背信の業火⑦
○ ◎ ●
始まりの記憶は、静かな夜。ノックの音。
帰って来なくなったお母さんを待ちながら、ヒナギクと二人で干し草のベッドに潜り込んでいると、扉を叩く音がした。お母さんだ、と思って急いでベッドから飛び出して、扉を開けると、其処に立っていたのは白いコートを身に纏った、目付きの悪い男のヒトだった。
「——すまない、起こしてしまったか?」
彼は、随分と驚いた様子だった。
知らない大人の男の人を前にして固まってしまったホタルの前にしゃがみ込み、その人はゆっくりと、穏やかな声で喋り出した。
「道に迷って、仲間とはぐれてしまったんだ。一晩泊まて貰う許可が欲しいから、どうか親御さんを呼んで来て欲しい」
親は居ない。
お母さんは帰って来なくなった。
そう言うと、どうやら彼は少し怒ったようだった。ホタルもヒナギクも、そういうのは敏感に分かるのだ。”ぶたれる”と反射的に考えて、咄嗟にごめんなさいと謝ろうとしたけれど、それよりも彼が口を開く方が早かった。
「それは心配だな。探しに行ってみるから、お母さんの特徴と名前を教えてくれないか?」
ナマエって何だろう?
分からなかったので恐る恐る聞くと、彼はますます怒ったような顔つきになった。
「……取り合えず、中に入れて貰えるか?」
これが、シンとの出会いだった。ホタルがまだ”ホタル”ではなく、ヒナギクも”ヒナギク”ではなかった、一番最初の思い出である。
変な人だな、というのが最初の頃の正直な感想だった。
先ず、彼はホタルやヒナギクを、殴ったり蹴ったりしなかった。村人曰く、ホタル達はイミゴだ。皆に迷惑を掛けるから誰にも助けて貰えないのが当然で、うっかり近付こうものなら怒鳴られ殴られるのが常だったのに、彼はそうしなかった。水汲みや木の実拾いと言った生きる為に必要な事を当たり前のように手伝ってくれたし、肉や魚などの食べ物をわざわざ獲って来て、食べさせてくれた。
なにより驚いたのは、優しく触れてくれた事だ。肉や魚の調理に悪戦苦闘しているのを手伝った時(結果は酷いものだったけれど)、彼は”ありがとう”と言って、ひょいと頭を撫でてくれたのだ。
変な人だな、と思った。男の人なのにお母さんみたいで、お母さんより色々な事を知っていた。ホタル達だって本当はずっと、ずっと、優しくされたかったのだ。彼が何処から来て、何をするつもりなのかは分からなかったけれど、ホタルもヒナギクも、彼の事がいっぺんに好きになった。
次の記憶は、曇り空。灰の臭い。
村が燃えていた。村人達はゴミのように、村の広場に積み重なって焼かれていた。
村人の焚火と周りにはシンと同じ白コートを着た人達が沢山居て、焼かれていく村人を見てゲラゲラと笑ったり、唾を吐きかけたりしていた。シンはそんな彼らの内の一人に詰め寄って、何か怒っていたけれど、やがて複数人に取り囲まれて袋叩きにされてしまった。話の内容は全然分からなかったけれど、何となく、シンはホタル達の所為で白コート達から仲間外れにされたのだという事だけは何となく分かった。
最後の記憶は、嵐の音。痛い雨。
ホタルとヒナギクを連れて逃げている時、シンは沢山の白コートを殺した。石も樹も空気も雷も、彼が手に持っているカタナをサッと振ると立ちどころに真っ二つになってしまうのだ。獣のように唸り、吼えながら、彼は“死”を沢山に産み出していた。それが“殺す”という行為である事も、ホタルとヒナギクは絶対にやっていけないという事も、後から彼自身に教えられた。
どうして殺してはいけないのか、ホタルは言葉で上手く説明する事が出来ない。多分ヒナギクだってそうだろう。
ただ想像すると何となくイヤだし、それをやってしまうと彼のやってる事が意味を無くなると言われたから、するつもりも無い。
彼はホタル達の代わりに全部背負うのだと言っていた。言いながら、襲ってくる“敵”をみんな、みんな殺していた。
どんなに沢山襲い掛かって来ても、最後に立っているのは必ずシンの方だった。力が強いヤツも足が速いヤツも斬って斬って斬って斬って、最初は銀色だったカタナが紅い色に染まってしまうくらいに斬り殺した。最後には力尽きたようにバタリと倒れてしまったが、それでも結局、シンは生き残った。記憶を無くしてしまったけれど、それでもシンはシンのままだった。
だからだろうか。
ホタルもヒナギクも、何時の間にか心の奥で思い込んでしまっていたのだ。
彼は──シンは、絶対に死んだりしない人なんだ、と。
「あ……」
だから最初は、それが何なのか──正確にはそれが何を意味するのか──ホタルには理解する事が出来なかった。
鈍く湿った音を立てながら、シンの背中から生えて来た何か。次の瞬間、それは二本五本十本と数を増やしていき、瞬く間にシンの背中を覆い尽くしてしまう。
それらはみんな、ドス黒い色をしている。明るい所で見れば紅いに違いないその色は、けれどその“突起物”本来の色ではない。別のものが付着して、べっとりと覆っているからだ。
それはシンの身体の中に詰まっていたものだ。ボタボタと流れ落ち、まるで雨のように降り注いで来るこの“紅”がなんなのか、ホタルはよく知っている。知り過ぎるくらいに知っている。
「あぁ……っ」
ホタルが叫んでいるのだろうか。それともヒナギクだろうか。分からない。
分かっているのは、シンが沢山の刃に貫かれたという事。そしてシンが、それを受け入れるように両腕を広げているという事。
違う。
シンは受け入れたんじゃない。受け止めたんだ。
本当はボク達を貫こうとしていた刃から、ボク達を庇う為に。
「「──あああああああああああああああ……ッッ!!」」
色が抜けていく。音が消えていく。何もかもが意味を失い、灰色に染まっていく世界の中で、零れるシンの血だけがただ紅い。
そのくせシンを貫いたヤツらの狂ったような笑い声は、ホタルの耳の中でガンガンと木霊して反響しているのだ。
『悪魔が』『裏切り者が』『死んで当然だ』『地獄へ落ちろ』『ざまぁみろ』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』──
ゲラゲラと笑いながら、涙を流して怒り狂いながら、ヤツらは刃を抜いて、また突き刺し直す。何度も何度も、シンの身体をズタズタにしていく。
さっきまでホタル達を守ってくれていたお爺さんが、怒ったように叫びながら彼等を引き剥がそうとしていたが、一人二人を剥がした所でどうにかなるものでもない。
何度も刃で貫かれ、何人もの相手の体重をその身で受けて、それでもシンは倒れない。よってたかってシンを殺し続けるヤツらを全部一人で受け止めて、背後のホタル達にはそれが届かないようにしている。
「「……よくも──」」
どくん、とホタルの身体の奧で何かが脈打つ。爆発するように大きく膨れ上がり、収縮して再び爆発するその鼓動は、ホタルの身体を燃やすように熱くする。
灰色の世界が、今度は紅くなっていく。胸の内が堪らなく苦しくて、今にも叫び出したいが、ホタルが本当に望んでいる事はそんな事じゃない。
何が死ねだ。
何を笑ってるんだ。
シンを殺したクセに。
ボク達の大事な人を殺したクセに。
よくもシンを殺したな。よくもシンを殺したな。
よくもよくもよくもよくもよくもよくもよくもよくも──
「ストップ」
真っ赤に染まろうとしていたホタルの世界の中に、ヒンヤリした声が入り込んで来たのはその時だった。
「「!!」」
吃驚して思わず硬直してしまったその瞬間を狙ったようなタイミングで、ふわりと視界が柔らかい何かで塞がれる。
それがティスの掌だというのは直ぐに分かったけれど、ティスが一体どういうつもりなのかはホタルには分からなかった。
「ティス、シンが……!」
「分かってる」
ごめんね、とティスの落ち込んだような声が聞こえるのと、ドサリとホタルの身体が地面の上に落ちたのはほぼ同時。
「「……?」」
……あれ?
ボク達は地面に座り込んでいた筈なのに、何で地面の上に落ちるんだろう?
ていうかティスは後ろからボク達の目を塞いでいた筈なのに、いつの間に手を離してボク達の前に立ったんだろう?
「「え……?」」
そもそも、此処は何処だろう。さっきまでビルの壁に身体を預けるように座っていた筈なのに、ヒナギクとホタルは何時の間にか、大通りの真ん中で尻餅をついている格好だった。目の前にはティスが立っていて、二人には背中を向けている。その視線の先には大勢のニンゲンが、一人のニンゲンに群がって武器を突き刺しているまま、吃驚したように動きを止めているのが見えた。
「……空間転移か」
「「!!」」
ビクッとしてしまった。
いきなりホタルの背後から、重くて低い大人の男の声が聞こえて来たのだ。
反射的に振り向くと、すぐ近くにズタズタで血塗れな男の人が居た。全身から雷をビリビリ出すおじさんで、シンと一人で戦っていた人だ。その更に斜め後ろには、さっき守ってくれていたお爺さんが困ったような顔でキョロキョロしながら膝を突いている。
「……見るのはこれで二度目だな。“あの時”は俺が当事者だった訳だが」
ビリビリおじさんの声は少し掠れていて、戦う前のデッカい声からすれば随分弱くなっている感じがする。
というか、弱っているだけというのが凄いと思う。
片腕は半分以上千切れているし、片目を縦断している斬り傷は未だに血をドバドバと垂れ流している。他にも深そうな傷口がいっぱいで、路面には彼の血で出来たちょっとした血溜まりが広がっていた。
……この人、なんでまだ生きてるんだろう?
「……あ? 何だテメェら。血が欲しいのか?」
「ッ!? い、いらない……!」
「そうか」
吃驚した。ジロリと睨まれて、しかも声まで掛けられたのだ。
反射的に答えたホタルの声は上擦っていたし、ヒナギクだって声こそ出さなかったけれど、一歩身体が後退りしていた。
“きゅーけつき”であるホタルとヒナギクの事が大嫌いで、ホタル達を殺しに追いかけてきたという白コート達のボスは、けれどホタル達の事なんか全然興味が無いようだった。
目の前のホタル達にはもう目もくれず、彼はティスに向かって重々しく口を開く。
「……それで、聖女サマよ。一体どうするつもりだ?」
「……」
その声に促されるように、ホタルもヒナギクもティスの方へと視線を戻した。
ティスはホタル達に背中を向けているし、ビリビリおじさんの質問に答える様子も無かったから、ホタルにはティスが何を考えているのか分からない。
ただ、ホタルには彼女が何だか落ち込んでいるように思えた。理由は上手く説明出来ないし、絶対的な自信がある訳でもなかったが、背中に纏う空気がいつもより暗い。暗い気がする。
「……この力、いざって時に全ッ然役に立たないよね」
小さく、けれども深い溜め息を吐きながら、やがてティスは言葉を吐き出した。
「ていうかシン、凄過ぎじゃない? 普通あそこから割り込んで来られる?」
「それだけお前らが大事だったって事だろ。で、俺の質問にはいつ答えてくれるんだ?」
イラついたかのように、ビリビリおじさんの声が低くなる。殺してやる、と言われたような感じがしてホタルは身体を竦めてしまったが、ティスにはあんまり効かなかったらしい。
自然と身体を寄せたヒナギクとホタルの頭をポンポンと軽く叩いてくれながら、ティスは少し沈んだ声で言葉を続けた。
「……“転世記”の話は知ってる?」
「あん?」
「“創世記”──黒い神と白い神の話、って言えば分かり易いかな」
「“ベリアル”と“セラフィム”の話か。大して面白くもない話だったな。で?」
その話ならホタルも聞いた事がある。ティスの所に着いたばかりの頃、シンがまだ眠っていた時に、ティスから教えて貰ったのだ。
それは寂しがり屋の黒いカミサマと、彼の事を良く分かっていなくて彼を沢山苛めてしまった白いカミサマの話だった。ずっと一人ぼっちで寂しかった黒いカミサマは友達が欲しくてこの世界にやって来るのだが、力が強くて見た目が怖い彼の事を他の人々は怖がってしまう。彼等のお願いでこの世界にやって来た白いカミサマが彼を懲らしめようとして、そこから凄い喧嘩になってしまう。
確かそんな話だった。
「どういう流れで彼が“
「……何の話だ?」
「馬鹿な人達。私でもう充分に懲りたと思っていたのに」
「何の話だ?」
ビリビリおじさんの声は何だか怒っているようで、ホタルにもその気持ちは何となく分かる。
今のティスは、何だかティスじゃないみたいだ。
いつもだったらティスの傍は何となく安心出来るのに、今はそれとは逆で何だか怖い。シンが怒った時は物凄い怖さが全身に襲い掛かって来るのだが、それとはまた違う──こう、背中を冷たくて嫌なものが背筋をジリッ、ジリッと這い上がって来るような、そんな感じがする。
「貴方だって本当は気付いてるんでしょ、暴れん坊さん? 何だったら、こんな所で傍観してるのも、本当は心の何処かでこうなる事を期待していたり?」
「……」
「ああ、ほら」
結局ビリビリおじさんの言葉を無視したまま、ティスは不意に何かに気が付いたような声を上げた。
その声に促されるようにティスの視線を追い掛けて、ホタルはあっと声を上げそうになった。
二人を守る為、ティスを守る為、自分自身を盾にして沢山の武器に貫かれたシンの身体が、“燃えて”いる。「血が無くなった? だったら火でも噴き出しておけよ」と言わんばかりに、傷口からメラメラと炎を吐き出している。
「ティス……!?」
咄嗟にアレは何なのか聞こうとした。けれどそれよりも、ティスが静かに口を開く方が早かった。
「また、“彼”が目を覚ました」
「……!?」
瞬間。
世界は、炎一色に塗り潰された。
○ ◎ ●
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