刹那の休息⑥
○ ◎ ●
不安に思わなかったと言えば嘘になる。
記憶と違って傷一つ無い身体。どうやって撃退したか覚えていない雷獅子。分からない事、曖昧な事だらけで、安心出来る要素が何一つ無かったからだ。
怪我が無いにも関わらず、どういう訳が異様に身体が衰弱していた事も災いした。なまじ意識はハッキリしているものだから、ベッドの上に寝転がる事しか出来ないでいる間も思考ばかりがグルグル無駄に回転するのである。これが割と、生殺しにも近い感覚だった。
「――……すぅ……」
けれど、その間にも時間は流れる。今にも雷獅子やその仲間達が窓や扉を突き破ってこの部屋に飛び込んで来るんじゃないかという心配を抱きつつも、気が付けば今朝でもう三日目の朝を迎えていた。
「――……はぁー……」
開け放した窓。そこから入ってくる潮風。カーテンの裾をヒラヒラと揺らし、微かな音を立てている。それ以外には特に動くモノも無く、聞こえるのはやや大袈裟に繰り返しているシンの呼吸くらいのものである。
部屋の真ん中、木張りの床の上に敷物も敷かずに
「……」
潮風によって緩く掻き回される、さして広くない簡素な部屋の中。無駄な装飾など無いシンプルな造りのベットやテーブル、その他細々とした家具。使うモノの居な室内では
目を閉じていても、視える。耳を塞いでいたとしても、感じる事が出来るだろう。
部屋の中心に鎮座する自分。その自分の中心で渦巻いている"氣"の流れ。ザックリ説明すれば生体エネルギーとも言えるそれを、人体の中心"丹田"を基点として知覚し、干渉し、自在に使役すれば、ひ弱とされる人間も鳥獣に劣らぬ鋭い感覚を手に入れ、怪物にも引けを取らぬ身体能力を有する事が出来る。
”闘氣”、と雷獅子は言っていた。あの時、あの瞬間まで認識していなかったにも関わらず、この言葉は驚く程シンに馴染んだ。頭では思い出せなくても、身体にはしっかりと刻み込まれていたと言う事か。思えば修道院でエイプマンと戦っていた時に彼の大質量を真っ向から蹴り返す事が出来たのも、この”闘氣”をシンが無意識の内に練り上げ、身体の強化に使っていたからかも知れない。
何にせよ、使えるものは使わないと勿体無い。
そんな訳で、毎朝起きてからは暫くは、自身の内に渦巻く”闘氣”と向き合い、御する修練を積むのがシンの日課となっていた。特殊な座り方である結跏趺坐を初めとするこの鍛錬法は、”闘氣”の概念と共に自然と思い出していたものである。
「……」
無念。無想。
意識から一切合切を抜き取るのは最初は難しいから、先ずは一点に集中させる。具体的には自身の呼吸だ。吸って、吐いてと繰り返す呼吸を延々と注視していると、いつの間にかそれ以外のモノが消えている。次第に注視していた筈の呼吸ですらも薄れていって、その内、シンはその場に"在る"だけのものとなるのだ。
潮の匂い。カーテンの音。室内を漂う細かい埃が朝日に煌めき、扉をそっと開けて入ってきた二組の小さな足が床を微かに軋ませる。
ヒナギクと、ホタルだ。
部屋の中にそっと入ってきた二人は、部屋の中央に座るシンを少しの間眺めた後、それぞれシンの左右に座って真似を始めた。最初の頃は結跏趺坐が出来ず、単に胡座を掻いているだけだったのが、昨日からその座り方は半跏趺坐の形を成し始めた。小さな子供の適応力と言うか、成長の早さを目の当たりにしたようで、ちょっと驚いてしまったのは内緒の話である。
とは言え、彼女達は単にシンの真似をしているだけだ。”闘氣の鍛錬”という目的がある訳でも無し、ただ単に奇妙な座り方して無為な時間をしているだけに等しい。
正直、毎朝毎朝、飽きもせずに良くやるものだと思う。
「――……ただ音を立てて呼吸をすれば良いってもんじゃないぞ」
「!」
だからつい、口を開いてしまった。それはここ数日で初めての事で、ホタルは驚いたようにシンの横顔を見上げ、ヒナギクは微かに身動ぎをした。
「"今、息を吸ってるな"。"今、息を吐いてるな"。そんな感じで、自分の呼吸だけに意識を向けろ。それが出来たら、自然に雑念は抜けていくから」
「……!」
「……!!」
ビシリ、と背筋に緊張が通った音が聞こえるようだった。声を掛けられて気合いが入ったのか、二人とも目に見えて(目は閉じているが)肩に力が入っていた。
分からないなりに、二人は真剣だったのかもしれない。
とは言え、彼女達が真剣に取り組んで力めば力む程、本来の目的の状態からは遠く離れていく訳だから、難しいものである。
「……はは」
知らず知らずの内に、笑ってしまっていた。
どのみち彼女達が入って来た時点で、シンの鍛錬はお仕舞いなのだ。どうしても彼女達の様子に一定以上の意識を向けてしまう為、鍛錬にならないと言うのがその理由だ。
「無念無想の境地にゃ遠いな」
「……むね……?」
「俺の事だ。まだまだ修行が足りてねぇって事さ」
目を開く。
鍛錬終了の気配を感じ取ったらしく、ホタルはあっさりと目を開いていた。それに対して、ヒナギクはまだ目を閉じてシンの鍛錬の真似を続けたままだ。彼女はホタルに比べると、若干意地っ張りで負けず嫌いな部分がある。
けれどシンが立ち上がり、ホタルがそれに倣うと、流石に耐えきれなかったらしい。彼女はパチリと目を開けて、バネ仕掛けの人形の如くピョンと立ち上がった。置いて行かれるとでも思ったのだろうか。立ち上がるのとほぼ同時にスルスルと寄ってきて、シンの顔を見上げてくる。金と赤のオッドアイは、いつも通りの眠そうな半眼気味ながら、どこか非難の色があった。前には見せなかった表情である。ティセリア曰くそれこそ心の距離が近付いている証拠なのだと言うが、それが本当なのかシンには分からない。
取り敢えず、彼女の頭をグシャグシャと撫で付けておいた。若干強めの力でするのが彼女の好みだ。
「……ああ、腹減ったな。お前ら、飯は?」
「たべた! トーストと、めだまやきと、コンソメスープ! ニンジンもでたけどちゃんとたべたよ? ヒナも!」
「そうか」
"鬼の首を取ったように"と言うには些か無邪気過ぎる声で、ホタルが答える。ヒナギクが苦手なのは人参じゃなくてピーマンだが、わざわざ口を挟むのも藪蛇な気がしたので止めておいた。
「ティセリアやプリッシラに迷惑掛けていないだろうな? 後片付けは自分でやったか?」
「うん」
椅子の背に掛けてあった黒いシャツを手に取って身に付けた後、シンは軽く伸びをして肩を回し、長らく同じ姿勢で凝り固まった身体を解す。目を覚ましたのは一昨日の話だが、寝たきり生活を続けた直後特有の身体の重さは不思議と無い。寧ろ今までの中で最も調子が良いくらいで、雷獅子達に見つかる心配さえ無ければ外に出て身体を動かしたいくらいだった。
脇に退けていたブーツをキッチリと履き、テーブルに立て掛けていた倭刀を手に取れば準備は完了。扉に向けて踵を返せば、ちゃっかりベッドの上に腰掛けていたヒナギクとホタルが軽やかに飛び降りる音が追い掛けて来た。
「きょうも、おそとにでちゃダメなの?」
「ああ」
「あのおおきなミズタマリがしおからいってホント?」
「らしいぞ」
「でも、まぶしいのはニガテなの。ゆうがたとか、よるとかがいいかも」
「そうか」
廊下に出て、階段を下りる。それなりに年季の入った建物らしく、歩けばそれだけでギシギシと呻き声を上げてくる。一番下まで降りきれば、其処に広がっていたのは開店前の食堂の風景だった。
シンから見て真正面にある出入り口、その両脇にある窓際のボックス席が二つ。その左右の壁際に設置されたテーブル席が二つずつ。後は室内に大きく張り出したカウンター席のみの小さな食堂である。カウンター席は中央にスペースが空いており、その中を人が行き来出来るようになっている。
“
シンの警告を受けてティセリアが逃げ先に選んだのは、デルダンの中でも海辺の区画にある小さな食堂だった。"
従業員は居らず、店主がただ一人で切り盛りしている。
どうやら、その店主はちょうど店内の掃除に勤しんでいたらしい。そいつは顔を上げてシンの姿を認めると、屈託の無い笑顔と共に挨拶してきた。
「あら、シンちゃん。おはよ」
「お早うございます」
付け焼き刃の敬語なんぞを使うのは、その店主が恩人であるからだ。
初めて顔を合わせた時は多少面喰らったが、それだけだ。すぐに慣れた。
「相変わらず遅いお目覚めねぇ? 少しは双子ちゃん達を見習って、雑用でも手伝おうとは思わないの? 今時、亭主関白スタイルなんて迫害の対象よ?」
「……善処します」
「行動を伴わない言葉って綿よりも軽いのよねぇ。ヒナギクちゃん、ホタルちゃん、こういう大人になったらダメよ?」
「……シンはボクたちがおこすからヘイキだよ?」
「あら」
例えばティセリアや双子なんかとは種類の違う、少しザラついたように見える白い肌。長めの黒髪は項の辺りで団子状に纏められ、余った毛先が上方向に花開くように跳ねている。
シンと似たような体格なのに、何処か華奢な感じのする肩や腰。薄く紅が刺された口元は、淑女がするように当てられた手の甲によって隠されてしまっている。
ただ、人当たりの良さそうな柔和な笑顔と物腰の持ち主だが、その顔は見る者によっては衝撃を受けるだろう。両目の下を横断する縫い跡と、左目を縦断する縫い跡。交差する二つの傷跡が、強烈に自己主張をしているのだから。
「シンちゃんは幸せ者ねぇ。いい女を三人も侍らせて、全くいい御身分だわぁ」
「……俺は貴方を怒らせるような事でもしましたか?」
「あは、まさかぁ」
この店の白と黒の制服を身に纏い、床を拭いていたモップに体重を預けている“彼”こそが、この店の主である。
名前はプリッシラ。
生物学的には男だが、立ち振る舞いや雰囲気は女である。
「ちょっとからかっただけじゃない。全く、真面目なのよねぇ。いい加減その付け焼刃の敬語は何とかなさいな」
あはは、と面白がるように笑っているプリッシラは、言葉の内容こそ辛辣だが、声音は何処までも柔らかく、温かみがある。一連の嫌味も、恐らく本当に冗談だったのだろう。
深く取り合わない事にして、シンはカウンター席の適当な所に座った。ヒナギクとホタルが当然のようにその両隣を陣取り、プリッシラは掃除の手を止めて雑談の体勢に移った。
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