第二章 追憶

「……さて」

 お姉さんの通夜から帰った僕は、握りしめた手を開き、ぽつりと漏らす。

 そこには、お姉さんだったものから切り取った一束の髪が存在していた。少し、血に染まっている。

 あの後、特にこれといった騒ぎにはならなかったので、僕の行為は発覚していないらしかった。

 とはいえ、である。突発的にやってしまった行為の置き場所を、僕は思いあぐねていた。

「……どうするかな」

 ため息にも似た言葉が、口から漏れる。僕はお姉さんの一部だったものの処遇を決めかねていた。

 もしこれが親にでも発見されたら、僕は追及を受けることは必至だ。それはなんとしても避けたい。様々な意味で。

 しばらく思案したが、特に考えが出てこない。なのでお姉さんの髪を嗅ぐことにする。

 僕の血のものであろう、鉄に似た香りに交じって、甘く芳しい香りが鼻腔に満ちる。僕は意識しないうちに、笑みを浮かべていた。

 目を閉じながら、お姉さんの残り香をしばし堪能する。その甘美な芳香は、僕が忘却の彼方に追いやっていた、お姉さんとの記憶を思い出させるのには充分だった。

 お姉さんと川に行った記憶があった。

 お姉さんと夏祭りに行った記憶があった。

 雪が積もった日、共に雪だるまを作った記憶があった。

 正月、一緒に餅をついて食べた記憶があった。

 小学校に僕が入学したとき、四年生だったお姉さんと一緒に登校した記憶があった。

 共に林間合宿に行った記憶があった。

 バザーを一緒に見た記憶があった。

 運動会のとき声援を送ってもらった記憶があった。

 いろいろな記憶が、その情景が、脳裏に浮かぶ。僕はそれらに対し、噛みしめるように思いを巡らせる。それらは実に温かい記憶で、僕という人間を構成するにあたって、大きなウェイトを占めているはずだった。

 それらの記憶を再生し終わったあと、僕の目の前に横たわるのはどうしようもない現実であった。

 お姉さんがもういないという世界であった。

 突如として突きつけられた隔絶、お姉さんと二度と関われないという、動かしがたい事実に、僕は愕然とする。

 どれだけ祈ろうが願おうが、もうこの世界にお姉さんはいないのだ。

 最初、母にお姉さんが死んだと聞かされたとき、僕は衝撃を受けたものの、そこまで真剣にその事実と相対していなかったように思える。だからこそ、何の気なしに通夜に参列できたのであろう。

 お姉さんが大学に進学して以来、疎遠になっていたとはいえ、それはどうかと思う。僕は馬鹿なのか、とも思った。

 そして今、僕はやっとお姉さんの死という事実を、直視していると思えた。

 胸の中に、ぽっかりと大きな穴が空いている――いや、こんなことじゃ表現できない。

 喪失。今の心境を一言で言い表せば、そうなるだろうか。しかしそんな言葉じゃ物足りない。全くもって、足りなさ過ぎる。

 お姉さんの髪を握りしめ、部屋を見回す。がらん、と広く感じられた。

 窓を開く。世界は、夜の闇に染められている。遠近問わず、電灯が点っている。それら一つ一つの下には、誰かが存在している。

 だが、お姉さんはどこにもいない。その事実は悲しいのだが、しかし泣くだの叫ぶだの、悲しみを発露させるような行動を取ることが出来ない僕がいた。

 何かをしようとしても、まるで大事な回路が切れてしまった機械のように、動けない。

 ああ、と僕は気づく。

 お姉さんが死んだ。その現象は、僕の中にある何かを殺した。いや、僕の中にある何かが、死んだのだ。まるで、殉死するかのように。

 この世界に、僕がいる。しかしお姉さんはどこにもいない。

 僕は今、十七歳である。人生が仮に七十年まで続くとしたら、残り五十三年、お姉さん抜きで生きていかなければならないわけで。

 途方もないその長さに、深い、深い憂鬱を覚えるのであった。

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