如月芳美「おに」

 そうなんです。鬼なんです。うちの嫁。

 必死に働いて稼いで来てる私をこき使うんです。


 ええ、まあそりゃあ、胸張って言えるほどの稼ぎじゃないですよ。確かにね、私の同期はもう、みんな主任だ課長だと言って昇進してますからね。

 でも私、そういうの向いてないですしね、万年平社員の方が性に合ってますんでね。正直、平社員のまま定年迎えたいとか思ってますよ、実際。


 いえいえ、違うんです。私が万年平社員だから嫁に文句言われてるとか、そういう話じゃないんです。

 なかなか子宝にも恵まれなかったんで、歳の割に子供もまだ小さいですしね。管理職になると休日出勤もありますし、海外への転勤もありますんでね。その点、平社員はそういうのありませんから、そこら辺は嫁も満足してるんですよ。


 ええ、土日は子供たち連れて公園行ってます。もう公園の常連のお母さんたちとも仲良くやってますよ。

 え、嫁ですか? 勿論その間は一人でカフェに行ってのんびり過ごしてますよ。実家に遊びに行く事もあります。

 毎日家事に育児に忙しいんで、土日くらいは子供から解放されたいでしょうしね。


 はい? 嫁が鬼なんじゃなくて、私が優しいだけですと? いえいえいえ、それは違います。鬼嫁です。きっぱりと鬼嫁です。


 聞いてください。夕ご飯をですね、私に作らせるんですよ。土日だけですけどね。お米も研いだことないこの私にですよ?


 去年の今頃ですか、まずお米のとぎ方を教わりました。なぜこんなことを教えるのかと聞きましたら、なんて答えたと思います?

「あたしがいなくなったら誰がご飯炊くの?」

 もう、驚きました。浮気してるのかと問い詰めたくらいです。

 でもね、私も気づかなかったのがいけないんです。下の子が生まれたばかりで、ご飯を炊いてるヒマも無かったんですね。

 上の子ももうすぐ幼稚園に入るから、絵本バッグとかお弁当袋とか縫わなきゃならない。でも生まれたばかりの下の子がぐずるから、抱っこしていなきゃならない。上の子は下の子にお母さんを取られたと思って、母親の気を引くためにいたずらばかりする。

 大変だったんですね。それで米のとぎ方を。


 一か月後ですか、今度はうどんやそばなどの麺類の茹で方を教わりました。やはり「あたしが実家に帰ったらどうするの、誰がご飯作るの」でした。

 実家に帰りたくなるほど子育ては大変なのかと思いましたね。もしかしたら私が育児に協力的でないのが不満だったのかもしれません。


 二か月後、簡単な炒め物の作り方を教わりました。それとトイレ掃除の仕方です。毎週土日はトイレ掃除を私がすることになりました。

 ちょうど上の子がパンツトレーニングを始めたところでして。おむつが外れていないと、翌年から幼稚園困りますんでね。でまあ、間に合わなくてよくトイレの前でおもらししたり、トイレまで行ってパンツの中に出しちゃったりね、色々大変でした。

 勿論今は幼稚園も行ってますからね、ちゃんと一人でおしっこできるようになりましたよ。たまに失敗してるようですが。


 三か月後、焼き魚の作り方を教わりました。それとお風呂掃除ですね。毎週土日、トイレとお風呂のお掃除は私がするようになりました。

 やってみてわかりましたけど、一つ一つの家事は大したこと無いんですよ。ただね、一日中続くというか終わりが見えないというか。

 ほら、我々は会社行って、帰って来たら終わりじゃないですか。ビール飲んでテレビ見て。でも主婦は違うんですね、寝るまで続くわけですよ、断続的にね。

 しかも一度にできないんですよ。夕ご飯をまとめて朝に作っちゃうとかできないじゃないですか。だからやりたいときにできないんですね。とても時間に拘束されると言いますかね。そこに子供が割り込むんですね。なかなか大変です。


 四か月後、簡単な煮物の作り方を教わりました。それと洗面所のお掃除です。トイレ、お風呂、洗面所、水回りの掃除は水で流せてしまうので簡単なんですね。それでこの辺りから始めたと思うんですけど。


 五か月後、あんかけの作り方を教わりました。掃除機のかけ方も教わりました。掃除機って押すときにしか吸わないんですね。引くときは何も吸わないんです。初めて知りました。

 子供の手遊びも教わりました。お手玉なんかやったことありませんからね。嫁は得意なんです。でも私ができる必要はないんだと言ってました。子供を楽しませればいいんだそうで。


 六か月後、卵焼きの作り方を教わりました。これが作れればお弁当が自分で作れるからと。もう私のお弁当を作るのが嫌なのかと思ったんですが、そうではなくて、上の子が入園したら毎日お弁当を持って行かなきゃならないんです。そんな時に、嫁がインフルエンザなんかに罹ったら誰がお弁当を作るのか、と。ああ、なるほどと思いましたね。その時は。私はコンビニで買えばいいですけど、子供はそういうわけにはいきませんから。

 食器洗いも教わりました。「あたしが手を怪我したら、誰が洗うのよ」とね。確かに子供たちにはさせられません。


 七か月後、味噌汁の作り方を教わりました。いやあ、お恥ずかし話なんですが、味噌をお湯で溶くだけだと思ってたんですよ。出汁ってああやってとるんですね。主婦の仕事はなかなかに侮れませんね。今まで「主婦なんて遊んでるだけだろ」って思ってましたが、甘かったですね。大いに反省してます。


 八か月後、上の子が入園しまして。下の子はハイハイで這いずりまわるし、上の子は「幼稚園行きたくない」とぐずる。下の子にミルクをやらなきゃならないのに、上の子のお弁当も作らなきゃならない。離乳食も作らなきゃならない。ブチ切れてましたね。名実ともに『鬼』になってました。


 九か月後、蒸しパンとホットケーキの作り方を教わりました。子供のおやつはなるべく手作りした方がいいからという事でした。でもそれ、なんで私が教わるんですかね? ちょっと疑問は残りましたが。

 でもこれは楽しかったんですよ。上の子と三人で、レーズンを入れたり、チョコレートを入れたり、チーズを入れたり。何を入れようかって言いながらね。

 嫁が一つだけわさびを入れてたんです。それを私が食べてしまって。ほんと鬼ですね。死にそうになりましたけど、嫁の笑顔が眩しくて、まあいいかってね。

 あ、ちょっとデレちゃいましたね。お恥ずかしい。


 十か月後、ちらし寿司の作り方を教わりました。「おめでたい日にあたしが寝込んでたら困るでしょ」ってね。なんだかもう慣れて来ましてね。理由なんかどうでもいいやと。子供と三人でちらし寿司を作りました。

 それと、何故かボタン付けを教わりました。ボタンが取れても自分でつけられた方がいいでしょ、と。

 心配になって来ましてね。もしかして視力が落ちて来てボタン付けができなくなったのかと思ったんです。杞憂でしたがね。嫁は両目とも2.0なんです。


 十一か月後、まぁ先月なんですが。

 嫁が突然一切の家事を放棄しました。驚きましたね、ボイコットですよ。

「全部教えた筈だから。あとは応用でどうにでもなる」と言って何もしないんです。あれには参りましたね。

 私だって平日は朝から晩まで仕事してるんですよ。疲れて帰って来ても、風呂も沸いていない。掃除もしていない。上の子はおもちゃを部屋中に散らかしたまま、大の字で寝てる。下の子は離乳食をぐちゃぐちゃにして遊んでる。トイレは上の子が失敗したらしい水たまりがある。ほんと参りました。


 それで今月です。本当に鬼ですよ、うちの嫁は。

 突然出て行きましたからね。


 朝言ってたんですよ、「疲れた。だるい」ってね。「間に合って良かった」とも言ってました。会社から帰って来たらもう行ってしまった後でした。子供たちだけ残してね。



 一年も前にわかっていたなら言ってくれたら良かったんです。入院して徹底的に治すことだってできたかもしれないでしょう?

 でもあと二ヵ月と言われて、入院してる暇はないと思ったんでしょうね、そんなところが彼女の『鬼』なところなんですが。余命を上回って一年も頑張ってくれてね。私の物覚えが悪くて、死ぬに死ねなかったのかもしれませんが。


 向こうでどうしてるでしょうね。友達できたでしょうか。

 鬼籍に入ってほんとに鬼になっちゃってるかもしれませんね。


 私を置いていくなんて、ほんと鬼嫁ですよね。


 ほんと。鬼嫁です。



 でもね、私はそんな鬼嫁が、世界中で一番大切だったんですよね。

 行ったばかりですけど、お盆なので、またちょっと迎えに行ってきます。

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