雪国

 休憩後。

 文書作成をしながらの電話応対だと両手が使えないうえに、新入社員が電話の音にいちいち反応して集中力が切れそうになるため、社内携帯にかけるようにお願いし、バイブも消音にして片耳にワイヤレスイヤホンをする。

 通常はイヤホンをしないのだけれど、時間が差し迫っていたために敢えてイヤホンをし、両手を使えるようにしていた。

 メモを見ながら、できるだけ静かにキーを叩いて文書を作っていると、周が遠慮がちに声をかけて来た。


「圭、話しかけて大丈夫か?」

「大丈夫ですよ。何かありましたか?」


 文章を一旦保存してから手を休めて答える。


「電話応対なんだが……」

「どのような場面を想定していますか?」

「場面というより、『了解』という言葉だな」

「手を動かしながらでいいですか? ……そうですね……秘書という立場から言わせていただければ『畏まりました』『承知いたしました』、或いは『承りました』と言っていただきたいんですけどね」


 周の許可がおりたので、静かにキーを叩く音をさせながら手を動かす。


「ただ、秘書につく方の性格にもよると思いますが、自社内であれば年の近い、仲の良い先輩や同僚、同期なら了解でも構わないかと思います。ですが、クライアントや上司、目上の方には向かない言葉です。どうしても『畏まりました』『承知しました』や『承りました』が言いにくいのであれば、『わかりました』でも構わないかと思います。ですが、注意されたならば、できるだけ直すよう努力してください」

「だそうだ。日比野、今のでいいか?」

「はい! ありがとうございます」


 話ながらも入力し終わったので一旦保存をし、USBに落とす。


「もう終わったのか?!」

「とりあえずは。一旦在沢室長に見ていただかないといけませんが」

「速っ! まだ四時すぎだよ? 時間まで間があるじゃん」


 言葉遣い、と周にたしなめられた葎は、すみません、と謝った。


「確かに時間は十七時と言われていますが、もし添削もせずにこのまま提出して、間違いがあったらどうしますか?」

「え?」


 溜息をついて「たとえば」と話しはじめる。


「石川室長が、私に『これを清書してくれ』と手書きのメモや資料を渡したとします。メモですから、当然読みづらい文字、或いは思い込みによる誤字もありますし、清書段階に於いても、どんなに気をつけていても誤字・脱字はあります」


 うんうん、と新人たちは首を縦に振る。


「ましてや日本語は、異口同音の言葉がたくさんありますよね? 営業チームはわかると思いますが、海外のクライアントに対して英文の文書を渡さなければなりません。たとえば『はし』。メモには平仮名で『はし』と書かれていて、実際は『chopstickチョップスティック』……箸なのに、何も考えずに『bridgeブリッジ』……橋と書いたとします。添削もせずにクライアントに渡した結果、その商談はうまく行かなかったらどうしますか? 責任がとれますか?」


 私の話す内容に企画室に抜擢された周や智は身に覚えがあるのか、苦笑している。


「どんなに優秀な方でも、人間である以上ミスはあります。同じ目ではなく、別の目で見れば間違いを探しやすくなります。そのためにチェックをする、或いはしてもらう必要があるのです。チェックをしてもらうためには時間が必要です。もちろん間違いの箇所を直すのも。ですので、秘書課に限らず、文書作成時は必ず誰かに添削してもらう時間を作ってもらってください。秘書課のお二人は特に気をつけてください。秘書についた方によっては、いろいろな文書作成をお願いして来ますから」

「「はい」」


 話し終えるとノートからUSBを抜き、席を立つ。


「秘書課に行って来ます。他に何かありますか?」


 そう問うと、智がUSBを手渡して来た。


「在沢室長のあとで構わない。この中身を文書にしといてくれ。できれば今日、遅くとも明日中に。指示はこの中に入ってる。わからなければ質問してくれ」

「畏まりました」


 失礼しますと言って会議室をあとにし、秘書課に戻る。

 在沢室長にUSBの中身をみてもらい、指摘された間違い箇所をその場で直して保存し、USBをそのまま渡す。


「お待たせ致しました。これで大丈夫でしょうか?」


 在沢室長は自身のパソコンにUSBを差し込んでデータを呼び出すと、ざっと読んでから「大丈夫だ」と頷いた。


「すまん、助かった!」

「いいえ。それでは、会議室に戻ります」

「ん」


 在沢室長がこういう返事をする時は、既に仕事に没頭している証拠だ。邪魔しないようそっと席を離れて会議室に戻ると、ちょうど終わったのか周の「また明日」と言う声がした。

 ノートパソコンに近づき、周囲を片付ける。


「圭、話がある」


 そう言われて振り向くと、周、智、真葵が立っていた。


(ああ……やっぱり誤魔化せなかったか……)


 そんな思いは胸にしまい、わざと周たちの後ろを気にしながら「打ち合わせですか?」と聞くと「ああ」と言われた。ノートパソコンの電源を落とすと一旦持ち上げ、会議室の出口に向かって歩き始める。


「どこでやるのですか?」

「企画室の小会議室で」

「……智さんに頼まれた仕事をしながらでもかまいませんか?」

「「「コーヒー付きなら」」」


 イイ笑顔でそう言った三人を見て溜息を呑み込む。


「わかりました。これを秘書課に返して来たら、小会議室に行きます。お疲れ様でした」


 出口でそう伝えると、周に「早く来いよ」と言われ、三人は企画室に向かった。秘書課は逆方向にあるので、くるりと身体を回転させたところで誰かが近寄って来た。


「俺も……話が……質問があるんだけど……」


 周たちが居なくなるのを待っていたかのように、葎が話しかけて来た。


「申し訳ありません。これから打ち合わせがありますので、別の日にしていただけますか?」


 そう返すと、キュッと葎が唇を噛む。葎は静かに「……わかった」と踵を返し、同期の輪の中に戻って行った。


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