epilogue「或る男の選択」

「或る男の選択」①


 真っ暗だ。


 思考も自我も何もかも溶けていくような、深い、深い深淵の中。


 ともすればそのまま闇の中へ消えていってしまいそうな意識を刺激し、その存在を留まらせてくれたのは、頬を撫でる柔らかな風の感触だった。それが運んでくる、水気を含んだ緑の匂いや、遠くから響き渡る鳥の歌声は、何故だか心が安らぐようだ。


 奇妙な話だ。シンにとって、森の気配は特別思い入れのあるものではない。


 けれども妙に心地良いのだ。妙に覚えのあるこの場の空気はシンの身体を柔らかく、疑ったり抵抗したりといった殺伐とした感情を根刮ぎ奪う。鳥の声、風の音、水の匂いを幾らか含んだ静寂は、シンがこれまでずっと忘れていた平穏を強制的に呼び覚まし、胸の奥から溢れ出させてしまうのだ。肉体的にも精神的にもこんなに安らいだのは久し振りで、嗚呼、シンはもう此処からもう一歩だって動きたくない。


 痛いのは嫌だ。辛いのも嫌だ。斬った張ったの最前線で踊り続けるなんて正気の沙汰とは思えないし、意地を張って強がって自らその場に立ち続けるなんて正直莫迦としか思えない。


 剣なんか棄てて、何もかも棄てて、何処か静かで穏やかな所で安穏と暮らしたい。次に目が覚めて、"双子"と"ティセリア"を見付けたら、その相談をしよう。そうしよう。



 ………………。



 …………。



 ……。

















「──────はッ!?」


 "双子"と"ティセリア"。


 思考が、一気に覚醒した。


 自らがのたうっていた堕落の思考を跳ね除けるように、シンはバネ仕掛け宜しくその場で跳ね起きる。その勢いで身体に被せられていたモノが跳ね除けられて、意識がまだに引っ張られていたシンは激しく混乱する羽目に陥った。


「……ッ!? ッ!?」


 それは輝かんばかりに真っ白なシーツだった。丁寧に洗濯され、シミ一つ付いていないそれには覚えがある。シンが今の今まで寝かされていた寝台も、天井ののシミも、壁の傷も、部屋全体の空気感も、窓から入ってくる森の息遣いも、全部、全部、シンにとっては馴染み深い場所である。


「此処、は……」


 馴染み深い。馴染み深くなったというべきか。


 一ヶ月にも満たない時間しか過ごしていないのに、自然とそんな感情が思い浮ぶのは、良く良く考えてみれば妙な話かも知れない。


「修道院、か……?」


 其処はシンにとって第二の始まりである、修道院の一室だった。"兎と人参亭ラビット・アンド・キャロット"の質素だが小洒落た室内でもなければ、スラム・エリアのゴミゴミとした路地の上でもない。


 夜ではないし、赤い月も無い。路上や壁にぶちまけられた血糊も、殺気に塗れた聖騎士団の面々も、夜闇に弾ける雷撃も、狂暴に嗤う雷獅子も、あの夜に纏わるモノは何一つとして無い。


「……」


 あれからどうなった。


 ヒナギクにホタル、ティセリアは無事なのか。聖騎士団は。ブルートは。レオンハルト・イェーガー、“雷獅子”はその後どうなった。


 何より、どうしてシンはこんな所で寝かされているのか。聖騎士団の連中から寄ってたかって滅多刺しにされた筈なのに、何で生き残って、こんな所に居るのか。


 もしやと思ってペタペタと自分の顔を触ってみるが、別にすり抜けたりはしない。恐る恐る首を巡らせて振り返ってみるが、置いてけぼりにされたシン自身の肉体が其処に横たわっているという事も無かった。


 少なくとも、今此処に居るシンは幽霊ではないらしい。



「──……まさかと思いますが、今のは自分の生存確認で御座いますか、若?」



「…………ッッ!?」


 安心してホッと息を吐いた、正にその瞬間だった。


 どこからともなく、僅かに呆れを含んだ老人の声が聞こえて来て、シンは思わずベッドの上でビクリと身体を跳ねさせてしまった。


「変な所で迷信深いのは相変わらずですな。あれ程致しましたのに。かくなる上は、もう一度、あの特訓を施さねばなりますまいか……」


「嫌だ! お前は単に心霊映像でビビり散らす俺が見たいだけだろう!? 言っとくが俺はあれマジでトラウマなんだからな!?」


「夜、トイレに行けなくなって一晩我慢し倒した若を見た時は"コイツ大丈夫か?"と心配したのが昨日の事のようです。実際そんなに昔の事ではありませんからな。確か、いち……」


「それ以上口を開くんじゃねぇ!」


 飽くまでも声だけだ。姿は見当たらないし、何処に居るかも分からない。


 それでも、悪戯っぽさを含んだ“彼”の柔和な笑顔を、シンは容易に想像する事が出来た。彼にはシンが聖騎士団に入団した時からずっと世話になりっぱなしで、同時によくからかわれたものである。


「……あ」


 と、其処まで考えた所で、シンは自身の記憶が戻って来ている事に気が付いた。


 聖騎士団に入る前の自分。聖騎士団に所属していた頃の自分。自分がどういった経緯で聖騎士団に不信感を抱き、そしてどのような想いで裏切ったのか。自分が得体の知れない人体実験の被験体にされた事も、それが原因で人間を辞めてしまった事も。


 全部、全部思い出していた。


「……ブルート、か?」


「御久しゅう御座います、若」


 それまでの会話の流れをブチ切って、神妙に呼び掛けたシンの声に、ブルートは即座に返してきた。それはたった一言だったが、軽々しく応えるにはあまりにも重い。


 シンは咄嗟に答えを見つけられず、僅かに逡巡してしまう。空気に少量の緊張が走り、張り詰めたような気がしたのはきっと気の所為ではないだろう。


「悪い」


 結局シンが選択したのは、子供のような稚拙な謝罪だった。


「お前には、何か一言残しておくべきだったな」


「相談、と言って下さいませ。一声掛けて下されば、供に付き、もっと上手く逃げ切れるようお手伝いしたのですが」


 出来の悪い生徒か、或いは息子に呆れているかのような声。一人だけで裏切りを強行し、黙って彼等の前から居なくなった事を、ブルートは今の謝罪で帳消しにしてくれるようだった。


「わざわざ追い掛けて来てくれたのか?」


「はい。小雪様に首に縄を掛けてでも連れ戻せと命令を頂きまして」


「……ぅぐ……」


 前言撤回。ホッと気分が緩み掛けた所で伝えて来た最悪のニュースこそが、彼なりの意趣返しだったに違いない。


 シンにとっては最後の家族である、血の繋がっていない義妹。彼女の事を思い出し、シンは罪悪感に打ちのめされて呻き声を上げてしまった。


「……小雪は? あれからどうなったんだ?」


「若と違って周りに合わせられる聡明な方でしたからな。悪魔に唆されて教会を裏切るような愚かな兄を持ったという事で、逆に同情されているようですよ。石を持って追われるような事態にはなっておりませんので、其処は御安心下さい」


「……そうか。まぁ、それなら良かっ──」


「但し本人は烈火の如くお怒りでしたが」


「……」


 グゥの音も出ない。雷獅子と相対とした時と同等であり、同時に全く別種の絶望が両肩に乗し掛かって来て、気持ちが深く深く落ち込んでしまう。


何時か彼女と再会する事があるのなら、間違い無く制裁を受ける羽目になるだろう。言い訳は利かず、そしてそれは理不尽でもない。シンはそれだけの迷惑を彼女に掛けてしまったのだから。彼女が未だにシンの事を兄と思ってくれているのかは謎だが、もしも会えたのなら、シンは精一杯謝るべきだろう。


「……アイツを護ってやってくれ、ブルート。俺はもう、教会領には戻れないから」


「当然でございます」


 だが、例え何があってもシンは自分自身の選択を覆すつもりは無い。罪悪感と言うのなら、もっと重くて巨大で淀んだものが、シンの胸を内側から圧迫して来ている。


 吸血鬼を殺した。殺しまくった。怒りをぶつけ、憎悪を叩き付け、自分が、自分こそが被害者だと信じ込み、何人も何十人も何百人も殺した。殺して殺して殺しまくった。


 そしてそれは今だって、同じ事が言えるのだ。


 護る為だとか何だとか耳に心地良い事を抜かしながら、敵が現れたらそいつを殺す。剣を振るい、全力を以て排除する。殺す対象が変わっただけで、結局全てはシンの自己満足に過ぎない。


 自分の選択に後悔は無いが、だからと言って自分のやった事が正当化される訳じゃない。昔のシンは本当の敵が誰かも見定められなかった愚か者で、今のシンは本当の敵が誰かを世界に伝えるという本当に困難な道を放棄し、世界の敵に成り下がった"人類の裏切者"だ。


「……だが、それでもやり遂げない訳にはいかないんだ。これで双子アイツらまで死なせたら、死なせてしまったら、俺は……」


 思考が漏れ出たような独白に、ブルートは答えなかった。


 少しばかりの沈黙が流れ、間を取りなすように風が木窓から入り込んで来て、カーテンを揺らした。


 長くて短い沈黙を、最初に破ったのはブルートの方だった。


「それでは、私めは一度教会領へ戻ります。そろそろ小雪様も痺れを切らしている頃合でしょうから」


「ああ」


「若」


「ん?」


 不意に呼ばれて、シンは反射的に聞き返した。何時如何なる時も穏やかではあるけれど、それでいてブルートの声には無視する事を許さない力がある。


「小雪様が貴方様の味方である事は何が起こっても変わりはしないでしょう。急な事だったとは承知しておりますが、次はどうか、事に当たる前に一声お掛け下さい。


「……」


 言うだけ言って、ブルートの気配は溶けるように消えた。宣言通り、小雪を護る為に教会領に向けて出発したのだろう。シンに返事を言わせる暇さえ与えなかったのは、四の五の言わせない為だろうか。


「……」


 シンに味方するという事は吸血鬼であるヒナギクとホタルに味方するという事で、引いては人類を敵に回すという事だ。


 小雪もブルートもそれが分からないではないだろうが、それでも彼らは、自身の考えを曲げるつもりが無いという事なのだろうか。


「……頼りになる奴らだよ、本当に」


「何の話?」


 呟いたシンの言葉に、ひょいと誰かの声が割り込んで来た。気配も何も感じなかったので少し驚き、シンは慌てて戸口の方へ目を遣る。


「……ティセリア」


「やっほー」


 木洩れ日を思わせる長い金髪がサラリと揺れた。微かに光を宿したようにも見える神秘的な輝きの蒼眼は、シンと目が合うとやんわりと細められる。


「もしかして、ブルートさんと話してたの?」


 ベッドの脇に並べられている二つの椅子。その内に一つに腰掛けながら、彼女は訊いて来た。


「あの人、シンの部下だったんだってね? シンの味方をする為だけに、討伐隊に紛れて追い掛けて来たんだって」


「……其処まで話したか」


「うん。シンの事、宜しくお願いしますって頼まれちゃった」


 あはは、と彼女は脳天気に笑う。その笑顔は朗らかで、こうして見ていると彼女は只の人間だと錯覚してしまう。


 だが、そんな事は有り得ない。有り得ないのだ。


 シンが、大量の刃に貫かれた後。一度意識を手放して、身体の主導権を"彼"に譲り渡した時の事。


 覚えている。朧気ではあるが、確かに覚えている。


「……ヒナギクとホタルは?」


「元気だよ」


 核心を避けて、先ずは他の重要事項でお茶を濁したシンの内心を知ってか知らずか、ティセリアの声は「ほら来た」と言わんばかりだった。


「誰かさんが丸一日目経っても覚まさないんだものだから、心配で心配で堪らないみたい。今は一階したでお昼食べてるけど、また直ぐに登って来ると思うよ?」


「そう、か……」


 丸一日。シンの気絶したまま時間を浪費する機会が、何と多い事か。今までの三日間だとか一週間だとかに比べれば短いかもしれないが、取り敢えずシンはもう少し気合を入れて日々を生きた方がいいのかもしれない。


「えと、他に報告しとくと、聖騎士団の人達はシンがベリアル化した時に全滅しちゃったし、ブルートさんは味方だったから問題無し。後はイェーガーが生き残ったけど、ブルートさんが言うには特に問題は無いんだって」


「……イェーガー?」


「“雷獅子”だね。あの戦闘狂の」


「……はぁッ!?」


 ティスの言葉が余りにも淡々としていた所為で、シンは一瞬、ティセリアの言葉の内容を理解できなかった。その後、驚愕に併せて焦りと不安が一気にやって来て、自然と声や反応も大きくなってしまう。


「お前、アイツが生きてるならこんな所でノンビリしてる暇無いだろうが! 今すぐ此処から──」


 けれどティセリアは、そんなシンを見て静かに笑っているのみだった。


 同時に、ベッドから飛び出そうとしたシンの掌がと滑る。普通のシーツには有り得ない、摩擦の無い感触に抵抗する間も無く身体のバランスを崩し、シンはそのままベッドから転がり落ちそうになってしまう。


「まぁまぁ。落ち着いて」


 そうならなかったのは、ティセリアのお陰だった。


 まるでそうなる事が最初から分かっていたかのように、彼女は両腕を広げてシンを抱き留める。そのまま腕を閉じてシンの頭をホールドし、幼子を宥めるように一定のリズムで軽く叩いてくる。


「はーい。落ち着いてねー?」


「、ッッむが……!?」


 即座に離れようとしたシンだったが、身体のバランスを崩している上、ティセリアは自身の胸にシンの頭を抑え付け、ガッチリと固定しているので如何ともし難い。


 というか息が。酸素が。圧倒的な質量を誇る甘く柔らかな感触は男の本能的な何かを刺激するような甘美なものだったが、大質量で柔らかいが故に顔が埋もれ、呼吸するスペースが無い。


 ……こうなるのか。初めて知った。


「ほら、深呼吸」


 無理である。


「ね?」


 無理だって。


「焦る気持ちは分かるけど、取り敢えず落ち着いて。もういいの。もう全部終わったんだから」


「……」


力が抜けたシンの反応を感じ取ったのか、やがてティセリアの腕の力がフッと緩んだ。その掌はシンの後頭部から外れて背中に回り、幼い子供をあやすようにトントンとリズムを刻み始める。


 まるっきり子供扱いだ。


 一種の屈辱と、それから邪な事を考えてしまった自分自身への羞恥で顔が熱くなるのを感じながら、シンはなるべく相手に負担にならないように体重を移動させ、崩れたバランスを立て直す。ちょっと名残惜しいとか思ってしまった自身の正直な心は黙殺して、シンはティセリアから身体を離した。


「悪い……」


「んむ。くるしゅーない」


 身体を離しても、未だに感触は残っている。息苦しかったが良い匂いもして、柔らかくて、何だかんだで心地良かったような気がする。そんな事を考えてしまう自分が嫌で、けれどティセリアは全然気にしていない様子で柔らかな微笑を浮かべているしで、シンはもう彼女の顔を見ていられない。半ば逃げるように彼女から距離を取り、ベッドの上に座り直す。


 今回は、シーツはちゃんと摩擦力を働かせていた。


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