04 お星さま
「わたしの部屋は、一〇二五号室。なにかあってひとりで帰ってくるとき、覚えておいてね」
重い鉄のドアに、金属で文字が貼り付けられている。一〇二五号室。ひとつふたつの文字は、ちょっと斜めになってしまっている。
鍵をあけてふたりで部屋に入り、内側から鍵をしめてチェーンをかける。
初めて来たときと同じ椅子に患者を座らせると、わたしは小さな戸棚に向かい、そこに置かれた硝子製の人形の眼や卓上マイクなど雑然としたものの中から大きめの手鏡を引っ張り出して渡した。
「顔を見てみる?」
わたしが屋上に放置してきたマグカップやラジオを回収して戻ってくると、鏡を手にしたその人は椅子から立ち上がって窓の外を見ていた。
「見たことある顔だった?」
少しおどけてわたしが言うと、首を振って答える。
「全然、ぴんとこない」
「あらあら」
「ここのことも知らないみたいだ。ここは、何という場所?」
「名前はないの。ただみんな、スラム街、とか呼んでる。外政府も、名前はつけてないみたい」
「外政府?」
ひやりとした。言うんじゃなかった。でも、ここで暮らしていくのに言わないでいられる?
わたしはつとめて平静を装い、短い説明をした。
「このスラムは大昔にできた場所で、そもそもは違法らしいの。だから外政府は、今でもこちらを監視してる。外とスラムの境界では結構やりあってるらしいけど、ここはスラムのかなり奥だから遠くて、噂くらいしか届かない」
「そんなに広いのか」
「うん。わたしも、おつかいで六坑向こうまでしか行ったことがない」
「六坑」
「ここ、建物に囲まれて吹き抜けになっているでしょ」
わたしは窓のそばまで行って、隣り合って立ちながら外を指差した。
「形が似ているから、井戸とか
その横顔がなんだか寂しそうに見えて、わたしは我慢できずに聞いてしまった。
「……外の世界にいきたい?」
あえて、帰りたいか、とは聞けなかった。
「いや。それもわからない。でも、ここに来ようとしていた、ような気がする」
わたしは。
明滅するぼんやりとした光に照らされるその人のことばに、胸のあたりがぎゅっと苦しいような気持ちになってしまい、思わず少しだけ背伸びをして言った。
「この部屋にいるといいよ。わたしは、ぜんぜん迷惑じゃない。わたしは昼間、さっきの劉先生のところに仕事にいくけど、その間は好きにしてくれてていいよ」
「……本当に、迷惑じゃない? 家族とか、恋人とか、いないの」
「いない、いない。だからあなたがここにずっと住んでても、べつに不自然じゃない。女同士なんだし。ルームシェアしてる人たちはいっぱいいるんだから、変じゃないよ」
「じゃあ、あなたさえよかったら、怪我が治るまで世話になってもいいだろうか」
もちろん、とわたしは元気よく答えた。自分がこんな弾んだ話し方をするとは思わなかった。
怪我が治るまでなんてことじゃなく、ずっといてくれていい、という言葉を胸の中に押し込めた。
それより今は、大事なことがある。
「思い出すまでの間、名前がないと不便でしょ。わたしが名前をつけてもいい?」
「ああ、そうだな。じゃあ何か、あなたの呼びやすいようにしてくれると助かる」
こちらを向いて微笑んでくれたのが、とても嬉しかった。
名前はその瞬間に閃いた。
そう、だってこの人は、空から落ちてきたのだから。
わたしがずっと星を探して、毎晩毎晩見上げていた空から落ちてきたのだから。
この人は、わたしのお星さまに違いない。
「――すばる、というのはどう?」
実際には見たことのない星だ。本で読んだことがあるだけ。たしか、七人姉妹の星の集まりだっけ。何でもいい。とにかくわたしは、その星につけられた様々な言語の名前のうち、すばるという名前が気に入っていた。
彼女は、すばる、とわたしの発音を真似て、繰り返した。
ちょっとハスキーな声。なんてすてきな言い方。
そして、微笑をくれて。
「星の名前か。きれいだね。じゃあ、そうしよう。よろしく、
「よろしく、すばる」
ああ、どうしよう。わたしは今まで、こんなに嬉しかったことがない。
こんなに、胸の奥が砕けそうな気持ちになったことはない。
わたしのところに落ちてきた。
この人がわたしの、お星さま。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます