第四章 二〇二五年十月十三日

 新符さんと会って話をした日曜日が終わって、週明けの月曜日を迎えた。

 お定まりの言葉なら、憂鬱、なのだと思う。

 ただ、今日の僕は、なぜか寂しかった。

 学校のみんな、どうしてそんなに気楽でいられるのだろう。

 教壇に立っている先生、苦労しているだろうけれど活力にあふれてるなぁ。

 僕は、そんな周囲の流れから取り残されそうな気がする。

「榑枚、なに感動してるんだよ?(笑)」

 現国の授業中、気がつけば僕は涙をこぼしていた。教科書の文学作品に感動して涙を流した、と皆に笑われた。先生にも「たしかに名作だが、泣かれると授業がやりづらいぞ」といじられた。そのとき、鞄の中でスマホのバイブが震えた、気がした。

 昼休みに鞄からスマホを取り出すと、多岐からのStringメッセージが届いていた。


  つらそうだな

  よければ話を聞くぞ


 僕は、しばらく考えて、多岐と櫛秋さんとの間で作っているグループにメッセージを投げた。

 

                月曜日って

                櫛秋さんは生中継やるよね?

 

                今日、

                生中継の後ろに映り込んでいい?

                精一杯賑やかすから


 やや間を置いて、届いたメッセージは多岐からだった。


  杏が生中継始めると

  話し合う暇なんて無いぞ

  もっと静かな場所がいいと思う


                ただ話してると

                だんだん鬱ってくる気がする

                盛り上げてもらった方がうれしい


  榑枚君、急にどうしたの?


  榑枚の奴、今、十分に鬱ってて

  馬鹿騒ぎで忘れたいから

  杏の生中継に出演したいってさ


  分かった 協力する

  でも主役は私だから、私のルールに従うこと

  1.きちんと合いの手を入れる!

  2.私語厳禁!

  3.アイスの一つでも貢ぐこと!


                ありがとう、櫛秋さん

                元気出てきた

                今日、帰りたくないんだ

                学校から直接寄っていい?


  うちの制服、普通だから、学校もばれなさそうだし

  まあ、いいでしょ!


  おい、それじゃ、

  俺も制服で合わせないと、絵面が悪いだろ

  榑枚、無茶な注文だな(苦笑)


                ごめん、多岐


  俺にもきちんと礼は返せよ


                後で返せるように頑張る


  「頑張る」じゃないだろ

  必ずだ


                ごめん


 メッセージを見ていると、直接会話してないけど、なんだか楽しくて、二人がいるから生きていけるって実感した。

 終業のHRが引けて、櫛秋さんと多岐と合流して、櫛秋さんの家に向かう。貢ぎ物のアイスは、僕はまるで人生のかかったお願い事をしているような気分になっていて、プレミアムアイスを買うのに抵抗はない。

 櫛秋さんの家は、駅からちょっと離れた古めの一軒家。ベッドタウンとしてではなく、古くからその地域に住んでいた家系だ。この、きちんと他の家から離れているところが生中継に都合がいい。

 家に上がらせてもらうと、階段を上がって二階の櫛秋さんの部屋の前で。

「女の子の着替えを覗かないでね!」

 と扉を閉められた。多岐と二人、廊下で待たされる羽目になった。

「櫛秋さん、いつもああなの?」

「俺は杏の生中継をネット抜きの生で見るのは初めてだけど、ネットで生中継を見てれば、衣装もバッチリ決めてることは分かるだろ。多分、今日も気合い入ってるぞ」

 廊下に座り込んでしばらく多岐と雑談していると、部屋の中から。

「準備できたよ」

 という声が聞こえたので、二人立ち上がって、多岐がドアノブに手をかけて開いた。

 制服から着替えた櫛秋さんは、縦にフリルを日本あしらった白いトップスに、赤いショートスカート。昨日とは違い、きちんとガーリッシュ。

「おお。決まってるじゃないか」

「お世辞をありがとう」

 多岐が褒めると、櫛秋さんは口は悪いけれどもまんざらでもなさそうだ。

 思わず自分自身と多岐を見てしまった。僕たち二人は白いYシャツと黒のスラックスという、ここいらの公立普通高校では当たり前の制服(夏)。見栄え悪いなあ。僕が無茶言ったからなんだけど。

 櫛秋さんは机の上にスマホスタンドを載せて、スタンドにスマホを立てかけている。画面がこちらを向いてるから、インカメで撮るのか。カメラに写る方向は、白い壁紙が広々とした壁。窓も、家具も、ポスターもない。多分、生中継に他のものが映り込んだら権利上問題なのだろう。部屋の配置が生中継に合うように構成されていた。

「じゃあ、二人、そこのところに座って」

 櫛秋さんが壁の手前を指さすので、僕たちは鞄だけは映り込まないように机の下に隠し、壁の前にあぐらをかいて座った。

 櫛秋さんがスマホアプリの配信開始ボタンを押す。

「みんな~、おひさ~

 今日も『杏ちゃんのあの曲も生コピ』始めるよ~」

 部屋に櫛秋さんのハイトーンボイスが響く。お腹の底から出してるから、きっちり響いている。

「ところで、今日は、ゲスト、というか、私のバックにひな壇があります! ファンの男の子達に来てもらいました」

 そこで櫛秋さんが横に移動してカメラの視界から消えた。つまり、生中継に多岐と僕の二人が映るわけだ。

「は~い。ファンクラブ一号で~す」

 多岐はスマホに届くよう大きな声を上げ、両手を上に挙げて自分をPR。櫛秋さんの紹介のノリには合ってるけど、ということは、僕も?

「ファンクラブ二号で~す」

 僕も声を上げて、多岐との変化をつけるため右手だけ挙げて振った。もうどうにでもなれ。

 櫛秋さんは再びスマホの前に陣取った。

「この子たち、なかなか面白いんだよ。

 あ、反応来てるね。

 なに? 真面目そうな一号を本命キープして、イケメンの二号と火遊びしてる?

 誰が面白いことを言えって言った!? ツッコミはほどほどに!

 では、今日も挨拶代わりの一曲から。

 FLICK24のシングル、『君と出会えた夏』。いっくよ~」

 櫛秋さんはスマートスピーカーに「再生」と声をかけた。部屋に流れるイントロ。そこに櫛秋さんの声が重なる。


 そこはオフィスビルの小さな部屋。窓はない。壁に掛かった丸い事務室用時計だけが時の流れを示している。もうすぐ六時だ。八畳ほどのスペースの中央に、会議室用机二つが正方形に近くなるように配置されている。

 入り口に近い側に、三十代半ばくらいの、背が高めで、Yシャツに紺のスラックスを組み合わせているが、あえてまとめない髪とフレームレス眼鏡が大人しく世間のルールに収まっている人物ではないことを示している男性が座っている。

 奥には、長い髪が背中まで伸びていて、切れ長の目が気の強さをにじませ、さらに通った鼻筋と切れのある頬のラインがクールな印象を作っているが、着ているのは紺のワンポイントタイが特徴的な学校の制服で顔にも幼さがわずかに残っている女の子が座っている。

「椎木さん、どうして彼を警護できないんですか?」

 女の子、新符遥は向かいの男性、椎木に向かって、頼み事をしようとしているのだけれどもいらだちが隠せない態度で聞いた。椎木は失礼な子どもにも慌てない冷ややかな大人の態度で答える。

「新符君。君の意見は理解している。しかし判断するのは大人だ。榑枚君は、まだ候補としてスクリーニングの最終段階にあって、正式に認定されたわけではない。それは君も知っているはずだ。まだ候補に過ぎない人物に人員を割くのは、大人にとっては難しいんだよ。君は特別待遇に慣れてしまったんじゃないのか。日曜日に榑枚君に会いたいという君のわがままにつきあって、敬語の私服警官を一人用意するのにどれくらい手間がかかったか、理解して自重して欲しいところだ」

 椎木は、子どもが凄んだからといって対応を変えるような人物であるのは今の態度からも見て取れるのだが、新符は自分の焦りを自分の中で収められない。

「私が言ってるんです。それは根拠にはならないんですか?」

「言っていることが突拍子もない。それが私たちの判断だ」

 椎木は軽くいなすように答えた。

 新符は、自分の優れた容姿の活かすように、厳かな口調を選んで話し始める。

「このままでは、榑枚君は情報を知っている人物によって拉致されます。背景を調べるのは後です。今は榑枚君を守らなければいけません」

 椎木は、椅子の背もたれに身体を預けた、つまり新符とは距離を置いた姿勢のまま尋ねる。

「私たちは、もう八ヶ月も前からか、榑枚君がスクリーニングで発見された直後に拉致されるという君の意見は聞いている。その後の惨事についても聞いている。で、ここからが重要だが、それは変えられない未来か?」

 椎木の最後の問いに、自分を大きく見せようとした新符の虚勢が崩れる。目線が泳ぎ、声が力を失う。

「変えられないのでは困るんです。変える努力をしなければいけないんです」

 椎木が身を乗り出した。

「自分の予言が外れることを願っている人間が、『私の予言は当たるから話を聞いてほしい』だなんて、よく言えるものだな。自分が矛盾したことを言っているのが分からないのか! 《予言者プロフェッツ》とおだてられているからといって、他人が自分の言うことを何でも聞いてくれると思うんじゃない!」

 八畳ほどの狭い部屋に椎木の声が響いた。その直後、二人して黙ってしまい、沈黙が耳に痛かった。新符の、膝の上に置いた手が、小刻みに震えている。椎木は身を引いて、やり過ぎたことにばつの悪そうにうなだれた。

「声を荒らげてすまなかった。俺だって、君の気持ちが分からないわけじゃない。だが俺は下っ端役人で、君とは違って《予言者プロフェッツ》という肩書きもない。他の人間がまともに取り合ってくれないことにいらだってることを、分かってくれ」

 椎木が虚勢を捨てたことを新符は受け入れた。お互いが無力さを感じていて、この狭い部屋には物理的だけではなく心理的にも閉塞感が満ちていた。

 そのとき椎木の鞄から、バイブレーターが動作する小さな音が聞こえた。

 椎木は新符に目線で許可を求めると新符は首を縦に振った。椎木が鞄から取り出したのは通話専用携帯電話だった。公務用だ。

「遅くなり申し訳ございません。椎木です。……はい………………はい…………」

 椎木は相手からの話に相槌だけを打ち、話に合わせて首を振ることもなく落ち着いて聞いていた。

「…………そうですか。ご協力に感謝いたします。こちらから申し上げるべきことはございませんか?…………そうですか。専門家の判断に委ねると言うことで承知いたしました。それでは失礼いたします」

 椎木は電話を切り携帯電話を鞄に戻した。そして新符に向き直った。

「いい知らせだ。県警が警官を一人回してくれることになったそうだ。ただ、警察は警備のプロだ。《予言者プロフェッツ》の助言は不要、とのことだ。あとは彼がどこにいるのかだが……」

 思わぬ吉報に、うれしいもののどう反応していいのか戸惑っている新符を、椎木は、背中を押すような、からかうような、年下を見守る年長の友達のような態度で押した。

「彼への連絡は君がするか? 国からいきなり連絡が来るより、友達が何気なく居場所を聞いた方が良いだろう?」

 新符は急に表情が明るくなった。慌てて鞄を持ち上げ、スマホを中から取り出す。慌てすぎて取り落とすんじゃないかという勢いで連絡先をスクロールさせ通話ボタンを押した。


 郊外の一軒家の二階、櫛秋さんの部屋に、スマートスピーカーからの音楽と櫛秋さんの歌声が満ちる。愛嬌たっぷりの声は櫛秋さんの魅力を普段の二〇〇%増し(つまり三倍?)にしている。ステップはちょっと抑えめ。木造家屋だから下に響くもんね。

 僕と多岐は、邪魔しちゃいけないけど盛り下げるな、という厳しい注文がついていて、座ったままでアイドルファンよろしく腕を振ったりコールしたり。やってみると、テンポに合わせるのが結構大変。

 そんな中、僕のスラックスのポケットに入れていたスマホが震えだした。

 このタイミングで? 無視していいよね?

 僕はずっと無視して櫛秋さんにコールを続けた。

 きっとあきらめるさ、と思っていたら案の定、バイブが切れた。後で履歴を見ればいいか。 と思っていたら、再びスマホが震えだした。これもなかなか切れない。

 そうか! Stringは相手が出ないと途中で切って通話できなかったことを画面に出す。バイブが切れるのはStringが切っているだけで、通話の相手はあきらめる気がないのか!

 僕のスマホは時折の中断を挟んだだけで、櫛秋さんが一曲歌いきるまでずっと震えていた。

 歌い終えた櫛秋さんが視聴者に呼びかける。

「みんな、どうだった? 次の曲にはすぐに移るから、ちょっと一口、水を飲ませてね」

 櫛秋さんはスマホカメラの死角にあるコップから水を飲んでいる。僕は多岐に一言声をかけた。

「ごめん。電話が入った。部屋の外で受けるから」

「無視できないのか?」

「数分鳴りっぱなしで、出ないとダメらしい」

「分かった」

 多岐が事情を分かってくれたので、僕は立ち上がって部屋のドアに手をかけた。

 それが櫛秋さんに見つかった。

「こら、二号、どこ行く?」

「ちょっと事情があって」

 電話とは言いづらいし、お手洗いに行くと言い訳すれば生中継の途中で「お手洗い」という単語が全国に流れてしまう。僕は詳しく説明せず逃げるように部屋を出た。

 立ったまま壁にもたれかかってスマホの画面を見ると、発信者は新符さんだった。しつこさがメンヘラ級で嫌な感じがした。けれども、微笑ましく思った。心配しちゃって。こんな風に思えたのは、きっと櫛秋さんのノリノリの歌を聴いていたからだろう。

「おそくなってすみま……」

「榑枚君、どこにいるんですか? 早く教えてください!」

 新符さんは僕の挨拶を聞く気もなく一方的に話してきた。

「今、友達の家なんですが……」

「住所は? 番地レベルで教えてください!」

 僕が何か言うとかぶせるように言い返してくる。それも切羽詰まった声で。壁一つ挟んだ部屋の中とのギャップがおかしかった。

「新符さん、落ち着い……」

「落ち着いてられません」

「僕は無事です」

 その一言をかけないと新符さんは止まらない。そんな気がした。

 その見立ては当たったのか、新符さんの声が止まった。

 これで話ができる。

「新符さん、昨日の会ったときに、櫛秋さんって歌のうまい人がいたのを覚えていますか? 今、その人の家に遊びに来ています。ネットで歌の生中継をしていて、僕はそのバックで盛り立て役をしてました」

「生中継って、見られるんですか?」

 驚いたように聞いてきたのは、ネットの生中継に詳しくないからだろうか? それとも身近な人が生中継することが意外なのかな?

「見られますよ」

「お願いです! 姿を見せてください!」

 新符さんは叫んでいた。慌てすぎだなあ。

「だったら、『杏ちゃんのあの曲も生コピ』で検索してもらえませんか。『あんず』は果物の杏です」

「分かりましたから、早く中継に映ってください」

 これはもう、姿を見てもらった方がいいな。

「今からカメラの前に行きます。通話を切りますよ」

 通話切断ボタンを押して、櫛秋さんの部屋のドアをあけた。中からはやっぱりJ-POPアイドルの曲が聞こえてきた。


 都内のオフィスビルの中、窓のない狭い部屋で、新符はスマホを耳から離し、まず生中継のアプリをダウンロードし始めた。

「どうだった? 住所を聞き出せなかったようだが」

「榑枚君がネットの生中継に映っているそうです」

 アプリを立ち上げ「杏ちゃんのあの曲も生コピ」で検索すると、候補のトップに昨日会った女の子が映っていた。中継の視聴を始めると、狭い部屋にJ-POPアイドルの曲の生コピが満ちた。映像の隅っこに、あのかっこいい男の子が映っていた。

「榑枚君、生きてます」

 新符はうれしさをかみしめる。彼女が持つスマホを、向かいに座っている椎木がのぞき込んだ。画面に映る彼の姿を見て、椎木は新符とは裏腹にため息をついた。

「《予言者プロフェッツ》の候補が、この大事なときに何やってるんだ…… このチャンネル、これから要監視だな。この歌ってる子の家に居てもらうのが一番いいな。新符君、足止めするように伝えろ」

 新符は再び通話アプリを呼び出して履歴のトップを押した。


 櫛秋さんの歌を後ろで聴いていたら、再びポケットのスマホが震えだした。これは無視すると長くなりそうだ。多岐に無言で頭を下げて、再び部屋を出た。

「榑枚で……」

「どうしてカメラの外に出たんですか?」

 え? そこ?

「だって、電話で中継の邪魔したら迷惑ですから」

 そう言うと数秒返事がなかった。新符さんも無茶を言っていることに気づいたんだと思う。それでも再びしゃべり出したのは新符さんだった。

「榑枚君、ずっとカメラに写っててください。それから、今から榑枚君を警察の人が迎えに行きますから、呼び出されるまでずっと櫛秋さんの家にいてください」

 警察

 その言葉が僕の心に引っかかった。

 新符さんとの最初のつながりは、僕が心理テストで要監視と診断されたことを伝える手紙だった。おかしな話だと思ったけれど、あとで現実だと分かった。今度は警察。新符さんはまるで政府の話を聞いてきたかのように僕に教えてくる。なぜだろう?

「新符さん、どうして警察のことを知っているんですか?」

 またしばらく、無言になった。

 それでも、再び声をかけてきたのは新符さんだった。

「私、おかしなこと言ってますか?」

 新符さんは、自分がおかしいことに、今ようやく気づいたように言った。今までのことを新符さんは当たり前だと思っていたのか。

 新符さん、ちょっとおかしな子かもしれない。

 僕の中で、これはおかしいと疑う気持ちと、根拠もないのに新符さんは信頼できる人だと信じる気持ちと、両方が出てきている。その二つは混ざり合って一つになることなく、お互いを組み伏せようと争っている。

 そこで不信が信頼をわずかに上回った。

「だって、普通の子が警察のこととか知ってるはずないですよね」

 また間が空く。信頼したい気持ちが僕の心に痛みを与えた。

「そうですよね。おかしなこと言ってますよね」

 新符さんの声は沈んでいた。ここでようやく、新符さんをなだめなければいけないことに気づいた。

「新符さんが僕を気にしていることは分かりました。カメラには写るようにしますから。大丈夫です。僕は大丈夫ですから」

「大丈夫ですよね?」

 新符さんの声は細い。

「心配、ありがとう」

 なぜだろう。「心配しないで」というつもりが、語尾が変わった。


 男の子との通話で心が行き違った女の子が、力なくスマホを机の上に置いた。椎木は慰めるように、でも一割ほど責めるように言った。

「焦りすぎたな。男の子との会話は演技も重要だぞ。もっとも、君が演技を覚えたら、男の俺としてはやっかいだけどね」


 新符さんにカメラに写り続けると約束したから、ある意味で義務になったからか、櫛秋さんの生中継に写り込むことに気後れがなくなった。思いっきり目立とうと櫛秋さんの後ろで盛り上げ続ける。櫛秋さんのキャッチーな歌声に、気分はまるでライブ。いや、本当にライブなんだけど。いつまでもこんな時間が過ぎればいいと思った。

 その浮かれた気分に、スマホのバイブが釘を刺した。

 また新符さんか。そう思って画面を見たらStringではなく一般の電話。そしてしばらく放置しても切れない。

 これは出ないと問題になりそうだと思ったから、出ることにした。新符さんと約束したから、カメラに写り込んだ位置に座ったままで。自分の口を手で覆って話しかける。

「もしもし。榑枚季典と言います。どちら様ですか?」

「榑枚君ですか。こちらは警察です」

 落ち着いた男性の声。そして。

 警察

 新符さんから聞いた言葉が出た。

 このことは隠さなければいけないような気がした。警察から電話がかかってきたことも、そのことを新符さんが先んじて僕に伝えたことも。僕は生中継のカメラに背を向けた。小声で電話の向こうの男性に伝える。

「なんの話でしょうか?」

「実は榑枚君を襲うという傷害事件の予告がありまして、榑枚君の安否を確認しているのです。今は無事ですか?」

「無事です」

 僕の小声は相手に聞こえただろうか。相手の声は極めて事務的で遊びが一切ない。テレビで取材された警察官が答えるときの、質感としての堅さと人としての忠誠心の強さを、生の声として聞いた。

「榑枚君は今は櫛秋さんのお宅に伺っていると聞いています」

 なぜか、警察官はぼくの居場所を知っていた。新符さんから聞いた、という答えが僕の頭に浮かんだ。高校生がそんなことをできるはずがないと、常識で必死に振り払うのが難しい。そうして僕が何も言えないうちに警察官は話を続けた。

「今から櫛秋さんの家にお伺いしますので、呼び出すまで櫛秋さんのお宅に留まってもらえますか?」

 この指示に逆らう気は、持てなかった。

「分かりました」

「ご協力ありがとうございます。それでは失礼します」

 警察官は丁寧な挨拶を残して電話を切った。僕はしばらく何もできなかった。

「生中継中だぞ」

 多岐がそっと僕に耳打ちした。

 そうだった。櫛秋さんの中継を盛り上げないと行けないんだった。

「イエーイ!」

 苦し紛れに挙げた声は曲のテンポと合っていなかった。しばらく、大人しくしていよう。

 僕の頭がぐるぐる回っているところに、三度、スマホが震えた。画面を見たら一般の電話だった。さっきとは電話番号が違う。なぜ分かるかというと、さっきは090で、今度は080。この電話もなかなか切れてくれない。僕は生中継のカメラに背を向けて電話を受けた。

「もしもし。榑枚季典と言います。どちら様ですか?」

「榑枚君ですか。こちらは警察です」

「警察ですか。どうしました?」

 もう警察からの電話は受けていたから、気楽に返した。なにか追加の連絡だろうか。

「榑枚君は学校の心理テストで要観察との診断を受けて、指導を受けていると連絡を受けました。警察としては、精神的に不安定な生徒を保護する必要があるので、榑枚君の様子を見たいのです。交番まで来ていただけませんか」

 僕の胸の内がざわついた。

 さっきと話が違う。

 そして、どっちが自然な話か、道理で考えれば明白だ。

 寝耳に水の傷害事件の予告と、今まで受けてきて新符さんも知っている国の特別プログラム。あり得そうなのは後者だ。

 電話の向こうの声も、質感としての堅さと人としての忠誠心の強さを感じさせる落ち着いた口調はさっきと劣らない。

 おかしいのはさっきの電話だ。そのはずなんだ。こっちが本当の話なんだ。

 新符さんは警察官が来るまで待つように言った。それとは話が違っている。

 女子高生の頼み事と警察官の指示。信頼できるのは後者のはずなんだ。

 でも胸のざわつき、心臓が動悸を始める。

「すみません……。先ほど、迎えに来るので待つように電話がありました。僕を襲うと事件の予告があったという話で。その話との関係はどうなっているんですか?」

 僕の口が勝手に動いた。なぜ、こんなおかしなことを口走ったのだろう。警察官に呆れられるぞ。

「珍しいこともあるものですね。警察ではそのような情報は受けていません。私たちからお伝えする直前にいたずら電話を受けるとは、大変な目に遭いましたね。大丈夫です。榑枚君は警察できちんと保護しますから」

 ドクン。ドクン。

 僕の心臓の音が耳にも聞こえる。

 事件の予告だなんていたずら電話だ。国の特別プログラムの一環で、精神的に不安定だと見なされたから、警察が指導をしようとしているだけなんだ。そうだ。そうなんだ。

 僕の不安は、妄想でしかないんだ……

「今から交番に来ていただけませんか」

 断る合理的な理由が、どんなに探しても見つからない。

「分かりました。今から出ます」

「ご協力ありがとうございます。それでは失礼します」

 警察官はやはり丁寧な挨拶を残して電話を切った。

 未だに心臓の動悸がしている。

 しかし約束したのだし相手を待たせているのだから、出ないわけにはいかないのだ。

 僕は横に居る多岐に頭を下げた。

「ごめん。僕、帰るよ」

 ノリノリに右手と歓声を上げていた多岐が、驚いて右手を下ろして僕を見た。

「はあ? 帰りたくないって言ったの、榑枚だろ? なにを急に?」

 多岐の前で両手を合わせた。

「親から呼び出しがあった。帰らないとダメなんだ」

 多岐に嘘をついたことで動機がさらに勢いを増した。ばれないか怖い。

 多岐は僕とじろじろと見た。ひたすら拝みこんでいる僕を見て、多岐は折れた。

「しょうがないなあ。親さんに謝っとくんだぞ」

「ありがとう、多岐。櫛秋さんにも伝えといて」

「分かったよ」

「それじゃあ」

 僕は、視聴者を意識してスマホカメラに向かって歌い続ける櫛秋さんの後ろで、こっそりと部屋を出た。

 櫛秋さんの家を出ると外はすっかり暗くなっていた。スマホの時計を見たら夜の七時が近かった。冬の日が短い時期を除くと、一人で夜道を歩くのはいつ振りだろう。数ヶ月無かった気がする。黒い闇が、なにか悪しきものに格好の隠れ蓑を与えている。そんな詩的なことを柄にもなく感じる。普通なら心細いと形容するのだろうけれど、動悸は止まらず、一言で言って焦っている。

 幸い交番は街中に向かう方角にある。人通りが少ないのはあと二百メートルほどだ。

 家の塀で先が見えなかった角を右に折れたところで、二人の人影が見えた。

 心臓が止まりそうな気がした。

 でも、街灯を頼りに目をこらすと、二人とも警察官だった。だって見慣れた制服を着ている。二人は十メートルほど間を開けて前後に並ぶ格好で、僕の方に歩いてくる。

 先に出会う警察官に交番に連れて行ってもらうようお願いすればいいだけ。それなのに、口が重い。

 僕が躊躇しているうちに、前を歩く警察官が僕の目の前に来た。

「榑枚君ですか? 心配になって様子を見に来ました。交番まで一緒に行きましょう」

 その警官はとても丁寧に笑顔を浮かべて僕に話しかけた。最大限に敬意を払ってもらっているはずなのに、僕は声が出ず、身体が動かず、どうにかして、首をコクリと縦に振るのが精一杯だった。

 そのとき、後ろを歩いていた警察官が猛ダッシュで僕たちに近づいてきた。僕と応対している警察官が気づいて後ろを振り向いた。ダッシュしてきた警察官はそれに全くかまわずもうひとりの警察官の肩につかみかかった。

「あなた、なにしてるんですか?」

 あとからやってきた警察官の怒号。

 警察官が警察官に職務質問? というより既に手を出している。後ろの人、本当に警察官なのか?

 僕には品のいい笑顔を見せていた警察官が、後ろからつかみかかってきた男にニヤリと笑った気がした。


 その瞬間はとても長く感じた。


 ゆっくりと倒れる後ろから駆けてきた男

 闇の中でわずかに見える赤

 警察官が右手に持っている闇よりまがまがしい光


 警察官が僕の目の前一メートルの場所で刺された。刺した男の右手で、街灯の光を浴びて光るナイフが赤いものを滴らせていた。

 そして、警察官を刺した男は左手で僕を抱え込み右手のナイフを僕の顔の前に近づけた。

「君にはついてきてもらうよ。交番じゃないところだけどね」

 その男の笑みは下卑ていた。


 都心のオフィスビルの狭くて窓のない部屋では、椎木と新符が何もできないまま机を挟んで椅子に座り向かい合っている。

「新符君、夜の七時も近い。もう外は暗いだろう。女の子の一人歩きは危ないぞ。そろそろ帰ったらどうだ?」

 椎木の口調は大人として諭す余裕があったが、新符は気遣いは不要とばかりに目を逸らさない。

「榑枚君の安全が確認できるまで帰りません」

 椎木は大人なのだから聞き分けの悪い子どもには叱りつけてもかまわない立場なのだが、新符の強情さをとがめなかった。そこには、《予言者プロフェッツ》ではないが、計算があったのかもしれない。

「入るぞ」

 扉の向こうから男性の低い声がして、部屋の人間をおもんばかる様子もなく扉が開いた。やや背が低いYシャツを着た中年男性が部屋に押し入った。椎木が立ち上がり一礼したことを確認した男は椎木に告げた。

「椎木君、事情が変わった。話がある。彼女の居ないところで話をしよう」

 椎木は彼女つまり新符をちらと見て、入ってきた男に向かった。

「芦原さん、《予言者プロフェッツ》の助力が必要なことだったら、彼女も知っていた方がいいです。要点を手短に話していただけませんか」

 部屋に入ってきた芦原は新符をまじまじと見た。座っていた新符は無言だが強い視線で返した。芦原が根負けした、ように見えた。

「県警から《予言者プロフェッツ》の助言を求める要請があった。事件は、我々の《予言者プロフェッツ》候補者が拉致された。犯人は警察官に変装、警備に派遣された警察官をナイフで刺してその場から逃走した。刺された警察官はかろうじて無線で本署に連絡したとのことだが、その後の安否については明かすことではないと我々には教えてくれなかった。要請の内容は犯人の逃走経路の予測。事件の性質上、なるべく早く、とのことだ。

 ならびに、県警は、《予言者プロフェッツ》の予言とされた発言が真に予言者の言葉なのか、責任を明確にしろと言っている。つまり担当者が《予言者プロフェッツ》を私物化していないかと強く懸念している。《予言者プロフェッツ》への聴取には、私が立ち会わせてもらう」

 芦原の言葉を聞いて、椎木はまず部屋をぐるっと見渡した。

「だとしたら芦原さんには座っていただく場所が必要ですね。椅子を持ってきますよ」

 椎木は部屋を出た。上役の仕事の環境を整えるのは部下の仕事なのだ。

 残された芦原は椎木が座っていた椅子にどっかと座り、向かいの新符を見た。

 目の前の少女は、先ほど強い視線を投げた当人とは思えなかった。うつむき、口で息をして、膝に置いた手がカタカタと震えていた。芦原の言葉が彼女を押しつぶしていた。

 芦原は、弱々しげな少女に、フンッ、と鼻を鳴らした。

 部屋に戻ってきた椎木はキャスター椅子を引いていた。芦原が自分の席に座っていることに文句も言わず、自分が引いてきたキャスター椅子を芦原の横、新符から見てやや斜めの位置に置いた。床に置いていた鞄を取り上げて椅子の足下に置き、椅子に座って鞄からノートパソコンを取り出す。

 そしてうつむいている新符に声をかける。

「新符君、君が見た望ましくない未来が現実になるかどうかは、君の力にかかっている。君の中では現実でも、この世界ではまだ現実じゃないんだ。未来を選ぶために、力を貸してくれ」

 新符は顔を上げた。半分放心状態だった。

 それでも前を向いた。

 それを見て取った椎木がノートパソコンの画面を見る。

「新符君は、榑枚君の《予言者プロフェッツ》候補者認定から拉致事件までの経緯を、八ヶ月前から断続的に報告しているね。そこに追加情報はあるかい?」

「まだ、ありません」

 椎木の問いに新符がポツリと答える。長く話すのはつらそうだと見て取った椎木がまとめる。「では、今までの新符君の報告をまとめるよ。榑枚君は今年の九月の全国一斉心理検査で、数年にわたる判断基準をパスし、十月に《予言者プロフェッツ》候補者として認定される。だが正式に《予言者プロフェッツ》と認められるまでの警備の隙を突き拉致事件が発生。おそらく総務省内部からの情報漏洩があったと思われるが、その背後関係や犯行組織については残念ながら新符君にも見えていない。

 そして、ここからが大事なところだが、警察は拉致事件のあとの犯人追跡に成功し犯人を足止めするものの、榑枚君は拉致できなかった《予言者プロフェッツ》が日本政府に渡ることを阻止しようとする犯人によって射殺される。

 報告の内容は、これであってるね?」

 言い終えた椎木は新符の反応を待った。

「はい」

 新符はポツリと答えた。


 僕は乗用車の後部座席に乗せられていた。手首と足首を縛られ、右側に頭を置く形で横倒し。ドラマでよく見るようにトランクルームに押し込まれると思ったのだけれども、見れば後部座席の窓にはスモークがかかっていて、後部座席に座らされていたって外から中をうかがい知ることはできないだろう。

 僕を連れ去った、警察官を装った男は、運転しながら左手にスマホを持ち話をしている。運転しながらスマホを持つことは違法なのだけれど、警察官を刺したことも僕を連れ去ったこともどこからどこまでも違法なのだから、もう一つ違法行為が増えたところでなんともない。話している言葉は欧州風だけれど英語ではない。まるで国際スパイかマフィアの振る舞いなのだけれど、そんな男が連れ去った人物が僕だなんて、全く釣り合いがとれていない。

 男は携帯電話を切ると、後ろに座っていた僕を脇見運転になるんじゃないかというくらい見て、正面を向いた。

「こんな子どもがねぇ。いや、子どもだから悪いって訳じゃない。俺がかけた電話が偽物だって見えなかった奴が何の役に立つのか、ってね。『僕に何の用ですか?』って思ってる? 俺だって同感だ」

 見えなかった? 電話は見るものじゃなくて聞くものだ。電話で見えたら超能力者だ。この男、日本人に見えて、海外経験が長くて日本語に不得手なんだろうか?

 そんな悪態をつけばどんな報復があるか分かったものではないから、黙っている。

「心配するなって。つらい思いは一時だけだ。これが終わったら今まで想像できなかった天国のような生活が待っている。おじさんは嘘をついているわけじゃないんだよ。全部終わってみれば、俺が言ったことが正しかったって分かるはずだから」

 強引に手足を縛って窓にスモークがかかった乗用車に押し込められて連れ去られた理由が、なんでもない子どもに天国のような生活をさせるため? そんな話があるわけないじゃないか。

 その後も男は少々僕に話しかけるのだけれど、あまりにつらい状況に、僕は気が遠くなっていく……


 そこは、まばゆいと言えばまばゆく、仄暗いと言えば仄暗い。

 目の前には、あらゆる色の絵の具を入れてかき混ぜたのに、子どもの頃に絵の具で遊んで落胆したあの汚い色ではなく、不規則なマーブル模様が視界の端まで広がっていて、僕は思わず、綺麗だ、と言った。

 目の前に海が広がっているかのようなのに、足下に打ち寄せる波は海水ではなかった。

 赤子が産声を上げていた。

 そこに次の波が打ち寄せた。

 老婦人が墓地で黒い喪服に身を包んでいた。

 次の波が来た。

 大食い大会で痩せた男がデブを尻目に次々と料理を平らげていた。

 そこに別の波が被さった。

 ジャングルで小銃を持った少年が穴に身を隠し銃声に怯えていた。

 あらゆるものが そこにあり

 あらゆるものが ここになく

 あらゆるものを 等閑視して

 あらゆるものに 触れられず

 「傍観者」という言葉がこれ以上あてはまる人物を他に知らない立場に僕はいた。

 ここはとても美しい場所だけれど、一人で居るのはとても寂しい。

「誰か居ませんか。誰か居ませんか」

 僕は四方に向けて大声を上げる。声があらゆる事物の中に消えていく。

 あ あれは……

 僕の右のやや離れたところに新符さんがいる。

 そこに居たのを見落としたんじゃない。現れたんだ。僕にはそれが分かる。

「榑枚君は、何年何月何日ですか?」

 僕が呼びかける前に新符さんが問いかける。その問いはどうなの? というより前に、言葉が通じることがうれしい。誰だ、言葉が人を隔てているなんて言ったのは。きちんと人をつなげているじゃないか。

「二〇二五年十月十三日です」

「私は二〇二五年七月八日です。榑枚君が三ヶ月後ですね」

 案外近いね。僕もそう思う。

「榑枚君は無事ですか?」

 その問いかけには、情けないけど、正直に答えよう。

「いいや、大変なことになっている最中です。新符さん、本当はこのことを言いたかったのに、僕が何も分かっていないから言えなかったんですよね。ごめんなさい」

 新符さんが泣きそうになっている。

「私の力が足りなかったから榑枚君を悲しい目に遭わせてしまいました」

 その言葉は違う。そのことをはっきり伝えよう。

「それは、目の前を見ていなかった僕も悪いんです。新符さん一人で背負い込まないで」

 僕の言葉は届いただろうか。新符さんはなんとか泣き出すのをこらえている。

「榑枚君、ここに来た意味が分かりますか?」

「今、分かりました」

 そう。今ならはっきりと言える。


「寝てたのかい? この状況で、案外と図太いね。そのくらい大人しくしてもらえると、こちらも助かるよ」

 現世に戻ってきて最初に聞こえたのは憎たらしい男の言葉だった。

 たしかに僕なら国際スパイやマフィアが登場してもおかしくないし、向こうで天国のような生活ができるかもしれない。

 でも、それは僕が選ぶべき未来じゃない。そこには僕を心配してくれる人が側に居ない。

 多岐、考えの足りない奴でごめん。

 櫛秋さん、ダメな僕をうまくいじってくれてありがとう。

 父さん、母さん、家で僕は何一つ困っていません。

 そして新符さん。もう一人じゃないんです。

 あそこでは究極の傍観者だったけど、現世では傍観したまま一生を送ってはいけないんだ。

 どうすれば僕はみんなの元に帰れるか。自分の力で探そう。

 見方はなんとなく分かった。

 現世を視界に入れながら、目のピントを現世に置かず、宙に浮いている「どこか」を見る。

 六日後、セリーグのクライマックスシリーズの優勝者が決まる。

 僕が見るべきものはこれじゃない。

 二週間後、新しいスマホが発表される。

 投資家が喉から手が出るほど欲しがっても、僕が見るべきものはこれじゃない。

 十日後、新聞に発表される世論調査。

 政府はそれが知りたいんだろうけれど、僕が見るべきものはこれじゃない。

 そうやって必死に探して、見えたのは、僕が地面に突っ伏して脇腹を蹴られて左肩を地面に打ち付ける姿だけだった。


 オフィスビルの窓のない狭い部屋で、芦原が通話専用携帯電話で誰かと話している。

「はい……はい…… 今、《予言者プロフェッツ》に確認をとっているところです。急がせろと言われましても、すぐに分かるものではありませんので…… はい……はい…… 直接お話をおつなぎするのは《予言者プロフェッツ》のメンタルに関わりますので…… はい……はい…… 失礼いたします」

 芦原は汗をかきかき電話を切った。

「椎木君、有用な情報はまだかね?」

 椎木は首を縦にも横にも振らず、落ち着いて芦原に答える。

「急がせると《予言者プロフェッツ》のメンタルに関わりますので、あまり無茶はできません」

 芦原は自分の言葉を返されて黙った。

 椎木は柔和な表情を作って新符に問いかける。

「新符君、君が言っていた銃撃戦の様子、今、見えるかい?」

 新符は虚を突かれたようで戸惑いを見せるが、椎木が無言で頷くと、不安に対する後押しと受け取って、やや目を細める。

「場所は海のそば。コンクリートで整備された港です。港に入ろうとする車を警察の検問が止めます。港の横に、大きな橋がライトアップされているのが見えます」

「その橋は、吊り橋かい? 斜張橋かい?」

 椎木の問いに新符がきょとんとした。

「『しゃちょうきょう』って何ですか?」

 芦原も黙っていなかった。

「椎木君、誘導尋問する気かね? 《予言者プロフェッツ》に対して誘導尋問をすると被害が甚大だぞ」

 横からの芦原の苦言に椎木は応じず、ただ新符だけを見て答える。

「塔から、ロープを垂れさせたようにだらんとしたカーブを描いているのが吊り橋で、ロープをピンと張って三角形に見えるのが斜張橋だよ」

 新符は椎木と芦原を見比べるが、椎木が柔和な表情を崩さないので、肯定されたと受け取って目を細める。

「塔から垂れ下がった線がカーブを描いています」

「吊り橋か」

 芦原が手で膝を打った。

「東京近郊は斜張橋が多いが、吊り橋はレインボーブリッジに限られる。位置関係から見て、場所は東京港だな」

 椎木が横の芦原を睨んだ。

「《予言者プロフェッツ》に対して誘導尋問をすると被害が甚大です。あくまで『吊り橋』というだけです」

 芦原は自分の言葉を返されて黙った。

 新符は再び目を細める。だが、まだ他の手がかりが見えない。


 二〇二〇年に《予言者プロフェッツ》の存在が露見して以来、日本も他の国の例に漏れず《予言者プロフェッツ》確保に力を注ぐことになった。

 しかし、政府の中でどの部署が責任を持つのか。それは大きな問題となった。《予言者プロフェッツ》が見つかれば利益は多大。でも見つからなければ活動を公にできないのに国費浪費の誹りだけを受ける。

 結局、引き取り手がない仕事を一手に引き受ける役回りとして総務省が担うことになった。

 その《予言者プロフェッツ》は一億人に一人。それを探し出すのは多大な労力を必要とする。

 そんな中、文科省が提案したのが、小学校・中学校・高校の世代ならほぼ百%の人間を捕捉可能だとして、全国一斉心理検査を行うことだった。まあ、予算が取れればなんでもよかったのかもしれない。

 新符は、その全国一斉心理検査により一年二ヶ月前に見いだされた、日本で唯一公的に認められた(とはいえ、公式発表では否定されている)《予言者プロフェッツ》である。

 他の省を出し抜いて《予言者プロフェッツ》を見つけたことは文科省にとって大きな加点となった。

 その文科省は、今後も全国一斉心理検査を続けると言い出したのだ。

 《予言者プロフェッツ》は一億人に一人。もう日本国の分け前はもらっているのだ。それを新たな《予言者プロフェッツ》を探し続けてどうするつもりか。

 他の省からの反発は大きかったが、手柄を立てていた文科省の意見が通って全国一斉心理検査は継続されることとなった。

 そこに、当の《予言者プロフェッツ》の新符が、二人目の《予言者プロフェッツ》の発見を予言したのである。

 その発言性の妥当性を巡って大激論となった。だが《予言者プロフェッツ》は多く居て困るものではない。政府としては概ね歓迎、という結論になった。

 その、発見を予言した新符が、その直後に、《予言者プロフェッツ》の拉致と殺害を予言した。

 吉報のあとの凶報。インパクトは大きいはずだ。本来なら。

 政府はきっと全力で守ってくれる。新符はそう信じた。

 しかし、大人達の動きは遅かった。

 発見される前は発見された後に対策すればいいと言い、診断が確定する頃からはペーパーテストではまだ《予言者プロフェッツ》の真贋を確認できないから予算と人員を割けないと言い、結局、榑枚を守る特別な手立てが講じられることはなかった。

 《予言者プロフェッツ》が見つかると聞けば喜び、その《予言者プロフェッツ》が殺されると聞けば予言をなかったことにする。

 《予言者プロフェッツ》の話を聞く人間の態度は、その程度のものなのだ。

 榑枚は、大人の予算取りの都合で勝手に見いだされて、大人の予算取りの都合で勝手に放置されて殺害されるのだ。それは実に不幸な話だった。

 新符にとってはどうか。

 日本にたった一人の予言者として祭り上げられた新符は、得た利益より、秘密を抱え生活に制約を課される不利益の方が大きかった。

 それに、なにより、他に同じ思いを共有する人間がいない孤独が彼女を押しつぶしかけていた。

 そこにもうひとりの予言者が現れることになった。

 それはもしかしたら全く話の通じない人間なのかもしれなかったが、奇跡というべきほどの確率で同い年で、人間性とは関係ない項目だがルックスがよく、垣間見える人間性もこの年としては十分に安定していて、そして異性だ。

 榑枚の存在は、新符に孤独ではないと教えてくれるものだった。

 新符は、時折榑枚の姿を見る度に逢瀬として楽しみ、殺害される場面を見て泣いた。

 新符にとって榑枚は、死別することが定められた思い人である。予言が当たって欲しいが、全部当たれば悲劇しか待っていない。

 結末だけ外れて欲しい。そう願うのは新符の言うことを聞かなかった大人達と結果だけ見れば似ている。でもそこに至る経緯と思い入れは、もっと個人的で、もっと感情的なもの。

 オフィスビルの窓のない狭い部屋で、新符はひたすら未来を見る。向かいに座る自分を守ってくれる人の前で、自分の隣に居てくれる人を守るために。

 だが光明が見えない。

 新符は以前に見た光景を思い出した。記憶の中の、優しげな彼は、「新符さんにも分からないことがあるんだね」と笑いかけていた。実際に会った彼は、ちょっと違ったけれど。

 あれ? と新符は急に不思議に思った。

 昨日、榑枚に会ったとき、あの場面はなかった。あの優しげな彼は、《予言者プロフェッツ》の弱点である、実現しない予言なのだろうか。

 だが、別のことも考えられる。榑枚が殺害されない別の未来があるのだろうか。

 新符は、別の未来に賭けたい。そう強く願った。しかし自分の目にその未来が見えない。


 夜の中を走る乗用車のフロントガラス越しに標識が見える。湾岸の高速道路を都内に向かって走って、そろそろ県境を越えただろうか。運転する男も僕と話すのに飽きたらしく黙っている。

 その乗用車が速度を落としてカーブを曲がる。インターチェンジを降りただろうか。フロントガラスの向こうには埋め立て地の巨大な建造物ばかりが見える。

 あ! 今、赤信号を無視した。犯罪を実行中であるだけに、自分に不利な法律はどこまでも踏みにじる気らしい。

 一般道だけれども止まることなく走る続ける乗用車が、なぜかさらに速度を落とし、止まった。男が車から降りた。男がいなくなったので、僕は身体を起こして乗用車の前方を見た。

 車の先には港。小さな漁船はなく見上げるような貨物船ばかりが埠頭に泊まっている。その手前、大きな道路を横断するようにバリケードがもうけられて、パトカーが数台、警察官が十数人並んでいる。そして投光器の灯りがついた。

「そこの男、投降しなさい」

 警察官から、投降するよう呼びかける言葉が数カ国語で放たれる。

 状況から見たら、僕は助かったはずなんだ。

 だけど、あの僕が見た未来はまだ来ていない。

 これから何が起きる?

 男は車に戻ってきて、僕がいる後部座席のドアを開けた。

「警戒するな。俺は君を親御さんに返すつもりだ。ここで捕まっちゃしょうがないしね。ロープをほどくから、大人しくしてろ」

 何かやらかしたら頭突きでもかましてやろうか、でも頭は弱い場所だから自分も怪我しそうだなあ、などと考えていると、男はなぜか自分が言った通りにロープをほどいて、僕を乗用車の外に立たせた。

 その瞬間、男は僕を後ろから左手で締め上げた。そして右手に持っているものを僕の頬に当てる。

 ナイフではなく拳銃だった。

「こいつがどうなってもいいのか!」

 男が凄む。動けない警察官。

「そこの男、投降しなさい」

 決め手を欠いた警察の呼びかけが再び放たれる。

「お前らが欲しいのはこのガキだろ! 無くしちまってもいいのか?」

 男の恫喝が続く。

 時計が錆びついたかのように時間がゆっくりとしか流れない。何分も経っていない。何秒でしかない。それが一瞬でも耐えがたいくらい、緊張した時間が続く。

 男がため息をついた。

「分かった。このガキを解放する!」

 男は僕を占めていた左手をほどいた。そして小声で。

「行け」

 そんなはずがない。僕にはそう思える。

「どうしてそう言うんですか?」

 問われた男は悪びれた。

「もう逃げられないと思ったんだよ」

 僕は、今、僕が見た未来が分かった。

 僕は男にもたれかかる。

「離れろ、ガキ!」

 僕は肘鉄を食らわされて地面にたたきつけられ、脇腹を蹴られた。左肩を地面に打ち付けた。激痛が走る。僕は「見た」だけで、現実には怪我もするし痛みも感じる。声を上げそうになったのを必死にこらえる。

 その次の瞬間は、とてもとても、長かった。


 パン

 パン


 ドサッ


 時系列的には物が倒れる音が最後なのだけれど、最初の二つが爆竹の数十倍の破裂音で、銃声だったということは後で分かった。

 警官が三人、僕の元に駆け寄ってくる。僕が後ろを見ると、男が仰向けに倒れていて、腹から、ナイフで刺された警察官と同じ赤い物が流れ出している。

 話の流れは、こうだ。

 男は僕を生かして返す気なんてなかった。僕が一人で警察官に向けて歩いて行くところを後ろから拳銃で撃つつもりだった。いったん解放したかに見せかけるためにナイフではなく拳銃を選んだのだ。

 僕がとった方法が、一番どころか、普通に正しい方法だったのかも分からない。撃たれたくなかった僕は、撃つと本人も被害を受けるよう、男の懐に入った。男が肘鉄を食らわせたのは、僕を自身から引き剥がすためだった。

 引き剥がして僕を撃とうとする、それよりほんの一瞬早く、警官が男を狙撃した。銃声が二つ聞こえたのは、男が撃たれながらも引き金を引いたからだろう。その銃弾はわずかに軌道が狂い僕から外れた。

 僕は勝った。

 未来が見えるって、こんなに便利なのか? この世の全てが手に入ったのか?

 ハハハハハ

 そんな、心に魔が差した瞬間、警察官が僕を抱え上げた。

「大丈夫ですか?」

 お前らなんかに…… と思ったとき、警察官の頑健な身体と僕の力では全く振りほどけない強い腕力を感じた。

 僕が未来を見たとして、この警察官に何ができる? 素手でケンカをするだけでも打ちのめされるのに、警察官は警棒に拳銃まで持っている。

 警察官に抱えられて上がった僕の視線の先から、警察官が十数人駆けてくる。

 一人でも僕が全く敵わない屈強な男が、視線の先に十数人いる。

 僕が未来を見たとして、彼らに何ができる?

 話を信じてくれる人が何十人と集まらなければ、彼らに取り押さえられて終わりだ。

 僕の話を誰が信じる? ただの高校生の僕を。

 それを大人は人一人守るために十数人の手をかける決断を容易にできる。そうなんだ。

 そもそも警察がバリケードを張らなければ僕は遠いどこかに連れ去られていたんだ。

 世の中は、こんな強い力で動かされているのか。

 未来が見えるからといって、僕にいったい何ができる?

 ははははは

 今度の笑いは力が無い。

「大丈夫です」

 答えた僕の声はかぼそい。

 《予言者プロフェッツ》は、なんて無力なんだ。


「はい……はい……そうですか。感謝なんて滅相もございません。

 解決したようで何よりでございます。

 はい……はい……失礼いたします」

 オフィスビルの窓の無い狭い部屋の中で、芦原が携帯電話で受けていた電話を切った。

 「解決」という言葉に新符が顔を上げた。

 芦原が自信ありげに話す。

「椎木君、警視庁から連絡があった。犯人は射殺。事件が解決したそうだ」

「芦原さん、私たちにとって一番大事なのは《予言者プロフェッツ》候補者です。彼はどうなったんですか?」

 無神経な発言にいらだつ椎木の意に介さず芦原が答える。

「解決したと言ってるだろう。警察に保護されたそうだ。じゃあ私は帰るよ。椎木君、報告書を明日までに上げるように」

 用件を伝え終わると芦原は部屋を出た。残された二人、新符は榑枚が無事であったことに、椎木はそれに加えてうるさい人間が出て行ったことに安堵した。

 半ば放心状態の新符に椎木が語りかける。

「榑枚君は昨日から落ち着いていたらしいけれど、もしかしたら、自分が生き残る未来が見えていたんじゃないのか? これから二人になるんだ。自分だけが未来を見られると思い上がるんじゃない」

 新符はたしなめられて目を見開いた。同じものを観る人が居ることの意味の半分を知った。

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