背信の業火⑫

○ ◎ ●



 レオンハルト・イェーガーに信仰なんてものは無い。ただ、強い奴と戦えるならそれで良い。


 吸血鬼やそれを退治してのける連中は、まさにお誂え向けの相手だった。あらゆる能力で人間を凌駕し、人間を獲物と定めて襲い掛かって来る吸血鬼。そんなバケモノ共を相手に戦ってのける実力を持ち、理性と知略を以てそれを何倍にも高める可能性を持った聖騎士団の豪傑達。


 今でも、彼等が弱いとは思っていない。理性を持たない代わりに勢いと純度の高い殺意を以て襲い掛かって来る吸血鬼との戦いでは肌がヒリ付くようなスリルを味わえるし、聖騎士団の中にはレオンハルトが未だに勝てていないようなヒトの形をした怪物なんかも居る。彼等と戦える機会があるならレオンハルトは喜んで享受するだろうし、何処へでも赴くだろう。


 それでも、嗚呼。


 それが全てだと思っていたレオンハルトの世界は、なんてちっぽけだったのだろう。


 目の前に広がる、まるで地獄のような光景。大地は消し飛び、空は焼け焦げている。燃え残った業火の名残はぐつぐつと煮えたぎるように揺らめき、煉獄の釜を彷彿とさせる。その中に在ってレオンハルト達が無事なのは、他者の慈悲によって守って貰ったからに他ならない。


「ふ……」


 これを一人でやったのか。


 それを一人でめたのか。


 創世記に語られた、二柱の神は実在した。細かい経緯は知らないし、興味も無いが、その二柱は確かにレオンハルトの目の前に存在している。


「くく……くはは……!」


 信仰はこんな所に在ったのだ。光が差し込み、長い間彷徨い続けた霧の中で唐突に道が示されたかのような心境を、レオンハルトは人生で初めて味わっていた。


 今ならば、どんな事だって許せるような気がする。実際、背後から忍び寄って来ていた気配に対しても、レオンハルトは穏やかに声を掛けるだけだった。


「止めておけ。そんなちゃちな刃物でこの俺を殺せるものか」


「……!」


 ピタ、と背後の気配が止まる。今まで尻尾を出さなかった男が向けてくる、背筋が粟立つような殺意に幾らか気分を良くしながら、レオンハルトは遊ぶような調子で口を開いた。


「さっきの炎で、俺達以外の人間はくたばった。後は俺さえ居なくなれば追っ手は全滅。刃風は、一先ず教会の追撃を振り切れる」


「仰る通りで」


「くく、全く大した忠犬っぷりだな。置いていかれたクセして、まだ主の事を忘れないか」


「犬は恩を忘れないもので御座いますよ」


 悪びれるどころか、ブルートの声はいっそ清々しいくらいにいつも通りだった。いつも通り過ぎて拍子抜けするくらいだったが、今この瞬間にも隙あらばこの命を刈り取ろうと狙っているのは間違い無い。


「そもそも、お前が付いていながらハゼルが死んだと言うのが納得行かなかったんだよ。まさか、あれもお前が殺したんじゃないだろうな?」


「あの方は少々趣味の悪さが目に余りましたもので。若の到着がもう少し遅ければ、私めが先に手を出していたでしょうな」


「薄ら寒いジジイだな。そうやって一人ずつ、他の目から外れた奴を殺していくつもりだったのか?」


「所詮は恨みに呑まれた烏合の衆に過ぎません。貴方様を除けば、恐ろしいのは数だけに御座います。それを少しずつでも減らしていけば、若が逃げ延びるには十分な援護となったでしょう」


「ふん」


 未だに背を向けたままなので、彼がどんな表情で言葉を紡いでいるのかは見る事は出来ない。


 ブルート。刃風の元部下だった男。


 追撃部隊に志願してきた時に吐いた「主の不始末は部下である自分が片を付けるべきだ」という台詞は、レオンハルト達を信用させる為の方便でしかなかったらしい。


「しかし、流石に驚いたな。お前の主は神になったようだぞ?」


「……」


 少し離れた所で、柔らかい金色の光がふわりと瞬いた。


 人智を越えた攻防の果てに、女が刃匠を空中で捕まえて、どうにかしてその荒れ狂う力を抑えつけたらしい。二人して灼けた地面の上に降り立ち、グッタリした刃匠を支えるように立った女がレオンハルト達の方を振り返る。途端に我慢しきれなくなったのだろう。吸血鬼の双子が二人一緒に弾かれたように動き出し、彼等に向かって飛び出して行くのが見えた。


「……くく。面白くなってきやがったじゃねぇか」


「! どちらへ?」


 ブルートの言葉は無視して、胡座を掻いて地面に座っていた状態から、レオンハルトはゆっくりと立ち上がった。刃風に刻まれた傷の修復に身体が全力を注いでいる故か、腹の虫が盛大な鳴き声を上げる。


「そうカッカすんなって。別にアイツらに喧嘩を売りに行くつもりは無いし、本部に事の次第を報告するつもりも無ぇよ」


「……信用するとお思いで?」


 振り返る。


 抜き身の短刀を提げ持ったブルートの脇を素通りし、レオンハルトはその場から立ち去るべく歩き始めた。


「あんな極上の獲物、他の奴らに渡して堪るか。俺がアイツらと戦えるようになるその時まで、アイツらには生きていて貰わないと困るんだよ」


 仮にレオンハルトが気まぐれを起こし、聖騎士団本部に事のあらましを報告したなら、あの組織はより一層強力な部隊を派遣してくるだろう。


 十聖達が率いる統制の取れた大部隊が、犠牲を厭わず知略の限りを尽くして戦ったなら、あの怪物を打ち破る事も或いは可能かもしれない。


 だが、そうなるとレオンハルトの出番は大きく減る事になるだろう。規律だ統制だと詰まらない鎖に縛り付けられ、他の誰かがあの怪物を倒すのを指を啣えて見ていなくてはならない状況に陥るかもしれない。


 それでは意味が無い。寧ろ、最悪の結末である。


 生まれついてのこの気性だ。強敵を見つけてしまえば戦わずには居られないし、その為ならば何だってする。元より、。新たな目標が出来た今となっては、聖騎士団から抜ける事に躊躇う事なんか微塵も無かった。


「じゃ、俺はここらで一旦退散するぜ」


「……」


 ブルートも、それが分かっているのだろう。「上手く利用出来たなら」等と姑息な事を考えたようで、結局レオンハルトに手を出してくる事は無かった。


 なにしろ吸血鬼を助け、世界を裏切った連中だ。世界を相手に戦い抜くには、人手が幾らあっても足りるという事にはならないだろう。


「アイツらに宜しく言っといてくれや。いずれまたからよ」


「冗談じゃありません。二度と出逢わないよう祈っております」


「はは」


 女が張った防壁のお陰で、この辺りはまだ海の中の孤島のように元の形を保っている。


 が、その中から少し進み出れば、其処には焦熱の大地が広がっていた。ブスブスと立ち上る煙の匂いは焦げ臭く、充満する熱気は普通のそれとは違って“重い”。光景とも相まって、何だか現実の世界を歩いているような気がしなかった。


「神、か……」


 きっとレオンハルトは幸運だ。自身の信仰と直接出逢えるような機会なんて、そうそう無いに違いない。


 自分の雷撃は彼等に通用するのか。拳や蹴りは届くのか。


 答えは否。否だ。


 きっと自分の全てが奴等には及ばず、奴等がその気になっただけで自分は跡形も無く消し飛ばされるに違いない。


 どうやれば奴等に近付ける。どうすれば奴等と戦える。血湧き肉踊る相手が直ぐ側に居ると言うのに、自分が役不足だというのは何とも歯痒いものである。


「——……待ってろよ」


 だからこそ、楽しい。だからこそ、価値があるのだ。


 突如として目の前に現れた白と黒の神々を喰らう、その甘美な瞬間に思いを馳せながら、レオンハルトは悠々とその場から立ち去ったのだった。




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