02 落ちてきたのは
薄墨色の影が、散らばるしみのように、空に広がった。最初はそう思った。けれどそれは、見る間に大きな大きな影になって、わたしの屋上に落ちた。
落ちたのを見てもわたしは、それが何なのかすぐには分からなかった。やけに大きな黒い布がゆっくりわだかまっているとしか見えなかった。
本当に大きな布だ。縫い合わせが見えるけれど、つぎはぎの
売れるんじゃないかしら。
基本的にこのスラムでは、拾ったものは自分のものだ。名前さえ書かれていなければ。
わたしはマグカップをテーブルに置き、ラジオを低くつけっぱなしにしたまま、立ち上がってその布に近付いていった。
手が届くくらい近くまで行くと、布の縫い合わせのところに小さな銀色の点々が見えて、わたしはその近くを指でつまんで持ち上げた。大きなスラム街の明かりが雲に反射して、夜でも手元は見える。右目を近づけてみる。
点々と思ったものは、縫い目から覗く小さな文字だった。
『潜行 回音』
縫い合わせを左右から引っ張って目を凝らさなければ見えないような小さな字ではあった。けれども布を
潜行。
外政府当局や正規軍の偵察の道具?
わたしたちのスラムは無法地帯だ。
もちろんわたしは犯罪などしていないし、わたしの知る住人たちもそうだ。ごく普通の日常を過ごす、ごく普通の人たち。ちょっとした盗みや喧嘩はあるし、借金すれば怖い借金取りがくるし、外政府では許していない薬の工場なんかもあるとは言うけれど、一部のこと。でも、広大なスラムの建物自体は違法建築らしく、本当はわたしたちはここに住んではいけなかったのだそうだ。
だから外政府は本当は、わたしたちをここから排除し、建物を排除しなくてはならないと考えているらしい。
広大なスラム建築街の境界をわたしは見たことがない。外世界との境界。そこでは日々、外政府当局との衝突があるというけれど、恐らく距離がありすぎるのだろう。わたしの住むこの地域までは詳しい話は伝わってこない。
時折、何かを結びつけた色とりどりの風船が漂ってきたり、変な色の雨が降ったりすることがある。それは外政府が正規軍を使って行う調査だという噂だ。
だからひょっとすると、この布もそうなのかもしれない。
潜行。回音。小さな銀色の文字は、縫い目にそって点々と並んでいたが、不意に波打つように光ったかと思うと消え失せてしまった。
この布を売るのはよくないかもしれない。見えなくはなったけれど、
売れないのならこれをどうしよう、と思いながら布を手繰り寄せていると、その下に真っ黒な服を着た人間が倒れていたのでわたしは思わず息をひそめた。
人間。
身体にぴったりした黒い長袖のウェア。黒いグローブ。黒いカーゴパンツに、黒いブーツ。真っ黒だ。ショートカットの髪の毛だけが茶色い。肌は黒でも褐色でもなく白っぽい。
人形?
いや、やっぱり人間?
わたしは、恐る恐る膝をついて覗き込んだ。
こんなに精巧に、ほんものみたいにできてる人形があるかしら。
人間だろうな、と思うと急に怖くなった。目を閉じて動かないけど、急に跳ね起きてわたしを捕まえたり攻撃したりするかも。
その人は、丈夫なリュックサックのベルトみたいなものを両肩にかけていて、それがわたしの手繰り寄せた大きな布と何本もの紐で繋がっていた。つまりこれはパラシュートなんだ、とわたしはようやく理解する。テレビでしか見たことがなかった。テレビで見たのは白や赤だったけれど、これは全部が真っ黒なパラシュート。
今さら空を見上げても、どこから降ってきたのかはまったく見えず、ただいつもと同じ濁った雲が広がっているだけ。
わたしは再び、倒れている人のほうに視線を向けた。
こういうの、どうしたらいいんだろう。
すると、黒尽くめのその人間が不意に身動きして、短い
どこか痛いの?
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