第六章 吸収
その後数日、僕の視界はもやがかかったかのようにはっきりしなかった。
やることが何から何まで手に付かない。何をしたか、全く記憶に残らない。
ただひたすら、お姉さんの死体と、そしてノートのことばかり思い出していた。
あの日を境に、僕の中には喪失ばかりがある。
僕はあのノートを得たが、お姉さんを失って得た物がそれだけでは、あまりに損失が大きすぎるだろう。それに、僕はノートなんかどうでもよくて、お姉さんがいればよかった。
そう、今更ながらに、取り返しのつかないところでやっと気づくいたのだ。
この世界にお姉さんだけがいればよかったのだ、と。
幼い頃から今まで、僕の中の大部分を占めていた存在が、突如として消えてしまったのが、ただただ悲しい。
悲しい、という単語だけで説明が付かないような、スカスカとした空虚さが、僕の中には生まれていた。
僕はどうして生きているのだろう?
お姉さんがいなくなっても、僕の日々は続いていく。何故だ、と思わざるを得ない。
お姉さんがいない世界に、何の価値もないのに。
そんなことを思いながら、僕は今日も義務を果たす。学校に行き、勉強し、そして家に帰る。それだけの義務。
それが今は、ひたすらに億劫だった。
金曜日の夜になった。休日を目前にして、普段ならいくらか心が踊っているのだが、全く心が弾まない。
だから? と投げやりに言いたくなる。
ひたすらに喪失だけがあった。これから何をすればいいのだろうと、くらくらする。精神的な目眩にも似ていた。精神的眼前暗黒感と言えばなんかかっこいい気がする。嘘である。
僕は自室の床に転がる。何度か、ここでお姉さんと遊んだことがある。一緒に笑ったことがある。
ちょうどこんな湿気のある夜に、二人してゲームをしていたような気もする。
お姉さん。
お姉さん。
お姉さん!
ああ、ちくしょう!
僕がどれだけ望もうと恋い焦がれようと、お姉さんは二度と手の届かない彼岸に旅立ってしまった。
この世界において僕は、その彼岸を思うこと、共に過ごした過去を思い出すことしか出来ない。そしてきっと、それらは時の経過と共に、薄れていくのだろう。
僕の中にあるお姉さんが、時の風雨に削られて消えていく。
そう考えると、自らの全身を八つ裂きにしたくなる気持ちだった。なんなら、あの日の続きを僕自身の手で行っても良いぐらいだ。
がりがり、と顔を掻く。指先に皮の破片と血液が付着したので舐め取る。僕みたいに面白みのない味だった。
両手を首に回し、自分で絞めてみる。しばらくそうしていると、次第に視界が狭窄し息苦しくなる。このままいけば死ねるだろうか、と思ったところで僕の生存本能が、僕の手を離させた。
息を荒げ、床に転がる。「ぐぎがががぐがあぐうぎぎ」という意味不明な呻きを漏らしつつ転がり、床に額を何度も叩きつける。このまま割れて脳髄が出てしまってもそれはそれで良かった。だってお姉さんのところに行けるのだから。
でも、それも叶わない。
僕は何一つ果たせない。自分の命を絶つということすらも。
「ぐ、ぎ」
呻きが漏れる。
「ぐ、あ、う、ぐ、が、あああああああああああああああああああああああああ!」
体を突き破って咆哮が轟く。
しばしの間、僕は叫んだ。最後の方には、喉が枯れてしまって、声も出ないけれど叫びに叫んだ。
その叫びも、やがて尽きる。どうせ叫んだところで、お姉さんには届いていないだろう。僕はどこまでも無力だった。
僕は自身の手でお姉さんの場所にたどり着けない。時と共にお姉さんを忘れてしまうのはあまりにも嫌だ。
だから。
僕は机の引き出しの中から、お守り袋を取り出す。それを開くと、中には僕の血で染まったお姉さんの髪の毛が存在していた。
僕はそれをつかみ、そして。
食べる。
僕はお姉さんの一部を、次から次へと咀嚼していった。味はしない。強いて言うなら血の味ばかりがする。
一本一本の主張が激しい。髪ちぎれないので歯ごたえどころの騒ぎではない。
美味しいわけがない。
けれど、食べていく。
そうすることで、お姉さんが僕の一部になると思ったのだ。
いや、なるに違いないという確信があった。
やがて、全ての髪の毛を食べ終わる。お守り袋の中は空になった。
僕はというと、恍惚とした笑みを浮かべているように思える。
お姉さんが僕の中に入っているという歓喜に打ち震える。
たとえお姉さんに会いに行けなくとも。
お姉さんは僕の中に存在している。
それがとても、嬉しい。
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