見知らぬ天井⑩
「選べ」
耳障りな金切り声は軽く流して、首を踏みつける足に少しだけ体重を掛ける。どうにも鈍いようにしか見えない相手だが、自身の危機にはそれなりに敏感なようだ。声一つ立てない代わりに、ほんの少しだけ身体を硬直させるのが分かった。
正直、この展開は非常に助かる。シンには元々、こんな巨体の持ち主に対する勝算なんて無かったのだ。偶々、身体が勝手に動いてくれたから良かったようなものの、これ以上戦闘が長引けば、その幸運もネタ切れになる可能性は十分にある。
「あそこの五月蝿い豚を連れて帰るんなら、見逃してやる。嫌なら交渉は決裂だ。俺は今すぐお前の首を踏み砕いてやる」
「貴様、黙って言わせておけば! エイプマン、起きろ! 貴様の主はこの私だぞ!? エイプマン……ッ!!」
本当に出来るか否かはともかくとして、シンの脅しはそれなりに効いているようだった。
エイプマンは声一つ立てないし、指先一つ動かさない。頭の回転はあまり速いようには見えなかったが、もしかしたらそう見えるだけで、あの分厚いゴーグルの内側では色々と考えているのかも知れない。
「さぁ、どっちだ?」
此処で決着か。それとも戦闘続行か。
内心では半ば祈るような気持ちになりながらも、そんな素振りをおくびにも出さないよう気を付けながら、シンは再度言葉を紡いだ。
「とっとと決めろ」
「わんぱく」
「悪かったな」
今夜の月は随分と明るい。修道院から遠ざかっていく大男と、それに抱えられている肥え太った中年男の姿も良く見える。せいぜい気を付けるべきは足下くらいで、流石に其処まで面倒見る義理はシンには無い。
半分開いた聖堂の扉にもたれかかり、招かれざる客達をシンが見送っていると、不意に背後から誰かが近付いて来た。
言うまでもなく、ティセリアだった。
「聖堂をボロボロにしちまったのは、悪かった。直せるとこは責任持って直す」
「そうじゃなくて」
聖堂をボロボロにしたからかと思い、先手を打って謝ってみたのだが、どうやら理由はそれではないみたいだった。
「無理はしないでって言ったのに。病気も怪我も、病み上がりが一番肝心なんだぜー?」
ティセリアの声は、どんな時でも穏やかだ。
けれど、どうしてだろう。さっきのダイニングの時もそうだったが、彼女からは時々妙に圧を感じる時があって、そういう時、シンは問答無用で緊張してしまう。正直、エイプマンと戦っていた時の方がまだ気楽だったくらいだ。
「……無理なんかしてないさ。やれると思ったからやった。それに最後はちゃんと話し合いで解決したろ? あのデカいのが思ったより素直な奴で助かった」
「んー……私の知ってる話し合いとは、ちょっと違う気がするけど……」
言い掛けて、結局ティセリアはそれ以上追及するのは止めたらしかった。仕切り直すように小さく息を吐いて間を置くと、それからふっと声の端に笑みの気配を滲ませる。
「いや、違う。違うね。シンには先ず、ありがとう、だ」
「……たまたま上手くいっただけだ」
「そう? でも、助けられちゃった。格好良かったよ」
「……」
ティセリアはシンの後ろに居るので、シンからは彼女の表情を見る事は出来ない。同時にそれはティセリアからもシンの表情を見る事は出来ないと言う事で、今のシンにとってはそれがとても有り難い。
“格好良かった”とか。“格好良かった”とか!
なんでそんな言葉を、この女はストレートに言えるのか。
飾りも前置きも無い賞賛が、こんなに破壊力を持つだなんて知らなかった。しかもティセリアみたいな美人に言って貰えたのだから、嬉しさも割り増しだ。
我ながら、単純な男である。
「……あ、あの人ね。
「世も末だな」
「なんか、最近になって急にこの修道院が欲しくなったらしくて、度々来るの。今日みたいな事は、初めてだったけど……」
「その辺の話は、さっき立ち聞きしちまった。悪い」
「いや、いいよ。この話はまぁ、機会があったら」
態度や話し方から察するに、ティセリアはあの司教の本当の目的に気付いていないのではないか、と思うシンだった。が、それを問い質すのもシンの立場的にどうかと思ったし、何よりこの話は今ティセリア本人が切ってきた。それなら、シンがわざわざ蒸し返すのは無粋というものだろう。
だからシンは、話題を変える事にした。ほんの少し躊躇って、けれどやっぱり、頭の隅に引っ掛かっていた話題を口にする。
「……アイツらは?」
ダイニングに残してきた双子の事である。言ってしまってから、主語を端折ってしまった事に気が付いたが、幸いティセリアには伝わったようだった。
「平気。二人して聖堂に行こうとするから、止めるのが大変だったけど」
「は?」
「私がダイニングに戻った時に、丁度二人ともダイニングから出て来る所でね。凄い音が聞こえて、シンがそこに残った事を聞いたら、二人とも血相を変えて」
「……」
こういう時、どういう顔をすればいいのだろう。何を言えば良いのだろう。
シンには分からなくて、だから何も言えずに黙り込んでしまう。もしかしたらティセリアも、何かに気付いて居るのかも知れなかった。シンが双子をあれだけ泣かせてしまったにも関わらず、ティセリアがその跡に気付かない訳が無いのだ。
「――……すまない」
「どういたしまして~」
いつもよりも更に柔らかく、気軽な返事を残して、背後のティセリアの気配はその場からすいっと離れていった。どうしたのかと視線を巡らせ、シンが彼女の方に目を遣ると、彼女もそれに合わせるようにシンの方を振り返っている所だった。
「シチュー、いつでも温めるから」
一緒に食べよう、とも、戻って来いとも言わない。
強制する言葉を言われないのは有り難くて、同時に情けなくもあって、シンは思わず瞑目する。
「ああ」
再びティセリアの気配が動き出し、やがてその足音は聞こえなくなった。
再び目を開け、聖堂の中を見る。誰も居らず、大部分の長椅子が粉々に破壊されてしまった聖堂の中は、ガランとしていて何処か物寂しかった。
「……」
静寂の中、思い出すのは泣かせてしまった双子の事。そして、今目の前の惨状を作り出す原因となった、さっきの戦いの事だ。
双子の事を思い出せないのが原因で、シンは彼女達を泣かせてしまった。双子の事だけじゃない。自分の素性も、過去も、本当の名前ですらも、シンは全く思い出す事が出来ない。話によれば、シンは子供を連れて、血塗れになって森の奥に倒れていたのだと言う。明らかに異常な状況であったにも関わらず、シンはその事を覚えていないのだ。
それなのに、さっきの戦いでは人の身体は勝手に動いた。己の過去に関しては全く何も思い出せないのに、身体に刻まれた感覚だけは雄弁だ。話によれば、シンは子供を連れて、血塗れになって森の奥に倒れていたのだと言う。血塗れだった自分は、恐らく何かと戦った後だったのではないか。少なくとも今夜の出来事は、シンにそれが出来る事を示唆してくれた。
「……俺は――」
どんな経緯があって二人の子供を連れ歩き。
どんな目的があって、どんな相手と戦ったのか。
分からない。思い出せない。
「俺は、誰だ……?」
小さく呟いた問い掛けに、答える者は無い。
夜風は素知らぬ顔をして木の葉をくすぐり、木の葉はさざめくように笑い声を上げる。あちこちの茂みで虫は歌い、月は黒い水面のような夜空をゆっくりと渡っていく。
シンにとっては重大な問い掛けも、世界からすれば取るに足らない小さな問題のようで。
結局答えを得られないシンを放ったまま、夜はゆっくりと更けていくのであった。
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