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06 ゼラニウムと忘却の部屋で
彼女と一緒に毎晩屋上に上がると、このスラムがどれほど広大か
勤め先の
依依は私と出会う前もずっとこうして、屋上で夜の時間を過ごしていたという。
星を探していたのだそうだ。
この霞んだ空では見えるはずもない星を。
星を探す依依のところに、私は落ちた。
空っぽの過去。
その代わりにほんの少しずつ積もっていく、依依との記憶。
朝、依依は小さな冷蔵庫から卵とハムを出して焼く。フライパンを持つ腕をいっぱいに伸ばして変な格好で料理するので、どうしたのか聞くと火が怖いからと言う。それで、ハムエッグでもなんでも、火を使うのは私の担当になった。
依依はトースターでパンを焼き、私が沸かしたお湯でインスタントコーヒーを淹れる。それから好きだというオレンジを切ってくれる。食卓にカットボードをのせてナイフで切るとき依依は顔を傾け、右目でオレンジを見て切る。首をかしげたようなその格好が何とも言えずかわいいので、私はそれを見ていて何度かハムエッグを焦がした。
依依は焦げたハムもにこにこ笑って食べてくれる。作ってもらった朝ごはんって最高、と言って。
朝食を片付けると、依依は背の低い戸棚の前に椅子を持って行き、最初の晩に私に見せてくれたあの手鏡を壁に立てかけて、そこで簡単な化粧をする。
私は依依のその戸棚が好きだった。置いてあるものがめちゃくちゃだからだ。
一番何だか分からないのは、古めかしい卓上マイクだ。電源コードが千切れてしまっており、どこからどう見ても廃棄品だがぴかぴかに磨いてある。
次に人を選びそうなのは、硝子でできた色とりどりのドールアイ。恐らく人間の眼球とほぼ同じサイズであろうそれが、細長い木のトレイにころころと並べてある。
壁にくっつけたブックエンドに立てかけられているのは、お菓子の本や、依依には読めないというフランス語の星の本、それから蜂の本、エイの本、古い推理小説が何冊か。
青と白の金平糖を入れた広口びんも置いてある。
ドールアイとは別の木のトレイはきれいな堆朱で、指輪やペンダントなど幾つかの控えめなアクセサリーと、銀色に光る古いピアノの鍵が置いてある。
この戸棚上のスペースは、まるで依依の小さな世界のようだった。
戸棚の近くには細い出窓があり、依依はそこに真っ赤な花をつけたゼラニウムの鉢を置いていた。私はゼラニウムという花を恐らく初めて知って、そのふかふかした手触りの葉や、独特の香りがとても気に入った。
小さな花が鞠のようなかたまりになって次々と咲き、次々と散る。だから依依はしょっちゅうその真っ赤な花びらを拾っていた。私が手伝うと、依依は花びらをためた片手を差し出してくる。ここに置いて、というように。
依依の真っ黒な髪をこの手に受けたい。
すばる、と呼んでくれる唇に触れたい。
私はどうかしているのではないだろうか。
ここに来て最初の一日二日は、焦っていたはずだ。
以前の記憶を取り戻したい。私は誰だったのか思い出したい。元いたところに帰らなければ。たまたま落ちた先にいただけの依依に、いつまでも迷惑をかけるわけにはいかない。
そう思っていたはずだ。
それなのに、日が経つごとにその焦りが、依依の影に隠れて見えなくなっていく。
依依との時間を手放したくないと思ってしまっている。
女の子どうしだから別にいいでしょ、と言って私にくっついて眠る依依が、夜中に
この子を置いていくなんてできないのではないだろうか。
大体私は、どこへ帰ろうというのだろうか。
何も、思い出せないのに。
依依が仕事に出かけてしまうと、私は一人になった部屋で小さなテレビを見たり、ラジオを聴いたり、依依の本を読んだりして過ごす。外に出たいという気持ちにはならなかった。
そのうち私は、奇妙なことに気がついた。
部屋から屋上に上がる階段室の壁には、古い張り紙の跡がたくさんある。この高層スラムは築年数がかなり経っているらしいから、依依の前の住人たちが色々張り紙をしたこともあったのだろうと最初は考えていた。
けれども、毎晩そこを昇り降りするうちに気がついた。
跡が変化している。新しい張り紙が現れたり消えたりしている。
依依はそれを知らなかった。というより、張り紙の跡があったこと自体に気がついていなかった。毎日様子が変わっていると言っても、そうなの、そういうものだと思うよ、とだけ答える。部屋の外の通路や空き部屋にも張り紙やその跡はあるし、地区の掲示板もあるけれども、どこも張り紙は勝手に現れ勝手に消えるものだという。誰かが新しく貼っているところなら見たことがあっても、剥がしているところや剥がした跡を動かしているところは見たことがないな、と依依は言った。
そして、次の日にはそれをすっかり忘れていた。
私が、昨日話した張り紙の跡のことだけど、と言うと、依依はそのことをまったく覚えていなかったのだ。
私は、依依が仕事に出ている日中、階段室の張り紙跡を観察することにした。
それこそが、依依との生活を終わらせる道であることも知らずに。
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