第34話
「――くあっっ⁉」
鼻先を掠めた石鹸の香りで覚醒した俺は、次には全身を走る痛みに顔をしかめた。
頭が……全身が痛い。
何だこれ、どうなってるんだ…………?
まだぼんやりとした意識の中で、どうも自分が横になっていることだけはわかった時、
「ひ、ヒナツ? ……ああ、良かった」
すぐ隣から、聞き慣れた声がした。俺はズキズキと痛む体に鞭を打って上体を起こす。
「ネ、ヴィー……?」
「うん……うん! そうだよ、ネヴィーだよ! 良かった。意識は、戻ったみたい」
「ここは……俺の部屋、か?」
段々はっきりしてきた頭で、俺は周囲を見渡す。
窓から夕陽が差し込む、見慣れた自室の風景。ベッドの横に置いた椅子に座り、横たわる俺に心底安堵した表情を向けるネヴィー。
風呂上りでまだ若干湿った銀髪から、何かの花の香りみたいな、良い匂いが漂ってくる。
「…………ああ、そうか。お前が、運んできてくれたんだな」
この感じには、とても覚えがある。
そうだ、俺は……俺は……。
「……俺は、また……負けたのか」
体中の痛みが途端にその鋭さを増したように感じ、俺は再びベッドに仰向けになった。
「あっ、まだ、あんまり動かないで。ヒナツ、路地裏でボロボロになって倒れてた。酷い怪我だったから、すぐに鏡でここに戻って来て手当てしたんだけど……何が、あったの?」
「…………よく、俺を見つけられたな」
「え? う、うん。ヒナツの匂い、辿ったから」
「…………そうか」
「事故、じゃないよね? 怪我の具合を見ても……これを見ても」
そう言ってネヴィーが取り出したのは、真ん中をドーナツの穴みたいに貫かれ、既にただのガラクタと化していた俺の『展開機』だった。
もはや使い物にならないのは、一目でわかる。
「…………ハハ、酷いこと、するなぁ」
「これ、魔術でできた痕だよね? 誰かに襲われたんでしょ? ううん、この穴とかヒナツの傷を見ればわかるよ。……あのドネルって人だよね? そうだよね? そうなんでしょ?」
「ネヴィー……」
「本当に……本当に本当に本当に本当に、どこまで私達を追い詰めれば気が済むのかな?」
「ネヴィー」
「……大丈夫だよ、ヒナツ。私が、なんとかする。私がヒナツを守るよ。もう二度とこんなことができないように、ヒナツをいじめる奴は私が全員――」
「ネヴィー! 頼むからっ!」
「ッ⁉」
張り上げた俺の声に肩を震わせたネヴィーに、懇願した。
「頼むから……もうこれ以上、俺をみっともない奴にしないでくれ……」
「ヒナツ…………」
今回は、さすがになんの言い訳も立ちはしない。
俺ですら、俺を庇い切れない。
相手は一人、こっちも一人。
相手は『練習機』、こっちも『練習機』。
条件は本当に対等だった。それで負けたというのなら、もう疑う余地などどこにも無い。
ただ単純に、俺が、あの腰巾着野郎より…………。
「なぁ、ネヴィー……」
俺は、なんて未熟だったんだろう。
なんて、大海が見えていなかったんだろう。
何度も、何度も、そう言われてきたのに、何故この期に及ぶまで、気付かなかったのだろう。
「俺……俺は…………」
――違う。気付いていた。
気付いていて、なのに考えないようにしてきただけだ。
こんなに単純で、明快で。
俺以外の奴にとっては、ごく当たり前なことだったのにな。
「俺は、こんなに…………弱かったんだな」
言葉にした瞬間、よくわからない色々な感情が一斉に込み上げてきて、俺は思わず腕で顔を覆う。
なけなしの意地と気合を総動員して涙こそ流さなかったが、それでも今の俺は、かなり情けない顔になっているだろう。
ネヴィーの前だというのに、それを気にする余裕も無い。
「……手当て、ありがとう。でもごめん。今日は、もう帰ってくれないか?」
どうしようもなく、今は一人になりたかった。
落ち込みたいとか、冷静に己を顧みたいとか、自分自身を嘲りたいとか、そういうことではなく、ただ……今は一人にして欲しかった。
我ながら子供みたいだなと思いつつ、俺は傍らのネヴィーに背を向けて寝転がった。
これ以上は何も話したくないと、言葉ではなく背中で語る。
……だが、
「…………私は、そんな風には思わないけどな」
ネヴィーは、そうは受け取らなかったようだ。
それまで静かに俺を見ていた彼女は、不意に拗ねた子供をあやす母親のような口調で呟き、やおらその細く小さな手で俺の頭を撫で始めた。
「……何、してるんだよ」
「ヒナツは全然、弱くなんかないよ」
「お前……こんな俺を前にして、よくそんなことが言えるな?」
「言えるよ。どんなヒナツを前にしても言える。ヒナツは全然、弱くない」
少しの迷いも、疑いも無く、ネヴィーは言い切った。
「――私はヒナツのことを、これっぽっちも弱いとは思わない」
ハッとして、俺は背けていた顔をネヴィーの方に戻す。
さながら聖母の如く慈愛に満ちた微笑を浮かべる彼女の言葉は、いつだったか、俺がネヴィーに向けて言ったセリフを彷彿とさせるものだった。
「うん、そうだよ。前にヒナツは、少しも迷わずこんな風に私を認めて、励まして、受け入れてくれたよね? 初めて会った時から……ううん、私が初めてヒナツを見た時から、ヒナツはそんな強くて、そして――優しい人だった」
心の底から愛おしい者を見るように目を細めながら、ネヴィーは続ける。
「あのね、ヒナツは知らないと思うけど、実は私、見てたんだ。ヒナツとロザラインの魔術戦」
「なんだって? ……お前もあれ、見てたのか」
「うん」
「なら、猶更わかってるだろ? ……あんなに一方的に負けたんだ。今思えば、あれもただ単にロザラインが強かっただけじゃない。それ以上に、俺が弱かったってだけの話だろ」
「それでもヒナツ、少しも諦めたり怯んだりしなかった。あんなに強大な『力』を前にしても」
「違う! あれは、あれはただ単に、俺が自分の実力を過信していただけで……!」
「……フフフッ、ヒナツ、ちょっと元気になってきた、ね?」
「んなっ」
指摘されて、俺は我に返った。
段々と自分の顔が熱を帯びていくのを感じる。
――ほっと、していた。
こうしてネヴィーと話す内に、いつの間にか、俺はどこか安心していたのだ。
もはや覆しようが無い、嫌でも認めなくてはならない、思い知らされた自分の『弱さ』。
それを、目の前のこの銀髪の少女は何の疑問も持たず、当たり前のように否定してくれた。
それにとてもほっとして…………気付けば俺は、そんな彼女に甘えていたのだ。
それこそ、母親に慰めて欲しくてこれ見よがしに落ち込んで見せる、そんな子供のように。
「……なぁ、お前はどうして、俺にここまでしてくれるんだ?」
前に聞こうとして聞けなかった問いを、俺は再びネヴィーに投げ掛けた。
「…………『目』、だよ」
少し間をおき、けれど相変わらず微塵も迷いの無い顔で、ネヴィーがおもむろに口を開く。
「上手く言葉にはできないけど……ヒナツは、どんなに大きくて、恐ろしいほど強い『力』を前にしても、決して、皆が私を見る時のようなあの『目』をしなかった。ロザラインの時も私の時も、【炎剣女帝】とか【氷鏡の戦女神】とかじゃない、同じ一人の人間として私達を見ていた。私が初めてヒナツに魔術を見せた時、それでもまたあの『目』をされるんじゃないかって、本当は凄く怖かった。でも、やっぱりそんなことは無くて。それに凄く、救われた。だから」
ネヴィーの手が、俺の頭から右手へと移動した。
「――例え何があっても、私はこの人の力になりたい、一緒にいたいな、って、思ったんだよ」
そう言って、ネヴィーは俺の手をぎゅっと握り締める。
雪のように白く透き通るような肌のその華奢な手は、それでも、なんだかとても温かかった。
「……そうか」
「うん。そうだよ」
「……でも、俺は、自分がそんな大層な奴なのかどうか、もうわからなくなっちゃったよ。自分に自信が持てないんだ。なんだか急に足元がぐらついたみたいで…………凄く、不安だ」
俺がここまで弱音を曝け出したのは、本当にいつ以来だろうか。
普段の俺が今の俺を見たら、きっと吐きそうになっていたに違いない。
こんなに女々しくて情けない奴、自分ですら見ていて嫌になるくらいだ。
誰もまともに取り合おうとはしないだろう。
そんな、俺のことを──
「大丈夫。ヒナツの『強さ』は、私がちゃんとわかってる。だから、自分のことを『弱い』なんて言っちゃダメ。いつもみたいに、自信満々なヒナツでいて欲しいな」
――この銀髪の少女は、それでもやっぱり、そんな『情けない俺』を優しく否定してくれた。
……本当に、本当にこいつは……。
「……そうかい。やっぱりお前、変わってるよ」
「フフフ、そうかもね」
「でも……ありがとうな。そう言って貰えて、なんだか少し落ち着いたよ」
「うん! こちらこそ、ありがとう」
嬉しそうにそう言ってネヴィーが微笑むものだから、俺は何故だか今度こそ本気で泣きそうになってしまった。
これはマズい、と、わざとらしく咳払いをする。
「ゴ、ゴホン! そ、それにしてもあれだな。これは一体どうしたもんかな?」
俺はすぐ横に転がっている「『展開機』だった物」を指差した。
だが、答えを期待したわけではない形だけの質問に、ネヴィーが意外な回答を提示する。
「ああ、これ。……でも、こうなったのは、むしろ良かったんじゃないかな?」
「えぇ? 良かったって……いや、良くはないだろ。これじゃ魔術が使えないじゃないか」
片眉を上げて抗議する俺に、ネヴィーが「『展開機』だった物」をつんつんと突いて言った。
「だって、ヒナツは多分、コレを使わない方が――」
「そこから先は、私が話すよ」
と、ネヴィーの言葉を遮るようにして、いつの間にか開いていた扉の脇で、これまたいつの間にか立っていた親方が声を上げた。
「お、親方?」
「まったく、ネヴィーから話を聞いた時は少し驚いたけど、お前もつくづく間抜けだな。だから言っただろ。自分の力を過信しているからお前は弱いし、負ける。自業自得だよ」
「そ、それは…………そう、ですね。俺が、馬鹿でした」
呆れ顔の親方のセリフに、俺は少し言葉を詰まらせ、それから素直に頷いた。
「……なんだお前、今日は随分とらしく無いな?」
確かに、少し前の俺ならすかさず噛み付く場面だったが、今はそんなことしない。
散々親方に言われてきたことが、正にその通りだったんだと、今はもう痛いほど思い知らされたからだ。
そんな、自分でもそう感じるくらい丸くなってしまった俺の態度に、親方は少しばつの悪そうな顔を浮かべ、それからすぐに、どこか面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「……ふん。ようやく、自分の『弱さ』を自覚した、と?」
俺は黙って目を伏せる。
沈黙を肯定と受け取ったらしく、親方は溜息交じりに頷いた。
「そうか。……ふむ、ならこれでようやく、お前の本当の『実力』が見られるかもな」
「……そうですね。これでやっと俺の本当の…………え?」
「よし、ヒナツ。今から少し、お前にも学生らしく『授業』を受けさせてやろう。その格好のままでいいから、別館入り口に降りて来い」
「は? ちょ、ちょっと? 親方?」
俺の、本当の実力? 授業?
一体、何の話をしているんだ?
いまいち話の要領を掴めないでいる俺に背を向けつつ、親方はぶっきらぼうに告げた。
「――お前には『普通の学生』よりも、やっぱり『用務員の見習い』の方が合ってるよ」
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