Classic

 散々抱かれた翌日。

 気怠い身体を横たえてソファーで転寝していると、泪が封筒を持って現れた。起き上がろうとすると「そのままでいいわ」と言われて膝枕をされたのだけれど、それがなんだが恥ずかしい。


「どうしたの?」

「父さんから、あの書類が届いたわ」

「あの書類?」

「婚姻届」

「え……」


 驚いて泪の顔を見上げる。その顔はどこか嬉しそうだった。


「両家のお墨付きももらったし、あとはアタシたちの署名だけよ。どうする?」

「どうする、って……。泪さんは……?」

「アタシ? アタシは今すぐでもいいわよ?」

「今すぐ、って……」

「……アタシと結婚するのはイヤ?」

「嫌じゃない! 嫌じゃないけど……」


 そう、嫌じゃない。心のどこかで、今すぐでもいいと思う私がいる。けれど……。


「不安?」

「……っ!」


 泪に指摘されて、肩が跳ねる。そう、不安なのだ。嫌われたら、また捨てられたら……と不安なのだ。それに、もしも『後継者に相応しくない』って言われたら……? と思うとズキリと胸が痛む。


「全く……何度お圭ちゃんだけって言ったらわかるのかしらね、アンタは」


 泪は、はあっと溜息をついたあと、頭を優しく撫でられた。


「傷が残るほど、どんだけひどい仕打ちをしたの? アンタの産みの親とあの弟は」

「……」

「でもね、そんな親ばかりじゃないのよ? お圭ちゃんもそれはわかるでしょう?」

「……うん」


 泪の言葉に頷く。それはわかる。在沢夫妻りょうしんもその姉弟も、私にいろいろなことを教えてくれた。そして、ほぼ初対面のはずの穂積家の人々も。


「それに、もしかしたら、できてるかも知れないでしょ?」

「何が?」

「赤ちゃん」


 全然避妊してないしねぇと言ってお腹を触るけれど、それは慈しむように触っているのでいやらしさは感じない。そんなことをされたら……頬が熱い。


「赤、ちゃん……」

「できてたら嬉しいわね。まあ、書類を出すのはそれからでもいいけど。それにね、父さんが『いずれは一緒に住みたい。圭を甘やかしたい』って言ってるのよ」

「え……?」

「しかも、自分の後継者を差し置いて」


 社長義父がそんなことを言ったの? それに……後継者という言葉。


「後継者……って、泪さんじゃないの?!」

「違うわよ? あら……もしかして、それも不安だった?」

「…………」


 会社の社長は瑠香だけれど、後継者は泪だと思っていた。だからあんぐりと口を開けて泪を見上げると、「詳しくは今度話してあげる」と唇にキスを落とされた。


「アタシは後継者じゃないわ。だから安心してお嫁に来て?」

「泪さん……」


 不安が消えたわけではないけれど、離れたくないという思いが勝った。小さく頷くと泪は嬉しそうな顔をして私を抱き起こしてギュッと抱きしめ、「絶対に幸せにするから」と耳元で囁いた。

 「私も……」と小さく呟いて抱きしめ、しばらくそのまま抱きしめ合った。そのあとは二人で婚姻届に名前を書き込み、一旦封筒にしまう。


「善は急げって言うし、今から役所に行く?」

「え? でも開いてないんじゃ……」

「婚姻届は二十四時間、三百六十五日、受け付けてるわよ? 行く?」

「……行く」


 にっこり笑った泪が手を差し出し、それに自分の手を乗せた時だった。玄関からチャイムが鳴り響く。


「正月早々誰よ……」


 不機嫌を隠すこともなくインターホンに出た泪は、驚いた顔で玄関の鍵を外してドアを開けると、そこには瑠香と前嶋が立っていた。


「明けましておめでとう!」

「おめでとうございます」


 二人に笑顔でそう言われるけれど、前嶋の笑顔を見て、あれ? と思う。しばらくそのまま考えていたのだけれど、「上がって」と言った泪の言葉に我に返り、慌ててキッチンへ行ってコーヒーの用意をしていると、瑠香が話しかけて来た。


「お圭ちゃんにお礼を言いに来たの」

「お礼……ですか?」

「そう、お礼」


 わけがわからない。私がお礼を言うことはあっても、瑠香にお礼を言われるようなことはしてないはずだ。それが顔に出ていたのだろう。


「わからなくてもいいの。とにかくお礼が言いたかっただけ。ありがとう」


 そう言った瑠香に、よくわからないながらも返事をすると、今度は前嶋から「おめでとう」と言われた。


「泪さんと結婚するんだろう?」

「はい」

「……うん、いい笑顔だ。幸せそうで良かった」

「え……?」


 訝しげに思って顔を上げると、優しげな顔をした前嶋の笑顔とぶつかる。


(あれ……? あの笑顔……)


 知ってる。どこかで見たことある。


 でも、いつ? どこで?


 わからなくて、前嶋の顔をじっと見ていると、ふと『おじさんはひどいなぁ……』と苦笑した刑事の言葉と顔を思い出した。

 その刑事と前嶋が重なる。


『俺も協力したから、君の中には俺の血も入ってる』

『じゃあ、私のあしながおじさんだね』

『おじさんはひどいなぁ……。せめてお兄ちゃんと呼んでくれよ……』


「あ……」

「圭?」


 泪の問いかけをスルーして、入院中の出来事を思い返す。

 おじさんと言われて苦笑した、若い刑事さん。


『そういや俺と同じ字を書くんだよな』

『何が?』

『名前。だから、お兄ちゃんと呼べ』

『……何それ』


 胸を張って、ニヤリと笑った刑事の顔。


圭輔けいすけ……お兄ちゃん……?」 

「圭?」


 ポツリと呟いた私の言葉に、泪の戸惑った声がする。


「事故の怪我で入院してた時、『刑事の圭輔だから、俺を見たらするんだぞ』って冗談を言いながら敬礼してた警察官がいたの」

「……」


 驚いた顔の泪と苦笑した顔の瑠香が驚いた顔に変えて一斉に前嶋を見る。


「あの時笑いたかったけど、もう笑うことができなくなってて……っ」


 前嶋がソファーから立ち上がり、こちらに歩いて来るのが見える。


「大人の男性に優しくされたのは初めてだったから、どうしていいのかわからなかったけど、でも嬉しかっ……ふぇっ……お礼も言えなかった……」

「……俺を見たらどうするんだっけ?」

「こう……するんだよね……っ」


 涙で霞む目を前嶋に向け、右手を上げて指を揃えると、指先をこめかみのあたりに当てて敬礼をする。


「よくできました」


 そう言って頭を撫でたあとで、優しく抱きしめられた。


「退院する時、お礼……言いたかったんだよ?」

「うん」

「元気になったよ、って……っ」

「うん」


 あの時はありがとうと言って、しばらく前嶋に抱き付いて泣いた。


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