刹那の休息⑤ ~幕間 "その時、何が起こったか?"~
○ ◎ ●
メリア教、旧教典が語る所に拠れば、嘗て人間は神を見たと言う。
嘗ての人々は、神を忘れた。論理と合理、利益の大風が道徳を吹き飛ばし、信仰を風化させた。価値観が失われ、倫理観は損なわれ、"人間としての一線"などと言う言葉は嘲笑の対象となった。人間ではなく、頭が良いだけのケダモノに成り下がった者共は、実利の為に、快楽の為に、実に合理的に振る舞い始めた。
地上は、
東の果ての小さな弓の島を二つに割って、その穴から這い出してきた彼は、その口から呪いの言葉と共に黒い炎を吐き出した。その炎は水で消えず、人々が如何なる手段を用いても消す事が出来なかった。外壁を、建物を、街を、最後には国そのものを呑み込んで、黒い炎は何処までも燃え広がった。合理と実利を追及した技術の数々は、その炎に為す術も無く呑み込まれて焼け爛れ、融け落ちたという。
黒い炎。その主。人間を滅ぼす為に顕れた悪魔とも、堕落した地上を焼き尽くす為に降臨した神だとも言われている。
どちらにせよ、自分はそれをお伽噺だと思っていた。部屋に篭もってシコシコと妄想を綴るしか能の無い夢想家共が信じ込んだ、質の悪い作り話だと。
その時までは。
「――ここまでにしてくれないかな」
この世の終わりのような光景だった。
鬱蒼と繁った緑の木々は、その悉くが灰燼と化した。嘗てデルダンを護った天然の要塞と恐れられたという深い森の一帯に、灰が吹き荒ぶ黒い焦土の荒野が出来上がっていた。
渇いた風が、頬を
生存など赦さない暴力的なまでに理不尽な熱風が、無力なレオンハルトを嘲笑い、通り過ぎていく。
「私達は、貴方達を脅かしたい訳じゃない。ただ静かに暮らしたいだけ」
"爆心地"は、間違いなくアイツだ。
貧弱な東洋人、しかも並の
目の前の
「ただの人間みたいに、静かに、平凡に、暮らしたいだけなの」
透き通るような女の声が、耳朶を擽る。まるでそれ自体に熱を鎮める効果があるようなその声は、何処までも涼やかだ。
「だから、おねがい」
彼女は此方に背中を向けて、チラリと視線を寄越す事も無い。きっと、そんな余裕など無いからだろう。
その視線の先にあるのは、終末の光景の中心地。森の一帯を呑み込んで灼け焦げた更地に変えた大爆発の元凶であり、何をするでも無くボンヤリと突っ立っている真っ黒な人影。
神話に語られる、"黒き焔の主"。
見た事など無いのに、信じてすらいなかったのに、直ぐに分かった。アレがそうだと。
「もう私達には構わないで」
この女は何者だろう。
局地的な終末の最中、ただ一人難を逃れたレオンハルトはそんな事を考える。
風にうねる、白い陽光を編んだかのような色素の薄い金髪。その隙間から時折覗く、細い首筋、華奢な肩、白磁のような滑らかな肌。
赤と黒に塗り潰された終末の光景のその中で、白い燐光を纏っているようにすら見える彼女は何処までも異質だ。
ただ、何となく。
何処かで見たような気がするのは確かだった。
「お前、教会領の出か?」
「……」
返事は無い。聞き方を変えたとしても、そもそも答えてくれる気が無いのだろう。
だから、さっさと質問を変えた。
「俺を助けたのは、そっちの"お願い"の代価って事か?」
焦げた空、熔けた大地。
けれどその局地的な終末の光景の中に於いても更に一箇所だけ、元の森林地帯が残っている部分が在った。
湿った土。その表面を浸食する苔。背の低い雑草や棘の葉の茂み、まだ細く枝葉の柔らかい若木が一本。そしてその空間の中心に立つ例の女と、その後ろに庇われているレオンハルト。
具体的に、何が起こったのかは分からない。
けれど一つだけ確かなのは、この女が何らかの手段を用いて、黒い焔に呑まれそうになったレオンハルトを庇ったという事である。
「うん、そう」
「仮に断った場合は?」
「貴方は二度と、誰とも戦えなくなる」
悪びれもせず、そして何より罪悪感も無く、彼女はあっさりと言い放った。要するに、直ぐ様レオンハルトを自身の保護下から外して見殺しにするという意味だろう。けれどその酷薄な響きより、此方の事を理解しているような言い種に、レオンハルトは度肝を抜かれた。
「お前――」
「どうせまだ団長さんにも勝ててないんでしょう?」
「――!?」
間違い無い。コイツは俺の事を知っている。
問い質そうと口を開いた矢先、女が不意にレオンハルトの方を振り返った。
「もういいや。そもそも交渉させてあげる義理も無い訳だし」
謎めいた
「どっか遠い所にぶっ飛ばすね。ああ、それから勿論、今の記憶も貰うよ。二度と私達の前に現れないように」
「"征伐軍"、の連中は、どうする?」
抑え付けてくる不可視の力に抵抗し、口を開く。言い返されるとは思っていなかったのか、仮面でも被っているかのような無表情が、微かに驚いたような色を含む。
「俺を、失えば、アイツら、もう制御が効かねぇぞ……!」
「……」
思案するように、女は微かに首を傾げる。これは交渉の余地があるかと更に言葉を紡ごうとしたが、
「うそ」
女の決断は早かった。
「貴方、集団を纏めるタイプじゃないでしょう。貴方が居ようと居まいと、彼等の横暴は変わらない。寧ろ貴方が居ない方が、厄介な強敵の居ない完全な雑魚の集団になる。違う?」
「……! 待っ――」
「バイバイ」
童女めいた悪戯っぽい笑みが、彼女の顔に咲くのを見た。
その笑顔が、急速に遠退いていく。熔け落ちた大地、黒く焦げた空、その中にただ一握り残された森の緑の名残り。森の一帯を焼け野原にした"刃風"だったモノと、その焔からレオンハルトを庇った白い女。全てが急速に遠ざかり、もう見えない。レオンハルトの周りはぐにゃぐにゃと蠢く空間が渦巻くばかりで、上下感覚も時間感覚もハッキリしない。あの女は"ぶっ飛ばす"とは言っていたが、"空間転移"と言った方が正しいのかも知れない。
一切にレオンハルトの意思が介入する余地は無く、理不尽に、無慈悲に、レオンハルトの処遇は決められてしまった。
「――は」
思わず、笑ってしまった。
頭の中では、白い女と黒い人影、嘗て刃風と呼ばれた憧れの同僚、その他細々とした記憶が蒸発するように消えていこうとしていた。
上下感覚も時間感覚も定かでない空間の中、レオンハルトは消え行こうとしている記憶達の首根っこに噛み付くように歯を喰い縛る。得体の知れない力に持っていかれようとする記憶達を、全力で押し留める。
(甘ぇんだよ、女……!)
レオンハルトはあの女に覚えなど無いが、あの女はレオンハルトの事を知っているらしい。
だとしたら、嗚呼、残念ながらあの女は致命的なミスを犯した。レオンハルトは舐められるのが嫌いだし、借りは絶対に忘れない。何より、喧嘩するに足る強い奴が大好きだ。あんな美味そうな連中の事を、忘れるなんて絶対にゴメンだ。本当にレオンハルトを潰しておきたかったのなら、奪うのは記憶ではなく命にするべきだったのだ。酷薄な表情、無感情な雰囲気など演技には随分と熱が入れていたようだが、いざと言う時にすら命を奪えないようではまだまだ甘ちゃんだ。
(待ってろ……!)
歯を喰い縛った口の端が、吊り上がる。
情け容赦無く取り上げられようとする記憶を押し留め、奪い合いになり、ボロボロになっていく記憶達が絶叫する。脳に負荷が掛かったレオンハルトの全身からは冷や汗が噴き出していたが、それでもレオンハルトは楽しげに、愉しげに、笑っていた。
(俺は絶対、戻って来るぞ……!)
――人間を舐めるなよ。
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