第一章 二〇二五年十月六日~二〇二五年十月八日
生まれた年が一年ずれてればなあ…… なんてどうにもできないことを嘆いてもしょうが無いけれど、去年のパリ五輪は高校受験を控えていたからテレビの前に座ると親の目線が痛くて、好き放題見ていた一年上の先輩と一年下の後輩がうらやましかった。今年の夏は大きなイベントはなく終わり、十月に入って高校一年生はもうすぐ中間試験を控えているけれどもそれまでの平常モードに入っていた。東京の東にある、東京の隣を他の県と争うけれども一位にはなれない県の公立普通高校は、試験がない期間は少しダレた空気が漂う。
休み明けのだるさがようやく抜けきった月曜日の昼休み、僕はいつもの通り
あ、あれ返さないと。僕は文庫本を多岐君に渡す。
「『魔装機構ハイルガード』の八巻、
そう、僕の苗字は
「ごめんね、読むのが遅くて」
「十巻まで出てるけど、このままじゃ年末までかかるんじゃないのか?」
「多岐君は早いよね」
「ラノベ一冊なんて、コミックス一冊と同じペースで読めなきゃダメだよ」
多岐君。短髪をバラバラと散らした頭に、つむっていないか心配になるくらい細い目が特徴的。ノリがいいけど、学業成績はすこぶる良好。ただ知力を遊びに傾けている感がある。「俺に文学は無理だから、書けてラノベだな」と語ったことがあって、「書けて」と自分で言うのだから多分、ラノベ作家を狙ってるんだと思う。
「まあ、榑枚はいったん読み始めた物語は最後まで読むもんな」
「結末をほったらかすのって気持ち悪くない?」
「そういう律儀な奴ばかりじゃないぞ。
「ひっど~~い!」
杏と呼ばれたのは櫛秋さん。小柄な身体に小さな頭。ショートカットにお団子二つ。アーモンドアイがますます小動物っぽい。声はハイトーン。よく通って、そもそも声量がでかい。
「最初読んで、やっぱり自分に合わなかった! ってこと、あるじゃん。そもそも、友達を持ち上げるのに彼女をだしにするって失礼じゃない?」
「分かった分かった」
「繰り返してるところが反省してない!」
うわぁ、響く声。
櫛秋さんはこの声を活かして、と言っても合唱部ではなく、家でネットの生中継をしている。メインコンテンツは「歌ってみた」。きちんとうまいし、さっきの発言を聞いてて分かると思うけど、度胸もある。ちっちゃいけど黙ってないぞ! というところが櫛秋さんの売り。
で、僕はというと…… 小学生の頃は女の子にもてたけど、今はあえて評価を聞かないようにしている。太ったとかそういうわけじゃないけど、いろいろあって。櫛秋さんから「中の上か、上か、ちょっとなぁ(ニヤッ)」と言われたのは聞かなかったことにする。男らしくない僕が髪を短くすると似合わなかったので、男子としては少し長めにしてストレートに下ろしている。身長が175cmあるから高校一年生としては高い方だけど、ここから伸びて180cmに届くかどうか、内心気がかりだ。
櫛秋さんがキャンキャンと騒いで多岐君がなんとか隙を見つけて返しているところに、僕の隣に女の子、確か、梶浦さんだったかな、が立っていた。
「榑枚君」
「な、何……」
「一ノ瀬さんが榑枚君に話があるっていうの。今日の放課後、二号棟の裏手で会ってくれないかな」
二号棟の裏って、学校の敷地の一番奥の、隣とは並木で隔てられた、人目につかないところだよね。これって、あれ? ……
僕が黙っていると梶浦さんが怪訝な顔をする。
「話を聞く前から断ったりしないよね?」
「……そういう、訳じゃ、ないけど……」
「来る、よね?」
「行きます!」
しまった。声がうわずった。
梶浦さんが冷たい視線を僕にくべて「約束したって事でいいよね?」と言うので、僕は無言で首を縦に振ると、梶浦さんはつかつかとこの場を去っていった。
多岐君はにやにやと、櫛秋さんは呆れながら僕を見ている。
「榑枚君!」
「ハイ!」
櫛秋さんの強い語調に、思わず大きな声が出た。
「失礼のないようにとは言わないから、できるだけでいいから、女の子が傷つかない回答をしようね」
「がんばってみます」
「『みます』じゃだめなの。女の子は真剣でデリケートなんだから」
「どうしよう……」
多岐君、笑いをこらえるのに必死ですって表情するのやめてよ……
「榑枚さあ、俺と顔を交換するか?」
「それ、なんて答えればいいの?」
「人生は手持ちのカードで勝負するしかない、ってやつだよ」
手持ちのカードか。僕の手元には大事なカードが抜けている。それが分かってて、これから起きる悲喜劇を、笑ったり怒ったりするのはやめてよ、多岐君と櫛秋さん。 終業のHRが終わって、僕はわざと数分おいてから、二号棟の裏手に回った。
梶浦さんが警戒心を抱いた顔をして待っていて、その横にいる一ノ瀬さんが、わずかに顔を赤らめていた。
梶浦さんが一ノ瀬さんの背中を押した。一ノ瀬さんが僕の前に出る。
「榑枚君」
「……は、ハイ!」
小声の後に大声で、揃わない僕の声のトーン。
一ノ瀬さんは赤らめた顔をうつむかせて、僕を見ずに話し始める。
「榑枚君は、つきあってる人、いますか?」
「……い、い、いないいないいない……」
「私じゃ、ダメですか?」
「ダメ……とか……ダメ……とか……そうじゃなくて……つき……つきあう……というか……、どうして、僕?」
「榑枚君、クラスでも学年でも学校でもずっとかっこいい方なのに、人をからかうところとか、嫌らしいところとかなくて、外も中も立派な人っているんだなって。それで、ずっと榑枚君のことを考えていたら、クラスの子から、榑枚君に彼女はいないって聞いたから、本当かな? って。私、榑枚君のこと、好きなんです」
「気持ちは、うれ……うれ……うれしいとか……そういうことじゃなくて……じゃなくてじゃなくて」
一ノ瀬さんが顔を上げた。
上げた顔がだんだん引きつっていく。
そうだろう。恋の告白をした相手の男性の顔が、この世の終わりのように引きつっているんだから。
そういう顔をして欲しいんじゃないんだ。悲しい思いをさせたいなんて思っていないんだ。「な、な、な、なんて言うか、あの……その……」
「私のこと、嫌いですか?」
「……嫌いとか……ちが……ちが……ちがわな……いや違って違って……お、女の子と……」
「生理的に、受け付けませんか?」
最低の言葉を女の子に言わせてしまった。一ノ瀬さんは汚くなんかない。汚いのは僕の方だ。だから……
「ごめんなさい!」
僕は頭を下げた。
つぎの瞬間、気づいた。
僕のバカ! これじゃ生理的に受け付けないと認めたようなものじゃないか。
でも、どう顔を上げたらいいんだ? 僕には分からない。
下を向いた僕に見えないところで一ノ瀬さんが「分かりました」とつぶやいた。梶原さんが「行こう」と声をかけたのも分かった。
僕は二人を見ることができず、頭を下げたまま二人が去るのを立ったまま待っていた。
重い心をひきずったまま帰ろうとしたとき、気づいた。あ、教室に忘れ物した! 女の子の話を聞くのに気もそぞろですっかり忘れてた。
昇降口の近くにやってきたとき、中から人が泣いている声が聞こえた。まずい。僕は脇に隠れた。
泣いている女の子に、慰めるような、たしなめるような、あやすような声が聞こえた。
「言ったでしょ。榑枚君は見かけ倒しだって。まともに相手している女子は櫛秋さんだけなんだから。他の女子は人間扱いしてないと思うよ」
人間扱いしてないなんて嘘です。普通に人だと思っています。
でも人間扱いしていないのは事実だ。
世の中の半分は女性なのに、同年代の女の子と会話ができないというのは、社会生活を送る上では致命的だと思う。
顔はいい、中性的だけど嫌みがない、整ってる、腐女子向けアニメの登場人物みたい。背も高い方だし、胴も短い。
実際にそう言われる。
女の子から好意の目で見られることもたまにある。でも同世代の女の子を目の前にすると、喉は詰まり、顔は引きつり、十人が見て十人「これは嫌ってるね」と答える受け答えしかできなくなる。
僕に配られたカードには「ルックス」はあっても「落ち着いた対応」はない。
だから中学校に上がってから何人か女の子を泣かせてきた。あ、誤解を与える表現でした。大人になったときのような深くつきあってから泣かせるのではなく、初対面で泣かせてきました。
傷つけたくないだなんて嘘かもしれない。十分傷つけてきたのに、直せていない、甘えがある。
櫛秋さんは、多岐君が僕のことを「こいつ面白いから、遊んでやって」と彼女に紹介した。最初はみんなに対するのと同じようにひどかった。それを多岐君はいじり、櫛秋さんは叱り続けた。多岐君が彼氏というのは分かってたし、櫛秋さんも裏表ない性格だから、一緒にいるうちに「友達」として普通に話せるようになった。それが僕が唯一まともに話せる女の子。
恋愛は……恋愛は……恋愛は…… そこで僕の頭はフリーズする。
今日、忘れ物をすることで女の子を泣かせた罪の罰にする。そんな身勝手な考えで、僕は昇降口を後にした。
僕の家はマンションということになっているけれども、高々五階建てだから高級感はない。分譲でもない。
その家に帰って、台所で水を飲んでいると、母さんが僕を呼び止めた。
「季典(としのり。僕の名前だ。一人っ子)、あなたに手紙届いてるけど、知ってる人? 女の人みたいだけど。違う県から届いてるけど、結構高級住宅街よ」
女の人の……手紙……
今日、二人目の、女性がらみの話……
やだ! やだ!! やだ!!!
そんなの見なかったことにしたい!
そのとき、僕の頭に、一つの風景が浮かんだ。
僕が、女性からの手紙を、平然と読んでいる。自分の頭で、自分の心で、その手紙に返事を書き、好かれずとも嫌われない対応をする。
立派だ。いや、単に普通の対応なんだけど、今の僕からしたら模範というか、夢のような話だ。
今日はなぜか、そんな自分になった気がした。
「母さん、勝手に開けないで。僕が中身を見るから」
「詐欺だったりしないかしら」
母さんの心配はもっともだ。その線を疑わなかったわけじゃない。でも、そこに負けたら、心に描いた真人間のイメージが消えてしまう。
「詐欺なら分かるよ。もう高校生だし」
「そう? 怪しかったら言うのよ」
近寄ってきた母さんは右手でその手紙を差し出した。白い横長(つまり洋式)の封筒だった。 リビングのソファに座って封筒の表裏を見る。うちの住所と「榑枚 季典様」と書かれた名前は正しい。差出人の住所は、東京の西の、だいたいの人が東京の隣で一位だろうと認める県で、スマホで調べたら渋谷から出る電車で行く街だった。そこって高級住宅街だったのか。差出人は「新符 遥」とあった。苗字の読み方、「あらふ」?「にいふ」?他にあるかな? ちょっと分からない。
ペーパーナイフで封筒の口を切る。中に入っていたのは、きちんと手紙用の便箋にボールペンで横書きされた手紙で、字は十分に読みやすかった。
前略 榑枚 季典様
突然の手紙で失礼いたします。
私は新符 遥(にいふ はるか)という、高校一年生です。
榑枚様は、小中高校で広く行われている、生徒の心理状態を把握することを
目的とした心理検査をご存じだと思います。
私は、その心理検査の要観察と判断され特別指導プログラムを受けている者
です。心理検査で要観察と見なされると聞くと、私のことをいぶかしがると思
いますが、これからお伝えすることは嘘ではありません。
先日、榑枚様が、私と同様に要観察判断を受けたことを知りました。これか
ら榑枚様には政府の特別指導プログラムが課さることと思います。
あの心理検査ならびに特別指導プログラムについては、周りに情報がなく、
これからのことについて不安を覚えていらっしゃると思います。
私は経験者ですので、経験した範囲内で、榑枚様にこれから何が起きるかを
説明できます。
長くなりますので、手紙やメールや電話ではなく、直接会って説明したいと
存じます。
なるべく早く、できれば今週末に、お会いしたいです。
ご都合をお教え願います。
最後に私の電話番号とメールアドレスをお伝えします。メッセージアプリの
Stringは私も榑枚様も未成年でアカウント検索できないため、お会いし
たときに友達申請したいです。
(ここに 電話番号と
メールアドレス)
草々
新符 遥
文面を表面的になぞれば極めて失礼な手紙だった。
見ず知らずの人間に対して、自分が心理テストで観察を要すると判断されたことを明かし、相手も同様だと言う。自分がおかしい人間で、さらに相手も同様なのだと決めつける。言葉遣いなどレベルではなく、内容が他人の気持ちを全く軽視している。
でも、なぜだろう。
この子、追い詰められているな。僕は力になれるかな?
それが僕が思ったことだった。
こんなひどい決めつけをする手紙を読んで送り主の心配をするなんて、おかしい、おかしい、おかしい! 僕は何度も自分にそう言い聞かせる。
それでも、なんだ。僕はこの手紙を書いたのが本当に高校一年生の女の子で、ひどく追い詰められて、僕にすがってきている。そんな気がする。
この手紙の内容と、僕が思っていることは、他の人に知られるとまずいことになると思う。
僕は嘘をつくことにした。
「母さん、さっきの手紙だけど、どうやら人違いだったみたい」
「そう?」
母さんは僕の落ち着いた呼びかけに気を軽くしたようで、ちょっと間延びした声で答える。よし。僕はまともだ。
「うん。気にしなくていいよ」
僕は、この手紙が父さん母さんに読まれないよう、ゴミ箱に捨てず、通学カバンの中に隠した。
その夜は普通に寝たし、朝は普通に起きたし、学校にもきちんと来た。その学校で送る、何でもない高校一年生の学校生活。英語の発音に詰まったり、体育で運動部に負けたり、取り立てていいところのない平凡な日常。
いつも通りだ。そう思っていた。
「榑枚、表情が暗いけど、なんかあったか?」
昼休みに僕の顔をのぞき込んだ多岐の顔は珍しく深刻そうだった。
「僕、そんな危ない雰囲気?」
「けっこうやばげだな」
多岐の言葉に否定の返事が出ない。
何事もない。いつも通り。平凡な日常。自分にそう言い聞かせるほど、今までの日常に何か異質なものが割り込んだような予感が積もっていく。
多岐は隣の席が空いていたので座って僕を正面から見た。
「つらかったら、相談に乗るぞ」
相談か…… 分かってくれる人がいたなら僕もうれしい。でも巻き込んじゃいけないという、僕なりの遠慮もある。
「別に、多岐が気にするようなことじゃないよ。退屈しているのを見間違えただけじゃない?」
「本当に?」
多岐と僕は互いの目を見る。黙っていると時間がとても長く感じる。ここで挙動不審になったらダメだ。何事もないかのように、普段の表情を作る。
先に視線を外したのは多岐だった。
「まあ、気のせいだったらいいや。あんまり抱え込みすぎるなよ」
多岐は椅子をしまい教室から出て行く。きっと僕を独りにしてくれたんだ。多岐は察しがいいし気も遣う。遠慮してくれたんだと思う。
「どしたの~?」
櫛秋さんが間延びした声で僕に聞いた。こんなとき、外からかき乱す力を無自覚にはね返しちゃう子だよね、櫛秋さんは。
授業が全て終わって、終業のHRで担任の先生が「それから」と前置きして。
「榑枚、これが終わったら、生徒指導室に来い。話がある」
学級のみんなが少しだけざわついた。
僕には先生が発した言葉の真意が分からなかった。僕は別に素行が悪いわけでも事件を起こしたわけでもない。それが、一人だけ生徒指導室?
「先生、なんで僕だけなんですか?」
素直に答えたら、ピント外れで、そして目上に対して遠慮を欠いた発言になってしまった。担任の先生は突き放した様子で。
「細かい話は後でする。きちんと生徒指導室に来るように。今日のHRは以上だ」
終業の礼をして、みんなが散り始めたとき、何人かが僕をチラチラと見た。そりゃあそうだろう。人は変な噂をしているんだろうか。嫌な話だ。
多岐がどんな態度をとったか、僕は知らない。怖くて見ないようにしていた。
生徒指導室は、扉の上半分に磨りガラスがはまっていて、明かり取りはあるけど中は見えない。緊張して思わず。
「失礼します」
と声をかけると、中から。
「どうぞ」
と声がした。
生徒指導室に入ると、担任の先生と、普段は保健室にいる女性保健教諭が座っていて、二人の間に空いた椅子が一つあった。
「榑枚君、座って」
保健教諭に促されて、二人の間の椅子に座る。担任の先生が「先生、お願いします」と差し向けると、保健教諭は両手を膝の上に重ねて僕に向き直った。
「榑枚君、一ヶ月前の一斉心理検査は覚えているわよね?」
保健教諭はそこで言葉を切った。僕の返事を待っていた。
「はい」 僕はそう返事をした。
保健教諭は穏やかな笑みの奥に、重く受け止めて欲しいという意図を見せた。
「そのテストが採点されて、榑枚君は、特別指導が必要ということになったの」
「どうしてです?」
思わず声が出た。保健教諭のカウンセラーとしてのスマイルを見て、少し冷静になった。僕から謝らないとダメだ。
「ごめんなさい。反抗したいとか、そういうわけじゃなくて、理由が分からないんです」
うろたえる僕を見ても保健教諭は落ち着いている。そうか。カウンセラー的な冷静な対応が求められるから、保健教諭が説明する訳か。
保健教諭は優しく諭し始めた。
「テストの結果の大まかなところは学校に連絡が来てるの。榑枚君の場合、今すぐに問題を起こしそうな様子は見られないことは明記されているわ。でも、将来的に不安定になる人と同じ兆候が見られるので、長期にわたる観察と指導が必要、と判断されたの。別に榑枚君のことを悪い子だと思っているわけじゃないの。でも、榑枚君自身の利益を考慮すると、専用の指導プログラムを受けることが望ましいの。そのことは分かって欲しいの」
特別な指導プログラムが要るって、普通じゃないって言ってるのと同じだ。自分ではそんなおかしな人間であるつもりはない。僕の気持ちは分かってもらえないのだろうか。
後ろをちらと見ると、担任の先生は厳しい目をしていた。拒否はできないんだぞと無言で語っていた。
「分かりました」
僕が事態を受け入れたことを知ると、保健教諭は机の上にある茶封筒を手に取った。
「話が急で悪いんだけど、榑枚君には明後日の木曜日に都内の施設にまで行って欲しいの。詳しい話は、この封筒の中のプリントに書かれているから、お家の人とよく読んでね。一つだけ、大事なことだからここで説明すると、これは国の事業として行われていて、榑枚君のご家庭に費用負担はないわ。明後日も電車賃がかかるだろうけれど、それは後で請求すれば戻ってくるから」
国はやけに太っ腹で寛容なんだな。将来に問題行動を起こす兆しがあるからといって、そこまで手を尽くしてくれるのだろうか。少年犯罪を行われてから矯正施設で教育するより安上がり、とでも思っているのか?
「そこまでしてもらえるんですか?」
「そうよ。別に榑枚君を困らせようとか思ってるわけじゃないの」
保健教諭の笑みは「それ以上は答えないよ」という突き放しを暗に含んでいるように見えた。
「分かりました。父さん母さんに説明します」
僕が返事に一言を付け加えたのは、反抗の意図がないことを示したかったから。危険人物とは思われたくなかった。
生徒指導室を出て家に帰る途中の、足取りが重い。
どうしてあの心理テストで観察を要する人物だなんて判断されたんだ? どの問題への答え方が悪かった? それを学級のみんなに打ち明けたらどうなる? 多岐は今までのように友達扱いしてくれるのか? 櫛秋さんはゴキブリを見るような目で見るんじゃないのか?
自分が危ない人間だと言われると、すれ違う人の目が怖い。周囲の人の目線を探してしまう。かえって挙動不審だと気づいて、なんとか止める。
あれ? このことを先に教えられていなかったか?
そう。昨日の手紙だ。同じように要観察と判断されたと打ち明ける女の子から、僕に特別指導プログラムについてお話ししたいと語った手紙。
事実を告げられる前では極めて失礼な手紙だった。でも今では親切にすら思えてくる。
その子はどうして僕に親切にしてくれるのだろう。その子を頼っていいのではないか。
それは本当に危ない考えだって分かっている。そんな甘い考えをする人間は、詐欺に遭ってもおかしくない。
でも、手紙が将来を正確に言い当てて、苦しい僕に手を差し伸べているのは事実だった。
手を差し伸べる、か。昨日は僕が女の子を救う気持ちでいたのに。
その子に連絡を取ってみよう。連絡手段はなんだっけ?
そのとき、僕はその手紙を通学カバンに隠していたことに気づいた。手紙も、連絡を取っていることも、父さん母さんに見つからないようにしよう。
僕がいる街は小さいから、ファーストフード店が駅前にしかない。学校から駅前まで来るとそうとうに大回りになってしまった。日が落ちる前に帰りたいな。急ぐか。
コーラを一つ買って椅子に座る。左の席では大学生くらいの男女が話していて、右の席では母親が小さな息子と娘の口にフライドポテトを運んでいる。隣の人に読まれないように慎重に手紙を取り出す。
手紙には電話番号とメールアドレスが書いてある。電話は、僕がしゃべれないから無理だろうなぁ。メールで問い合わせてみるか。
手紙には会って話をしたいと書いてあるけど、面談の前に話を聞きたい。メールで教えてもらえないか、頼もう。
新符 遥様
先日にお手紙をいただいた榑枚季典と言います。
新符様の仰る通り、今日、学校から、心理テストで要観察と宣告(と書くと
大げさですね)されました。
新符様は先に要観察と判断されて指導を受けているとのことですが、どのよ
うな指導を受けることになるのでしょうか。
実は、さっそく明後日に面談を受けることになりました。カウンセリング?
でしょうか。何があるのか分かりません。
時間がないので、メールで早くお教えいただけませんでしょうか。
お忙しい中、急かして失礼なのですが、よろしくお願いいたします。
送信ボタンを押したつもりが反応しなかった。僕の指がわずかに震えていたからだった。再度送信ボタンを押して、メールが飛んでいくのを見送った。
来るかな。返事、来るかな。スマホの画面のバックライトが消える度に電源ボタンを押して画面を見続けるけど、メールは返ってこない。
窓の外が暗くなってきたのが分かって、僕はコーラを一気飲みしてファーストフード店を出た。
家に帰って夕ご飯の後、僕は今日学校でもらった封筒を父さん母さんに見せた。父さんは深厚な表情をし、母さんはうろたえていた。
三人が取り囲んだ机の上で、プリントが「お子様の心身の健康のため」「保護者様には特別指導の必要性をご理解いただき」「お子様への悪影響を鑑み、事情を他者に伝えることは慎むようお願いいたします」と、要は「他人様に言えることではないのですよ」と三人を脅している。
こんなに厳しい言葉が並ぶだなんて、犯罪者予備群として扱われているんじゃないのか? 学校の担任と養護教諭はそのことを知っていたんじゃないか? そんな背景を疑う気持ちは父さん母さんも同じだと思う。
「
父さんはたばこは吸わない。持つ物のない両手を机の上に置いている。その手がわずかに震えている。
「父さん、僕がきちんと学校に行ってるの、母さんが見てるよね。サボってないことは学校の先生に聞いてもらえば分かるよ。きちんと友達と会話してるし…… 食欲はあるし、夜もきちんと寝てるよ……」
父さんは机の上で手を組んだ。
「イジメはないか? いじめられてる場合もそうだが、いじめて他人に迷惑をかけてることを黙ってないだろうな?」
「そんなことないって。学級のみんなと仲良くやってるよ。高校に入って、似たレベルの生徒ばっかりになったから、弱い人がいじめられることはなくなったし……」
父さんは結んだ手を強く握りしめた。
「隠れてナイフとか買ってないだろうな?」
僕と父さんの間に、透明な壁が見えたような気がした。犯罪の容疑者にされて、他人との面会は監視下で壁に仕切られて話す、その壁の声を通す穴が見えたような気がした。
「僕を疑ってるの? 小さい頃からケンカもほとんどしなかったし、学校の先生から呼び出しを受けたこともないよね?」
「でも、ここに『ここ三年ほどのテストの結果から、お子様の心理状態に将来の課題となる偏りが見られました』って書いてあるわよ」
母さんはプリントの二枚目を一番上に載せた。そこには、他の本文と同じ小さいフォントだけど、何度見てもたしかにそう書いてある。
「嘘も隠し事もないって。急にこんなプリントを渡されて、訳が分からないんだって」
「季典、自分がおかしいときには気づかないものだ。他人様に教えてもらうしかないんだぞ」
「私たちは季典のことが心配なのよ」
僕は言葉が出ない。
心配だったら、欠陥があると言われて困惑している子どもの心情を察してほしい……
そのとき、マナーモードにしていた僕のスマホが震えた。メール、返ってきたんだろうか?「季典、こんなときにスマホなんかいいじゃないか」
「いや、その……」
同じように観察されている子からの連絡を待ってます、だなんて、それこそおかしい子どもであることを自分で言ってるようなもので、父さん母さんに打ち明けられない。
「なにかあったら、私たちに言うのよ。カウンセラーの先生から何を教えてもらったのかも、きちんと教えてちょうだいね」
そこまで打ち明けなきゃダメなのかな……
父さん母さんに話しちゃいけないないようなんじゃないのかな……
僕には父さん母さんを巻き込んではいけないように思えてならない。
僕が黙っていると父さん母さんはさらに追い打ちをかけてきて、お開きになったときには一時間以上過ぎていた。
父さん母さんが自分たちの部屋に戻って寝るまで、本当に長く感じた。焦っているときの自分の心臓の音は大きい。一人になってようやく肩の力が抜けた。
僕は暗くしたリビングで、ようやくスマホを手に取る。
僕は広告にメルアドを登録しないし、見知った人はStringのチャットで連絡するから、受信トレイにはほとんどメールが来ない。
そこにたった一通ある新規メールの差出人欄には「新符 遥」とあった。
ドクン。
心臓が跳ねた。
おそるおそるメールを開く
榑枚 季典様
連絡ありがとうございます。
木曜日に最初の面談が行われるとのことですので、私が受けたときの内容を、
少しだけお伝えします。
初回は、知能検査と心理検査で、精神病を抱えていないかといった、基礎的
な能力を確認します。専門家は「認知機能を調べる」と言うのだそうです。
そのテストの後で、本人の思考の感情の癖を見るための面接が行われます。
写真を何枚も見せられて、それにどんな感想を抱くか答える、という手順で進
みます。この面談に正解はありません。榑枚様が思ったこと、連想したこと、
そのときの感情、それらを自由に打ち明けていただくことが、榑枚様のために
なると思われます。
木曜日に面談を受けて、これらがきちんと行われることを見れば、私がでた
らめなことを言っているのではないとおわかりいただけると思います。
この他にも、これから何が起きるか、説明できることはいろいろあります。
しかしメールでは伝えにくいことも多くあります。
面談の後になってしまいますが、今度の日曜日に直接お会いしてお話しした
いです。榑枚様の家の最寄り駅まで私が向かいます。先に都合がいい時間をこ
ちらからお伝えしないと予定を合わせることもできませんから、私は13時に
駅に着くように出発しようかと考えています。榑枚様のご都合はどうでしょうか。
最後に、初めて会うときに私のことが分かるよう、私の顔写真をメールに添
付いたします。
新符 遥
結びの言葉の通り、メールには顔写真が添付されていた。
なかなか、とか、結構、とかではない、極めつけの美少女が写っていた。
でも、どうして?
長い髪が背中に垂れた、切れ長の強い目線が印象的な女の子。
一連の騒ぎの始まりとなった心理テストの最中に、ぼんやりと思い描いた白昼夢の中の顔と、まったく同じ。
会ったことがないのに、この顔を見たことがあるという感情が、僕の胸から消えない。
それは、どうして?
この写真がネットで転がっている写真のコピーである疑いを、僕は詮索する気にならない。
寝付けないのをなんとか寝て、学校ではうつらうつらしていて先生に怒られ同級生に笑われた。
昼休みに、多岐と櫛秋さんにStringでメッセージを送った。
多岐と櫛秋さんに
相談したいことがあります。
放課後に教室に残ってくれませんか
榑枚がつらそうだったら
俺は相談に乗るから
榑枚君、急に何の話?
杏、
榑枚が昨日調子悪かったことを、
ようやく俺たちに打ち明けてくれるらしい
まだ何も言ってないって
このタイミングだとそれしかないだろ
分かった
話だけなら聞くよ
二人ともありがとう
放課後、多岐と櫛秋さんに僕の側の席に座ってもらって話を始めた。
二人には「新符 遥」からの手紙と届いたメールを見せた。
「多岐、実は、あの…… 一ヶ月前に、学校で心理テストがあったよね? 昨日、先生から呼び出しを受けたのは、そのテストで僕が問題があると判定されて、明日、都心に行って面談を受けることになったんだ。その面談も大問題なんだけど、先生から呼び出しを受ける前に、僕のテストの結果を知っている「新符 遥」という人から手紙をもらっていたんだ。それがこの手紙。この人はいろいろ知ってるみたいで、その人が僕に会いたいって言うんだ。それで相談にのって欲しいんだけど……」
僕は懸念点をいろいろ話した。櫛秋さんが手紙を手に取ってピラピラと見ている中、多岐はつむっているのか分からない目を少し開けて僕を見た。
「榑枚がこの子に会いたいって言うなら、俺らは応援してもいい。杏も榑枚のことは心配しているから。ただ、この話、おかしなことが多すぎる。そもそも……」
多岐が語ったことは、真に受ければ、僕には信じられるものが何も無い。手を差し伸べようとか、助けてもらおうとか、「新符 遥」を信じようとした気持ちが、遠ざかる。
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