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空に
私の両手はあらゆる花でいっぱいになり、足は初めて立ち入る王宮の石の廊下に震えていた。
なぜに私のことがこの方にはわかるのだろう?
私は緊張しながらも、この疑問に頭がいっぱいだった。すると、その方の声がまた聞こえてきた。
「かつてのエーデム族は、言葉を音では発しませんでした。だれもが心で会話したそうです。しかし、今、古代エーデムの血は絶え、そのような力を持つ者も稀になりました」
私の足は、おもわず言葉にとまってしまう。反動で、私が抱えている花束から、ほろりと一輪の銀薔薇が床に落ちた。
王はそれにすぐ気がつくと、長身を折って手を伸ばし拾い上げられた。
そのしぐさは、さびしいほどに洗練されていて美しく見えた。
薔薇を見つめた王の瞳には、深い年輪と悲しみが宿っていて、私さえも切なくさせた。
「カエル、あなたは耳が聞こえないのですね。ですから、かつてのエーデム族が持っていた力を、おそらく思い出すことができたのでしょう。私の声が聞こえたと感じるのは、心話のせいなのです」
「心話?」
「そう、あなたは心話を使える。それに気がつかなかったのは、今まで心話ができる者を知らなかったからです。中庭の花以外に」
心の言葉……。
心の会話……。
私にはすぐに納得できなかった。
今から思えば、手の届かない高みにいる人が命令調でなかったのも心話のせいだったのだ。あの方は、元々高慢な方でも気難しいわけでもなく、王という立場がそうふるまわせていただけだったから。
「……かわいそうに。あなたは心豊かに話せる人なのに、通じる相手がいないだけで辛い思いをしてきたのでしょうね……たった一人で」
そういうと、王は緑の瞳を軽く伏せられた。それは同情とは少し違った。私は胸が締め付けられた。
歩きながらも、王は会話を続けた。
「あなたはファセラ・エーデムを思い出させる。あの子も口が利けなかった。私の義理の孫にあたる者で、エーデムの王となるべき者でしたが……。私のもとを去っていきました」
その人が、王にとってどれだけ大事な人だったのか。私にはなぜか感じることができた。
「あなたの金髪は、私の妻を思い出させる。平民には多い色ですが、エレナの髪は特別美しかった。すでに失って長い時が過ぎてしまいましたが……」
感じるだけではなく、なぜか私は本当に悲しくなってうつむいてしまった。
花束から様々な花の香りがそれぞれ交互に匂い立ち、私の鼻奥を詰まらせる。鼻をすすり上げ、顔を上げると、霞草の向こうに銀色の王の姿がかすんで見えた。
幾人もの人々が、その前を後ろを通り過ぎていった……。
私は瞬きした。
それは幻だった。
彼らは去って二度とは戻ってはこない。
そして、しばらく心話は途絶え、無言が続いた。
大きな石の扉の前で、王は歩みを止められた。そして小さな息をつかれた。
ゆっくりと扉が開かれると、広い空間が現れた。床に置かれた
部屋の奥に石の台座が置いてあり、銀色の布をかぶせた何かがある。
なぜ、私の心はこのように激しく鼓動するのだろう? 不安でたまらず私は花を抱きしめる。
王は何も言わず、仮面のように蒼白な顔で、台座のほうへと歩み寄り、布をそっと持ち上げた。
身をかがめ、布の下にあるものに口づけする。王の長衣越しに銀色の美しい巻き毛が、台座からこぼれているのが見えた。
「私の妹、フロル・セルディンです」
立ち上がりふりむくと、王は静かに言葉を摘むいだ。
ここは、王家の黄泉送りの部屋だった。長い時を生きてきた王族の兄妹に、この夜永久の別れがやってきたのだ。
王妹・フロルは、兄同様に長い時間を生きてきたが、ついに寿命の時を迎えた。近年は眠るだけの日々を送ってきたが、それもこの夜でおしまいとなり、はるかエーデムリングの住人となった。
「花を……」
王の言葉が切なく響く。
かすかに灯る床の明かりに照らされて、王の顔に長く苦難の時が浮かび上がって見える。
私は震えながら、王に花を手渡した。
王は不思議そうに私の顔を見つめた。
「なぜ……? 泣いているのです?」
なぜ、そのようなことを聞くのですか? と、問いたかった。
——王は一人、ここにあられる。
私は、この日初めて私以外の人のことで泣いてしまった。
この方はたった一人になられてしまった。
ともに生きてきた王族の血は絶え、心で言葉を交わす相手もなく、さらに一人、歳を重る存在になられてしまった。
それでも、この方は留まるのだ。
エーデムリングの力を解放する者として、エーデム魔族の力を示す存在として、人々の希望として。
この方を知っている花が、街の空気が、石畳が……すべて、この方の悲しみに共感して悲痛な声をあげている。
そして私も……。
「……ありがとう」
王はさびしく微笑まれると、銀の薔薇を花束から一本だけ引き抜き、私にくださった。
小さな窓から見える空は、少しずつ明るさを増していたのだか、ついに小さな光の筋を黄泉送りの部屋にも注ぎ込んだ。
ちょうど王が差し出された手と薔薇に光があたり、微妙な虹色の影を花の花弁に浮き上がらせた。
躊躇しながらも薔薇を受け取った時、かすかな空気の振動が私の胸を打ち、私はその痛みに耐え兼ねて目を伏せた。王は小さな窓を見上げ、石枠で切り取られた小さな空に心を向けられた。
「あれは……弔いの鐘の音です」
王の言葉が届いた瞬間に、私の胸の奥で空気の振動が音に置き換わった。
——ガラーン……ガラーン……
私はふっと顔を上げ、目をあけた。
心の耳をそばだてて、空にわたる風を見、空気にこめられた虚しい響きを聞いていた。
王族の死を悼む悲しみの鐘の音を、人々の心を、悲しみに共鳴するすべての存在を、切ないまでに受け止めていた。
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