背信の業火②

○ ◎ ●



 記憶には二種類ある、と今のシンは考えている。頭で覚えている記憶と、それから身体に刻まれている記憶である。


 頭の記憶は意識的で、常に自覚と共にある。自分自身が何者で、過去に何をしていたのか、シンは未だに思い出せない。雷獅子から教えられた情報も、自覚が無いから実感が無いのだ。識ってはいても、思い出せてはいない。そんな感覚だ。


 一方で、身体の記憶は、最初からずっとシンと共に在ったのだ。


 エイプマンと戦った時。初めて倭刀を握り、双子を白コートの暴力から助け出した時。そしてそれから、雷獅子と戦った時。


 身体の動かし方。倭刀の扱い方。呼吸の仕方。氣の錬り方。


 身体の記憶は、頭の記憶とは違い、自覚を持たない。


 ここぞと言う時。土壇場に追い込まれた時。


 シンの身体は、当たり前のように動くのだ。



「──疾……ッ!」



 身体が軽い。


 無造作に一歩踏み出して、そのまま自身の身体を引っ張る重力に身を任せる。爆発的な勢いで景色が霞み、気が付けば雷獅子の背後に、上空に、眼前に移動する。


 “影踏かげふみ”。


 筋肉に頼らない、モーションゼロで加速する走法だ。相手からすればその場から掻き消えたかのように見える歩術であり、其処に強化人間ブーステッドの身体能力と錬氣を掛け合わせて文字通り神速を実現した、シンの戦闘の基盤を支える重要な技術である。


 ある程度離れていた雷獅子の背後に一息で移動し、シンはその首を刈るべく倭刀を抜き放つ。上体を倒して躱し、そのまましゃがみ込みながら繰り出して来た雷獅子の足払いは、既にその場から後退していたシンには当たる事が無い。


 この感覚には覚えがある。


 この緊張感、風切り音に霞んで過ぎ行く周囲の景色には馴染みがある。


 頭の記憶では思い出せない。けれどの身体の記憶は、確かに知っていると叫んでいる。覚えのある感覚はシンの身体を更に刺激して、今のシンには空想としか思えないような戦い方ですら実現していく。


「――ナルカミィィィィィィィィィィィィィィィッ!!!!」


 楽しそうな叫び声を上げながら、雷獅子が退がったシンを追い掛けるように距離を詰めて来る。纏う雷の恩恵だろう、今の今まで足払いを繰り出した直後の体勢だった筈なのに、気付けばもうシンの目の前だ。


「前よりッ!! 断然ッ!!」


 腰の回転が乗ったフック、退がって躱したシンの顎先を狙ったアッパー。只の“暴力”にしか見えない単純な攻撃なのに、伝わって来る圧力が半端無く、反撃に移れないのは相変わらずだ。


「――良い動きをすんじゃねぇかァッ!!」


 打撃、というよりは断撃と形容した方がしっくり来るハイキック。防御したとしてもそれごと頭を消し飛ばすであろうそれの軌道上に、鞘から僅かに刀身を抜き出した倭刀を置いてやった。


「!!」


 雷獅子自身の脚力を利用した、以前も使った攻勢防御。後の先を取る故に見られてからでも対処されにくい、上手く行けば相手の足を斬り飛ばす筈だったそれは、けれど、直後に予想以上の衝撃に襲われた。


(嘘だろ──ッ!?)


 雷獅子の足に纏わり付いていた電撃がシンの倭刀を弾き、刃の角度が”適切”でなくしてしまった所に、強引に蹴りを叩き込まれたのだ。皮膚を多少斬り裂きはしたが、成果としてはそれだけだ。


 強烈な蹴りの威力を殺しきる事が出来ず、気が付けばシンは、真横に吹き飛ばされて廃ビルの壁をブチ抜いていた。


「ごは……ッ!!」


 砕かれた壁がガラガラと崩落する音を聞きながら、シンは廃ビルの中をゴロゴロと転がる。


 いきなりの大ダメージに気が遠くなりかけたが、此処で“落ち”れば二度と目を覚ませなくなるだろう。シンを追い掛け、廃ビルの中に踏み込んで来た雷獅子の気配が、それを嫌という程教えてくれている。


「──あああ……ッ!!」


 腹の底から声を絞り出す。


 転がりながらも何とか起き上がろうと藻掻き、シンは廃ビル内部の壁に叩き付けられる寸前で無理矢理身を起こす。


 真っ暗な上に粉塵が舞い上がり、視界はこれ以上無いくらいに悪い。しかしだからこそ、雷光を纏って猛スピードで迫って来る雷獅子の姿は良く見えた。


 起き上がり直後のしゃがんだ状態のまま、意地でも手放さかった倭刀の柄に手を掛ける。自分が何をしているのかも良く理解出来ないまま、シンは先の蹴りを受けて尚折れていなかった倭刀を腰に当て、抜き打ちの構えを取る。


「──ああああああああああああああああああッ!!!!」


 抜き放った。


 冷たい風斬り音を奏でたその刃は、まだシンの間合いに入ってきては居なかった雷獅子に当たる事無く空を斬り、舞い躍る粉塵の流れを大きく乱す。


 不発か。いや、そうではない。


 降り抜かれた際に断ち斬られ、そのまま倭刀の刃に纏わり付く大気。今や当たり前のようにシンの体内で練られ、倭刀にすら流し込む事が出来るようになった闘氣。


 この二つが混ぜ合わさり、練り上がった巨大な風刃やいばが、雷獅子に向かって勢い良く放たれていた。


「うお……ッ!?」


 流石に度肝を抜かれたようだ。驚いたような声を上げて跳躍した雷獅子の爪先を掠めるように、風刃はその横を駆け抜けていく。直後、それはシンがブチ抜いた壁の大穴に到達し、更に大きく斬り裂きながら外に飛び出していった。


「は、はは……」


 何だ、今の。俺がやったのか?


 シン自身にとっても吃驚な現象だったが、それをのんびり不思議がっている時間は無い。


「──やってくれるじゃねぇかぁ!!」


 嬉しそうな叫び声を上げながら、雷獅子が改めて突っ込んで来る。


 少しくらい休ませやがれと声にならない悲鳴を心中で吐きながらも、シンは即座に覚悟を決め、突っ込んで来る相手を睨み据える。


「ふぅ……ッ!!」


 風刃を放った際に倭刀は抜き放ったままだったので、居合は使えない。


 だから、普通に斬るしか無かった。立ち上がりつつ、邪魔にしかならない鞘を無造作に上空へ放り投げ、そのついでに倭刀を両手持ちにして上段に構える。


 半端な一撃など、雷獅子は物ともしないだろう。


 今この局面で最も必要なのは、速さでもなく、精密さでもなく、“重圧”だ。


「──うらぁッ!!!!」


 時間が許す限りの錬氣と共に、持てる気力を全て注ぎ込んだ大上段からの唐竹割り。“ぶった斬る”という一念を込めて放ったその一撃に流石に肝を冷やしたのか、雷獅子は突進を中断して急ブレーキを掛ける。


 倭刀は雷獅子を捉えず、切っ先が鼻先を掠めただけだったが、シンは別に落胆などしなかった。


(読み勝った……!)


 急ブレーキを掛けて咄嗟に動けない雷獅子に向かって、シンは打ち下ろした刃を即座に右手の片手持ちに切り替え、斜め上にへと斬り上げる。


 元々距離が足りておらず、更には雷獅子の筋肉の鎧もあって、大したダメージにはならなかったが、そんな事はシンも最初から想定している。


 斬り上げによる今の追撃は、言わば本命に繋げる為の動作の副産物なのだ。


 全力の降り下ろしによるシン自身の硬直を、無理矢理緩和させる為の繋ぎにして。そして次に控える本命の一撃の為の“発射台”を、倭刀に迎えに行かせる為の準備だった。


「これで……!」


 一番最初に投げ上げた、倭刀の鞘。


 斬り上げた倭刀の刃の上にそれが落ちて来て、すっぽりと嵌まる。これで倭刀は再び納刀状態となり、何時でも居合が放てるようになった。


 時間はもう幾分も無い。相手もそろそろ急ブレーキの硬直が解ける頃だろう。


 焦る気持ちを抑えつつ、シンはその場で敢えて雷獅子に背を向け、クルリと回転する。その間に姿勢やら倭刀の持ち方やらの細かい条件を全て整えてから、回転の勢いと共に倭刀を一息に抜き放つ。



「終われ……ッ!!」



 一閃。


 雷獅子の身体の前面に新たな斬傷が刻まれ、赤い血潮が周囲に飛び散る。


 手応えはあった。相手の再生能力がどれ程のものかは識らないが、相当に深い傷なのは確かで、数秒、せめて数拍程の隙を引き出す事は可能だろう。実際、雷獅子は傷の一部を抑え、顔を苦痛に歪ませていた。


「──ぐ、は……ッ」


 数拍もあれば、十分だ。首を落とすなどして、再生するにしても時間が掛かりそうな一撃をくれてやれば、一先ず勝負に勝ったと言っても過言ではないだろう。


 実際相手が普通の人間であれば、勝負は此処で終わっていたかもしれない。


「は――」


 けれど、雷獅子はやはり雷獅子だった。


 驚愕と苦痛に歪んだ表情はそのまま喜悦のそれへと移り変わり、彼は一瞬も経たない内に気勢を取り戻して、シンに向かって真っ直ぐに踏み込んで来た。


「は、は、ははははぁ……ッ!!」


「!?」


 この世に存在する戦闘狂という人種の中でも、この男はきっと真性のそれだろう。


 血をドクドクと溢れさせる自らの傷には最早構わず、彼は薙ぎ払うような裏拳でシンに殴り掛かって来た。シンは咄嗟に身体を沈め、掻い潜るようにそれを躱すが、逃げ遅れた毛先が爆風に嬲られる感覚と、雷獅子の腕に纏わり付いた雷光がチクチクと頭皮に噛み付く感覚をまざまざと知覚させられ、正直生きた心地がしなかった。


(……くそ……ッ)


 一瞬でも「決まったか」と思ってしまった分、精神的な衝撃は大きかった。


 が、何時までもそれに引き摺られる訳にもいかない。


 取り敢えず、今の位置関係のままでは距離が近過ぎて倭刀を振るえない。背後に壁を背負って追い込まれた状態のままというのも拙いし、シンは雷獅子の裏拳を掻い潜った勢いを利用して前へ転がり、そのまま雷獅子の背後に回り込む事にする。


 と言うか、既に身体はそのように動いていた。


 力任せに拳を振り抜いた事で隙を晒した雷獅子の脇をスルリと抜け、その背後を取る。更に、先程の居合から抜きっぱなしだった倭刀を翻らせ、雷獅子の背中に向かって斬り上げる。


 いや。


 斬り上げようとした。


「”調子に……ッ”」


 バチリ、と雷光の弾ける音。


 ハッとしてシンは倭刀を振るう手を止めようとしたが、もう遅い。


「”乗るなァッ”!!」


 シンの目の前の雷獅子の背中が、強烈な放電を行ったのは直後の事だった。強力な紫電がシンの倭刀を打って弾き返し、更には閃光がシンの目を灼いて視覚を一時的に駄目にしてしまう。


(しまっ──!?)


 倭刀を伝ってきた電流や、更には直接伸びて来たそれに打ち据えられて、シンは悲鳴すら上げられない。


 その間に雷獅子が悠々と振り向き、跳躍してドロップキックをかましてくるのを、シンは潰れ掛けた視界の端で見る事しか出来なかった。


「がふ……ッ!!」


 気が付けば思い切り吹き飛ばされ、最初にシン自身が大穴を開けた壁をずり落ちている最中だった。


 位置的には、最初にシンがブチ抜いて入って来た大穴のすぐ脇だろうか。


 視界は閃光の所為で暗くなり、更にはダメージの所為で霞んでしまっている。一応、焦点の位置を調整すれば雷獅子の姿は見えなくもなかったが、何だかバチバチと放電しているのが見えるだけで、具体的に何をしているかシンには判別が付かなかった。


「……?」


 しかし、本当に雷獅子は何をしているのだろう。


 激しく放電し、身体を小さく丸めて、まるで力を溜めているかのような……──


「……!!」


 シンがダメージのショックから我に返るのと、相手の身体から放たれる雷光が爆発的に強くなるのはほぼ同時。


 半ば倒れ込むようにシンが脇に横っ飛びすると、それと擦れ違うのようなタイミングで、稲妻の塊と化した雷獅子が突っ込んで来た。



「――オラァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ!!!!」



 それは最早”稲妻”と言うより、”彗星”と表現した方が適切かもしれない。


 直撃こそ免れたものの、その理不尽なまでの運動エネルギーの余波は爆風と化して周囲に拡散し、俯せに倒れ込んだシンにも押し寄せて来る。


 廃ビル全体を揺るがすような轟音と、衝撃。


 正直な所、シンは自分が本当に雷獅子の攻撃を回避出来て生き残れているのか、些か自信が持てないでいた。


「……化け物、が……!」


 果たしてシンは、その言葉を呟いたのか。心の中でそう思ったのは確かだが、耳鳴りが酷い所為か耳には何も聞こえない。


 視覚はボチボチ回復し始めていたが、肝心の身体に力が入らない。起き上がろうと地面に手を付くが、蹴られた胴体や打ち付けた背中の痛みが邪魔をして、ロクに力が入らなかった。

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