07 塵の文字を辿り
階段室の壁と睨み合う何日かを過ごして、私は幾つかの言葉を得ていた。
張り紙やその痕跡に記してある言葉は、ほとんど見る度に変化する。それを記憶し、何が消え何が残るかを最初は考えていた。そのうち、特定の言葉が消えては現れることが分かってきた。
テレビ番組の背景にも言葉は現れる。周囲に対して、どうも脈絡のない言葉が。その中に、階段室の張り紙にも何度も現れる言葉があることに私は気づいた。
何度も現れる言葉はおそらく何らかの重要性が高いものだろう。
私はそれらを記憶していくことにした。
どこにもメモはできないから、見て覚えた。幸い私は見たものを写真のように記憶することができるようだったし、紙に書いたりすることはよくないような気がした。私に記憶するのはいい。私でないものに記録するのは、多分よくない。
それに、この話を
何か理由をつけてノートとペンを都合してもらうことは幾らでもできるだろうけれど、もしも依依がそれを見たら何と言うだろう。
私は依依に黙って、自分の目と脳だけでその作業を続けることにした。
星。
さそり。
腕の死。
鍵。
針。
力天使。
額。
声。
剣。
いずれも単語かそれに近い、短い言葉で、全体として何かの意味を形成するのかどうかはわからない。
依依が仕事から帰ってきて、ぬるいシャワーを浴びる。上がってくる頃に合わせて私はお湯を沸かしておき、依依がインスタントコーヒーを淹れて、一緒に屋上に出る。
並んで椅子に座り、空を見上げ。
……ラジオが低く喋り、歌い、また喋り続けている。
私の知らない歌手の、知らない歌が流れる。毎晩のことなのに、耳はその歌詞を拾おうとした。ここのところ、張り紙やテレビに現れる言葉に集中し過ぎて過敏になっているのだろうか。そう思ったとき、思いがけない言葉が旋律にのって聞こえてきた。
《エコー。エコー。エコー。
ジュリエットの断末魔。
明滅する神の塵》
ちょうどそのとき口をつけていたコーヒーが味を失った。私は頭蓋骨に守られているはずの脳を巨大なハンマーで叩かれたような衝撃を覚えた。
《エコー。神の。エコー、エコー。
星を探せ。オリオンをも排除する。
腕は死んだが、毒針は放送する。
おおロミオ、おお、
星を探せ》
これはなんだ。
テーブルにマグカップを置いた私の様子がいつもと違うことに、依依は気づいたようだった。
「すばる? どうかした?」
《エコー、エコー、解除せよ、
解除、
塵は塵に、
鍵の、さそり》
「依依。歌が」
「歌? 知ってる歌なの?」
立ち上がった私の手を依依が掴んだ。震えている。
《声を。
声を。きかせて。
滅ぼせ》
ジュリエット。
バルビエル。
ロミオ、
《ここはリマ、眠るアンタレス、
地図は、
エコー》
……リマ。
「私を、呼んでる」
歌が途切れた。依依がラジオを消していた。思わず顔を見ると、彼女は椅子を蹴るように立ち上がって私に抱きついてきた。
「やめて! そんなの嘘。気のせいだよ、すばる、――どこにもいかないで」
風の音がする。風に乗ってどこか、この
必死に私を抱く細い腕と、火のにおい。
震えている依依の身体を、私もきつく抱きしめた。
「依依、私は」
「やめて」
できない。
依依が拒否することを私は、できない。
悲しませたくない。
「すばる、ずっとここにいて。あなたが誰でも構わないから!」
縦坑を吹き上げる風が依依の黒い真っ直ぐな髪をぐちゃぐちゃに跳ね上げる。その向こうに依依の、この広大なスラム世界でたったひとりの味方の泣き顔が見えた。
暴れ狂う髪を手でよけて、私は彼女の唇を奪う。
お願いだからもう何も言わないで。私も何も言いたくない。
スラムと空の接する場所で、私たちは長い間、融け合うようなキスを続けた。
私が誰でも構わない?
依依、あなたは知っていたのか。
私がこの世界を滅ぼす者だということを。
その晩、私たちは初めて愛し合った。
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