煙草とチョコレート
井上 未憂
煙草とチョコレート
私の恋は叶わない。
_今日こそ告白しよう。
もう何年も見てきた表札の前、目を閉じて覚悟を決める。数時間前、彼に家に来るよう誘われた。約六年間の片想いにそろそろ区切りをつけたかった。七月ももう今日で終わる。目を閉じてみても鬱陶しく鳴く蝉のせいで集中なんて出来やしない。よし、駄目で元々だ当たって砕けろ自分。震える指先でインターホンを押すと、数秒経って機械を通した彼の声が家に入るよう促した。
「あら、菫ちゃんいらっしゃい」
「おばさん お邪魔します」
「柊は部屋に居るわよ」
リビングで洗濯物を畳んでいるおばさんに挨拶をして部屋に続く階段を上がる。蒸し暑い階段。こめかみを伝った汗を雑に拭いた。
緊張する… 何回来ても慣れないこの瞬間。軽く扉をノックすると“どうぞ”と短い返事。小さく息を整えて扉をゆっくりと開けた。
「いらっしゃい」
「久し振り、柊くん」
デスクチェアを回転させ私の方をみて微笑んだ彼は風見 柊。私の好きな人。
「二ヶ月振りくらい?」
「うん、そのくらい」
柊くんはまだスーツのまま。机の上のノートパソコンには打ちかけの文字が並んでいた。
「仕事忙しい?」
「まあまあかな、でもなんだかんだ充実してる」
柊くんは真面目で優しい。
私が生まれたとき柊くんは八歳。家がお隣で小さい頃から兄妹のように育った私たち。
告白出来ずにモタモタしていると気付けば柊くんはもう社会人三年目になっていた。
ベットの前に腰掛けると、小さなテーブルの上には私の好きなミルクティーとチョコレート。もう一つのカップの珈琲は柊くんのだろう。私の好きなもの、用意してくれたんだ。さりげない気遣いに口元が緩んでにやけてしまいそうになる。
さらに嬉しいことは続いた。
「あれ、爪が可愛い」
煙草に火を付けながら、私の足の指を不思議そうに眺めた。
「夏休みだからね」
私には似合わない、鮮やかな赤のペディキュア。柊くんが好きだって言ってた色。
高校生最後の夏休み。本当は茶色に染めたい髪の毛も、柊くんは黒髪が好きなこと知ってるから今日までずっとヴァージンヘアなんだよ?
些細なことにも気付いてくれるとこ昔から変わってない。たまにやってくる沈黙も柊くんとなら嫌じゃない。クーラーの音がやけに大きく聞こえる。
「柊くん、あのね」
思ったよりすんなりと出た言葉。
今までで一番勇気が出た。大好きなんだ。
切れ長の瞳も、薄い唇も、低くて少しかすれた声も、長くて節々が大きい骨ばった指も。その事全部伝えたかった。
「あ、」
大好きだから気付いてしまった。煙草を挟んだ左の薬指。シルバーのリングは止まらない私の気持ちを牽制するように冷たく光っていた。
「それ…」
私の視線を追った先、自分の指輪を見て柊くんは照れくさそうにはにかんだ。
「ああ、俺昨日結婚したんだ」
現実はやっぱり現実のままだった。
いつかこの日が来ること分かってたはず。
大学時代から付き合っていた彼女だろう。
「菫には早く報告したくて」
そっか、だから今日呼ばれたんだ。心のどこかで‘何か’を期待していた自分自身を嘲笑したかった。
「昨日って、突然だね」
「プロポーズは結構前にしたけどな。
昨日ようやく落ち着いたから婚姻届出してきたんだ」
灰皿の中には短くなった煙草が不格好に捨てられている。遅かった。『既婚者』という、容赦のない大きな壁を壊すほど私はしぶとくない。
なんだ、最初から私はなにひとつ柊くんに近付けて無かったんだ。
テーブルの上の珈琲も煙草もスーツも。
私は、大人になって遠ざかる柊くんの影を踏むことすら出来ていなかった。
「年が明けたら式を挙げようと思ってるんだ」
「菫も来てくれる?」
柊くんは皮肉なくらいに残酷で
「うん、当たり前じゃん」
本当は行きたくない。
純白のドレスは柊くんが新婦のために着させてあげたもの。その綺麗な姿で永遠の愛を誓う。
きっとそれを私は偽善的な目で見るのだろう。
「良かった」
一度でいいから手を繋いで街を歩きたかった。
一ミリの隙間も無いくらい強く抱き締めてほしかった。
息が出来ないくらいキスをしてほしかった。
「菫は大事な家族だもんな」
ほんの一瞬でも、私を好きになってほしかった。素直に‘おめでとう’って言えないや。
俯いたとき目に入ったペディキュアは少しくすんでみえた気がした。
伝えることも触れることも出来なかったけど何故か不思議と涙は出ない。
「柊くん」
最後まで背伸びしてこの恋を終わらせたい。
「幸せになってね」
煙草とチョコレート 井上 未憂 @fusummer
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