色変わり

春代ゆゆ

映る君は


「あっ」

 良く晴れた空だなーと思いながら歩いていたら躓いて、パンプスが脱げたので慌てて振り返る。こういうことを、今日で三回は繰り返している。

 疲れているんだろうなと思いながらパンプスを回収して履き直すと、再び空を見上げてみた。

「(雲の流れ、早いな……)」

 近いうちに台風が来るとか来ないとか、ニュースで言っていたような気もするけど、如何せんテレビはなんとなくつけているだけなので何もわからない。


 帰ろう、と思ったのはそのままそこで5分ほど空をみつめたあとだった。大きな雲が視界から消え、気付けば飛行機雲が空を走っている。飛行機なんて、いつの間に通ったのだろう。

 と。

「なにしてんの」

 聞き慣れた声が鼓膜を叩いたので、ほとんど反射的にそちらを向いた。

「……カナくん」

 そこにいたのは友人の弟で4つ年下の木下きした 奏人かなと

 黒髪の癖毛は昔と変わらず、背だけが良く伸びていた。声は数年前に変わり、20歳ともなればこんなにも大人っぽい雰囲気を纏うようになるものかと妙に感心してしまう。

「カナくんこそ。大学は?」

 今の時刻は14時ちょっと過ぎ。カナくんは寝坊が多いから、大学の講義はほとんど午後に入れているんだと、おばさんが笑っていたような気がするけれど。

「自主休講」

「悪い子~」

 からかえば「うっせ」と乱暴な言葉が大人びた声で返ってくる。いいなぁ、4つ下。いいなぁ、大学生。いいなぁ、20歳の、新品のような感覚。


「それよりゆいさんは何してんの? 仕事は?」

 目ざとい子である。「休みだよ」とさりげなく嘘を吐くには、ばっちり着込んだ会社用の服が邪魔。実際は休みなのに会社の最寄り駅まで行ってしまったからその辺で買い物をした帰りなのだけど、そのまま言ったのでは馬鹿にされるだろう。黙って考え込む。ちょっと困らせたい。

「…………なんだと思う?」

 代わりに聞きかえしてみた。「ん?」と首をかしげるのは昔と変わらず、カナくんっぽいなと思いながらニコニコしてみる。わー、困ってる悩んでる!

 「……まさか」カナくんはそれから2、3分考えたあと、気まずそうにもじもじして。「え、これって聞いていいの?」


「結さん、仕事辞めた?」


 困ったように眉を寄せ、どうか答えが違うようにと願っているのがよくわかる、まだ幼さの残る表情で私を見るカナくん。目が合うと、やっぱり気まずそうに目を逸らす。それからそうしたことを後悔したようにまた私を見て。

「結さん?」

 可愛らしく首をかしげるのだ。早く答えを言ってよ、と言うかのように。

「あっは、バレちゃったかー。美里みさととか、うちの家族には言わないでよね!」

 だから私は精一杯明るく振る舞ってそう言ってみる。するとカナくんはそれはもう一瞬で記憶障害にでもなったかのように言葉を失い、ぽかんとその場に立ち尽くしてしまった。悪いことをしたみたいだ。

「結さん嘘が下手だよ。そんな、ばっちり仕事の服着て辞めたなんて言われても……」

「今日、辞めてきたんだよ」

「……そう、なんだ」

 軽い冗談のつもりが、ついウソに嘘を重ねてしまう悪い私。カナくんはもうすっかり何も言えない状態になり、困ったように眉を寄せたまま私を見たり逸らしたり私を見たりしている。

「…………元気、出してよ」

「ありがとう」

「俺、何なら毎日遊びに行くし」

「それはカナくんが大学に行けないからダメ」

 若い子らしい励ましの言葉を貰い、来年には25歳になる私はただ曖昧な笑みだけ見せて「じゃあ、またね」なんて手を振りつつ踵を返した。すぐにでも嘘だと言いたかったけれど、カナくんは想像以上に動揺しているようだったので、放置決定。


 ◇◇◇


「結さん」

 それからというもの、カナくんは度々私のところへ遊びにやってきた。時刻は私が定時で上がれば間に合うくらいの18時過ぎで、大学がちょうどそのあたりで終わるのだろう、軽そうなリュックを背負っていることが多かった。


「カナくん、また来たの?」

「結さん、暇してるだろうと思って」

 実家からそう遠くはないけど、なんとなく一人で暮らしてみたくて一人暮らしのアパートを借りている私。カナくんは私が仕事を辞めたことを家族に隠していると思い込んでいるので、実家には寄り付かない。うっかり喋ってしまうことが怖いらしい。

 と。ふとカナくんが声を上げた。「あ」

「ん?」

「結さんもうご飯食べた?」

 意味不明な質問を繰り出し私の腕をガッと掴んだカナくん。瞳はいつになく輝き、私の返事を信じて疑っていないように「食べてないよね」と続けた。

「食べてないけど……、どうしたのカナくん」

「俺も食べてない。一緒に食べに行こ」

 掴んだ腕の痛さが気持ちの強さなのだろう、若いってすごい。驚きながらも小さく頷き、「別にいいよ」と呟くように告げる。「よかった」という声は、やっぱりいつもより心なしか嬉しそうだと思った。

「結さんどこ行く? 何食べたい?」

「カナくん珍しく元気だね」

 私の手を引いたカナくんは、着替える時間もくれずに私を連れだしたのだけど。

「(まさか居酒屋系とは……)」

 繋がれた手はこの際知らないふりをすることにして、私はただ黙って俯いていた。もしかしたら同僚が飲み歩いているかもしれない。明日は土曜日だし。

「結さんもしかして、居酒屋系は嫌いだった?」

「あ、いや、そういうんじゃないよ、大丈夫。お店も、カナくんが適当に選んでいいから」

 会えば必ず、職を失っていないことをカナくんに知られてしまう。それはなんだか、寂しかった。


 だってもう、こんなふうに連れ出してくれなくなってしまう。


「……いさん? 結さん?」

「…っ、はい!」

 呼ばれてハッと顔をあげる。ほとんど無表情だけど不思議そうなカナくんの瞳が私を見るので、何だか恥ずかしくてパッと逸らしてしまった。「お店決まった?」

「色々悩んだけど、やっぱり定番が一番と思って」

「好き嫌いないし、別に良かったのに」

 笑めば今度はカナくんが目を逸らす番だった。若干赤く見えたのは、店の灯りが反射しているから? ニヤニヤとほどけてくる頬をそのままにして「入ろ?」と声をかけ促した。

「……結さんは何度も、こういうところに来てるんでしょ」

「どうしたの、急に」

 店に入りカウンター席に着くと、カナくんがふと呟いた。何を言い出したかと思いそちらを向くが、カナくんは黙ってメニューをみつめている。

「俺より4つも上でしょ。俺よりその、色んな経験が豊富なんだろうなと思って」

「"色んな"ってなあに、セクハラ?」

 こんなにも騒がしいのに、私たちの周りだけは妙に暗く感じてしまう。それが嫌で、空気を変えようとそう言えば、カナくんはやっと少しだけ笑った。

「結さんもそういうことを言うんだね」

「私だってもう、立派な大人だもん」


 ◇◇◇


「……結さん、遅かったね」

 カナくんが私の部屋の前で蹲っていたのは、一緒に飲みに行くことが増え始め、もうじき冬になるという頃だった。顔をあげたカナくんの双眸に前髪がかかっているのを見て初めて、髪が伸びたことに気がつく。

「何してるの?」

 仕事が残業だったとは、自分がついた嘘が邪魔で素直に言い訳も出来ない。だからまた空気を変えようと明るい声を出して問いかける。けれどカナくんは表情一つ変えずに「待ってた」という。

「いつもみたいに連絡くれればよかったのに。飲みにいく? でも私、ちょっと食べてきちゃったよ」

「……結さん」

「ん? あっ、寒いでしょ。話は中で聞くし、とりあえず入って入って」

 いつもと全然違うカナくんが怖くて、自然と話すテンポが速くなる。名前を呼ばれてもきちんと反応できない。

 それに気付かれるのが怖くて、仕事で培った愛想笑いをフルに使いながら座り込んでいるカナくんの腕に手をかけた。「ほら、立って?」

「うん……」

 カナくんはやっぱり低いテンションのまま、私の声に従って立ち上がり、私に続き部屋に入った。お行儀よく靴を脱ぎ、リビングのソファーに座る。ココアか珈琲か迷って結局ココアを出すと、やっとちょっと頬を緩めた。


「それで?」

 ココアを半分ほど飲んだことを確認してそう訊くと、カナくんはまたその瞳から色を消してしまった。昔から、言いたくないことがあるときのカナくんの目は何も悟られまいと色を消すことが多い。

 今回も、私に極力言いたくないことなのだろう。

「……カナくん?」

 それでも気になるもんは気になる。催促するように名前を呼べば、カナくんは不服そうに唇を尖らせた。もう一度、今度は諭すように名前を呼ぶ。「カナくん」

「……俺が訊くことに、結さん、嘘つかない?」

「えっ?」

 嘘をつかないか。カナくんは今、そう訊いた? あまりに意外だったので、ぽかんと固まり、頭の中で何度か繰り返す──私が嘘を吐くようなことを訊くつもりなの?

「……つくつもりは、ないよ?」

 下手なことを言えばきっと、カナくんは黙りこくったままだろう。断定的な言い方を避けそう言えば、カナくんは顔をあげた。

「じゃあ、訊くね」

 カナくんの声は固くなっている。瞳は不安と苛立ちが混ざったような色合いになっていた。怖いことを言うのだろうか、と妙に身構えてしまう。


「結さん、仕事辞めてないでしょ」


 ベランダで背中を押された気分だった。隠そうと思う前に目を見開いてしまっていて、私はそれを肯定していた。カナくんの瞳から、怒りが消えていくのがみえる。代わりに浮かんだのは、紛れもない悲しさだった。

「どうして、嘘なんてついたの?」

「……ごめん」

「騙されてる俺を見てるの、楽しかった?」

「…そんな、こと…………」

 ない、と言い切れない自分が恥ずかしくて情けない。確かに最初はそれでからかって遊んでるのが楽しかったけれど、最近は普通に楽しかった。

 カナくんと過ごす時間が幸せで、とても楽しくて、失くしたくなかった。それなのに、今の私が招いた結末はどうだ。

「俺と楽しんでくれてると思ってたのは、俺の勘違いで、結さんはただ、そんな俺を馬鹿にしてたんでしょ? 若いって、心の中で馬鹿にして、友達の弟の面倒を見ているだけだった?」

「そんなことっ……」

 ない、と。どうして言い切れないんだろう。自分でも不思議な気持ちになりながら、ただただ首を左右に振り続ける。違う、カナくんを侮辱するつもりは一ミリだってない。


「もう、結さんのところに来るの、やめるね」


 ドアが閉まる。それを止めることなど私には、出来ない。


 ◇◇◇


「……結さん、久しぶり」

 カナくんが私の家の前に現れたのは、あれから二週間後のことだった。あの日と同じく残業をして帰ってきた私は驚き、二度三度ぱちぱちと瞬きを繰り返す。「なんで……?」

「姉ちゃんに、きちんと話してこいって怒られたから……」

「……美里が…」

 もごもごと気まずそうに言う姿は、初めて会った中学二年生のころのカナくんと同じだった。挨拶はするのに笑顔もなく視線も合わせず、恥ずかしさで首まで真っ赤だった、あの頃と。

「私もカナくんと、話をしたいって思ってたよ」

「……部屋、上がっていい?」

 鍵を開けながらそう言えば、カナくんは固い声でそう問うた。無言で頷けばお行儀よく靴を脱いで揃える。リビングのソファーに座ったところを確認し、今度は訊いた。「珈琲とココア、どっちがいい?」

「……珈琲で」

「飲めるようになったの? 知らなかった」

 二つ分の珈琲をテーブルに置き、あのときとは違って、私はソファーには座らずその下に座った。一人でいるときはいつもこの場所だ。カナくんは一瞬だけ驚いたように目を見開いたけれど、私はそれを気に留めなかった。


「私の話から、してもいいかな」

 沈黙は1分にも感じたし、1時間にも感じられた。静かな声でそう呟くように訊けば、カナくんは無言で頷く。

「カナくんには、悪いことをしたなって、思ってるの」

 騙したこと、からかったこと、カナくんを傷つけてしまった、こと。

「でもね、カナくんが言うように、弟の面倒を見ているような気持ちになったことは、一度もないんだよ」

「……え…」

「むしろ、私が面倒を見てもらってるような気分だった。どこに行っても楽しくて、何食べても美味しくて、カナくんは魔法使いかと思った」


 自然と笑顔になってしまう。久々に寄った安い居酒屋の焼き鳥は昔食べたよりもずっと美味しかったし、帰り道に必ず寄る駅前の季節によって変わるイルミネーションなんてしっかり見たのは初めてだった。

 休みの日に連れ出してくれた近くの公園に咲く園芸品種か雑草かもわからない花も驚くほど綺麗だったし、そのそばにあるファミレスのパフェも、スーパーで安売りしていた総菜だって、カナくんと食べれば馬鹿みたいに美味しかった。


「……カナくんは、ずっと廃れてた私に色をくれたの」

「…、……」

「私にとってあの時間は、唯一の癒しで──」

「結さん、」

 止まらない私の声を遮ったのは、弱々しいカナくんの声だった。でもはっきりと私の名前を呼んだから、言葉をとめて彼の顔を見る。4つ下の、まだ少し幼いその顔を。そっと、でもじっと。


「好きです。そんな結さんが、俺は好き」


 じっと見た顔の中、色の無かった瞳には溢れんばかりの色があった。私の下手くそな言葉が伝わった証拠なんだって、誰に言われたわけでもないけど気づく。

 ふらふらと安定しない言葉の代わりに、嗚呼、「目は口程に物を言う」なんて、考えたのは、気づいたのはどこの偉人ですか、天才ですか。頭の中がごちゃごちゃになる。

 でも。


「私も、カナくんが好きだよ」


 気持ちなんてものは、考えなくたって声になる。言葉にできる。目に、その瞳に映すことが出来る。


 ◇◇◇


「結ちゃん、遅かったね」

「ごめん、残業だった」

 会社の前には妙にお洒落な時計があって、その時計が差す時刻は20時ちょっとすぎ。隣に並ぶカナくんは眠そうに欠伸をこぼしていた。

「今日はどこか寄らずに家で食べる? 何か作るよ」

 4つ上の大人らしく、さりげなくカナくんの手を取ってそう言うと、カナくんは一瞬だけ肩を揺らしたあとに私の額に軽い口づけを落とす。ちくしょう、若いな。

「……ん。結ちゃんの手料理、結構好き」

「この間は味が薄いって怒ってたくせに、調子いいんだから」

 私の家まではまだもう少し距離がある。けど、カナくんとならきっとあっという間で、そしてきっと少しだけいつもより楽しい。


 今夜はかなり冷えるから、もっとくっついて歩こうか。



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