背信の業火⑧
○ ◎ ●
白い。
今は夜だった筈なんだが──と考えて、そこでシンは我に返った。
慌てて身を起こす。ヒナギクはどうなった。ホタルは。ティセリアは。
雷獅子以外の騎士達が彼を一斉に裏切って、シンだけでなく彼女達にも襲い掛かっていくのを見たのは覚えている。自身に襲い掛かって来る奴等は無視して、彼女達の前に飛び出していき、そして身代わりとなって身体中を串刺しにされた事も。
「……」
あれから、どうなったのか。
中途半端に身を起こした四つん這いのまま、シンは片手を胸元に遣って傷の様子を確かめてみる。
「……え!?」
が、無い。傷は一つも見つからなかった。
確かに貫かれた筈だと半ば躍起になり、身体中をペタペタ触って傷口を探すが、シンの身体は綺麗なままだ。
まるであの時の記憶は、夢や幻だったと言わんばかりに、シンの身体は傷一つ付いていなかった。
「どうなってるんだ……?」
夢でも見ていたというのか。
それとも、今まさに夢を見ているというのか。
「……!」
ハッとする。
風。風だ。シンの頬を無遠慮に撫で、鼻腔に焦げ臭いを強引に押し込むだけ押し込んで、そのまま素知らぬ顔で通り過ぎていく。体重を支える掌に感じるのは、土、いや、灰だろうか。長時間放置されて冷え固まったそれは、シンが指先で摘むとボロリと崩れて零れてしまう程に脆かった。
意を決し、シンが思い切って顔を上げると、其処には以前も見た覚えのある灰色の戦場跡があった。
『──“
ただ、今回は一つだけ違う所があった。
目の前に在る“それ”は余りにも強烈過ぎて、背後から聞こえて来た誰かの声も気にならなかった。
それは磔にされた巨大な人型である。十メートル、いや、もっと大きいかもしれない。黒く染まった肌はまるで炭のようで、ぼうぼうと伸びた髪は空気に晒された血のように色をしている。何処かで誰かの恨みでも買ったのか、両の手首と足首は鎖と鉄線で雁字搦めに拘束され、その上で腕には何本もの鉄の杭がブチ込まれている。他にも心臓の位置には三本、腹にはありったけの鉄杭を突き刺されていて、そいつは完全に事切れているようだった。
『他ニモ魔神、
振り返る。
二回目にこの場所に訪れた時に現れたその黒い人影が、以前と変わらぬ姿で其処に居た。
シルクハットに燕尾服。ヒョロリと長い手足と身長を持つ怪紳士。人影と言うよりはシルエットそのものと言った方が正しいが、紅く裂ける三日月の口と同じ色に光る双眸の存在が、彼が只の影でない事を教えてくれている。
名前は確か、バロンと言っただろうか。いきなり語り出したその言葉にシンは反応を返せなかったが、彼は特に気にした様子も無く言葉を続けた。
『三度目ノ正直、ダネェ。多少遅カッタガ、漸ク君ハ彼ヲ認識出来ルヨウニナッタ訳ダ』
「認識……?」
『勿論彼ヲダヨ。彼ノこあハ君ノ体内ノ打チ込マレ、君自身ト同化シタ。アレ、マダ思イ出シテイナカッタノカイ?』
「あ……?」
最初は「何を言ってるんだコイツは」程度にしか思わなかった。
けれど直ぐに、ギクリと硬直する羽目になった。
何しろ、唐突だったのだ。ずっと思い出せなかった記憶の一部が、湧き水のように頭の中でこんこんと溢れ出て来たのである。
(これは……!?)
ボトボトと血が垂れる。溢れて、飛び散る。麻酔も無いままに身体を開かれて肋骨を割られ、ドクドクと蠢く心臓を晒された。狂おしい程の激痛と苦痛と屈辱はのた打ち回らんばかりだったが、拘束台に固定された身体は意識に反してピクリとも動かなかった。
──適合したら直ぐに治るよ。まぁどうせ失敗するんだろうけどね。あっはっはっは。
思い出すのもおぞましい“奴”の声が脳裏に響いて、シンは背筋が総毛立つのを感じた。
痛いのはまだ良い。苦しいのだって似たようなものだ。それらは今までにも沢山味わって来たし、まだ耐えられた。
けれど屈辱は、悔しいという気持ちは、どうしても耐える事が出来なかった。
意味なんて無かった。ただ吼えた。五月蝿いと猿轡を噛まされても、黙れとばかりに身体にメスを突き立てられても、力の続く限り延々と叫び続けた。
シンは、ずっと間違っていたのだ。間違った敵を憎み、間違った敵に命を削り、間違った敵に刃を振るった。
愚かだったのだ。
”あの双子は違う”、”あの二人は世間一般でいう吸血鬼じゃない”と説得に行ったシンを鼻で嗤い、あの男は傲岸不遜に言い放ったのだ。
『──需要と供給という言葉を知っているかね?』
全ては茶番だったのだ。
シンが剣を取ったのは復讐の為。正義の為とか民衆の為とか、そんな御大層な誇りはシンの剣には無い。
だが、幼かったシンを拾ってくれた組織には、曲がりなりにも恩義を感じていた。例え凶剣に過ぎなくとも、巡り巡って組織に貢献出来たなら、それでいいとまで思っていた。思っていたのに。
何が聖騎士だ。何が人類の守護者だ。ふざけるな。笑わせるな。お前達が殺しているモノは何だ。お前達の敵の名前は。吸血鬼? 血を吸う悪魔? 否。否だ。そいつらは只の被害者で、お前達は只の道化者だ。お膳立てされた敵を殺して得意になっている、愚かで、糞ったれな、大馬鹿者だ。シンも含めて。
「……そうか」
だからシンは、あの双子の吸血鬼を守ると決めたのだ。
罪悪感。自己嫌悪。ありとあらゆる感情が絡み合い、あの双子を守らずには居られなかったのだ。
「そうだったのか……」
思い出す。思い出した。
シンのこの身は、既に人間のものではない。
愚かで無力だったシンは力を求め、シンの体内に埋め込まれた“ソイツ”は力を持っていた。
シンは、それを受け入れた。“ソイツ”は人智の及ぶレベルではない怪物で、受け入れたら最後、シンはシンのままでいられなくなるかもしれないというのは分かっていた。けれど、それでも、世界を相手にヒナギクとホタルを守れるのであれば何だって構わなかった。
『──カクシテ君ハ手ニ入レタ、カ。ヒヒ、成程? ソコノ辺リノすとーりーモ、イズレ是非トモ見テミタイモノダネェ?』
オォ、と何かが唸るような声を聞いた。
何時の間にか閉じていた目を開き、そしてシンは、燃え尽きた後の灰色の世界が何もかもすっかり様変わりしてしまっているのを見た。
「此処は……」
燃えている。
ブスブスと煙を上げて灰となっていた大地が、轟々と音を立てて燃え盛っている。白んでいた空は黒く染まり、熱せられた風は焦げた匂いを運んで来る。
其処には、見渡す限りの紅煉の戦場が広がっていた。
響き渡るは鬨の声。燃え盛るは戦場の業火。乾いた大地、焦げ付いた空。そして、命を落として脱落していった者達が残していき、地面に突き立った幾千、幾万の剣。大破した頑強な機械兵士も、力尽きた巨大な生物兵器も、皆等しく地面の上に倒れ伏し、地獄のような光景を彩っている。
そしてそんな戦場の中心で、磔にされている黒い怪物。
闇色の体表に火色の回線を幾重にも走らせ、同じ火色の長い髪をユラユラと揺らめかせながら、そいつは低く、唸るような声で哭いていた。鋳潰された金属のような涙をボタボタと流し、憂うように、悔いるように慟哭していた。
『──気ヲ付ケタマエヨ?』
どうやら、まだ居たらしい。声が聞こえた方にシンが視線を向けると、戦車の残骸からぴょんと跳び下りるバロンの姿が見えた。
『君ハ彼デ、彼ハ君。ソレデモチッポケナ人間ニ過ギナイ君ハ、強大ナ彼ノ力ニ振リ回サレル事ニナルダロウ』
瞬きした次の瞬間には、もう居ない。目の前に立っていた筈のシルエットは何時の間にか消え去って、代わりに背後に気配が出現している。急いで振り返っても、結果は同じ。視線のその先に影は無く、代わりに別の場所で彼が寛いでいるのを気配で感じる。
結局、コイツの正体は謎のままだ。正体どころか全てにおいて謎の存在だが、聞いた所で素直に答えるとは思えないし、今はコイツの正体に関心を向けている場合でもないだろう。
コイツは傍観者。いや、観客だろうか。好きな位置に立ち、好きに振る舞い、好き勝手な野次を飛ばして来る。
『暴走シタ挙句、守ルベキ者達マデ焼キ殺シタ。ソンナ下ラナイ筋書キニハシナイデクレタマエヨ? 君達ハ原石ダ。生キ残ッテ、モットモット色々ナすとーりーヲ演ジテ貰ワナイト、ツマラナイカラネ』
「……勝手な事を」
少なくとも、ロクな奴でない事だけは確かなようだ。
舌打ちして彼から視線を逸らし、シンは代わりに磔にされた黒い怪物の方へ向ける。
「……俺は死んでしまった。もう、アイツらを守る事は出来ない」
慟哭の声がピタリと止んだ。うなだれた頭が微かに動き、灼熱の凶眼がシンを見据える。
「だが、それだと困るんだ。あの選択に後悔は無い。だが、俺の役目はまだ終わっていないんだ」
目を合わせたからこそ、改めて分かる。コイツは、この怪物は、到底人の手に負える存在じゃない。
人間がどれだけ集まろうと鼻で嗤って焼き尽くし、如何なる悪意も、如何なる暴力も、敵となるモノは全てその力で破壊する。
“
上等だ。
世界から憎まれているあの双子を守る為には、世界を敵に回せる程の強い力が必要だ。例えそれが人の身に余る力で、いつかそのツケが自分の身に返って来るのだとしても、目的を果たせるのならばそれでいい。
「頼む」
手を差し伸べる。
その熱気に足が竦み、その凶気に身体はガタガタと震えていたが、どうせシンにはもう後が無い。どうなってしまおうと、構わない。
「力を、貸してくれ」
“…………”
轟々と吼える焔の声。遠くに聞こえる鬨の声は寄せては返す波のようで、時折吹き抜けていく焦げ臭い熱風がそれらを緩やかに掻き回す。
五秒。十秒。二十秒。
一体どれくらい経っただろう。シンは最初、その変化に気がつく事が出来なかった。
俯き加減で見え辛い口元が、少しだけ──ほんの少しだけ、吊り上がっていたという変化に。
――汝ハ我。我ハ汝……
くつくつと、大気が震える。
磔にされて厳重に封じられ、それでも尚、危険極まりない黒い怪物は、震えながらも手を伸ばしたシンを見て満足そうな笑い声を上げていた。
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