03 名前のない

 私が見ているうちにその人は、急に両目を見開くと跳ねるように身体を起こし、そして起き損ねてまた地面に落ちた。それからもう少しゆっくり起き上がって、はっとしたように自分の手やパラシュートを見回し、それから自分の身体を触れて確かめている。

 わたしは、その人に声をかけた。


「こんばんは。どうしたの? どこか痛い?」


 数時間ぶりに喋ったので、わたしの声はかすれていた。それとも、緊張していたのかもしれない。知らない人が落ちてきたところに話しかけるなんて、これまでやったことがなかったから。

 相手がやっとわたしに気づいた。

 こんなに近くに私も膝をついていたのに、気がついていなかったらしい。座り込んだまま、何だかびっくりしたように、呆然とした表情でわたしを見ている。

 首がすっと伸びてきれいなひとだな、と思った。


「あなた、空から落ちてきたんだよ」


 そう言っても表情が動かない。

 わたしは勇気を出して、もう少し顔を近づけた。額から血が出ているのが見えたからだ。


「怪我をしてるよ。中に入って、手当てしよう。それ外せる?」


 パラシュートのハーネスを指差して言うと、初めて気づいたみたいにそれを外そうと身体が動く。ひどく骨を折ったりはしていないみたいだ。でも、わたしがパラシュートを丸めているうちにその人は自分で立ち上がろうとして、立ち上がり切れずに大きく揺らいで倒れそうになった。

 わたしは慌ててその人を抱きとめようとした。適当に丸めたパラシュートの布のかたまりを挟んで、わたしたちは咄嗟に抱き合う格好になった。

 わたしよりもずいぶん背が高い。わたしの肩を掴んだ手を一瞬あとには離して、


「ごめん」


とその人は言った。

 初めて声を聞いた。ちょっとハスキー。

 やっぱりぐらぐらしながら危なっかしく立っているのは、たぶんどちらかの足を痛めているんじゃないかとわたしは思う。


「足が痛い? わたしは構わないから、肩でも腕でも好きなところを掴んで。階段があって危ないから、そうして」


 その人がわたしを見て、わたしの向こうにある階段の入り口を見たのが分かった。わたしが身体を寄せると、すまない、と小声で言って肩に手を乗せる。大きな手だ。グローブをしているせいかもしれない。人間の体重がわたしの肩にかかってきた。わたしはその背中に手を回して、何とかバランスが取れそうなことを確認すると、ゆっくり歩き出した。


 片手で布のかたまりを抱え、片手でぐらぐらする背の高い人を支えて、わたしは何とか階段を降りることに成功した。

 わたしは夜でもはっきりした照明をつける習慣がなくて、部屋の中は薄暗い。窓から、まわりのたくさんの部屋から漏れる明かりや、何故かスラムの縦井戸側に設置されたネオン看板の光などが入り込んで、それだけでも結構ものが見えるので不自由はなかった。

 薄い赤や紫のネオンが切り替わる光がぼんやり差し込む部屋の中で、小さな食卓の小さな椅子に抱えてきた人を座らせる。


「どこが痛い?」


 抱えてきたパラシュートを壁際のほうに押しやってしまうと、わたしは窓を背に座ったその人の足元に身を屈めた。足首の近くを自分で触って確かめ、表情を歪ませている。痛いのだ。


「ブーツを脱がせるよ。痛かったら言ってね」


「あなたはだれだ」


 ブーツの紐に指をかけていたわたしは、動作を止めて、見上げた。

 温度のない夜の光を背にして、影のようなその人はやっぱりきれいだな、と思った。少し波打った短い髪と、すっと伸びた姿勢、わたしを見ている両の目。

 ああ、見られている、と感じながらわたしは答える。


「わたしは、ヤン依依イーイー。この部屋にひとりで住んでる。誰も来ないから、心配いらない」


「イーイー」


「そう、依依」


 繰り返して発音してくれた。

 名前を呼んでくれたことが意外にもとても嬉しくなり、わたしは笑って付け加える。


「空から落ちてきた人を拾うのは、初めて。どこから降ってきたの?」


 すると、沈黙が訪れた。

 聞いちゃいけなかった?

 そのうち、なんだか戸惑ったような表情をして、その人は。


「――わからない。どこからきたのか。自分の名前も、何も思い出せない」


 すごい。

 わたしは心から驚いて、すごい、と言った。

 記憶喪失って話には聞いたことがあるけど、本当にあるものなのか。

 額に怪我をしてるんだもの、頭を打ったみたいだからそのせいなのかな?


「それは、びっくりするね。でも、ほら、記憶喪失って、しばらくしたら元に戻ることもあるんでしょう。リウ先生が言ってた。あ、劉先生っていうのは、私の勤め先のお医者さん。工事をしていて足場から落ちた人とか、時々あるんだって」


「戻るんだろうか」


「わたしたち、ここに来る前の記憶がない人がほとんどなの。わたしもそう。でも、空から降ってくる人なんて初めてだし、あなたはわたしたちとは違うかも」


 このとき、パラシュートの縫い目に表示されていたあの銀色の文字のことをなぜ言わなかったのか、わたしには後になっても理由がわからなかった。

 もしかしたら、言えば何かを思い出し、言わなければ思い出さないと思ったのかもしれない。

 それはつまり、わたしは。

 この人をほしいと、思ったのかもしれなかった。


「……とにかく、まず怪我をみせてね。ひどいようなら劉先生のとこに連れてってあげる。劉先生は、よそ者でも通報したりしないから大丈夫」


 改めてブーツの紐を解きながら、わたしは思う。

 空から落ちてきたんだから、わたしが拾ったんだから、この人はわたしの人なんじゃない?

 基本的にこのスラムでは、拾ったものは自分のもの。

 名前さえ書かれていなければ。

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