私はまだ少年だった。

 それも特殊な……。


 耳が聞こえず、言葉を話すことができず、虚弱体質で愚図ぐずだった。

 家庭はさほど裕福ではなく、エーデム首都のイズ—の片隅でほそぼそと生活していた。

 エーデム族としては珍しいほど子沢山こだくさんな我が家は、庭師としての父の稼ぎが頼りだった。母は育児に追い立てられていたが、長男の私には妹や弟の泣き声すら届かず、何一つ手伝いもできなかった。

 私は単なる厄介者やっかいものだった。


 エーデム族ならばどのような境遇きょうぐうの者でも通えるはずの学校にも、私は行くことができなかった。

 言葉をもたない私は、友人を作ることもできず、心を閉ざし、笑うことも少なかったので、知恵も遅れていると思われていた。

 街を歩けば、リューマ族の子供にさえ石を投げつけられる毎日だった。


 父も母も私の将来を大変心配し、日々嘆いていた。

 不思議と言葉はわからずとも、父や母の嘆きばかりは私の心に届き、私をいつも悲しくさせた。

 私は自分の中に閉じこもり、家にこもることを望んでいた。

 人の唇が動くことを恐れた。唇が動くたびに、人は人に心を伝えている。しかし私には音がない。

 音は言葉であり、言葉は心だった。

 やがて私は、私には心がないのだと感じるようになっていた。


 父は、そのような私を無理やり仕事に連れ出した。家に厄介者を養うだけのゆとりはなかったのだ。私は柱にしがみつき、うなり声を上げて嫌がった。嫌だといいたくても、言葉がわからなかった。

 今から思えば、あれは父の愛のむちだった。私を自立させ、手に仕事をつけさせようとしたのだ。

 そして……庭師の作業は、私にとっては救いとなった。


 花は言葉をもたない。しかし、心をもっていた。

 愛情をそそげば美しくなることで、私の心に答えてくれる。花に触れている間は、誰も私に石を投げたりはしなかった。

 私は庭師としての才能を開花させ、わずか十三歳の年齢でイズ—城の中庭にて働くことを許可された。

 ほんの一角、まかされた花壇は、銀薔薇や白百合、白カトラなどの名花はなく、切花を引き立てるための霞草かすみそうやスターチスなどの地味な花ばかりであったが。



 その夜は、不思議と心落ち着かなかった。

 私の世話する花々が、力なくしおれ、重々しく垂れ下がり、揺れている夢を見た。

 私は明け方目を覚まし、いても立ってもいられずに出かけた。街はまだ寝静まっていたが、どこか物悲しい風が吹き、私の髪を揺らせていた。その感覚を、私は不安に感じた。

 星明りの下、花々はまさしく夢どおりの姿をしていた。

 花弁を硬く結び、頭をたれている。私は驚きと悲しみでいっぱいになった。一輪ずつ話しかけ、いったいどうしてこのようになったのか、何が花の心を揺れ動かしたのか問い掛けていた。


「庭師がこのような時間まで……何をしている?」


 突然の言葉に、私は冷や水を浴びせられたかのように跳ね上がった。

 それは、たしかに言葉だったのだ。

 耳を疑った。私の耳には、音は伝わらないはずなのだ。しかし、その音はたしかに意味を持って、私に届いたのだ。


「……うーーー……」


 あわてて叫んだ私の声は、言葉ではなかったはずだった。

 今から思えば、それは恐ろしい獣の咆哮にも似ている音だったはず。ゆえに私は、話し掛けようとするたびに、逆に嫌われたりもした。私が必死になって出した伝えたい気持ちが、どんなに汚く大きな音だったかなど、耳が聞こえない私には理解できなかったのだ。


 ふりむいた先に立っていたあの方は、その声におびえるどころか、凛とした立ち姿でそこにいらっしゃった。

 私は思わず、ぼうっと見つめてしまった。

 流れるような銀糸の髪が、風にかすかに揺れた。星明りに銀の角がきらりと光る。それは高貴な血筋の方だという証拠だった。

 エーデムの王族の方々を、庶民の立場で見る機会は少なかった。

 しかし、私はすぐにこのお方が、エーデム王であり中庭の主人であることに気がついた。

 残された王族は少なく、有角の者は王だけだという事実は、当時の私は知らなかったのだが。

 私が硬直して目を見開いている間に、王は花壇へと歩み寄り、花を選んでいるようだった。


「この花をいただきたいのだが……」


 庭の主人が庭師ごときに許可を得る。

 私はあわてて「もったいないお言葉です」と伝えたかったが、おそらくひどい雑音を発しただけであろう。

 かすかに微笑むその方の顔は、穏やかそうではあったが、なぜか蒼白で死人のように見えた。それは星明りのせいではなかった。

 既に王は百六十の齢を重ね、長命といわれる王族の中でも稀にみる年齢に達していた。人生の終焉しゅうえんに差しかかっているのであろう姿は、老いという表現とは無縁だったが、どこか疲弊していて生気を感じなかった。


 花を手折ろうか迷ったように、王は一瞬花の前で手を止めた。

 しばらく時間が過ぎた。

 それは突然だった。


「カエル」


 私は呆然とした。それは私の名前だった。

 正確な名前ではなかったが、私が名前だと思っている音だった。


「カエル、あなたにお願いがあります。私は妹に花を捧げたいと思っています。手伝ってはもらえませんか?」


 その方は、まるで主人のようではなく、同等の立場以上の丁寧さを持って、私にお願いしてくださった。


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