第四章 手記・叫喚

 ノートを一旦置いて、しばらくお姉さんの部屋を見る。特に、貰って帰るべきものもなかった。貸しているものもなかった。

 ただ、届かないものを思い出してしまったばかりである。

 ノートが入っていた段ボールからは、日記代わりのノートが他にも数冊出てきた。たぶん、お姉さんは律儀に毎日書いていたのだろう。

 少し思案し、「申し訳ないですが」と虚空に謝り、それらを読むことにする。

 僕は再び床に座り込み、お姉さんのノートを開く。

 以下、日付は飛び飛びであるものの、内容はそのままである。


『××年×月×日 中学生になった。新しい生活に期待が膨らむ。しかし少し寂しい気がする。』


『××年×月×日 数日ぶりに××くんに会う。少し成長していたような気がする。成長期、というやつだろうか』


『××年×月×日 定期試験で一位獲得。やった! 二人とも喜んでくれるかな』


『××年×月×日 修学旅行に行く。このノートを持って行くかどうか迷うけれど、持って行くことにした。見られたら恥ずかしいけど、なんとなくもっていないと不安』


『××年×月×日 修学旅行最終日。家と××くんのおうち用にお土産を買う。喜んでくれるかな』


『××年×月×日 修学旅行から帰宅。家の中は誰もいなくて少し笑いが漏れた』


『××年×月×日 私が頑張れば、なんとかなるのかなって思う。頑張ろう』


『××年×月×日 誕生日なので一万円を貰った。好きな物を買えとのこと』


『××年×月×日 高校進学。××くんは中学に進学していて微妙にすれ違い。残念』


 日記の中に、僕の名前が散見されるのは、少し嬉しい。そして、それと同時に、お姉さんの家の事情が垣間見えるような記述も見られる。

 もしかしたら、お姉さんが自死した理由はその点にあるのだろうか、と思った。

 ページをめくっていくと、ある日を境に白紙ばかりのページになる。飽きたのだろうな、と僕は思った。それでも、小学生から高校生に至る年月を書き記すその持続力はすごいものだな、と感服する。

 しばらくページをめくっていく。

 そして僕は、絶句した。


『死にたい孤独だ誰も私を見てくれないどうせ死ぬなら何故生んだ見捨てるならば何故生んだこの世が素晴らしいなんて嘘だ愛が尊いなんてまやかしだ私たちは他人だ他人のまま皆死ぬ一切が地獄だ救われない甘い言葉は皆嘘だ孤独で生まれ孤独で死ぬ緩やかな地獄優しい地獄孤独に身を焼かれ精神を削られ正気を失いつつあるいつ死ねばいいのかいつまで生きればいいのか全てに疲れた私の労力に何が見返りをくれただろうか二人して憎み合っているなら何故私を作ったこの世の全ては不条理だ正しく頑張ってきた人間が報われるなんて稀だ私は稀になれなかった取りこぼされたこのまま落ちて死ぬばかりで徒労ばかりだ皆裏切っていく私は裏切るつもりなんてないのにみんな善意悪意の自覚なく裏切っていく私は頑張って報いるはずなのになんでどうして』


 そこには、荒々しい文字でそんな言葉たちが記されていた。まるで心の闇に蓄えていた悲憤、怨嗟を煮詰めて、ぶちまけたような言葉の数々。

 見ているだけで、気が滅入るのは間違いない。そして同時に、僕はお姉さんの言う“裏切った人間”の中に入っているのだろうか、と思う。

 裏切った自覚はないのだけれど、しかしお姉さんのそばにずっといたわけでもない。

 いや、むしろ離れつつあったのだろうか、と思う。

 このままノートを置きたい願望に襲われる。

 でも、それは何か逃げているようで嫌だ、と思った。

 まるで、子供じみた思考回路。

 逃げていればよかったのに、と理性は冷ややかに分析している。


『あと数年生きて特に良いことがなかったら、そのときはそうしてしまおう』


 先ほどとは違い、今度は整った文字だった。中央にその文字列だけがぽつりと記されていて、あとは全て余白のページ。その左隣のページは、白紙だった。

 そうしてしまおう、というのは、そういうことなのだろう。先日、お姉さんが実行したことなのだろう。

 僕は今、死者の手記を読んでいた。死者の心境を、近いところで見ていた。

 止めとけ、と理性も本能も僕に制止をかける。僕自身もそう思う。このノートは、読まない方がいいと。

 でも、手が止まらない。まるで僕の奥底に沈み込んだ何かが、僕に刻み込まれた何かが、読めと訴えているかのようだ。

 どうしてか知らないが、首に回ったお姉さんの手の感触が、不意に思い出された。


『そうしようと決めた。最後にあの子の顔を見ようと思ったが止めた。あの日の続きは私自身でやることに決めた。窒息死すると人の顔は紫になり、そしてそのあと黒く変色するらしい。出来れば色が薄いうちに発見してもらいたいな、と思う。死ぬときぐらい綺麗でいたいもの』


 そこで、ノートは終わっていた。僕はそれを閉じて、呆然とする。

 お姉さんは、死ぬ前に誰の顔が見たかったのだろうか。そんな思考は、疑問になるまでには至らない。

 確証はないが、確信する。

 お姉さんは僕に会いたかったのだ。死ぬ前に。

 何故。という疑問が頭の中をぐるぐると回る。

 回り続ける。

 回り続けて、消えない。

 お姉さんはどうして、死ぬ前に僕と会いたかったのだろう。

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