第三章 手記と窒息の記憶③

 そんなことを思っていると、突如紙面に踊る赤文字に僕の目が向く。

『××年×月×日 遊びで××くんの首を絞めた』

「……………………うん?」

 その文章を読んで、僕は疑問の声を漏らしてしまう。読み進める。

『きっかけは、アニメの話だったと思う。本当に首を絞めると人は死ぬのか、みたいな話だ。私は高学年なので、そうなればそうなることを知っていたが、低学年の××くんはそうではないみたいだった』

「……こんなこと、あったかな」

 記憶の底に、何か引っかかりを覚える。あったような、なかったような。でも、お姉さんの書き記したものを読んでいるうちに、僕の中に記憶が組み上がっていくので、これは実際にあったことなのだろう。そもそも、自分しか見ないであろう日記に嘘を書くのも意味が無い。

『手で絞めた。××くんの首は細く……』

「……ああ、あったわ、こんなこと」

 遠い日のことを思い出し、そう独りごちる。確かに、僕はお姉さんに遊びで首を絞められたことがある。……今から思えば、そんな遊びをしてどうする、と言いたくなるが。

 確か、当時流行っていた推理物のテレビアニメで、犯人が被害者を絞殺する場面があったのだ。お姉さんはさておき、昔の僕にはそれがショッキングだったのだろう。

 だから、僕はお姉さんに、

「人って、首を絞められたら死ぬの?」

 と尋ねた記憶がある。

 お姉さんは僕の言葉を聞いて、……聞いて、どのような表情を浮かべただろうか。

 困っていたような気もするし、微笑んでいたような気もする。ともすればそれは苦笑かもしれないし、あるいは陰のある笑みを浮かべたのかも知れないが、兎にも角にも、お姉さんは僕にこういった。

「試してみる?」

 そのとき、僕はお姉さんの部屋にいたはずだった。僕とお姉さん以外、誰もいない部屋。遠くではセミが鳴いていて、クーラーを稼働させているものの汗ばむような室内。

 お姉さんの言葉は、冗談のような、それでいて芯には何か動かしがたい硬質のものがあるような、そんな言葉だったように――今は、思う。

 僕は、首肯して返した。お姉さんは「そう」と静かに言って、僕の首に手を伸ばす。

 僕のものか、それともお姉さんのものか。お姉さんが僕の首に手を回した瞬間、汗が潰れて広がる感触がした。

 遠くではセミが鳴いている。

 そのときは自覚していなかっただろうが、自分の命に直結する部位に、他者の肉体が触れるということは、普通に触られるよりも一段と感覚が鋭敏になるのだった。

 僕は幼く発達してなかった咽頭で、お姉さんの指の腹にある肉、そして節にある間接を感じ取る。

 そして。

 お姉さんが、その手に力を込めた。

 瞬間、先ほどまで淀みなく供給されていた空気、その流れが途絶える。僕は息を吸おうと試みるが、不可能だった。

 当時もう一つ考えていたのは、首を絞められても息を止めていれば、少しの間は我慢出来るのではないかということ。

 これも結論から言うと不可能だった。首を絞められた人間は、息を止めようとする行為すら不可能なのだ。止めようと思っても、どうしても息を吸おうとしてしまう。そうすれば、さらに酸素を消耗し、体は新しい空気を求める。が、息は吸えないので以下繰り返し。

 たぶん、人間の遺伝子とか本能とかに、酸素の供給が止まったらとにかく息を吸う、というプログラムが入力されているのだろう。しかし、そのプログラムを実行するには物理的に不可能な状況だった。

 お姉さんの手は力を緩めない。それどころか、強さを増しているような気がする。

 僕は自身の意識が薄れているのを感じた。

 僕はお姉さんの手が、僕の首の皮に食い込みつつあるのを感じた。

 僕は自身の咽頭が、ぐにゃりと潰されているのを感じた。

 僕は自身の気管が、いざというときは何の意味もないということを知った。

 人間は、人間が思っているよりもずっと弱く脆いのだと、このとき学んだ。

 意識が薄れる。視界が黒く狭窄する。

 苦しい、苦しい、と意識が悲鳴を上げる。

 たぶん、僕は目の端に涙を浮かべていたと思う。

 このままでは死ぬ。そういう直感が頭の中を占めていた。

 そして。

「……はい、おしまい」

 お姉さんがその手を離す。僕は床に転がりながら荒々しく、喘ぐように、何度も何度も呼吸をした。

 霞んだ視界が、徐々に明瞭になっていく。お姉さんの顔が映る。しかし、ちょうど逆光になっており、しかもお姉さんの長髪が影をつくるせいで、その表情は伺い知れない。

「ごめん、大丈夫だった?」

 お姉さんがそう尋ねてくる。心配しているような言葉。

 しかし、その表情は嗜虐的な微笑みをたたえていたような気がする。

 僕は少し思案したあと、黙って首肯して返す。苦しかったので、大丈夫かと問われれば疑問が残るが、しかし僕が言い出したことなので、お姉さんを責めるのも筋違いだと思った。

「よかった。じゃあ、とりあえず……汗、かいちゃったね」

 お姉さんは僕の手を引き、僕を起き上がらせる。

 そこには、いつものように柔和で明るい笑みを浮かべるお姉さんがいた。


 ……そんなことがあった。

 あのとき僕は、こう思ったような気がする。

 このまま続けば、どうなるのだろうか、と。

 答えは単純だ。死ぬ。

 僕は一度ノートを置き、自らの首に手を伸ばし、回す。他人のものではない、自分の手の感触は、あの日感じたものと比較すれば遠く及ばない。

 今まで忘れていたのにおかしい話だが、思い出そうとすれば、あの日僕の首を絞めたお姉さんの手の感触が、濃厚に思い出される。

 そして今も、あのまま続けばどうなるのか、という答えの出ている疑問は、くすぶり続けている。

 けれど、あの日の続きをすることは出来ない。

 これが現実だった。

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