からなくなりそうです。周りからどう思われてるのかも気になってしまって。さらっと受け流せたらいいのですが、私の性格上なかなかそうはいかなくて。私は気にしすぎなんでしょうか?滝口さんは他人の言葉を引き摺ってしまうことはありますか?長々とすみません。暖かくなってきましたが、お体には気をつけてください。来週のライブ、楽しみにしてます』

 滝口さんのラジオでは月に1回だけリスナーからの質問や悩みだけに答える回がある。今週はちょうどその回だった。お題は前の週に決め、メールを送ってもらうことになっている。今週のお題である「言葉」は、滝口さんがたまたま訪れたCDショップでの【×××】の作品のポップの言葉に感動したという話から決まった。

 最初、サヨコっちというラジオネームに聞き覚えがあるとは思ったものの咄嗟に誰だか分からなかった。サヨコっちさんが送ったメールの最後の「すみません」で電球にぽっと灯りが点くように思い出した。

 僕が初めてラジオを聴いた日、【×××】のことを知った日に滝口さんのラジオにメールを送ったのが彼女だった。なぜ思い出したのだろうかという理由は手繰り寄せるまでもなかった。

 彼女が送った彼らの新曲に対する感想がまさしく僕が感じたことだったからだ。だから頭の片隅に残っていた。

 滝口さんはいつもリスナーからのメールを読んだ後、「そうですねえ」と一呼吸を置いてから、話し始める。

『他人の言葉はすごく気になりますねえ。曲を褒められたら、すごく嬉しいけど、その逆はねえ……俺って才能ないのかなあってまた落ち込みますね。我ながらめんどくさい奴だなあ。まあ、正直なところ、サヨコっちさんの友人がどれくらい本音で言ったのか分からないし、本当に冗談なのかもしれない。だとしたら、あざといって言葉は鋭すぎるけどね。最近よく考えることがあるんですよ。人って誰とでも仲良くなれるわけじゃないでしょ?どうしたって合う合わないというのはあるわけで。それなのにおべんちゃら使ってみんなに好かれようとする人っているでしょ?そういう人に俺は特に何も思わないけど、でもすごく不毛だなと思うんですよ。無駄な努力をしているような気がするんです。あなたのことを本当に好きで大事に思ってくれている人に自分の思いをぶつけることに全力を傾けた方がいいんじゃないかって。サヨコっちさんが彼女のことを本当に大切に思うなら、「なんでそんなこと言うの?」って彼女と向き合えばいいとは思います。人間関係はいちいち摩擦を生みますね。めんどくさいけど、それが人間関係なのかなと思います』

 若造のくせに今日は大人びたこと言ってますねと彼は笑った。確かに人間関係は摩擦だ。その摩擦と向き合うには大変な労力がいる。誰にでもできるようなことではない気がする。

 ふうっと息を吐き、彼は再び話し始めた。

『人間関係に限らず、嫌なことと向き合うってすごく大切だと思うんですよ。自分の体が引きちぎれるほどに辛くなってしまうときもあるとは思うんです。でも、いつになるかは分からないけど、そうやって向き合っていれば、ほんのちょっとだけ光が差すというか出口が見えるときが来ると俺は信じてるので』

 そう言って彼は話を締め括った。サヨコっちさんは彼の言葉をどう受け止めたのだろうか。

 人はどうしても辛いのは自分だけだと思ってしまう。でも、本当は違う。みんながそれぞれ何かに苦しみながら日々を生きている。それを実感させられた夜だった。

 季節は巡って、コートを羽織る必要がなくなり、身軽になった。何もかもが「身軽」になったかどうかは非常に疑わしい。

 僕は高校3年生になっていた。

 高校3年生といえば大学受験だ。これは動かしがたい事実だ。

 4月も後半に差し掛かり、高校1年生や高校2年生のときとクラスの雰囲気が異なることに気づいた。授業中が異様なまでに静かだ。

 高校2年生のときに同じクラスだった佐々木までもが真面目に机に向かっている。高校2年生のときの彼はそもそも授業中に教科書やノートを出しているのを見た試しがない。

 僕はそんな彼を見て、決して微笑ましいとは思わない。もちろん彼にも大学受験への意気込みはあるだろうし、その努力は認めるべきだろう。でも、彼が周囲にかけた迷惑はなかったことにはならないだろうと思う。

 正直なところ僕には関係のない話だ。彼がどう変わったかには興味がない。でも、4月からの1ゕ月間を過ごしてみて、少なからず違和感を覚えた。

 どうして皆、スタートラインが同じなのだろう。もちろん受験というのはゴールの時期が決まっているから、今の時期から本格的に勉強を始めないと間に合わない。でも、それにしたってどうしてこんなにも何もかもが横並びなのだろう。

 スタートラインに立った全国の高校3年生が「もうそろそろ行く?そうだな、もう行かないとマズいから行こうぜ」とお互い目配せをし合って、なだれ込むように走り出す。そんな様子を僕は冷めた目で見つめていた。

 こんなことを思いながらも、立往生する僕は後ろから走り抜けようとする人たちに押しやられながらスタートを切った。矛盾した思いを悶々と抱えながら。

 自転車を漕いでいると、吹き抜けていく風が心地よい。1年で過ごしやすい季節は春と秋だけだ。夏も冬も日々生きることに試練を課されているような気がして昔から嫌いだった。

 家に帰り着くと、珍しく父親が帰ってきていた。

「珍しく早いね」冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出しながら訊いた。

「うん、たまにはね」

 父親もちょうど帰宅したところのようだ。ソファーに座って夕方のニュース番組を見ている。不正献金疑惑で政権でも要職を務める政治家が会見を開いている様子がテレビには映し出されていた。ネクタイを緩めながら、僕に話しかけてきた。

「受験勉強は捗ってる?」

「まあ、始めたばっかだからね」椅子に腰かけながら応じた。

 僕と父親はあまり多く言葉は交わさない。仲が悪いというわけではなく、単純に話すことがあまりないだけだ。なんとなく受験勉強のことを訊かれるのも嫌だった。

 僕は話題を変えるようにテレビ画面に目をやった。

「この人って絶対悪いことやってるよね?」

「おそらくやってるだろうね」

「でも政治家っていつも言い逃れして、それが罷り通って、でいつの間にかその問題って誰も口にしなくなって消えていくけど、それでいいの?ずるくない?」

「良くはない。良くはないけど、人って誰しも何かを抱えながら生きていて、自分のことで精一杯だからね。だから、ある意味自分とは関係のない物事に対してずっと執着していられない。自然にその事は考えなくなる。政治家は、人は忘れていく生き物だってことを無意識に分かっているから、沈静化するのを待ってるんだよ」

「人は忘れていく生き物……」

「そう、みんな忘れていく」

「やっぱりずるいよ」父親の目をじっと見た。

 父親は立ち上がり、洗面所に向かいながら、「ずるくないとやってられないんだよ、彼らは」と言った。

 父親が廊下の方に消えて行った後、父親の言葉を反芻した。人は忘れていく生き物。嫌な出来事だけ忘れられたらいいけれど、現実は上手くいかない。長い間掃除されずにずっと残ってしまった汚れのように脳裏に嫌な出来事がこびりついている。楽しかった思い出すら忘れてしまうこともある。

 5月に入り、僕は予備校に通い始めた。

 学校が終わり、一度家に戻って、母親が作ってくれた弁当を持って予備校に向かう。そんな生活が始まった。

 予備校に通い始めてまず驚いたのが風変りな先生が多いということだ。その中でも一番驚いたのが数学の大村先生だった。

 授業初日、大村先生が教室に入って来たとき僕は目を疑った。

 廊下をコツンコツンという小気味の良い音がする。ガラガラとドアを引いて現れたのは仙人だった。じっと見つめると陶芸家のような恰好をした人間だということがやっとわかった。黒くてもじゃもじゃの髪を後ろで束ね、口には真っ黒な髭を蓄えたおじさんだった。紺色の甚平に下駄を履いていた。廊下で小気味良く聞こえた音はこの下駄の音だった。生徒は一様にぽかんと口を開けたままだった。

「数学を担当している大村と言います。よろしくお願いいたします」

 彼は独特な語り口で手短に自己紹介をした。彼の声はそんなに大きな声ではないのに教室中にふわっと広がっていった。

 いざ授業が始まると、彼の授業はとても分かりやすかった。授業が終わる頃には彼のことが好きになっていた。

 6月に入ると、外はじめじめとした空気で覆われ、しとしとと雨が降り続いていた。

 僕は毎年のようにこの時期は体調を崩していた。特にどこが悪いということはなく、なんとなく体がだるくかった。勉強も思うように進まなかった。学校と予備校がない日に家でのんびりしていると、母親から「あんた、勉強は?」と口うるさく言われるのにもいい加減、嫌気が差していた。

 この日も僕は家でのんびりとしていた。

 音楽ニュースサイトを見ていると、【×××】の新曲リリースツアーのファイナル公演の記事が掲載されていた。その結びには、バンドの公式ホームページでツアーファイナル公演の中からライブ映像が見られると書かれていた。日付を見ると、今日の12時からとなっていた。

 12時になり、リビングに置いてあるパソコンを起動した。今日、母親は朝から買い物に出かけており、勉強していないことを口うるさく咎める人はいなかった。

 再生ボタンを押すと、薄暗い会場が映し出された。会場はあまり大きくはないようだ。そう思ったのも束の間、メンバー3人に光が照らされ、演奏が始まった。

 音を奏で、歌う彼らの姿を初めて見た瞬間だった。

 公開されたのは3曲だった。そのうちの1曲が滝口さんのラジオを初めて聴いたときに流れた曲だった。伸びやかな滝口さんの歌声が小さな会場を満たしていた。滝口さんの伸びやかな歌声に反して表情は非常に乏しいように感じられた。滝口さんの鋭い視線と歌詞が画面を通じて刺さってくる。時折、観客の姿が映し出さる。僕には圧倒され、ただ呆然と立ち尽くしているように感じられた。僕も同じように圧倒されていた。呆然としていて、動画が終わっていることにすら気づかなかった。

 母親が帰ってくるまで、彼らが歌う姿を見続けた。途中まで回数を数えていたけれど、めんどくさくなって数えるのをやめた。

 梅雨が明け、季節は夏に差し掛かろうとしていた。

 じめじめとした空気は過ぎ去り、体調は良くなった。でも、訪れたのは僕の嫌いな夏だった。自転車を漕いで学校に着く頃には背中がじわっと汗ばみ、不快だった。

 この日は夏休みに入る前の最後の実力テストだった。本格的な実力テストを始めて約3か月。どの程度の学力が身についたかを確認する良い機会だった。

 実力テストを終え、最初に感じたのは無力さにも似た感情だった。難問がまだ解けないのは仕方がないにしても、基礎学力が身についていたら解けるような問題も取りこぼしていた。

 翌日以降、実力テストが次々に返却されてきたが、もはや見るのも嫌になった。自分の無力さに向き合うのがどうしようもなく辛かった。

 夏休みに入り、学校と予備校の両方で保護者を交えての三者面談があったが、どちらも「今のままでは相当頑張らないと志望校は難しい」という通達だった。

 学校での三者面談の返り道、母親とどんな会話をしたのかまったく思い出せなかった。

 予備校に入り、1つ教わったことがある。それは漢文の青木先生の一言だった。

「受験勉強で一番大切なことはなんだと思う?」青木先生は一呼吸を置き、教室全体を見渡した。

「それはな、毎日夜12時に寝て、朝7時に起きる。これを365日繰り返すことだ。受験勉強の前日だけ早く寝ても意味がない。受験は1回勝負。だから、当日の1教科目から力を発揮できるようにするためには、1年かけて当日に脳がフル回転できるように準備をしておかないといけない」

 目から鱗だった。そんな考え方は僕では思いつくはずもなかった。それを聞いた日から僕は毎日それを実践した。ただ、滝口さんのラジオがある日だけは少しだけ夜ふかしをした。それだけが僕の唯一の楽しみだったからだ。

 学校での三者面談の日は滝口さんのラジオがあった。寝る準備を済ませ、タオルケットにくるまり、ラジオが始まるのを待った。クーラーで冷やされた扇風機の風が風呂上がりの体に心地良かった。

 滝口さんのラジオはオープニングとエンディングのみ曲をかけ、あとは彼が一人でひたすら話し続けるというスタイルだった。曲作りやライブの話が大半だったが、たまに彼自身の過去の話をすることがあった。今日がまさしくそうだった。

『ミュージシャンをやるって言ったら、色んな人に「応援してるよ」って言われたんですけどね、「いや、無理でしょ」って顔してたんですよ。たぶん本音は「いや、無理でしょ」だと思うんですよ。その時、生意気で不遜だった俺は「そんなこと、誰が決めたんだ」って心の中で思ったわけです』

 いやあ今思えば生意気だったなあと彼は笑った。

『でも、その当時の俺は言葉で言い返すことになんとなくみっともなさを感じていて、だから絶対実力で見返してやるって思ってましたね。言葉って難しいんですよ。諸刃の剣じゃないですか。もちろん言葉を尽くすことは大切なことだけど、当時の俺は言葉を尽くして相手を説得するという術を持っていませんでしたね。でも、今でも無理とか不可能って言葉は好きじゃないです。生意気だった当時の俺の「そんなこと、誰が決めたんだ」って感情は今でも大切にしてます』

 滝口さんは「そんなこと、無理だ、不可能だ」と言われても、そんなことは些末なことだとばかりにどこ吹く風でずっと自分自身と向き合い続け、音楽を生み出してきた、そう感じた。

 今のままでは志望校は難しいと言われたことが悔しかった。目に見えない線を引かれたような気がした。滝口さんはたとえ線を引かれても、線などなかったように飛び越えてしまう。あるいは線そのものを消してしまう。そんな風に感じた。

 無理なんて誰が決めたんだ。その言葉が脳裏から消えずにずっと残っていた。


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