Zoom

「こんにちは」

「おう、来たな」


 その声に顔を上げると、圭が珍しく無表情を崩し、疲れた顔をして秘書課に入って来た。


「疲れた顔をしてるな……。準備、そんなに大変か?」

「大変というより、お母さんたちに振り回されてしまって……」

「ああ……あのパワーは一体どこから来るんだか」

「ですよね……」


 準備ってなに、と思いつつも、コーヒーを淹れに立ち上がって給湯室に向かい、コーヒーを淹れる。秘書課内にいる全員分のコーヒーとカップなどを持って秘書課に戻ると、全員にコーヒーを配った。


「はい、在沢さん。じゃなくて、穂積さん」

「呼びにくかったら在沢で構いません」


 圭にそう言われたので、とりあえず在沢さんと呼ぶことにした。本当は「圭」と呼びたいけれど、多分まだ、そう呼ぶことを許してくれるとは思っていないから。


「室長、ドイツ語でわからない言葉があるんですけど、教えてください」


 わからないドイツ語があったため、室長にそう聞くと


「俺よりも圭のほうが得意だって言っただろ?」


 と言われてしまった。圭を見ると、びっくりした顔をしている。


「羽多野くん、ドイツ語を始めたんですか?」

「あと、スペイン語もだよな」

「独学で、ですけど」

「へえ……そうなんですか……」


 そう言った圭の目が、少しだけ優しく見えたのは気のせいだろうか。 眼鏡の奥のその目は、圭の言った通りオッドアイだった。



 『その事故で私は両手足複雑骨折と全身にガラス

  が刺さり、その手術で輸血が間に合わずに献血

  を募ったと聞きました。それに、生死の境を

  さ迷っていた、とも。

  結局私はその事故で全身傷だらけになり、目も

  虹彩が傷ついていまったらしくてオッドアイ

  になりました。』



 圭にもらったUSBの内容を思いだし、少し辛くなってしまう。それを隠して、圭に頼みごとをする。


「もし、時間があるなら、教えてください」

「時間はありますが……企画室に先に行って来てからでも構いませんか?」

「はい! それで構いません!」


 圭に教わるのが嬉しくて、思わず満面の笑顔を浮かべてしまい、室長に苦笑された。


「わかりました。それでは、のちほど。わからない箇所があるのであれば、それを纏めておいてください」

「はい!」


 圭は企画室へ行ってしまったため、僕は翻訳をしながらもわからない場所にはマーカーや文字に色を着けておいた。

 圭が戻って来たのは三十分後だった。


「お待たせしました。どこでしょうか?」

「ここなんですが、『太陽の光』で躓いてしまって…。『In der Sonne太陽の』と『Licht』で分けると、違和感があると言うか……」

「『Sonnenschein太陽の光』という単語もありますが……うーん……。羽多野くん、この文章の全文はなんでしょうか?」

「『太陽の光にあてると、より一層輝く』です」

「それでしたら、『Und werfen das Licht der Sonne, die mehr.』ですが、より丁寧にするのであれば、『太陽の光にあてますと、より一層輝きを増します。』のほうがいいかも知れません」

「なるほど……」


 圭に綴りを教えてもらいながら、言われた言葉を文章にして行く。圭の教え方は本当にわかりやすい。その後もなんだかんだとドイツ語の発音や綴りを教えてもらいながら、圭のスマホに電話がかかって来るまで、付きっきりで教えてくれた。

 その帰り際。


「……羽多野くん、これを」


 渡されたのは、先輩たちにも渡されていた、白い封筒。表には僕の名前。裏には……。


「え……?」

「時間が……都合が合えば、来ていただきたいんです。その……同僚として」

「あ……」


 その言葉にびっくりして固まる。


「それでは、私は行きますね。室長、長々と失礼いたしました」

「おう。今週末は家に来るか?」

「泪さんと行きますね」

「わかった。じゃあな」


 僕が何かを言う前に、圭は失礼しますと言って帰ってしまった。手元に残ったのは、圭と穂積専務の名前が書かれた、二人の結婚式の招待状。

 信じられなかった。


(僕がもらってもいいの……? 行ってもいいの……?)


 それに、『同僚』という言葉。

 嬉しかった。同僚という言葉も、結婚式の招待状も。まさか、招待状をもらえるとは思ってなかったから。

 室長を見ると、手を握って親指を立て、『グー!』と言うサインと共に、ドイツ語で『Das war gut』と言われた。端からみれば、室長のOKサインに見える。でも。


 『よかったな』。室長は僕たちの確執を知らないはずなのに、ドイツ語でそう言ってくれた。それだけで、涙が出そうになる。



 ――今度、室長に何もかも話そう。僕がしたことも、両親がしたことも。



 招待状の封を開けてハガキを取り出す。『出席』に丸を付けながら、準備ってそういうことかと納得し、帰る途中にあるポストにそのハガキを投函した。


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