初速と終速

鹿苑寺と慈照寺

初速と終速

 最近、平成最後の夏という言葉をやたらと目にするし、耳にする。

 だからなんと言うのだろう。ツイッターには平成最後の夏なんていうハッシュタグが並ぶ始末だ。


「平成最後の夏には絶対彼氏を作るぞ」「平成最後の花火大会はいい思い出に」「平成最後の夏ってエモいよね」などの言葉が次々に網膜に焼き付いては消えていく。


 おそらく地球は滅亡しないだろう。来年も再来年もこの先もずっと多少の気候変動を伴いながら存在し続けるだろう。来年も再来年も夏は来る。


 たかが平成という時代が終わるからといって、何が特別と言うのだろう。生まれたときから平成という時代は当然のように居座っていて、とうとういなくなる。ただそれだけ のことだ。感傷に浸ることもない。


 今年も変わらず夏がやってきた。殺人的な暑さに顔を顰める季節。駅から会社までが遠い。


 出社が少し早かったせいでオフィスは冷え切っていない。冷え切っていないオフィスなどありえない。


「おはようございます」笑顔を張りつかせてそう言った。表情が不自然ではないだろうか、それだけが心配だった。「おはようございます」と声をかけてきたのは後輩の佐々木さんだった。佐々木さんとは席が隣だった。

「佐々木さん、早いね」席に座りながら言った。

「早めに来て仕事、進めようと思って」

「偉いね。今日、予定があるの?」

「そうなんですよお」

 佐々木さんはとても嬉しそうな表情をしている。無視するのは容易いけれど、これは訊いてあげた方がいいのだろう。職場という閉鎖された空間では何よりも人間関係が大切だ。これを失敗すると毎日毎日8時間も拷問を食らわされる羽目になる。

 佐々木さんのことは嫌いではないが、いやむしろ可愛がっている方だ。でも、彼女の妙に語尾を伸ばす話し方は苦手だった。そんな物思いは当然、胸にしまっておく。スタバで買ったフラチペーノはもうすでにぬるくなってしまっている。

「何?デート?」

「そうなんです。花火行くんですよお。」佐々木さんは顔がほころんでいる。

「ラブラブだねえ。付き合って何年だっけ?」

「1年です!」

「一番、いい時期じゃない。」

 足元にあるパソコンの電源を入れる。屈んだせいで長くなった前髪が垂れきた。もうそろそろ美容院に行かなきゃ、とふと思った。

「三浦さんは恋人とどっか行かないんですか?花火とか夏祭りとか?」佐々木さんは探るような目つきをこちらに向けてくる。

「恋人? いないよ、そんな人。第一、花火とか夏祭りって柄じゃないし。」

「ほんとですかあ? ひと夏の思い出。アバンチュール。一夜限りの関係。」どの言葉の語尾にも音符マークがつきそうな調子だ。

「アバンチュールって、それはもう死語だよ。それこそ平成も終わりだからね。」

「ほんとに三浦さんにお付き合いしてる人がいないなんて不思議。」

 佐々木さんは意味ありげな怪しい目線を寄越してくるので、「はい、はい、もう時間ですよ。」と席を立つことにした。

 もうそろそろ朝礼の時間だ。その前にトイレに行っておこうと思った。トイレはオフィスを出て、廊下を突き当りまで行った給湯室のところにある。手前が男子トイレ、奥が女子トイレだ。冷たいリノリウムの床にこつこつと音が響く。トイレのところまで行くと、黄色いプラスチック製の、清掃中と書かれた看板が置いてある。トイレはまた後にしよう。


 2分も経っていないが、すでに集中力は切れかかっている。

 朝礼で長々と何の得にもならない話をだらだらとする社長は、話の内容よりも全社員の前で演説をしている自分に酔っている。朝が苦手で低血圧なので、迷惑も甚だしい。

 どうやら大演説も終わったようだ。心の中でほっと息をつく。

 社長の演説を聞くともなしに聞きながら、昨日、関係を持った人とのことを思い出していた。居酒屋に入ったときからお互いにそのつもりだったと思う。だから、酒の勢いなんてことは言い訳にはならない。1、2、3と心の中で数える。覚えられるはずがないし、すぐにめんどくさくなってやめた。今までしてきたことが詳らかにならないか案じたときもあったが、当事者たちはほとんど辞めてしまっているから大丈夫だろうと高を括った。

 会社という組織の中で生きていくには、仕事がしっかりとこなせること以上に、結局のところ、どれだけ同僚と対立せずに良い関係性を保つかが重要だ。汚点が同僚の目に触れてしまっては会社には平気な顔では居られない。

 自分の名を呼ぶ声が聞こえる。ふと我に返ると朝礼は終わっていた。肩を叩かれて振り返ると、部長がいた。

「三浦さん、どうした?体調でも悪いのか?」

「いえ、大丈夫です。すみません。」

「今、ちょっといいか?」

「はい、なんでしょうか?」

「大したことではないんだけど、ちょっと来てくれる?」

 そう言うと部長は面談のときに使う小部屋へと案内した。

 座らずに待っていると、部長はどうぞと手で示した。

「今度ね、派遣の田中さんの契約の更新しようと思って面談したんだけど、向こうから断ってきてねえ。彼女、めちゃくちゃ頑張ってくれてるし、うちとしても継続して来てもらいたい人材だったからねえ。三浦さん、彼女の面倒よく見てくれてたから、何か知らないかなあと思って。」

 そう言うと部長は窺うようにこちらに視線を送った。あの件を部長は知らないはずだ。どういった意図だろう。

「そうですねえ、確かによく面倒は見てましたねえ。頑張ってましたし、契約更新すると思ってたので、驚きました。仕事も色々覚えてきて順調だと思ってましたが。」

 確かに仕事は順調だっただろう。あくまで仕事は。

「そうか」部長は釈然としない様子だ。

「すまんね。時間を取らせてしまって、もう行っていいぞ。」

「いえ、とんでもないです。では、失礼します。」

 小部屋を出ると、ふっと息をついた。廊下に出ようとすると、こつこつこつこつと慌ただしい足音がきこえる。廊下に出た瞬間、誰かとぶつかった。田中さんだった。

 田中さんは書類を拾いながら、すみませんと言おうとして押し黙り、下を向いた。

 足下に滑り落ちた書類を渡すと、田中さんはさっと受け取って足早に立ち去った。


 廊下の突き当たりまで行くと、清掃中の看板は消えていた。2つあるうちの手前のドアを開けてトイレに入ると、むわっとした不快な空気が全身を覆った。生きていても不愉快なことだらけであるのにトイレに入っても不快な思いをするのは腹立たしい。


 オフィスに戻ると朝礼を終えた社員がすでに仕事を始めていた。無能な部長のおかげで余計な時間を費やした。時間は有限だということを彼は理解しているのだろうか。席に着くと、佐々木さんは外出していた。昼まで戻ってこないらしい。


 今日は比較的に業務も落ち着いている。上手くいけば、定時で帰ることができるだろう。日が沈む頃になって無能な部長が難題を持ち寄っては来ない限り。

 今日は就業後に大事な予定がある。先ほどは無視されてしまったが、派遣の田中さんに餞別の品を送らねばならない。派遣社員が辞める際の恒例行事だ。

 オフィスの中は冷え切っている。さすがに寒すぎるなと思ったら、部長が壁の操作盤をいじっているのが目の端に写った。さすがに温度を下げているなんてことはありえないだろう。

 オフィスが冷えていて、部長が温度を上げるという一連の流れで、ふと思い出した。今日はいつもより早く出社してしまったがためにオフィスがまだ暑かった。なぜあんなにも早く出社してしまったのだろうと思ったら、コンビニでお昼ご飯を買い忘れたからだ。今頃、思い出したことに心の中で苦笑せざるを得ないし、スタバでフラペチーノは購入しているという事実にはさすがに呆れた。


 部長の横槍を綺麗に捌き、午前中で明日の会議の資料を作り終えた。とりあえず、コンビニまでお昼ご飯を買いに行くことにする。


 早朝よりもさらに太陽は昇り、日差しがきつくなっている。歩いて3分のコンビニで急いでお昼ご飯を買い、会社に戻った。


 オフィスに戻ってくると、佐々木さんの机の上に彼女のかばんとコンビニの袋が置いてあった。どうやら戻って来たようだ。自分のお昼ご飯は机に置いて、トイレへと向かう。




 廊下を突き当たりまで行くと、男子トイレ、女子トイレの順に並んでおり、その奥に給湯室がある。トイレが近づいてくると、何やら奥の方が騒がしいことに気づいた。「ちょっと聞いてくださいよお」と語尾の伸ばし方が特徴的な佐々木さんの声が聞こえる。

「外回りしてたら、1ヶ月前までいた派遣の丸山さんと会ったんですよお。」

「ああ、あの子ね。なんか突然辞めた子だ。」

「突然じゃないですよ、先輩。更新前に辞めたんですよ。」

「そうだったねえ、あの子、頑張ってたのに。三浦さんもずっと指導してくれてたから、残念がってた。で、丸山さんがどうかしたの?」

「私も仲良くしてたから、積もる話も色々あって、ちょっと立ち話したんです。で、先輩もさっき言ってたみたいに三浦さんと仲良かったから、話の流れで三浦さんの話になったんですよ。」

「うん」

「ちょっとこんなところで話していいのかわかんないんですけどねえ」

「何よ、気になる」

「三浦さん、丸山さんと付き合ってたらしいんですけど、実際は同時に何人もうちの派遣社員に手を出してたみたいなんです。で、更新前にその子たち全員に手切れ金を渡して、バレないように口止めしてたって。ここ1年くらい、派遣社員が辞めること多かったでしょ?しかもそのほとんどが三浦さんが指導係やってましたし」

「ほんとかな。だって三浦さん、そんな感じに見えないじゃない。おとなしそうな感じで。」

「騙されてますよ。あの優しげな雰囲気に。他の人は騙せても私は騙されません。」


 トイレに行くのは後にして、オフィスに戻ることにした。というより戻らざるを得ない。この世には何もかもうまくいくなんてことはないし、順風満帆なんて言葉もない。


 田中さんの次は佐々木さんの予定だったが、あの調子では難しいだろうし、何よりも今は自分のこれからの身を案じている。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

初速と終速 鹿苑寺と慈照寺 @superflare58

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ