08 滅びの星のうたを聴く
《エコー。
早朝の白い光のなかで、
《鍵の声をきかせて》
ラジオは耳の中で直接囁いていた。もう、歌ですらない。
時間がないのだ。
遠くからサイレンのような音が聞こえる。
私は何十回目かのキスを落として依依を目覚めさせた。
寝ぼけている依依の上をまたいでベッドを降りると、黒いカーゴパンツと長袖のコンプレッションウェアを着て、壁際に置きっぱなしにしてあったブーツを履く。足首の痛みはとっくに消えていた。
依依はやわらかい猫のようにゆっくり身体を起こし、ブーツの紐を結ぶ私を黙って見ている。どんな顔をしているのか見ることができない。私はただ、服を着て、とだけ言った。
依依もサイレンに気付いたのだろう。何も言わずに昨夜着ていた服を手繰り寄せて袖を通し始めた。
「依依、私は外の世界からこのスラムに来た。囚われた人たちを元の場所に帰し、ここを破壊するために。そのための
依依の返事はなかった。
夜明け前から私の耳の奥には、ラジオなしに数々の言葉が届くようになっていた。これまで受信できずにいた情報たち。
仲間は既に全員が
この一時間ほど前からどんどん送られてくる一見ばらばらの情報を頭の中で整理しながら、私は依依の柔らかな手を握って少しだけ泣いた。ここがどこなのか、このスラムの住人たちが誰なのか、思い出してしまったからだ。
ここは仮想空間の中で、住人は本物の人間とBOTが混在している。一部の自警BOTを覗き、一般の住民の役割でここに暮らしているBOTと本物の人間との区別はつかない。この
つまり。
依依が人間なのか、BOTなのか、今の私には分からない。
それを依依に告げることができない。
スラムの外の
鍵は、星が持っている。
さそり。
腕の死。
鍵。
針。
力天使。
額。
声。
剣。
星を探せ。オリオンをも排除する。
サイレンが鳴っている。その音にかぶせて別の放送が響いてくる。これは耳の奥に聞こえているのではない。スラムに備えられた地域放送だ。
こんなことはそれまでなかった。恐らくこの放送にも何らかの意味がある。
『……当地区より十二坑の距離で外界に繋がるトンネルが発見され……』
依依はのろのろとキッチンに向かい、小さな冷蔵庫から卵とハムを取り出している。火が怖いと言ったじゃないか。またその腕をいっぱいに伸ばしてフライパンを持つのだろうか。
私はもう、依依のために朝食を作ることも、依依に見とれてハムを焦がすこともないのだろう。
『……現在の停電区域……
放送の口調が変わってくる。スラムは遥か底の方から微かな震動を始めている。
依依はガスの火を点けない。
さっきから依依は何も言わない。私がスラムの外から来たと言っても。スラムを滅ぼしに来たと言っても。
一際高くサイレンが吼えた。
ドアの外を何人もの足音が駆け抜けていく。
『侵入者。侵入者。侵入者』
耳の奥の声を待っている。
何かもっと決定的な情報を。
私はここで
鍵は、星が持っている。
星とは何だ?
《エコー。腕は死んだが、毒針は放送する》
『さそりを死なせるな』
《星は住んでいる。星は》
『
《
《
依依がこちらを振り向いている。どうしたのだろう、初めて会った日、あなたはだれだと聞いたあのときのように、驚いた顔をしている。
「依依、」
「九〇二の
ぱちん、と何かが繋がった感覚が脳を撃った。
ぱちん、ぱちん、ぱちん。
引き延ばされた時間の中でドミノが倒れていくように。
あちらこちらから呻りを上げるサイレンの騒音の中、もどかしいほどのスローモーションで私は、理解する。
依依は。
この依依は。
「すばる、この部屋に自警団がくる。早く逃げて」
卵もハムも放り出して床に這いつくばり、ベッドの下に手を突っ込んで依依が引きずり出したのは、あの晩私が使っていた真っ黒なパラシュート。早く捨てればよかった、と泣き出しそうな声で言いながら依依は、それを抱えて私に言った。
「わたしがこれを持って逃げるから、すばるは別の方向に逃げて」
「だめだ。依依、どこまで逃げたって」
意味がない。鍵が使えなければ。
そして九〇二の
これらはすべて、
オリオンをも排除する、女神のさそりをかたどる星だ。
私は依依の両肩を掴んだ。
「あなたが、星か」
依依は私を空から落ちてきた星だと言ったが、私が探していた星は依依自身。
それは、依依自身だ。
何ということだろう。私は記憶を失って、何も知らずに
「依依、
私から一歩後ずさりした依依は、両腕にパラシュートを抱えたまま。真っ黒な布には、銀の粒のように光るものが見えた。
ああ、それで知っていたのか。そこには『潜行』『回音』と文字がある。
このスラムに潜行する
「依依、お願いだ。私は仲間とたくさんの人たちを助けなくちゃならない」
「いやだ。すばるがいなくなる」
「どっちにしてもこのままじゃ私はここで死ぬ」
依依はいよいよ泣きそうな顔をして私を見る。他に方法がないんだ、と私は言った。
放送を聞いたBOTたちはもう、他の星の部屋を固めているだろう。ここを脱出して別の星の部屋に行くのはリスクが高すぎる。今ここにいる星、依依に
『
うるさい。空間じゅうがうるさい。割れたサウンドの放送がまくし立て、幾つものサイレンが吼え、大勢の人の走る足音や怒声が聞こえてくる。壁が殴られている。建物が、このスラムがどしんどしんと揺れ始めている。階段室の上からも大騒ぎする声が聞こえた。屋上にも人が集まっているのだ。
逃げられない。
《エコー、声をきかせて。
そう思った瞬間、腹の底に響くような鈍い音がして、部屋のドアがこちら側に膨らんだ。何かをぶつけて開けようとしている。それから甲高い金属音が何度か響いた。……銃でロックを壊している? そう気づいた時には弾け飛ぶようにドアが破られて、理髪屋や肉屋や花屋の格好をした住人たちが部屋になだれ込んできた。
私は咄嗟に椅子を投げつけ、列の先頭を倒して速度を殺した。依依が悲鳴を上げる。階段室に続くドアに突然幾つもの孔が開く。地の底から轟音が聞こえてくる。
《解除せよ。エコー、解除して、星の声で!》
「依依、すべての
印刷屋の作業服を着た中年の住人が金属バットで殴りかかってくる。キッチンに置かれた卵が流れ弾に当たって黄色く砕け飛ぶ。私は食卓の脚を掴んで横ざまに振り回し、印刷屋とその後ろの料理人をぶん殴る。背後で窓硝子が割れる。戸棚の上から人形の眼が飛びあちらこちらで割れる。
飛んできたスパナに打たれ、出窓のゼラニウムが真っ赤な花びらをまるで花火のように一気に散らした。
血の雨のようなその中で、全ての音が飽和に達し、世界はスローモーションになった。
コマ送りのような、その世界で。
パラシュートを手放した依依が、回転しながら落ちてきた卓上マイクのアームを掴む。
素通しになった窓の向こう、縦坑の底から真っ黒なヘリコプターが、その側面を見せて浮上する。
開け放した機内から射撃手が銃口を向けている。
卓上マイクのスイッチが押された。千切れたコードは白い火花を噴いた。
依依の唇がマイクに向かって開かれるのを見た。
私は依依の身体を包むように抱きかかえる。
発砲の音を聞いたと思う。
けれども無数のサイレンの代わりに、いとしい人の声があふれ出して世界を満たすのを聞いたとも思う。
重力が消える。
赤い花びらが降っている。
差し出された依依の細い手を思い出す。
これでいい。依依、私はずっと、あなたといるから。
あなたが何者でもかまわない。
だからどうか、間に合ってくれ。
この
滅ぼしてくれ。
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