決意の代償⑥
「下郎が。こうなった以上、私がそれを許すと思うか」
吐き捨てるように言ったのはブルートだ。正直、記憶が戻った訳ではないシンからすれば、彼が味方であるとまだ信じる訳にはいかない。が、不思議と心強く思ってしまうのは、やはり彼が、過去のシンにとって深い関わりのある人物であるからだろうか。
「若の記憶が無いのも、却って都合が良い」
チラリ、と視線を投げ掛けてくるブルートと目が合った。情に訴えているのではなく、優先すべきものを優先しろと訴えかける冷徹な光が其処にはあった。
「敵か味方か分からぬ爺一人、時間稼ぎの餌には丁度良いだろうさ」
「だったら俺は馬鹿共を解き放つさ」
だが、雷獅子も決して負けてはいない。
「お前独りで、俺だけが相手なら時間稼ぎも出来るかもしれねぇが、多人数相手にゃ無理だろう? お前、多人数を一気に手出来るような戦い方じゃねぇもんな? 記憶を失い、足手纏いまで抱えたナルカミが、やる気だけは満ち溢れた馬鹿共の追撃をいつまで捌ききれるか見物だな?」
「……」
自己中心的で暴虐、短絡的な行動や発言ばかりが目立つが、雷獅子も決して愚鈍ではない。損得勘定は出来るし、それを基に取捨選択した上で交渉の材料にしてくるなんて事も平然とやってのける。
シンからすれば、自身の不甲斐無さを
「だが、そうだな」
先に核心に踏み込んだのは、雷獅子の方だった。
「挑戦を受けて貰うんだ。此方もそれなりの礼儀は尽くそうじゃないか」
此方を見て、雷獅子が笑う。
挑戦者だの礼儀だの、言葉だけは殊勝なものだ。
「もしナルカミが俺と戦ってくれるなら、他の奴は見逃してやっていい。俺が生き残れば馬鹿共には絶対に女共には手出しはさせねぇし、この戦いの中で俺が死んだら、ブルート、後は元気なお前が片を付けろ。多人数相手は苦手でも、俺が居なけりゃ、お前なら何とか出来ちまうだろ?」
ざわ、と周囲の空気がどよめいた気がした。誰かが声を上げた訳でも、憤りを露にした訳でもないが、あちこちに身を沈めている白コート達が、雷獅子の"提案"に不満を抱いているのはハッキリと分かった。
「どちらにせよ、女子供は絶対に生き残る。お前にとっちゃ破格の条件じゃないか?」
尤も、白コート達が不満を形に出来たのは、ほんの短い間だったが。
"交渉"を続けながら、雷獅子が周囲をジロリと睨む。たったそれだけ、ほんの数秒にも満たない只の一瞥だったのに、それだけで周囲から噴き上がっていた殺気は、叱られた子供のように急速に萎んでいった。
何時反乱が起きてもおかしくない、けれどボスに圧倒的な力があるからこそ成り立ってしまう絶対王政。今の彼等は雷獅子が言えば鴉も白になるし、犬もニャーと鳴くだろう。ティセリアと双子も、彼が強制すればきっと見逃して貰える。勿論”雷獅子に本当にその気があれば”という不安要素は残るが、そういう意味では、雷獅子は信頼できるような気がした。
……少なくとも、重きを置いているのが勝利ではなく、戦いそのものである事は確実だ。
「さぁ、どうするよ?」
改めて此方を見た雷獅子が、歯を剥いて嗤う。
決めあぐねた様子のブルートが、考えを見透かそうとするかのようにシンを見る。
答えを出すのに、さほど時間は掛からなかった。
「……良いだろう」
敢えて背後は振り返らず、その場から一歩前に進み出る。
雷獅子はその様を見て大きく歯を剥き出して破顔し――直後、何故か鼻白んだように眉間に皺を寄せた。
「おい、
しかしその言い様に、怒りよりも嫌な予感が覚えたのだ。これまで意識的に振り返らなかった自らの縛りを自ら破り、シンは弾けるような勢いで背後を振り返る。
「……!?」
そして、見た。
「お前ら……」
双子を抱き抱え、頑張って腕の中に捕まえ続けているティセリア。そして、その拘束から逃れようと藻掻いているヒナギクとホタル。双子のその目は何も見えていないように虚ろだったが、けれどただ一つだけ、真っ直ぐに見つめているものがある。
血だ。
先程、ブルートがティセリア達を庇う時に壁にブチ撒けられた、血。
もはや先程のように喉が乾いたと言葉を紡ぐ事すらせず、ただただ獣のような唸り声を発しながら、双子はそれに異常なまでの執着を示していた。
「……ごめ、ん……!」
一体、何が起こっているのだろう。
双子の様子がおかしいのは分かっていたが、それにしたって今の目の前の光景はやはり衝撃的で、咄嗟にシンは言葉を紡ぎ出せなかった。ティセリアは一体、何時からああしていたのだろう。藻掻いているというよりは暴れていると言った方が相応しい双子に半ば振り回されながらも、彼女は必死に言葉を紡いで来る。
「これ以上は、抑えて、いられないかも……わわ……ッ!?」
「おいおい、まさか一滴も血をやってないのか? テメェが面倒見るって決めたんだろ。その辺のケアもちゃんとするのが筋だろうが」
驚いたように口を挟んできたのは雷獅子だ。
その口ぶりは”血を欲しがる”双子の異常性を知っているようで、シンは彼の方を振り返った。
「何を……?」
「なんだ、その辺の記憶も無くしてんのか? はは、逆にすげえな。その上でお前、その化物共の味方やってんのか」
自分は何者なのか。双子は何者なのか。
シンの記憶の引出しには鍵が掛かっていて、それらの疑問は分からないままだった。勿論知りたいと思っていたし、それは今でも変わらない。
ただ、他者から無遠慮にもたらされるそれは、想像以上の衝撃を伴った。
「そのガキ共は“吸血鬼”だ。人を襲い、殺し、その血を啜り尽くす、神の威光から外れたバケモノ共だよ。そいつらは見掛けこそ俺達そっくりだが人間の天敵で、見付け次第問答無用でブチ殺さねばならねぇ事になっている」
吸血鬼。血を吸う鬼。
ひどくおぞましい印象を与えるその名前は、けれど今の双子を的確に形容していた。何でもない時にその謗りを聞いていれば怒り出していたかもしれないが、今のシンには、雷獅子の言葉を咄嗟に否定する事が出来なかった。
「……」
先程、彼女達は。
シンの血を啜り尽くそうとしたのだろうか。
「そしてお前は、そんなバケモノ共に肩入れした悪魔憑きだ」
雷獅子の言葉は続く。
シンの記憶が戻るのを辛抱強く待つように、或いはシンの覚悟の程を問うように。
丁寧に、容赦無く、シンが欲しかった答えを暴き立てていく。
「メリア教総本山が擁する対吸血鬼用の武力集団、”聖騎士団”。その中でも、お前は特別な称号を贈られる”十聖”が一角だった」
聖騎士という単語には聞き覚えがある。シンが修道院で目を覚まして
あの時、元聖騎士じゃないのかと言ってきたティセリアの言葉を、シンは鼻で嗤ったのだ。
「”刃風”、シン・ナルカミ。それが嘗てお前だった者だ」
心臓を掴まれたような居心地の悪さがあった。雷獅子の言葉の内容に覚えは無いのに、けれどもそれが真実と分かる。聖騎士団。十聖。刃風。一つとして聞き覚えなど無いのに、馴染みがあったのだ。
シンの表情を見て、手応えを感じたのだろうか。
雷獅子は、嬉しそうに笑った。
「あれほど吸血鬼を憎んでいたお前が、何でそのガキ共の肩を持ったのか分からねぇ。分かるのは、お前はトチ狂って嘗て仲間だった聖騎士団の連中を斬り殺し、処刑寸前だったそいつ等を連れて教会領から逃げ出したって事だけだ。ほら、見てみろ」
促すように、雷獅子は周囲を見回した。
言われるままにシンが辺りに視線を遣れば、あちこちからシンを見つめて来る幾つもの視線と目が合った。
「吸血鬼なんぞに魂を奪われて、何十人もの追っ手をお前は殺した。当然、その分恨みも買ってる訳だ。自分だけが可哀想な被害者だと思ってるか? そんな訳無いよな。お前達が今、追い回されているのはな、ナルカミ。お前が名実共に人類を敵に回したからだよ」
「──裏切り者!」
誰かが叫ぶのが聞こえた。泣き噎ぶような、絞り出すようなその声は、それは充満していた憎悪の渦を破裂させるには充分だ。まるで火薬が連鎖していくように、様々な罵声があちらこちらで上がり始める。
「──裏切り者ッ!! 裏切り者ッ!!」
「──化け物なんかに魂を売りやがって!!」
「──殺してやるッ!! 絶対に殺してやるッ!!」
「地獄に落ちろ!! この悪魔憑きめ!!」
シンは元聖騎士で、彼等を裏切ったのは分かった。
これだけ濃密な殺気をぶつけられているのだ。今更相手を疑うつもりは無い。
でも、一つ分からない事がある。
どうしてシンは、彼等を裏切ったのか。どうしてシンは、あんな獣みたいな醜態を晒して血を求めるような“化物”に味方する事を決めたのか。
分からない。
思い出せない。
「……吸血鬼……」
シンが雷獅子から視線を外して双子を見遣ると、どうやら彼女達は自分達の身の危険は感じ取れたらしい。獣のような気配はナリを潜めていて、代わりにティセリアの腕の中で恐々と縮こまっていた。食欲よりは、生存欲の方が勝っているらしい。
「……ティス」
「なぁに?」
彼女は話を聞いていなかったのだろうか。腕の中の“化け物”にも脅える様子を見せないで、しっかりと彼女達を抱きしめている。
「そいつら、吸血鬼なんだってよ。俺は元聖騎士で、奴らを裏切ってそいつらを助けたらしい」
「聞いてたよ」
「そうか」
罵声は未だに納まらない。怒りに満ちた声や泣き声混じりの声が、容赦無くシンの身体にぶつかってくる。雷獅子が居るからこそ罵声だけにと留まっているが、そうでなければ彼等はとっくに襲い掛かって来ていただろう。
悠長に話をしている場合ではないのは分かっていたが、それでもシンは、ティセリアに問い掛けるのを止められなかった。
「お前は平気そうだな。吸血鬼って、コイツらが大騒ぎしているだけで実は大した事無いのか?」
「ううん。少なくとも世間一般じゃ世界最凶の怪物とか、悪魔とか言われてるよ。人間を捕食するし、身体能力が高過ぎて普通の人間には対抗出来ないしで、天災扱いまでされる時もあるね」
罵声の中でも、彼女の淡々とした声は不思議と良く聞こえた。
話の内容に不安を覚えたらしく、抱きしめられた双子が恐る恐るティセリアを見上げる。そんな彼女達を安心させるように、ティセリアは一度彼女達に視線を落として、軽く微笑み掛けていた。
彼女の言動と行動が一致していないように見えるのは、きっとシンの気の所為ではないだろう。
「じゃあ、お前は何で平気なんだ?」
「シンの方こそ、どうしてこの子達を助けたりしたの?」
「……」
質問を質問で返すのはルール違反だと思ったが、不思議と苛立ちは感じなかった。
それでもシンが答えに詰まってしまったのは、シン自身がその答えを知らなかったからだ。
「……分からないんだ」
「分からない?」
「記憶が戻ってこないんだ。俺が元聖騎士で、コイツらが吸血鬼だって事は、実感は湧かないがまぁ分かった。でも肝心の、俺が奴らを裏切ってまでコイツらを助けた理由ってのが分からない。俺はどうしてコイツらを助けたんだ? 何で奴らを裏切ったんだ?」
「……」
ティセリアに訊いた所で、答えが返ってくる筈が無いのは分かりきっていた。
事実、ティセリアは黙り込んでしまったし、シンだって本気で彼女に訊いた訳では無い。
全方位から乗し掛かって来る憎悪と殺意は、今話している間にもますます大きく膨らんでいた。このまま背中を見せていたら、我慢出来なくなった誰かが突撃をかまして来るかもしれない。雷獅子とブルートがいるからこそ未だ安心だったが、だからといって完全に油断して良いと訳でも無い。
「ねぇ、シン?」
それでも頑固に振り向かなかったのは、ティセリアの静かな声がシンの意識の中にそっと割り込んで来たからだ。
「確かに世間には吸血鬼に殺された人は沢山居るし、その事実は変えようが無いかもしれない」
「お前……」
水底のように静かな眼差しは、まるでざわめくシンの心の底を見透かしているかのようだった。
「でも、思い出して。この子達は一度だって、誰にも襲いかからなかったよ。今だって身近に新鮮な血が詰まった血袋があるのに、必死に頑張って我慢してくれてる」
「……!」
確かにそうだ。ヒナギクもホタルも路面や壁ににブチ撒けられた血しか見ないで、自分達を抱きしめているティセリアには見向きもしなかった。それは目の前の血しか見ていないとも言えるし、目の前の血しか見ないようにしているとも言えるだろう。
聖騎士団は彼女達を化け物だと言う。だが、それなら化け物の定義とはなんだろうか。
直ぐ側にある生き血を我慢して、路面にブチ撒けられた死体の血で妥協するなんて、化け物としては余りにも大した事がなさ過ぎではないか。
「この子達がシンの刀を持ち出そうとした日の事、覚えてる?」
“──しかしながら教皇猊下。どうか一つだけお答え頂きたい”
ふと心に湧いて来た、この言葉はなんだろう。随分前、消えかけの理性を絞り出して紡いだこの言葉を、シンは誰に向かって放ったんだったか。
「二人が私達の事を“餌”としか思ってないんなら、絶対にあんな事しなかった思うの」
“我等の血と、彼等の血──”
記憶の中の視界の先には、驚いたような柔和な表情。火が付いたように泣いている双子の少女を連れた血塗れの男が、いきなり自分の目の前に飛び込んで来たら、どんなに偉くて懐の深い人物でも仰天するだろう。
「“我等の血と、彼等の血……”」
シンが双子を助けた理由。シンが聖騎士達を裏切った理由。
それは未だに分からない。思い出す事なんて、或いは一生無いのかも知れない。
「“……これらは、同じ色をしているのを御存知か?”……」
けれど、それが何だというのか。確かにシンは過去の記憶は無いけれど、しかしそれでも、修道院で目を覚まして以降の記憶は持っている。吸血鬼である彼女達がどのように日々を過ごしていたか、一緒に過ごしてきたシンは知っている。
「おい、お前等」
背後の警戒は雷獅子とブルートに任せ、シンはティセリアに、その腕に抱かれている双子に歩み寄った。
躊躇いなんて無い。シンは倭刀の鯉口を切って刃を抜き放ち、自らの掌でそれを握り、そのままスルリと滑らせる。薄紅色の刃は摩擦なんか無かったように肉を斬り裂いて、開いた傷口からは血がボタボタと零れ落ち始めた。
「犬じゃねぇんだ。零れ落ちたのを舐めようとするな。浅ましい」
一旦倭刀を鞘に納めた後、改めて眼前に差し出された掌を、ヒナギクとホタルは吃驚したように見つめていた。最初にシンの掌を見詰め、次にシンの顔をを見上げ、それからもう一度掌を見つめる。タイミングは多少ズレていたものの、二人の取る行動は相変わらず同じだった。
「ぁ……」
「今更妙な遠慮なんかしてんじゃねぇ。いいから飲め」
「……うア……」
双子は双子なりに、今が非常時である事を理解していたらしい。周りを敵に囲まれている状態で血を与えられた事に躊躇いを捨てきれない様子だったが、やがて二人揃って顔を見合わせ、おずおずとシンの掌に顔を寄せて舌を伸ばして来る。
ぴちゃぴちゃという湿った音。せっかく戻って来た二人の理性は、最初の一嘗めで再び吹っ飛んでしまったらしい。やがて二人は遠慮も躊躇もかなぐり捨てて、夢中な様子でがっつき始めた。
「悪い。助かった」
指を掴んでグイグイと掌を引っ張って来る双子の様子を眺めながら、シンはティセリアに向かって声を掛ける。
「下らねぇ事に目が行って、変な所で足踏みしちまった」
「ううん。いいの」
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