想。「鬼」
「わたしは行かない」
「アザミ、けれど」
「行かないってば!」
アザミはシンクに置いてある、幼少のころ使っていた茶碗を洗った。
シングルマザーの元で育てられ、高校の同級生であるタカノリと結婚した彼女は、決して豪華絢爛とはいえないが、幸せでこもれびのような温もりに溢れている日常を送っていた。
先月アザミの妊娠が判明した。しかし。幸せの絶頂期の中、突然母親が危篤だということが、妹から今さっき電話で伝えられた。
「アザミ、後悔するよ。実のお母さんでしょ?」
「実のお母さんだろうと、あんな鬼みたいな人のところに行く義理はない」
アザミは荒々しくプラスティックのコップについた洗剤を洗い流し、乱暴に食器かごに投げつけるように置いた。
「お母さんが会いたがっているって、妹さん言ってたじゃないか」
「なに? アナタわたしよりもお母さんの味方するの?」
「そういうつもりじゃない。けれど、後悔はしたくないだろ?」
「したくないわよ。だから行かないのよ」
母はシングルマザーで、生活保護を受ける中でパートをしつつ、アザミとアザミの妹を育てた。
厳しい環境下にあったこともあり、母親はアザミに何度かキツく当たった。そのとき、母親は日々の疲れもあり、アザミがちょっとした粗相を起こしたものなら、顔を赤くして叱った。母親は自分の言葉に感化され、言葉は凶悪なモノになり、それが一日二時間続いた日もあった。
鬼だ。
アザミは節分のときに、母親がいなくなってしまえばいいと、何度も思いながら豆をまいた。母親が鬼役をやり、アザミは力いっぱい豆を投げつけることで、日々の鬱憤を晴らしていた。そのときつけていたお面が、青というチョイスは、今考えれば見当違い甚だしいと感じた。
「でもさ、その茶碗大事に持っているよね」
アザミの食器を洗っていた手が止まる。
「そうよ。子供が産まれるから使うのよ」
「それ、お母さんが買ってくれた大切な茶碗だって言った記憶があるんだけれど」
「だから?」
「未練、あるんじゃないか?」
「ない」
「意地張って、泣きを見るのは君だぞ」
「あのさ、今ちょっと動揺しているから、喋らないで」
「お母さんが危篤だからか」
アザミの頬に、朝露のような涙が一筋流れた。
そうだ、あの人は暴言は吐いたけれど、暴力は一切ふるわなかった。あの人は自分よりもわたしたちに多くご飯のおかずを分けてくれた。あの人は穴の空いたニットを着ているのに、わたしたち姉妹には新品のニットを毎年買ってくれた。あの人は……。
「タカノリさん」
「なに?」
「今から車出して、病院まで何分かかる?」
「一時間」
「もっと早くできるかしら?」
タカノリは微笑んで「もちろん」と言った。
「お母さん!!」
病室にかけこむと、アザミの妹が母の両手を握っていた。もう先は長くないらしい。一輪挿しに挿してある百合の花が、項垂れるように咲いている。
「アザミ?」
妹が手を放し、アザミに両手を託す。アザミは過呼吸と言っても差異がないほど呼吸を乱して、何度も「お母さん!」と叫んだ。
「お母さん、わたし……」
「ごめんね、アザミ」
鬼の目にも涙。アザミの母親の顔には、心許ない細い涙痕があった。
「今まで、怒ってばかりで……ごめんね」
「そんな、そんなことは言わなくていい。あのね、お母さん。わたし妊娠したのよ。近いうちにお母さんに孫ができるんだよ」
「アザミ」
「子供ができたら、わたしが小さい時に使っていたお茶碗でご飯を食べさせるの。最初はスプーンを握りにくいから、お母さんがこの子に食べさせてあげて」
「アザミ」
「だから……だから……逝かないで」
泣き崩れる中で、百合の花弁が落ちた。
*
「あのお母さんが鬼か」
「すごく怖いお母さんだった。でもその分強い人だった。それで、紛れもなく善人だった」
告別式が終わり、アザミは空を仰いだ。夕焼けの色が少し赤味がかって、さながら鬼の皮膚のようだ。
「鬼子母神って知ってる?」
タカノリも空を眺めながら唐突にアザミにたずねた。アザミは首を傾げ、訝しげにタカノリを見る。
「知ってるわよ。それがどうしたの?」
「鬼子母神は、インドだと安産や子育ての神様なんだ。それが君の親なんだぜ? きっといい子が生まれてくる」
「……そうね」
少し大きくなった腹を撫で、アザミはタカノリと手をつなぎ、車のほうへと向かった。
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