第三章 二〇二五年十月十二日

 最初の面接の後、僕の生活は拍子抜けするくらい平穏だった。

 父さん母さんへの説明は、知能検査と心理テストを受けただけだった、ということにして、あとはプリントを見せたら、ひとまずは納得してくれた。最後の面接のことは、言わなかったから、聞かれなかった。

 金曜日に学校に行ったら、学級のみんなから、「学校を休んで何してたの?」と聞かれまくったから、うまい言い訳が思いつかず「ちょっと病院に行ってた」ということにしたら「大丈夫か?」と騒ぎになった。うろ覚えの知識で「アレルギーで反応があったものに慣らしていく必要があって、これから毎週通うんだ」と嘘をついたら「それで学校を休めるってうらやましいよな」と嫌みを言われた。そのくらいのことなら、思春期の少年達の馬鹿の一つで済む。

 土曜日は父さんが「少し身体を動かさないか」というので、市内の大きめの公園までバスを使わず往復二時間の散歩。いろいろ聞かれた。

「学校の成績はどうだ?」

「友達は何人いる?」

「部活に入った方がよかったんじゃないか?」

 そんな言葉の一つ一つに

「平凡だよ」

「いつも話すのは二人だけど、学級の中ではみんなと普通に話せてる」

「帰宅部の分、家にいるよ」

 と返していると、なんだか、テレビドラマに出てくる互いの距離感をはかりかねてる家族みたいで、なんだかこそばゆかった。

 そう。平穏だった。

 表面では。

 裏は……

 日曜日に、あの「新符 遥」さんと会うことになっていた。その新符さんとメールを交換していた。

 僕は


  知能検査って、ゲームみたいなんですね。


 とか

 

  ロールシャッハテスト、初めて受けたけど、結果が分からなくて緊張しました。


 とか


  最後の面接、あれは何ですか? 隠し撮り写真に感想を求められても困ります。

 

 と書いて送ったのだけれど、新符さんからの返事は


  細かいことはメールでお伝えしにくいので、お会いしてからお話ししたいです。

  ネットで、榑枚さんの最寄り駅の近くに喫茶店があると調べました。

  そこで話をしませんか?


 と、まあ、内容はかなりはぐらかされていて、「会ってお話ししたい」の一点張り。

 僕は、同年代の女の子が心底苦手。会えば言葉に詰まってしまう。(※櫛秋さんを除く)

 いったいどうしたものか。顔に出せずとも心の奥で悩み続けていた。

 「新符 遥」さんはどうしてそこまで僕に会いたいのか。理由が全く分からない。

 普通、同じくらいの年頃の女の子は、見ず知らずの男子と話をするのは嫌がるんじゃないの?

 そう思ったとき、もしかして、新符さんは男の子と遊び慣れている子ではないか、という疑念が浮かんだ。アプローチが積極的で、高校生では入りづらい喫茶店に入ろうと気後れせずに言う。加えて、あの綺麗な顔。相当男の子をもてあそんだのでは?

 美少女が男の子を手玉にとっている姿を想像したとき、僕は家のリビングにいた。叫びかかって、視界の隅に母さんがいるのが見えた。ここで叫んだらいよいよおかしな子だ。そう思ったから、叫ぶ寸前で口を閉じた。そして頭を抱えた。

 そんな手練れの女の子と、僕がどう話し合えばいいんだ?

 その気がかりが邪魔をして、あの面接以降はなかなか寝付けなかった。土曜日はついに時計を見ながら朝を迎えて、少しハイテンションな頭で朝日を見たのだった。

 待ち合わせは僕の家の最寄り駅のバスロータリーに十三時だから、お昼は僕だけ早めにカップラーメンですませてしまう。きちんと食べた方がいいという母さんには謝った。服装は、デートのような気合いを入れるわけではなく、長袖Tシャツとスウェットパンツ。だらしなさを見せて幻滅してもらうくらいがいい、そう自分に言い聞かせた。

 父さん母さんは、僕が誰と会うのかしきりに気にしている。母さんが僕に聞く。

「季典、友達と遊ぶって、相手は誰?」

「いつもの多岐君と櫛秋さんだよ。前にスマホで撮った写真を見せたよね。心配だったら、あとで二人に聞いていいから」

「そう、心配ないの?」

「ないから」

 母さんは戸惑いながらも詮索を止めた。

 正直、嘘をついていることに胸が痛い。でも、半分は嘘じゃないんだ。ごめん、母さん。

 僕が駅のバスロータリーに向かうと、僕の人生はまだ十六年弱で短いけど、人生で初めての経験をした。

 同い年の女の子を、五十メートル先から、あの子だ!と分かるだなんて、今まで覚えがない。

 肩まで伸びた髪に切れ長の強い目線は、白昼夢や写真で見てはいたのだけれど、実際に肉眼で目にすると、週刊誌のグラビアから抜け出してきたようで、日常感が全くない。

 近づいていくと水色のブラウスと紺色のミドルスカートを着ていると分かるのだけれど、スタイルもかなりいい。

 自撮り写真は顔しか写っていなかったけど、全身姿はさらに魅力的で、思春期の男の子にとってすごい破壊力です。

 どう話していいのかと、思わず息を飲みこんだのが、唾を飲みこんだと思われませんように。

 その、視線の先の美少女が、十メートルほど手前に来た僕の姿を見て……

 どうして?

 どうして?

 どうして?

 どうしてそこで顔がほころぶの?

 一人で立っていたその子は、少し思い詰めたような顔をしていた。それが、僕を見た途端に満面の笑み。

 僕にいったい何を期待しているんですか? 同じテストで少数派と名指しされたことへの親近感ですか? もしかして僕の顔への期待ですか? 僕は、あなたが思っているような、立派な人ではないんです。

 その、満面の笑みを浮かべている美少女から発せられた声は、落ち着きと品がある地声に、少し喜色がのっていた。

「榑枚君ですね。私、新符遥と言います。初めまして」

 これ、僕、どうすればいいの?

「は、は、ははは、はじめまして。ふま、ふ、ふまい、榑枚と言います」

 僕の顔、きっと、ひきつってる。新符さん、僕の顔が見えてないの? どうしてそんなに明るい顔をしているの?

「榑枚君は、政府からの青少年保護特別プログラムを受けることになって、不安じゃないですか? 今日はきちんと説明しますから、安心してくださいね」

 そんなこと言われたって、あなたが、榑枚さんが、今一番のストレス源なんですよ。

「ふ、不安って、不安だねぇ、うん、不安で、不安で、ええっと、なんの、はなし、だっけ……」

「榑枚君、そんなに緊張して、何が気にかかってるんですか?」

「きに、きに、かかるとかかからないとか、ええっと、あのね」

「ハイ! そこでストップストップ!!」

 僕と新符さんの横から、よく通る上に大きい声が割り込んできた。

 声の主は櫛秋さんだ。着ているのは男子のSSサイズジャケットにショートパンツ。完全にボーイッシュ狙い。

 新符さんの顔がにわかに曇る。

「あなた、誰です?」

 美少女の睨みはかなり怖いのだけれど、櫛秋さんはそれでひるむことのない肝っ玉。新符さんの顔をやや見上げる形ながら堂々と啖呵を切る。

「私は、この榑枚君の友達の櫛秋と言います。で、後ろにいるのが、同じく榑枚君の友達の多岐君。今日はね、見ず知らずの女の子から『会いたい』だなんて手紙をもらって困惑しているけれども断り切れなかった純情な榑枚君のために、そんな女、どんな奴か見極めよう!ってことで、友達二人心配してついてきたんです。いけ好かない奴だったら追っ払ってやろうかな~って」

 そう。母さんに「多岐君と櫛秋さんと遊ぶ」と言ったのは半分嘘ではない。

 僕一人では新符さんを前に固まってしまうだろうことは初めから予想できた。男をもてあそぶのはどんな女の子なのかも僕には分からない。だから、同じ女の子の櫛秋さんと、知識と人あしらいを兼ね備えた多岐君に、人物を見極めてもらうため同席をお願いしていたのだ。会いたいとばかり言い続ける新符さんには内緒にして。ちなみに多岐君はパーカーとチノパン。

 新符さんの顔にいらだちが出ている。

「あなたたち、私と榑枚君がこれからする話のことについて、何も知らないのですよね? 関係ない人間は帰っていただけませんか」

 櫛秋さんには蛙の面に小便だった。

「あんたがやった、何にも知らない人間に手紙やらメールやら送りつけて近づこうとするなんて行動は、疑われることは承知の上でしょ? それとも、そんなに他人に聞かれたらやばい話で榑枚君を釣るわけ?」

 新符さんは静かに怒っている。

「榑枚君とは、同じプログラムを受けている以上、共通の話題があります。あなたたちがいなくても心配ありません」

 櫛秋さんは新符さんを放って僕の方を見た。

「ねぇ、今、彼(※僕のことだ)を見て、ゆっくり話ができる状況だとお思いですか?」

 新符さんは、僕を見ると急に表情を和らげる。

「榑枚君、事情の分からない人に割り込まれて、迷惑じゃありませんか? だから本当のことが言えないのですよね?」

「そ、そうじゃなくて、あの、あの、あの、に、新符さんと、話が、しづらい、というか、いや、きらっ、嫌ってるわけじゃないけど、その……」

「榑枚君、そんなに緊張してどうしたんですか?」

 櫛秋さんがため息をついた。

「この子ね、顔はいけてるけれどね、女の子を前にすると言葉もろくに話せない、どうしようもないヘタレなの。緊張している理由は、見ず知らずのあなたと二人きりで会話する羽目になったからよ」

 新符さんの顔色が変わった。美少女が「切れる」ところを初めて生で見た。

「榑枚君はそんな人じゃありません」

「あなたが榑枚君の何を知ってるの?」

 四人の口が止まる。まるでテニスでサービスに対するリターンエースが決まった瞬間のような空気が漂う。

 新符さんがばつの悪そうな表情を見せ、僕たち三人を交互に見る視線はさっきまでの力を失っていた。

「たしかに、会うのは初めてですが……」

 下から見上げる櫛秋さんの方が胸を張っている。

「そうでしょ。手紙やメールを何通か交わしたからって、人となりが分かるわけじゃなし。事前リサーチしたつもりが外してヘマ打った? それとも勝手な思い込み? 心理テストで問題ありって言われた子だもんね」

 櫛秋さんと新符さんの間に多岐君が割って入る。

「まあまあ、二人ともそのへんにして。杏、最後の一言は余計だ。新符さん、って言いましたね。やましいところがなければ、お話を僕たちにも聞かせてもらえませんか。榑枚は、こうして心配してくれる友達がいる、いい奴なんですよ」

 ナイスフォロー、多岐。

 新符さんはしげしげと多岐を観察していたが、多岐も図太い人間なので敵意がないことを示す外交の微笑みは崩さない。

 新符さんが、はぁ、と一つため息をついた。

「分かりました。榑枚君にはいい友達がいるんですね。ええっと、お名前は?」

 新符さんが折れた。これは助かった。でも、二人の名前ならさっき言ったよ? 心底関心がなかったんだね。ほら、櫛秋さんがむくれてる。それを多岐が左手で穏やかに制する。

「彼女は櫛秋って言います。俺は多岐です。よろしくお願いします」

 新符さんが二人に向かうと、頭を下げた。

「櫛秋さん、多岐君。榑枚君のことを騙しているのではないかと思われるかもしれませんが、悪いようにする気はありません。どうか信じていただけませんか」

 新符さんはほんとうに高校生だろうか。同級生でこんなに整った口上をすらすらと語れる子はいない。疑ってる訳じゃないんだ。でも、なんだか不思議な気分。

 それに対して櫛秋さんは普通の高校生だけれど、大人じゃない分、落ち着いた振る舞いにコロッと騙されるような子じゃない。まだ警戒してる。

「信じてもらえるかどうかは、これからのあなたの行動次第だけどね」

 二人、どうかな。数秒沈黙が流れたところで多岐が僕に目配せした。この辺でいいだろう、ということか。そして、ここは僕が音頭をとれ、と指図されたのだ。え……ど、ど、ど、どうしよう……

 一度息を飲みこんで、ええっと……

「じゃ、じゃあ、ここ、では、立ち話、立ち話もなんだから、どこか、座れ、る、場所、に、行こうよ」

 相変わらずしどろもどろ。自分に負い目があるから、特に女の子の表情が、悪い方に悪い方に見えてしまう。

 でも、新符さんは、そんな僕にも落ち着いて見えた。

「この近くに喫茶店があるそうですね。そこに行きませんか?」

 櫛秋さんがむくれた。

「喫茶店は高い! ハンバーガー屋の百円コーヒーで十分!」

 僕は納得しちゃった。高校生が喫茶店って、あんまり行かないよね。そういえば、新符さんは高級住宅街に住んでる子なのだっけ。東京を挟んだ向かいの県から電車で来てるし、お小遣いに余裕があるんだろうか。発想が違うなあ。

 そして、ここに多岐の助け船は出ないことを僕は確認した。あの……あの……あの……

「新符、さん、みんな、も、いる、いる、し……ファーストフード、でいいんじゃ……ないかな……」

 ここでようやく多岐の笑顔。多岐、新符さんに頼み事をするときは、全部僕に振る気か?

 悔しいけど狙いは当たっているようで、新符さんは僕に話しかけてくる。

「分かりました。じゃあファーストフード店に行きましょうか?」

 うん。いいよ。

 って、誰が音頭をとるの?

 もしかして、僕?

 なに、その、多岐のニヤニヤした顔は?

「じゃあ、行こうか……」

 僕が背を向けて歩き始めると、新符さんと櫛秋さんと多岐が後についてきた。多岐と櫛秋さんは、背中を押すだけで、引っ張ってくれるわけじゃないのか…… ええっと、櫛秋さんの言ったようにコーヒーが百円のハンバーガーショップは……

 ハンバーガーショップに着いて、席がないと困るから先に多岐が客席を確認しに行った。カウンターに戻ってくると多岐は指でOKの丸を作った。これでひとまず座れるか。

 僕たち四人はそれぞれに自分の飲み物を注文する。僕は櫛秋さんの言葉が頭に残っていたからコーヒーを頼んだけど、多岐はコーラを頼んでいた。そうすればよかったか。新符さんは紅茶。なんとなく「らしい」と思った。櫛秋さんはコーヒー。櫛秋さん、そんなに大人なの? それともお小遣いを気にしてるだけか。

 四人でテーブルに座る。三対一だけど、敵味方に分かれて向かい合うことはせず、社会的立場に沿って男性二人と女性二人が向かい合って座る配置になった。多岐が「話の前に少しだけ飲みますか」と促したから、僕たちは各自の飲み物を一口二口飲んだ。みんなが味わったところを多岐が確認した。

「じゃあ、そろそろ話に入りましょうか。話の前に、新符さん、自己紹介をお願いできませんか。僕たちにとっては初めてだし、一番事情を知っている人から打ち明けてもらわないと、こちらはハンディキャップを抱えることになるしね」

 多岐がここまで積極的になるとは思わなかった。この前振りはかなり攻めている。断られたら、どうする?

 新符さんは手を口にやり少し考えて、紅茶を一口飲んで、顔を上げた。よかった。多岐の提案は受け入れてもらえたようだ。

「私は新符遥といいます。榑枚君と同じく、政府の青少年保護特別プログラムを受けている高校一年生です。

 あ。話が急でしたね。

 多岐君と櫛秋さんのお二人も私と同い年ですから、学校で定期的な心理検査を小学六年生の頃から受けてきたと思います。

 その心理検査は、精神的に特殊な傾向を持つ生徒を見つけるためのものです。一回のテストでは結果は出ず、数年にわたって一定の傾向が見られないかを確かめます。

 榑枚君は、継続的に傾向が見られたことから、つい先日に要観察と診断され、特別プログラムを受けることになりました。

 私は一年二ヶ月前に要観察と診断されて、そのプログラムによる指導を先に受けています。いろいろ事情を知っているので、榑枚君にこれからのことをお話しできます。

 多岐君と櫛秋さんに分かって欲しいのですが、あの心理検査で要観察と診断されたことは、犯罪や自殺などの問題とは無関係なんです。お二人に言うのもおかしな話ですが、榑枚君はいい人だと思います。そんないい人がどうして特別指導が必要なのか、疑問を持つと思います。でも、榑枚君は悪い人ではないし、ましてや犯罪者予備群と見なされている訳ではありません。ただ、ある一定の傾向を持つ青少年を保護するために政府がプログラムを組んでいるんです」

 え? 悪い人でも犯罪者予備群でもない?

 それって、何でもない子を勝手に特殊だと決めつけて週一回心理テストとかカウンセリングとか受けさせるってこと?

 なんでそんな損をしなきゃいけないの?

 それを当たり前のように受け入れて政府のスポークスマンのごとく語る新符さんは、何を考えてるの?

 まじまじと新符さんの顔を見たら、新符さんは笑顔で返した。

 その新符さんを見て、一つの言葉が脳裏に浮かんだ。


 囚人


 新符さんは、何の罪でそんな獄に囚われた? 責め苦を受ける理由がどこにある?

 それと同じ罪を僕が負ってるって、嘘でしょ?

 ………………

 待て、待て、待て。なんで話がそんなに大げさになってるんだ。もう中学二年生じゃないんだ。厨二病は卒業する頃だ。ただの生徒への生活指導じゃないか。ちょっと変わってるだけだよ、ちょっとだけ。

 周りを見ると、多岐は外交の微笑みを崩していないが、櫛秋さんが不信感をあらわにしている。コーヒーから手を離して、新符さんを睨み、論戦に持ち込みたい様子がありありと見える。

「『一定の傾向』って、なに? 私だって、ここにいる多岐君(※初めて見る人に紹介するから苗字で呼んだんだと思う)だって、人知れず悩みはあるわよ。その悩みを、あなたは知らないだろうけど、私はネットの生中継にぶつけてるし、多岐君だって一人で努力して解消してるのよ。それを、ある傾向の子だけ政府が保護するって、そんな特別扱い、おかしくない?」

 新符さんは落ち着いている。紅茶を一口飲んだ。

「榑枚君にひどいことをしているんじゃないかと疑ってるんですか?」

「話が旨すぎるから、疑って当然でしょ」

「だとしたら、話が旨くなかったら信じますか?」

「それはそれで、榑枚君がひどい目に遭うのは許せないけどね」

 櫛秋さん、どっちに倒れても新符さんを責める気なんだね。コーヒーが冷めるのもかまわず新符さんを睨んでるよ。その櫛秋さんを落ち着いて見つめる新符さんが答える。

「正直に言うと、榑枚君にはいいことばかりではありません。つらい立場になることもあります。自分で言うのは変ですが、私もこのプログラムを受けてつらいときもあります。ただ、理由なく行われるプログラムではないんです」

「その『理由』ってなによ?」

 新符さんの返答を櫛秋さんは一言で切る。

 そこから、二人の間に沈黙が流れる。

 十数秒経って、先に言葉を発したのは櫛秋さんだった。

「言えないの?」

「お二人には言えません」

 新符さんが、初めて苦しげに答えた。

「言えないって、言えないことやってるって自覚あるんでしょ?」

「言えないこともあるんです」

 二人はにらみ合う。沈黙が肌に痛い。

 多岐がテーブルの向かいから両手を伸ばして櫛秋さんと新符さんを制した。櫛秋さんが仕方なく新符さんをにらみつけるのを止めると、多岐は腕を下げた。

「新符さん、そこ、すごく大事なところです。国が行う特別指導、しかも内容は非公開。普通だったら高校生のたわいない嘘だと捨てるところです。でも新符さんは榑枚が特別指導を受けることを榑枚自身より先に知っていた。何か知ってるのは確かなんですよね。

 知ってること、榑枚には言えますか?」

 新符さんはしばらく逡巡した。そして小さな声で一言。

「榑枚君には、言えます」

 多岐は一つうなずいた。

「だったら、榑枚にはありったけ話せるように、二人きりになってもらいますか。その代わり、この子と俺に事実を伝えるかどうかは榑枚が判断する、ということでいいですか?」

 新符さんが顔を上げた。

「二人きりになっていいんですか?」

 多岐はもう一つうなずいた。

「いいですよ。この街、小さいけど、カラオケボックスもあるんです。三十分ほど二部屋借りて、二手に分かれて話し合ってもらうってことでいいですか?」

 櫛秋さんがすかさず突っ込む。

「カラオケボックス台払うの?」

「俺が言い出したんだから杏の分は俺が払うよ」

 多岐の提案に櫛秋さんは渋々承諾した。

 その様子を見て取った新符さんは多岐に頭を下げた。

「お願いします」

 多岐は最後にもう一つうなずいた。

「じゃあ二手に分かれますか。頼んだ物を飲み終わってないから、飲み終わるまで休憩ってことで。榑枚、きちんと新符さんをエスコートしろよな」

 せっかく多岐が引っ張ったのに、なんで急に僕が?

「多岐が提案したんじゃないの?」

「彼女は榑枚の客だろ。女性のエスコートぐらいきちんとしろ」

 嫌だ……とは、新符さんの手前、口に出せなかった。

 四人で飲み物を飲み終わって、僕が「こ、こっち、へ」と案内すると新符さんはついてきた。挙動不審な僕に新符さんが呆れないか、すごく気が重い。多岐と櫛秋さんも同じカラオケボックスに行く訳だからついてくる。

 ハンバーガーショップを出て、交差点で信号待ちをしているところに、後ろを見ていた多岐が僕の背中をつついた。

「榑枚、あすこに背広を着た男性が見えるか?」

 多岐が手で示した、僕たちの右斜め後ろに、僕たちの方を向いてはいないけれど、歩くわけでもなく立ち止まっている一人の男性がいた。

「あの男性、駅のロータリーで待ち合わせたときにもいたぞ」

「多岐、本当?」

「本当だ」

 改めて見ると、男性は、時折チラリチラリとこちらを見る。

 どうして男性がついてくるんだろう。一番危ないのは……

 そう考えたとき、女性で、しかも極めて優れた容姿をした新符さんが目に入った。

 これは新符さんに言わなきゃいけないんだろうか。

「あ、あの、新符さん……」

「なんですか?」

 新符さんの返答に、口がうまく回らない。こんな時に言葉が出なくて男子としてどうする。なんとか勇気を振り絞る。

「向こうに、背広を着た人がいて……駅のロータリーからついてきてるんだけど……新符さん、トラブルとか……あった?」

 新符さんは後ろを見たが、特に怯えた様子はない。

「そんな怪しい人に見えませんよ」

 そう行ってる側から、その男性はこちらをチラリと見て、僕には怪しく見えて仕方がない。「そうかな……」

 そのとき、信号が青に変わった。

「早く行こうよ」

 櫛秋さんに引っ張られて僕たちが横断歩道を渡り始めると、背広の男性もこちらに向かって歩き出した。後をつけられてるのだけれど、なぜだろう。新符さん、警戒心なさ過ぎです。

 カラオケボックスは、この街ではたまたま、駅前ロータリーの脇にある。僕たちから見ると、ハンバーガーショップからちょっと駅に戻った場所。小さな街に似合いの小さなカラオケボックス。カウンターには男性店員が一人。大学生くらいか、少々無愛想。

「四名様ですか?」

「はい」

 僕が先頭に立つことになっているからそう答えたら、多岐に後ろから小突かれた。そうだ、大事なことを忘れていた。

「すみません、二部屋空いてますか?」

「二部屋ですか? 一部屋でも入れますよ」

 店員はやはり無愛想に答える。僕は仕方なく頭を下げた。

「ごめんなさい。短い時間で早く回したいんです。三十分でいいですから」

 これは当然、嘘。でも、この場を乗り切るためには仕方ない。

 店員は無言でカウンター内のパソコンを操作した。

「三十分、二部屋ですね。空いてますよ」

「ありがとうございます」

 僕は思わず頭を下げてしまった。

 他のカラオケボックスも同じだろうけれど、利用料金にはソフトドリンクが一つついてくる。さっきハンバーガーショップで飲んだばっかりで喉は渇いていないけど、断るのも怪しまれるから、何事もないかのように皆が注文する。新符さんはやっぱりアイスティーだったけど、櫛秋さんは乳酸菌飲料を頼んでいた。なんだ、お小遣いが気になっていたのか。

 案内された部屋は通路の途中の二つの並び。手前で多岐に小突かれて、新符さんに「こちら、へ……」と声をかけると、新符さんはすんなり入ってくれた。多岐が「がんばれよ~」と言いつつ手を振る。ハイ。頑張ります。

 ドアを閉めると新符さんは先に座っていた。

 少しくらい照明。最近のリクエスト上位を紹介し続ける液晶テレビ。部屋の見かけだけ見ると、まるで何もかも忘れて遊びで入ってきた場面のようだ。

 でも、僕と新符さんはそんな関係じゃない。

 僕はドアから見て手前側、テーブルを挟んで新符さんの向かいの席に座った。

 すると。

 新符さんは立ち上がり、歩いてやってきて、僕の隣に座った。そして身を大きく乗り出し、顔を僕の顔に近づける。その顔は、どこか、とろけた、という単語が似合っていた。

「やっと二人きりになれましたね。ずっとこうしてお話ししたかったんです」

「か、顔、近いです!」

 新符さんはさらに顔を近づける。

「私、うれしいんですよ」

 これ、どこを見よう。

 思わず目を逸らすとき、みんなはどこを見るかな? みんなは下を向くよね。

 僕も下を向いた。

 そしたら、視線の先には新符さんの胸の膨らみがあったんだ。

 このままだと何も考えられなくる。危険だ!

 僕はとっさに反対側の壁を向いて、両手のひらを新符さんの顔に向けた。

「あ、あの、あの、あの、話し合いに、来たん、です、よね? その、ちか、近づきすぎ、ですから。落ち着こう!」

 横を向いた僕の視界の一番端っこで、新符さんが少し寂しげな表情をして、身体を起こし、座っている場所も僕からやや距離をとった。

「嫌でしたか?」

 女の子を悲しませるのは僕だってやりたくないんだ。新符さんが綺麗すぎるのが悪いとも言いたくない。ただ、今日は、そういう目的で会ってるはずじゃないんだ。

「ちょっと、慣れて、なくて…… あの、その、嫌いじゃないです嫌いじゃないです嫌いじゃないです。ただ、少し、冷静にな、りましょう。話し合いに、来たんですよね?」

 こんなどうしようもない僕で、どうしよう。これは話し合いにならないぞ。

 しかし新符さんは、なぜか、

 クスリと笑った。

「榑枚君が落ち着いてませんけどね」

 うん。そうだ。

「そうだね。そうだね。僕が落ち着かなきゃ。そうだね」

 ここは仕切り直しだ。僕は自分のウーロン茶を一口飲んだ。

 こんなダメな僕を、この子はどうしてやさしく受け入れてくれるのだろう。不思議でならない。

 追い詰められているのは彼女なのに。

 ここでまた、僕が何の根拠もなく不埒な考えをしていることに気づいて、僕は憶測を頭から振り払いたくて頭を横に振った。

 僕が一連の、事情を知らない人が見たら「下心を隠しきれない少年が女の子との距離をつかみ損ねて妄想を抱えたまま自爆している」と見るだろう行為を済ませて、改めて新符さんの顔を見ると、新符さんは穏やかに、でも慎重に、声をかけてきた。

「榑枚君が、国の特別プログラムを受けることになって、困惑していることは、私も分かります。先に受けたテストや面接の意味も知りたいだろうと思います。でも、先に私から一つ聞かせてください。榑枚君は、未来を知りたいと思ったことはありますか?」

 ドクン

 心臓が跳ねた。

 なんで、目の前の、この女の子は、僕の心の傷を知っているのだろう。

 さっき新符さんは「心理検査は、精神的に特殊な傾向を持つ生徒を見つけるためのもの」だと言った。「数年にわたって一定の傾向」とも言った。

 あのテストは、僕が持っているような、叶うはずのない望みを抱えた子どもを見つけるためのものなのだろうか。こんなちっぽけな僕のような、たわいもない子どもの悩みを救うために、国は何をするというのだろう。

 好意を寄せている女の子に対してしどろもどろになっている、場合じゃない。

 ここで答えるべきは、「ハイ」でも「NO」でもない。

「もしかして、新符さんは、未来を知りたいと思ったんですかの?」

 新符さんは、答えるのに間を置いた。僕の言葉を咀嚼して組み直すのに時間をかけてくれたのだろう。

「あのテストで何を調べているのか、詳しくは言えないんですけど、要観察と診断される人は、大体似たような気持ちを持ってるんですよね。榑枚君は《予言者プロフェッツ》に会いたいと思ったことはありますか?」

 その単語が、ここで出てくるとは思わなかった。あの心理テスト、そんなに正確なものだったのか。

 この設問自体は、ありふれた話なんだ。ありふれているけど、僕の個人的な思いがある、その微妙なニュアンスを、どうやって伝えよう。

「それって、当たり前で、誰だって会いたいと思いますよね。未来を教えて欲しいと思いますよね。僕も、そうなんです。だけど、それで、心理テストに引っかかるというか、わざわざ要観察と言われるのはどうだろうというか、そんなに他人より強く思っているというのは、思っていませんでした……」

 目の前の、一年以上早く要観察と判断された、新符さんはどうなんだろう。無粋な質問かもしれないけれど、聞いてみないではいられなかった。

「新符さんは《予言者プロフェッツ》に会いたいと思っていたんですか?」

 新符さんは納得の笑みを見せた。

「とっても、会いたいと思ってました」

 その笑みは、悩みを抱えて占い師を頼る客はけっして浮かべない(彼らはもっと深刻だろう)ものだった。なんだか、恋する女の子が思い人を想像したときに見せる笑みに見えた。

 もしかして、指導を受け続けていれば《予言者プロフェッツ》に会わせてもらえるの?

 それはとっても甘い考えだったから、いったん自分の頭の隅に押しやった。国が、わざわざ費用をかけて、未来を知りたいと思っている子に特別に未来を教えてくれるなんて、そんなことをあんな手間暇をかけてやるはずがない。

 もしかして、未来を知りたいと思っている子どもは将来問題を起こすことが研究で分かったりしたのだろうか。犯罪? 中でも殺人? いや、経済的な詐欺? 待て、待て。新符さんはこうも言ったじゃないか。「あの心理検査で要観察と診断されたことは、犯罪や自殺などの問題とは無関係なんです」と。僕は犯罪を行うようなことは(善人ではなく人並みだけど)ない人間なんだ。

 なら、ただ叶うはずのない望みを抱えて自分で自分の首を絞めている子どもを、どうして国が救おうとするんだろう?

「僕から聞きたいんですけど、未来を知りたいと思ってる子どもが、特別に犯罪を行うとか言う話じゃないんですよね? 特に問題にならないような子ども達を、どうして国は保護するんですか?」

 新符さんは再び間を置いた。その表情は、少し影がさしていた。

「事情は、そう単純ではありません。でも、このプログラムを受けていれば、いずれ教えてもらえます。そのことだけは、私からではなく、これからのプログラムで教えてもらって欲しいんです」

「説明したいって言いましたよね?」

「そうです。でも、このことだけは後で聞いた方がいいんです」

 ひどいはぐらかしだ。形だけ見れば。

 でも、僕の頭の片隅に、また、あの不埒な考えが浮かんできた。

 新符さんは本当に追い詰められている。あるかどうか分からない希望にすがっている。僕はさっき言ったように、未来のことを先に知りたいという気持ちが人一倍強い人間だ。だから国の心理テストに引っかかるところまで来てしまった。だけど、僕の質問の答えは、現実になるまで知ってはいけない。先回りして知ってしまったら……

 新符さんは壊れる。

 僕は新符さんを守らなくてはいけない。

 この考えを頭から追い払う気持ちは、なぜか、無い。

 僕はいろいろあっても、気持ちを振り絞って次の言葉を発した。

「それなら後で教えてもらいます」

 新符さんが大人しくなった。この場を持たせないといけないな。

「ちょっと話は変わりますけど、面接で受ける知能検査なんて、僕、初めて受けました。結果は教えてもらえるんですか? 新符さんのIQは? 新符さん、言葉が丁寧ですよね。頭良さそうです」

 白々しく頭をかきながら話題を変えると、新符さんは軽く乗ってきた。

「小学校の時にペーパーテストの知能検査を受けたと思うけど、面接で受ける知能検査は、その人の経歴で学んできたものと、生まれつき持っているものの、区別がつきやすいんですって。大人になったら、いい学校を出ていていろいろ知ってるってことを、知っている方がいいときと、無視した方がいいときとがありますよね。そこが両方分かるのが、あの検査のいいところだって教えてもらえました。結果が出るまで何日かかかるので、後で教えてもらうといいですよ」

「新符さんのIQは?」

「そんなの、体重を教えるくらい恥ずかしいですよ」

 新符さんは僕にやさしく対応してくれる。僕も、珍しいくらい、まともに話せている。女の子相手にこんなに話せるなんて、櫛秋さんを除いたら、何年ぶりだろう。話すって、とっても、気持ちいい。こんなことなら、一時間でも時間をとればよかったな。このすぐ後で多岐や櫛秋さんと会うのか。

 多岐と会う、そのことを思い出して、僕は自分の「宿題」を思い出した。せっかく時間をとってつきあってもらって、多岐の忠告を無駄にするわけにいかない。

 新符さんにはちょっと失礼だけど、今の様子なら、話を切り出していいかな。

「ところで、新符さんに聞きたいんですけど、僕が要観察と診断されたこと、僕より先に知ってましたよね。誰から聞いたんですか?」

 その途端、新符さんがちょっと困った様子を見せた。手をもじもじさせて、視線がちょっとよそを向いて。そのまま、ゆっくりと語り始めた。

「あの、私、特別プログラムを受けてる他の人に会ったことがなかったんです。それで、カウンセラーに『似たような人に会いたい』とずっと言ってたんです。そうしたら、新符君がカウンセラーの間で要観察と診断されたときに、そのうちの一人が私に教えてくれたんです。私には仲間がいないとダメだと思ったんでしょうね。でも、それがよかったんです。似た人がいると聞いて、本当に安心しましたから……」

 新符さんは変わらず手をもじもじさせている。

 僕は。

「そうですか」

 とだけ答えた。

 

 話は水曜日の学校に戻る。

 新符さんからの手紙が届いて、先生からは特別プログラムを受けろと言われて、混乱していた僕は、多岐と櫛秋さんに相談をお願いして、水曜日の放課後に話を打ち明けた。

 櫛秋さんが新符さんの手紙を手に取ってピラピラと見ている中、多岐はつむっているのか分からない目を少し開けて、心配そうに僕に語った。

「榑枚がこの子に会いたいって言うなら、俺らは応援してもいい。杏も榑枚のことは心配しているから。ただ、この話、おかしなことが多すぎる。

 そもそも、カウンセリングなど精神医学の情報は、部外秘、外部の人間には教えないのが絶対なんだ。原則には例外がある、という話じゃすまない。絶対破ってはいけないルールなんだ。まあ、精神医学に限らず、医学全般が本人の許可が無い限り部外秘なんだけどな。

 それが外部に漏れている、ということは、問題はその「新符 遥」だけじゃない。特別プログラムを運営する組織にも問題があると言うことだ。

 榑枚。こんな手紙が届くということは、特別プログラムに参加すれば情報を守れない組織に精神の健康と自分の将来を預けるってことなんだ」

 そりゃあ、先に手紙が届くのは何かおかしいのは理屈から分かっていた。とはいっても、「新符 遥」は嘘をついていないという点では誠実だし、先生に目をつけられていて特別プログラムから逃げられない。それに、例の、「新符 遥」を助けたいという不埒な考えも心のすみっこにあった。

「そんなこと言ったって、先生に『行け!』って言われてて逆らえないんだし。どうしろって言うの?」

 多岐は手のひらの上に顔を乗せる「考える人」のポーズから少し顔だけ正面に向けた姿勢で語った。

「国の方には『おかしい』と言ったら、どんなペナルティがあるか分からないから、黙ってるしかないだろうな。でも、その手紙を書いた『新符 遥』という女の子には、特に利害関係はないんだろ? その子に会ったら『どうやって知ったの?』と聞いてみろ。まともなセンスをしている人間なら、話が漏れていること自体がおかしいことを知っているから、はぐらかすか、しらを切るか、とにかく、自分のことを守ろうとするはずだ。『他人から聞いた』とか『書類を見た』とか言ったら、国の方の問題より、その女の子の考え方に問題があるという証拠だ。これから関係を持ち続けていいか、その判断は重要だろ。これ、榑枚の『宿題』な」

 女の子相手に正面から切り出すことは、とても想像がつかない。

「そんな無茶言わないでよ……」

 机に突っ伏した僕の頭を多岐はポンポンと叩いた。


 目の前の新符さんは、まずいことを聞かれたという様子は見せているけれども、他人から聞いたとはっきり言った。

 せっかく打ち解けたのに、話が弾んだのに、正面切って言えたのに。目の前の美少女は信頼してはいけないという証拠ができてしまった。

 こんな悲しいことってあるのか。

 僕が対応に悩んでいる最中に、スウェットパンツのポケットに入れたスマホが震えだした。邪魔だと思った。今は大事なのにと思った。それでも長い間切れないものだから、ポケットから取り出して画面を見たら、多岐からのString通話呼び出しだった。

「新符さん、ごめんなさい。隣の多岐からの電話なんです」

 新符さんに一言謝って通話ボタンを押した。その瞬間、カラオケルームの賑やかな音楽が流れてきた。

「榑枚だけど、どうしたの?」

「いやさあ、三十分予約したのはいいけど、そっちが話し終わってから俺たちと話す時間を作るのを忘れてたからさあ、本当に悪いんだけど、キリのいいところで切り上げてこっちに来てもらえないかなあ?」

 多岐は通話の向こうで音楽にかき消されないよう大声を上げていた。

 僕と新符さんは、キリがいいと言えばそうだ。

 僕はスマホの受話器に手を当てて新符さんにたずねる。

「新符さん。多岐が、話し合いの結果を聞きたいと言ってるんですが、ここで話を終わらせても……大丈夫ですか……?」

 新符さんはポーチからスマホを取り出して画面を見た。きっと、三十分フルに使ったか確認したいのだろう。僕も見たけど、二十数分経っていたから、頃合いとしては十分だ。新符さんも納得したのか、ポーチにスマホを戻して答えた。

「分かりました。お二人に話をしましょう」

 僕はスマホで多岐に連絡する。

「こっちは終わった。今から行く」

「分かった。待ってる」

 通話を切ってスマホをスウェットパンツのポケットに入れて、僕は新符さんに呼びかける。「じゃあ、行きましょうか」

 僕が立ち上がっても、「分かった」と言ったはずの新符さんが立ち上がらない。

「どうしましたか?」

 新符さんは力なく。

「何でもありません」

 と答えた。僕が手招きで促すと、新符さんはようやく立ち上がった。

 僕と新符さんが隣の部屋のドアを開けると、いきなり爆音が飛び出してきた。中は櫛秋さんのオンステージ。

 このままじゃまずい。

 僕は慌てて新符さんの手をつかみ部屋の中に引き入れ、ドアを閉めた。

 それを見た多岐がにやりと笑った。

 しまった。僕はなんて事をしたんだ。さっき新符さんの手をつかんだ右手をまじまじと見てしまった。

 歌っている櫛秋さんは、そんなことお構いなし。自分のステージを続けている。

 それは立派なエンタメだった。

 曲は、最近名前が売れてきた多人数アイドルグループのシングル曲。櫛秋さんは、マイクを持ちながら、アイドルがステージで見せる振り付けを完璧に舞ってみせる。それでも息は上がらない。聞かせどころにオリジナル以上の抑揚をつけて、女の子の青い恋心をポップに歌い上げる。さっきまで聴衆は一人(もはや「衆」じゃない)だったのに、この熱の入れよう。それは「プロ意識」と呼ぶべきものだった。

 部屋に入った新符さんは、極めつきの美少女が我を忘れたように見入っている。さっきまでキャンキャンと騒いで突っかかってきてばかりだった子の、意外な一面を見たからだろう。

 曲が終わると新符さんが小さく拍手をした。櫛秋さんが一礼した。

「もしかして、プロを目指してるんですか?」

 新符さんの問いは、僕と新符さんがこの部屋に入った理由を考えれば場違いだ。でも櫛秋さんは、ここでは自分が主役で当然、という堂々とした態度で答える。

「プロを目指すかどうかは、半々だね。でも、プロを目指しても、なれる確率は数百分の一じゃないかな。自分のルックスが正統派美少女じゃないのは自覚してるしね。でも、見てくれる人がいて、きちんと期待に応えられると、そんなCDが何万枚も売れるアイドルじゃなくても『私、生きてる』って感じでうれしいね」

「誇りがあるって、いいことだと思います」

 さっきまでとはうって変わって相手を認める新符さん。そこに櫛秋さんはアイドル張りの笑顔で応えた。二人は少しはわかり合えただろうか。この場面を見られたことは僕にとってもよかったと思う。

「杏、お前のステージは終わりだぞ」

 すっかり芸能人モードの櫛秋さんに多岐が茶々を入れた。そして多岐は僕に話を振った。

「榑枚、話し合いの結果を聞こうと思ったけど、うまくいったようだな。榑枚が女の子の手を引くなんて、大胆なことをするくらい打ち解けたんだからな」

「えっ? 嘘? 意外!」

 多岐、変なところだけピックアップしないで! 櫛秋さん、いつもの僕から想像できないからって、そんなに驚かないで!

 僕の顔、今、赤いんじゃないだろうか。

 だって、隣の新符さんの顔が急に赤くなったもの。

「そんなおかしなことはしていません。きちんとこれからのことについて話し合っただけです」

 新符さんは声量を上げて否定する。櫛秋さんは軽くあしらう。

「誤解しないで。あんたのことを認めたんだから。榑枚君は多少の色仕掛けでコロッと落ちるような子じゃないのは知ってるしね。どうやらまともそうね」

「どうやらって……」

「出だしが最悪だったじゃない」

 え、新符さんと櫛秋さん、またケンカ? ここで揉めたら困る!

 と思ったけれど、よく見てると、二人の顔は怒っていない。間の空気に、間合いをつかんだ同士がふざけて互いのウィークポイントを軽くつつく、つつく側の手加減とつつかれる側の寛容さが、わずかながら存在する。打ち解けたようで、よかった。

 多岐が新符さんに声をかける。

「じゃあ新符さん、最後の話もあるだろうから、座ってもらえませんか。俺と杏からは詳しくは聞かないけれど、榑枚とはきちんと話ができたということでいいですか。新符さんから見て、榑枚に近い俺たちに、何か聞きたいことはありますか? 多少なら答えますよ」

 新符さんは席に座ると、なぜか僕の方を見て、それから多岐と櫛秋さんを見た。

「お二人には聞きたいことがいろいろありますが、時間がなさそうなので、一つだけいいですか。榑枚君、最初は話が全然できなかったのですが、いつもああなのですか?」

 櫛秋さん、そこでニヤニヤするのは止めて。隣の多岐もか……

 答えたのは多岐だ。

「俺は中学校から榑枚と知り合ったけど、そのときにはもう、女の子を目の前にすると全然話せなくなってました。杏は、俺が連れてきて、散々つきあわせて、強引に慣れさせたんですけどね。榑枚、理由を説明してあげたら?」

 多岐が僕に話を振った。周囲の視線が僕に集まる。新符さんまで、何をそんなに興味深そうに見てるの?

「僕が話さないとダメ?」

「だって俺、榑枚から詳しい話を聞いたことないもん。説明できないよ」

 そうだった。誰にも話したことないんだった。あれは……

「恥ずかしい話なんだよ。したくないよ」

「こんなかわいい女の子が興味持ってくれてるのに、答えないわけ?」

 新符さんが、多岐の言う通り、興味津々に僕を見ている。

「分かりました。ただ、ちょっと恥ずかしい話だから、みんなの前で話せないから、あっち向いてていいですか?」

 僕は新符さんと櫛秋さんと多岐の三人に背を向けて、部屋の隅っこに向かうように座り直した。カラオケボックスで部屋の隅っこに向かってボソボソ喋るのって、後ろから見たらきっと恥ずかしい姿なんだろうけれど、人の目が見られないんだ。

「事は小学校六年生のときでした。

 自慢しているわけじゃないけど、その頃、周りの女子から『カッコいい』って言われることが多くて、女子がよく話しかけてくる立場だったんです。

 それが、話しかけてくる女子の中に、まっすぐで、だけど思い込みもちょっと強い子がいたんです。夏休み前にその子が、僕に放課後に残るように言ったんです。

 残って、その子から聞いたのは、恋の、愛ほどではない、淡い恋の告白でした。

 でも、その子は思い込みが強くて、『結婚したい』とも言ったんです。

 最初、僕にはどう答えていいか分かりませんでした。でも、『榑枚君は?』『榑枚君は?』と繰り返し聞かれたので、最後に僕も『いいよ』って答えたんです。

 それが誰かに聞かれてました。

 次の日に学校に来ると、教室の黒板に、『榑枚とその子が結婚』って書かれてたんです。黒板一面の大書きでした。結婚式の絵も描かれてましたが、その上にひどい落書きが乗っていました。

 僕は男子から散々からかわれました。

 でも、告白した子も女子から散々からかわれました。

 いや、それはイジメでした。

 『抜け駆けした』って。……これじゃまるで僕が人気者みたいですね。そんなことを言いたいんじゃないんです。

 その子へのイジメは数ヶ月続いて、ちょうど今と同じ季節、十月にその子は学校に来なくなったんです。病気だと説明されましたが、今考えれば、登校拒否でした。

 結局その子は卒業式まで全く登校せず、違う校区の中学校に転校していきました。

 僕の答え一つで、その子は、小学校の最後を暗い思い出にしてしまったんです。

 それから、僕は、女の子からの恋の告白が怖くなりました。女の子と親しくするのも怖くなりました。女の子とどうしゃべっていいのか分からなくなって、お昼に見たような感じになっちゃうんです。

 新符さん、僕に『未来を知りたいですか?』って聞きましたよね。

 僕が未来を知りたいと思ったのは、そのときからです。

 もし、未来が見えていたら。そう思います。その子がいじめられることが分かっていたら、僕は絶対に『結婚する』と答えませんでした。答えなければ、その子はいじめられずにすんだ。未来が分かれば背負わなくてすむ不幸がある。そのことが、悔しいんです……」

 アーーーーーーー!!!

 恥ずかしさのあまり、僕は大声を上げてしまった。ここはカラオケボックスの中だ。シャウトする人もいる。聞いたのは多岐と櫛秋さんと新符さんの三人だ。助かった。

 まだ背中を向けている僕に新符さんが声をかける。

「つらいことがあったんですね。その気持ち、大事だと思います」

 僕は振り返って新符さんに頭を下げた。

「聞いてもらえて、ありがとうございます」

 ところが、多岐が何やら冷ややかなことが気になった。

「榑枚、お前、単純だな。事はそう簡単にはいかないぞ」

 相手が多岐だから、つい愚痴が出る。

「これが大事な話じゃないって言うの?」

 多岐がため息をついた。

「大事な話だからだよ。まあ、落ち着いて聞け」

 僕が改めて座り直すと、多岐は説明を始めた。

「もしもの話をしよう。俺が小説を書くならこんなストーリーにする、という話だ。榑枚は女の子に告白されたときに未来を見た。ただ、その未来は、数ヶ月後ではなく、十数年先の未来。大人になったお前と、大人になったその子が並んで歩いていて、子どもの一人二人もいるかもしれない。二人は幸せな結婚生活を送っているんだ」

 僕の頭の糸が、プチッと、切れた。

「そんなことある訳ない! あの子は大変な苦しい思いをしたんだ。その原因の僕と結婚するはずがない!」

「そう言い切れるのが、榑枚がまだ子どもで、過去に囚われてるってことだよ」

 多岐は事も無げに言った。

「小学校の思い出は、時が経てばあせていくものだろう? 思い込みが激しい性格も、大人になれば治っているかもしれない。その子がいつまでもそんな変わった子だと思い込んでいるなら、その子を一番侮辱しているのは榑枚だ。

 二人が大人になって、再会して、あんなこともあったねという話になって、それがきっかけでつきあったら気の合う二人だった。そんなことが、本当にないと言い切れるか?

 未来は、何が起きるか分からないものだぞ。

 そうして、十数年後には二人幸せに暮らす未来が待っていて、その未来が、何らかの『ずる』で、小学六年生のお前に見えてしまった。するとお前はこう考えるはずだ。『この子と結婚すればいいんだ』

 そして、恋の告白に答えたら、榑枚が経験したのと同じくイジメが待っている。そうなったら、小学六年生の子どもにできることは何も無い。あの未来が嘘だったと恨み言ばかりが増える。見えた未来の本当の意味を知るのは、見えた未来が現実になるまで待たなければいけないんだ」

 多岐が語ったのは、全くの正論だった。僕は小学生時代の思い出も払拭できない子どもで、過去に起きたことを愚痴ってばかり。未来は何が待っているか分からない。でも、自分の気持ちが単に馬鹿であることの証明にしかならないことが、悔しい。

「多岐が言うようなこと、無いと思う」

「言い古された言葉だけれど、可能性はゼロじゃないさ」

「あの、お言葉ですが、その子と榑枚君が結婚することは、多分、無いと思います」

 後ろからおずおずと新符さんが申し出た。多岐がにやりと笑う。

「新符さん、言いますね。そんなに榑枚のことが好きですか?」

 新符さんが、また、顔を赤らめた。

「そ、そういうわけではないんですけど……」

 そういうわけじゃないのか…… まあ、女の子とつきあうのが怖い僕がモテなくても困ることはないんだけどね……

 櫛秋さん、どうして、新符さんだけでなく僕の顔もじろじろ見てるの?

「榑枚君、イケメンでよかったね。こんな女子の隣に男子がいたら、大抵は『なんでこんな奴が?』って感じになるけど、榑枚君ならギリでありかな~」

 僕は思わず新符さんの顔を見てしまった。とっても綺麗な子。こんな子の隣にいていいのか、というのは、自分でも思う。

「ギリなんだ……」

「ギリだねえ」

 うなだれてしまう僕。櫛秋さんはその頭をポンポンと叩く。

 下を向いている僕には見えてなかったけれど、多岐は軽口を叩いていた。

「杏は点が辛いなあ。俺は結構いけてると思うけどな」

 下を向いている僕の顔を、新符さんが横からのぞき込む。

「榑枚君、自信持ってください。榑枚君は格好いいですから」

 目の前の新符さんの顔はすこぶるかわいい。こんな子に励まされると、たしかにうれしい。僕は顔を上げた。それを見た新符さんが安心しているように見えたのは、僕の欲目か。

「榑枚君、これからのことはStringで連絡しますけど、あ!」

 新符さんが素っ頓狂な声を上げた。

「Stringのアカウントを交換するのを忘れてました」

 ここで、退室を求めるインターフォンが鳴った。

 カラオケボックスは駅のバスロータリーの脇にあるから、カラオケボックスを出たら駅は目の前。僕たちは駅の改札口に行き、新符さんが改札機をくぐったところを見ていた。

 新符さんは駅の構内からこちらを見た。

「多岐君、櫛秋さん、今日はありがとうございました。榑枚君、まだまだお話ししたいことがあります。これからよろしくお願いします」

 そう語る新符さんの左頬を、一粒のしずくが伝った。右の目も、潤んだ、というには水を含みすぎていた。

 新符さんは泣いていた。

 綺麗な女の子が泣いているのは、まるでドラマのワンシーンのようで、テレビの中では見慣れているんだけど、目の前で見ると、現実とは信じがたかった。

 その涙が僕に向けられているとうぬぼれるまでに十秒以上かかった。

「新符さん、心配しないでください。新符さんがいて、僕も助かってます」

 それを聞いた新符さんが一つうなずいた。

 新符さんがどうしてカウンセリングの情報を得たのか、背景が分からない不安はある。でも、泣いている美少女に問い詰める気持ちはなくて、月並みな言葉をかけるのが精一杯だ。

 新符さんがホームに上がるのを見送ったら、視界の隅に、さっき道で僕たちの後ろを着けていた背広の男性が、改札を通り、新符さんと同じホームに向かうのが見えた。僕には新符さんの方が心配です。

 家に帰ってから、父さん母さんに今日の出来事を根掘り葉掘り聞かれたけれど、友達とカラオケボックスに行ってた、とごまかした。夕ご飯の間も親子の会話は続いたけれど、僕が曖昧な返事ばかりを続けているから、父さん母さんはあまり納得した様子がない。これからこんな日が続くのかと思うと、少し息苦しい。

 テレビの番組表ボタンを押したら、公共放送が二十一時から、珍しい、しかし今の僕にちょうどぴったりなテーマを特集するドキュメンタリー番組を放送するという。少し前の家庭には人数分テレビがあるのも珍しくなかったというけれど、うちは、各人がスマホを持ってサイトや動画を見るようになったので、一周回ってテレビが一台しかない。父さんに見させて欲しいとお願いして、普段はドラマか映画しか映らない大きなテレビの前に三人並んで、ドキュメンタリー番組を見ることになった。

 ドキュメンタリー番組のテーマは《予言者プロフェッツ》だ。

 事は二〇二〇年、世界が新型コロナウイルス感染症の脅威に襲われた年から始まる。

 いくつかの国が他国に比べて早期の事態収拾に成功した。危機管理体制の差だ。指導者の力量の違いだ。そう言われていた。

 しかし。

 世界の政府の機密文書を暴露してきたウェブサイトが、いくつかの先進国が数十年にわたって超能力を研究してきた、その活動の最中に職員の間で交わされた文書を公開したのだ。

 政府による超能力の研究は以前にもあった。結局超能力が存在する証拠を見つけられなかった、という結論がつくのがオチだった。

 しかし、そのときの文書が違ったのは、存在を確認に成功し、政策立案に反映されていた、という事実だ。

 将来の出来事を予見できるか試すテストで偶然を超える点数を出し続ける人間が見つかり、詳しく調べてみると、目の前に座った人物の将来から、GNPや株価や政権の支持率に至るまで、まるで見たかのように当てることが判明したのだ。新型コロナウイルス感染症の流行までも見抜いていた。

 そのような人間は、推計で、一億人に一人。

 将来を予言する人間が存在して、政府が秘密裏に利用している。まるでラノベのような話だ。厨二病そのものだ。

 しかし、本当に恐ろしかったのは、暴露された国では議会が調査に動き、現実に行われていると判明してしまったことだ。

 それからの混乱はひどかった。政府が囲った超能力者に接触を試みる者がいれば、政府間の諜報活動が噂され、現実に外交交渉の場で議題になったこともあった。自分にその能力があると喧伝して信者を集め、自滅への道をたどったカルトが世界に複数できた。

 どこかで誰かが美味しい思いをしているという話に人間は弱い。この一件は人間同士の疑心暗鬼を深める結果となった。そう評されることが多い。でも、そう言っている人間も、「自分だけ」が未来を見られるとなったら、こっそりすり寄るのだ。

 番組では、翻って日本では、という話になった。

 予言を行う人間についてはいろいろ呼び名があるけど、その文書が明らかにした種類の人間については、他と区別するため、日本語ではわざと英語読みで《予言者プロフェッツ》と呼ぶようになった。

 世界の報告では《予言者プロフェッツ》は一億人に一人。ということは人口が一億人ほどの日本では、一人の《予言者プロフェッツ》を確保できる権利がある、と皆が思っている。それは政治家や政府高官だけでなく、一般市民も、こんな苦しい事態は《予言者プロフェッツ》がなんとかしてくれ、と思っていたりするのだ。

 それに対して、政府の公式見解は、日本では一人も認められていない、というもの。

 それが事実かどうかは分からない。けれど、ニュースを見ていても《予言者プロフェッツ》が未来を予知しているという実感はない。

 皆が、自分たちの権利が「奪われている」と感じている。被害意識を持つのはよくないと訴える人もいるが、そういう意見は国益を無視していると批判する人の方が多いのが実情だ。

 世界中で人々の欲望が交錯する中、《予言者プロフェッツ》自体の研究も、公になったことで優秀な研究者が集まり数年で大きく進展したという。

 《予言者プロフェッツ》には、未来の様子が現に「見える」のだという。

 しかし、古い漫画で、百年の映像を見るのには百年かかるから探すのが大変だ、という話があったっけ。

 《予言者プロフェッツ》には同じ問題がある。《予言者プロフェッツ》の目の前にはあらゆるものを観る機会があるが、それを全て見ることはできない。見える可能性があるものの中で、何かしら心に引っかかる理由があったものが、《予言者プロフェッツ》本人も意識しない無意識のレベルで選択されて目に見えるのだという。だから、何かを見たいと思えばある程度は絞り込めるのだけれど、完全に狙った通りの時と場所を見ることはなかなか難しいという。それができるかどうかが《予言者プロフェッツ》の能力の差になるという。

 怖いことに予言が外れることもある。競馬の大レースで評価の低い馬が優勝するという予言がなされたが、結果は鼻の差で二位だった、ということが実際にあった。

 すると、実は事実は見ていない、という解釈が成り立つ。

 事実ではないのにどうして事実に近い映像が見えるのか。そこは研究者を大いに悩ませた。

 急進的な物理学者は、量子論の異端的見解である平衡宇宙論を持ち出して説明した。

 乗り物に例えると、東京の周囲の県の県庁所在地から東京に向かうと普通列車しかないから一時間ぐらいかかってしまうけれど、羽田空港から飛行機に乗れば一時間で大阪に行けてしまう。

 それと同じように、現実に将来に繋がっている宇宙には通常の相対論の法則でしか知覚できないけれども、平行宇宙には相対論に囚われないバイパスがあるのだ、と。

 これは、主流派の物理学者達から、検証できないことは科学ではないという批判が上がった。しかし批判する彼らも代わりとなる理論は持ち合わせていない。それが二〇二五年現在の研究の水準。

 当の《予言者プロフェッツ》はどんな経験をしているのか。政府の保護下にある《予言者プロフェッツ》に直接話を聞くのは難しい。しかし幾つかの肉声が公開されている。

 番組では、その中で、《予言者プロフェッツ》本人が珍しい体験だったと語る、あるエピソードが紹介された。

 その《予言者プロフェッツ》はあるとき、周囲の風景が見えなくなり、五感全てが「ここではないどこか」の感覚で満たされたという。

 そこでは、目の前に、時と場所の制約を超えた映像と音声が知覚するのも難しい数だけ並び、事物が事物に覆い被さり、埋もれていき、まるでさざ波が寄せる海のようにあらゆる事物が寄っていたという。そして、その場のやや離れたところに、同じ海を見ている別の人物の姿が見えたという。《予言者プロフェッツ》はその人物に呼びかけたが、呼びかけに答えた言葉は異国のもので、二人が言葉を交わすことはできなかったという。数分間だったが、垣間見た世界は素晴らしかったのに、人とのつながりで悲しい思いをしたという。

 人間の言葉はなんと人々を隔てているのか、と《予言者プロフェッツ》は嘆いていた。

 僕に言わせれば、持てる人間の贅沢な悩みだ。

 その《予言者プロフェッツ》も、インタビューを受けられるのだから話が通じる相手が人並みにいるのだろうし、何より他人が見られない未来を見ることができる。なんて贅沢なんだ。

 僕は、未来は見えないし、心理テストで要注意人物と判定されて、父さん母さんとの会話はギスギスしているし、週一回おかしな指導を受けさせられる羽目になったし、頼れるかもしれない人は何か隠し事を抱えている。

 今日、新符さんは言った。《予言者プロフェッツ》にとても会いたかったと。

 僕も《予言者プロフェッツ》に会いたい。

 会って、例えば、明日の僕に何が起きるのかを聞きたい。

 誰か、僕の明日を教えてよ。

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