背信の業火⑪
「うぅ……ッ!」
ただ歩いて近付くだけなのに、こんなにも命懸けだ。それでも放棄するという選択は、ティセリアにとっては有り得ない。
「——……もういい。もういいんだよ。私達を脅かす“敵”は、みんな貴方が斃してくれたから」
もう少し、ティセリアが上手く立ち回っていれば。ティセリアが人前でこの力を使う事を躊躇わなければ。そうすればシンだって、此処まで追い詰められる事は無かったんじゃないかと思う。
シンなら何とかしてくれる。シンなら絶対守ってくれる。信用にも似た質の悪い甘えは、結果としてシンにばかり負担を押し付け、一度は彼を殺してしまった。
彼だって人間だ。ティセリアがそうであるように。どんなに強い力や精神を持っていたとしても出来ない事はあるし、何時かは限界だって訪れる。
世界はきっと、この先彼に優しくしてくれない。
吸血鬼である双子を護って戦い続ける、何より自身が人を辞めてしまった彼に対して、人々は無意識に、無邪気に、何より当然のように憎悪を露わにするだろう。よってたかって虐められ、殺意を以て傷付けられて、それでもシンは弱音を吐かずに双子を守り続けようとするのだろう。
止めたって無駄だ。そういう所は昔から変わらない。
だから、止めない。シンはシンの思うようにすればいい。例えその身体や心が限界を迎えそうになっても、必ず自分が支えてみせる。
それが、それこそが。
何の因果か似たような存在をこの身に宿しているティセリアの役目だから。
「しんどい事、沢山押し付けちゃってごめんね」
爆音。
彼が放ってきた業火が途切れたと思った刹那、目の前の地面が何の前触れも無く破裂して、融解したコンクリが勢い良く飛散するのが見えた。
爆風、それから目を灼くような橙色のドロドロが勢い良く眼前の空間にぶつかって来て、ティセリアの視界はあっと言う間に塞がれてしまう。
直後、視界が効かなくなった事にティセリアが本能的に身を竦ませるのと、凄まじいまでの衝撃が眼前の障壁を揺るがしたのは、殆ど同時の事だった。
「──……!」
ビシ、と背筋が凍るような感覚。ティセリアの障壁にへばり付いた溶岩は“それ”によって生じた衝撃に吹き飛ばされ、結果的にティセリアの視界はクリアになった。
眼前。腕を伸ばせば届くような至近距離に、拳。
自らが放った業火に紛れて、一気に接近。右腕に業火を纏わせ、更に突進の勢いまで上乗せした彼の一撃が、ティセリアの“不可侵”の障壁に食い込み、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせていた。
『──hrrrrrrr……』
勢い良く吐き出した吐息のように、彼の口から焔が零れるのをティセリアは見た。
その身に纏う焔に、足下から噴き上がる蒸気。その中に浮かび上がる彼の黒い姿は、成る程、確かに魔神のように見えなくもない。
ギチギチと、ティセリアを守る“不可侵”の障壁が悲鳴を上げている。ティセリアが慌てて其処に意識を集中して強度を補完するのと、彼がもう片方の拳を大きく振り上げるのはほぼ同時。
「……ッ」
轟音。振り上げた拳が障壁に叩き付けられ、ティセリアの眼前に爆炎が広がる。あまりの衝撃に空間そのものがビリビリと震え、折角ティセリアが補強した障壁にもあっさりとヒビが入る。
今度は息を吐いたり、ましてや言葉を紡いだりする余裕なんて無い。
ぞあ、と背筋を悪寒が這い上り、ティセリアはそれに追い立てられるように障壁の後ろに新たな障壁を張り直す。
爆炎纏う彼の頭突きが、攻城鎚宜しく障壁にぶつかってきたのは直後の事だ。二度、三度と連続してぶつけられ、遂に耐えきれなくなった古い障壁は悲鳴を上げて粉々に砕け散ってしまった。
それを見るや否や間髪入れずにティセリア襲い掛かって来ようとした彼だったが、古い障壁の直ぐ後ろに重ねられていた新しい障壁に激突。忌々しそうにティセリアを睨み付け、彼は天地を揺るがさんばかりの怒りの咆哮を上げた。
「——怒らないでよ。私だって死にたくないよ」
ティセリアの抗議は、最後まで聞いて貰えなかった。
障壁を思い切り蹴飛ばして、彼はその場から大きく後退。一気に大きく距離が開いて、そもそも控え目だったティスの抗議は、聞こえたかどうかも怪しい。
「!」
直後、彼が身体を仰け反らせ、がぱっとその口を大きく開く。その内は煌々と赤く輝き、さながら地獄の釜を連想させる。
あの予備動作は知っている。遥か昔、ティセリアではなくセラフィムが何度か見た事がある。
自らの口を砲口とし、自らの内に燃え盛る破壊の業火を直接相手に向けて放出する荒技。“
『──GuRAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!!』
来た。
業火の濁流と形容すれば先程と同じだが、規模と威力は段違いだ。
地面を大きく抉り取り、荒廃した焦土を更に無惨に灼き散らしながら押し寄せて来たそれは、人間サイズでしかないティセリアなんて簡単に呑み込み、そのまま直進してデルダンの街全体を滅ぼしてしまいそうな勢いだった。
純粋な力比べとなると、多少ティセリアの方が分が悪い。それが分かっていたから、ティセリアは今までとは防御の手法を変える事にした。
受け止めるのが難しいのなら、最初から勝負せずに呑み込んでしまえばいいのだ。
「——“開け”」
目の前の空間をするりと撫でる。撫でられた空間は絹が裂けるように左右に分かれれ、ポカリと虚無の口を開いた。空洞となって生じた次元の穴は、押し寄せて来る彼の“息吹”を真っ向から受け止め、その悉くを呑み込んでいく。
更にその“息吹”を、次元の狭間に永遠に遊ばせておくつもりはティセリアには無い。即座にもう一度指を滑らせ、今度は彼の眼前に次元の穴をもう一つ開く。
「ッッ!!?」
彼は吃驚しただろう。何しろたった今放った筈の“息吹”が、突如として眼前に開いた次元の穴から物凄い勢いで押し寄せて来たのだから。
『──……!!』
とは言え、流石に彼も馬鹿ではない。“息吹”がその場一帯を焼き尽くす直前、彼は地面を思い切り蹴って跳躍し、その場から離脱していた。
だが、それはティセリアの予測の範囲内の行動だ。正確にはティスの中の“セラフィム”が、そうなるであろう事を予見していた。
たった今彼が躱した“息吹”の軌道上に新たな次元の歪みを作り、それを回収。同時に、跳躍した彼の周囲に大量の次元の歪みを展開し、その全てを“息吹”を回収した次元の穴と連結させる。
さぁ、これで彼は大変だ。
同じ空間に多重に存在するようになってしまった自身の“息吹”に全方位を囲まれ、完全に逃げ場を失ってしまったのだから。
更に、ティセリアは次元の歪みを最後に一つだけ自身の眼前に生成。業火の柱が無秩序に組み合わさって出来た獄炎の檻の中心に向けて、長い道程を旅して来た“息吹”が飛び出す最後の出口を開く。
次元の壁すら揺るがして、グラグラと伝わって来る圧倒的な破壊力。一抹の不安と恐怖に冷や汗が頬を伝うのを感じつつ、ティセリアはそれを紛らわせるようにポツリと呟く。
「返すよ」
かくして、それは照射された。
あっちこっちに寄り道し、この世界に多重に存在する羽目になったベリアルの“息吹”。触れたものを根刮ぎ消し飛ばす威力を秘めた極太の光条が、自らを放った
けれど、彼も黙ってそれを喰らう気などサラサラ無いようだった。
大気が震え始める。間違っても錯覚なんかじゃない。空も、大地も、世界そのものがグラグラと揺れている。
炎の檻。その中心。カッと明るくなったのがティセリアにも分かった。檻自体が炎で出来ているので元からと言えば元からなのだが、明らかにその中心で何かが強烈な光を放っている──
『──GURuooooooooooOOOOOOOOOOOOOOOO……!!!!』
自身が置かれている状況を把握した時から、彼は既に行動を開始していたのかもしれない。
ティセリアが返した“息吹”が、彼を囲う炎柱の檻に突き刺さったその瞬間。空を引き裂かんばかりの咆哮が轟き渡り、そして大爆発が引き起こされた。
右手に極限まで溜めた炎を纏わせ、突っ込んで来た自らの“息吹”に向けて思い切りパンチ。重力に引かれて落下を始めた彼は、どうやらそれでティスの反撃を相殺したらしい。
力無く突き出された彼の右拳。さっきよりも若干勢いを無くした、彼が身体に纏う炎。
実際にその瞬間の光景を見た訳ではないが、その二つさえ見てしまえば大体予測出来る。
「あは」
成功。成功だ。
いよいよ本格的に落下し始めながら、驚いたように目を見開く彼を間近で眺めながら、ティセリアは静かに安堵の笑みを溢す。
本当は、不安だったのだ。「幾ら何でもやり過ぎじゃないか」とか、或いは「難無く対処されたりしたらどうしよう」とか、心の隅ではずっとあれこれ考えていた。
けれど結局、彼はティセリアの思惑通りに大技を繰り出してティセリアの反撃を相殺し、そして一瞬の隙を見せてくれた。
彼がティセリアの反撃を相殺し、夜空の下で大爆発を引き起こした直後、ティセリアは地上から空中に居る彼までの距離を“無かった事にして”彼の眼前にまで移動していた。
下手に彼の攻撃に巻き込まれないようにタイミングを見極めたり、背後に居る筈のヒナギクやホタル達の安全を確保するべく障壁を張り直したり、最後は中々の綱渡りだったけれど、結果は完璧と言っていいくらいに上々だ。
「──捕まえた」
でも、本番は此処からだ。
驚愕した彼が思考を取り戻すよりも早く、ティセリアはその手を彼に伸ばす。恐れる事無く彼の身体を捕まえて、抱き寄せる。
コツン、と額に額をぶつけに行った。触れた所を通じて自身の中のセラフィムと相手の中のベリアルを共鳴させ、同調させようと試みる。
触れた瞬間、彼の思考が怒涛のように流れ込んで来て、弾き飛ばされそうになったが、ティセリアは彼を抱き締める腕に力を込めてそれを堪えた。
(ああ、そうか……)
深緑に満ちた森の中にひっそりと建てられた小屋。
その中に襤褸布を纏って暮らしている幼い双子と、それを見下ろすシンの視点。
最初の頃の彼女達は常に”彼”に脅えていたようだったが、次第に笑顔を見せるようになっていく。
だが、次に見えた燃え盛る村の光景が、それまでの平穏な空気を粉々に打ち壊した。村の広場に積み上げられる沢山の骸。その前にさっきの双子は恐怖に顔を引きつらせ、背後に立った白コートの聖騎士がそれを無理矢理引き立てようとしている。シンはそれを引き留めようと手を伸ばしたが、押さえつけられているのかその場から動く気配は無い。
(貴方は、その現場を見てしまったんだね……)
次に見えたのは、何処かの建物の豪奢な一室。“あの男”が居た。忘れたくても、あの嫌みな
後はもう、マトモに見る事は出来なかった。彼に対して行われた施術は、嘗てティセリアが受けたものより遥かに酷い。薄暗い牢獄と血に濡れた鎖と赤く染まったメス。人体実験と言うよりは、真実を知った者の処刑といった意味合いが強かったのだろう。自分に歯向かう者には容赦しない、”あの男”の残虐さを垣間見た気分だった。
まともに見据えれば壊れてしまいそうな凄惨な施術のイメージをやり過ごし、その後に起こった逃走の一幕のイメージを通り抜けて、そして──そして漸く、ティセリアは“ソコ”に辿り着いた。
「……見つけた」
其処は、ティセリアも識っている”戦場”のド真ん中だった。どこもかしこも燃えていて、機械や巨大な怪物や普通の人間なんかがあちこちにゴロゴロと倒れていて、銃が、剣が、ありとあらゆる武器がそれを弔うように地面に突き立てられている。
焦げた空は真っ黒で、燃える炎に照らされた地面はどす黒く染まった血の色だ。ティセリアの眼前には巨人でも貼り付けに出来そうな大きな十字架が突き立てられていて、それには引き千切られた鎖が無惨にぶら下がっている。
“彼”は、その十字架の根元にボンヤリと座り込んでいた。ティセリアの気配は感じ取っている筈だが、特に反応を示す様子は無い。
「シン」
呼び掛ける。
彼──シンはまるで反応を示さなかったが、ティセリアはそれでもめげずに歩み寄り、その傍らに膝を突いた。
「シンってば」
「…………?」
肩に手を置いて揺さぶったり、指先で頬に触れたりして根気良く呼び掛ける。
最初は全然反応してくれなかった彼が、僅かに眉を顰めながらティセリアに視線を向けてきたのは、それから少し後の事だった。
「…………てぃ、す……?」
「うん」
良かった。“呑まれて”いる訳ではないらしい。
ホッとして顔が綻ぶのを感じつつ、ティセリアはシンの言葉に頷いてみせる。彼はまだ九割方ボンヤリしているようだったが、それはこれから取り戻して行けばいい。
「大丈夫? 随分とボンヤリしてるみたいだけど?」
「……おー……」
話し掛けるティセリアの言葉に、シンは酷く朧気な返事を返して来る。今にも眠ってしまいそうな印象を受けるが、本人にはそんなつもりは無いらしい。途切れ途切れで頼りないながらも、言葉を重ねてティセリアと会話しようとしているようだった。
「……あいつらは……?」
「うん?」
「……ヒナギクと、ホタル、は……?」
「ああ、二人とも元気だよ。シンの事、凄く心配してたみたいだけど」
「……そう、か……」
へっ、と力無く笑みを口元に浮かべ、シンは其処で大きな息を吐いた。それまで詰めていた息を漸く吐き出せたようなその様を見て、シンにとってはやっぱりあの子達が一番なのだという事を思わせた。
シンらしいや、と思わず笑ってしまう。
ちょっぴり双子に嫉妬してしまったのは、内緒だ。
「よしよし」
彼の前に膝立ちになり、ボンヤリと脱力したその頭を胸の内に抱き寄せる。特に反応を示さないシンの頭は別に冷たい訳ではなかったが、そのくせ物凄く冷え切っているように思えた。
「少し休んじゃいなよ。シンのお陰で、敵はもう居なくなったし。後始末みたいなのが幾つかあるけど、それは私がやっといてあげるから」
少しでも、自分の体温が伝わればいい。どんなに凄い力を手に入れようとも、一人で相手をするには世界は余りにも雄大で、非情過ぎるから。
喩え自分達が無事でもシンが壊れてしまったのでは双子は納得しないだろうし、何よりティセリアがそんな結末を認めない。
もう一度──もう一度巡り会う事が出来たのだ。折角手の届く範囲にやって来てくれたのに、世界なんかにむざむざと壊されてしまって堪るものか。
「何でもかんでも、シンはちょっと欲張り過ぎ。私だって味方だよ? シンと同じ仕事は無理かもしれないけど、それでもサポートくらいは出来るつもりだからさ」
「……」
暫くの間、答えは無かった。
シンは声を上げるどころかピクリとも動く様子も無くて、ティセリアは心の隅にあった不安が嫌でも刺激されるのを感じてしまったくらいである。
そしてその不安が、少しだけ大きくなった頃。
「──はは」
不意に、彼が僅かに身じろぎするのを感じた。
「敵わないな。お前には」
ピシ、と周囲の光景に亀裂が走る音をティセリアは聞いた。業火や鬨の声が渦巻いている戦場の光景に皹が入り、そこから砂が崩れるように崩壊していく。
「……分かった。少し休ませて貰うぞ。流石に、疲れた」
「うん」
ピシ、ビシ、と亀裂の音はあちらこちらで大きくなっていく。戦場の崩壊は加速していき、それに呼応するようにシンの身体がズシリと重くなる。
割れた所から差し込んで来る光は真っ白で、闇と炎の光景はそれによって霞んでいく。ティセリアやシンの身体も例外ではなく、互いの身体の輪郭も朧気になり始めた。
名残惜しいが、そろそろタイムリミットだ。この光の中に溶けてしまえば、ティセリアはシンの精神から出られなくなってしまうだろう。
「お疲れ様」
真っ白に染まっていく世界の中で、ティセリアは最後にシンの身体を少しだけ強く抱き締める。
少しだけ逡巡し──周囲に誰も居ない、という事実に背中を押される形となった。
彼は全然思い出してくれる気配が無いし、ティセリアも無理に思い出させて困惑させるような真似はしたくないから、ずっと黙っているつもりではある。
でも、この一瞬だけ。
もうとっくに諦めて、それでも忘れた事なんて一度も無かった自分の月日に報いる事が出来るこの一瞬だけは、ちょっとだけ欲張ってもいいかなと思った。
そっと、彼の額に口づける。
恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じつつ、ティセリアは逃げるように彼から離れた。
「──また、逢えた」
シンの精神から脱出する、その瞬間。
呟いた言葉を静かに噛み締めて、ティセリアはそっと微笑んだのだった。
○ ◎ ●
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