見知らぬ天井⑧
○ ◎ ●
聖堂の中は暗かった。
居住区画と違って、此方には電気が来ていないのだろうか。電気による灯りは無く、代わりに壁際で等間隔に並んでいる燭台の火がユラユラと頼り無く揺れていた。
幻想的と言えば幻想的なのかもしれないが、シンからすれば蝋燭の無駄使いなような気がしないでもない。電灯に照らされる修道院というのも確かに格好が付かない気がするが、そもそも誰も居ない空間に沢山の蝋燭を使うというのはどうなのか。
ティセリアが言うには、夜に誰かが来た時の為に慌てなくても済むように、予め火を灯しているらしいのだが……――
(……初めて見たけどな。こんな時間に来る物好きな奴)
聖堂の中には踏み込まないまま、シンは先ず、扉越しに聖堂の中の様子をザッと見回した。
ティセリアの姿は直ぐに見つかった。外へ繋がる大扉の前で、どうやら誰かと話をしているらしい。
気になったのは、その相手の声が妙に大きいという事だった。この修道院があまり大きくないという事もあるが、端から端までの距離が空いている此処からでも、“彼”の声はハッキリと聞こえて来るのだ。
(穏やかじゃないな)
此処からではティセリアの声は聞こえず、状況が良く分からない。部外者の自分が徒に首を突っ込むのもどうかと言う気はしたが、会話の内容が気になるのも事実だった。
或いは、何でも良かったのかも知れない。脳裏にこびり付いている双子の啜り泣きを忘れさせてくれそうなものなら、なんでも。
「……」
取り敢えず、シンは会話の内容を把握してみる事にした。
気配を殺して聖堂に入り、現場に接近。闇の中に溶け込むように、ティセリアから少し距離を置いた場所にひっそりと立つ。
「──口答えを!」
いきなり穏やかじゃなかった。
聖堂の中に反響するような怒声が響き渡ったのは、シンが移動を終えた直後の事だった。
「まだ分からないのか!! 黙って聞いていれば聞くに耐えない言い訳ばかり吐かしおって!! 恥を知れ、恥を!!」
「えっと……」
ティセリアが持っている、蝋燭の光。その中に浮かび上がっているのは、丸々と太った脂ぎった中年男の姿だった。弛んだ頬や顎が喚き散らす度にブルブルと震え、汗が滲んでいる肌は蝋燭の光を反射してヌラヌラと光っている。贅肉を蓄えた身体を豪奢な法衣ですっぽりと覆い、低い身長を補うかのように背の高い帽子を被っている。
初対面の人間に対して失礼かもしれないが、人間と言うよりはボールの方が近いような印象を受けた。もしも彼を思い切り突き飛ばしたなら、そのまま転がって行ってしまいそうだ。
「何度も言わせるな! この修道院は我々メリア教が管理していたものだ! 貴様のような何処の馬の骨とも知れない女が、勝手に住み着いていい所ではないわ!」
「でも、此処は元々シスター・マーサーが管理していた筈ですよ? 確かに一時的な代理ですけど、私が管理者の立場に居られるようきちんと手続きしてくれた筈ですが……」
「知ったような口を叩くな! 私はそのシスター・マーサーよりも上の立場の人間だぞ! その私に刃向かうと言うのか!?」
「でも、シスターの前では確か司教様もそのように認めて下さって……」
「煩い!! 黙れッ!!」
まるで臭い物に蓋をするような、そんなタイミングの怒声である。
思わず顔を顰めてしまったシンの前で、恐る恐る反論していたティセリアも驚いたように口を閉ざしてしまう。
長い会話ではなかったが、それでも内容は大体把握出来た。
要は、この修道院の管理権限を巡る問題らしい。元々は“シスター・マーサー”なる人物が管理していたこの修道院に、この男が執着しているのだ。
ティセリアとしては困った話なのだろう。それに加えて、相手は少々面倒な相手だと見える。自分に都合の悪い事を言われたら即座に「煩い」「黙れ」と返すのだから、最早マトモな会話にもなっていない。仮にシンがティセリアの立場だったら、とっくに説得を諦めているだろう。
が、それでもティセリアは、まだ話し合うつもりのようだった。
お人好しめと胸中で呟きながら、シンもまたその内容に耳を傾ける事にする。
「それじゃあ、私は一体どうすればいいんですか?」
「決まっている。即刻此処から出て行って貰おう。此処は我々、教会のものだ」
「……」
きっと、ティセリアは困ったように笑ったに違いない。実際に見た訳じゃないが、彼女のそんな反応は何となくシンにも想像出来た。
そして、その反応が相手は気に入らなかったのだろう。直後、半開きの扉に、拳が叩きつけられる音が響き渡った。
「何がおかしい!?」
その剣幕に気圧されたのか、ティセリアは口を噤んでしまう。聖堂の中は、水を打ったように静まり返った。
「──……勘違いするなよ。私はお願いしているのではない。命令しているのだ」
男の声が、激昂したような怒声から一転して抑えつけたような唸り声に変化した。同時に彼は一歩前へと踏み出して、ティセリアとの距離を然り気無く詰める。
「その気になれば、貴様を力尽くで追い出す事だって出来るのだぞ? もう少し、身の程を弁えて貰おうか」
手を伸ばせば届く距離。男の身体は横には広いが縦の長さには乏しいので、自然にティセリアを見上げる形となっている。
何だか滑稽な光景だ。まるで分不相応な権力を手に入れた子供が、精一杯背伸びして大人を見下そうとしているかのような。
「……ふん」
知らず知らずの内に、シンは喰い縛った歯の隙間から小さく息を漏らしていた。誰だか知らないが、物言いと言い、態度と言い、不愉快だ。権利者だか権力者だか知らないが、もう少し言い方ってものがあるだろうに。
あの男にはあの男なりの言い分があるのかも知れないが、聞いた限りでは彼が筋の通っていない駄々を捏ねているだけの話だ。シンは部外者かも知れないが、可能ならティセリアの肩を持ちたい。実際、そのような事になれば、間違い無くその選択をするだろう。
とは言え、ここでシンが出て行った所で、話が拗れるだけだ。そうなればきっと、ティセリアにも迷惑が掛かる。
我慢。我慢だ。ティセリアがこの場をどうやって切り抜けるのか、お手並み拝見と行こうじゃないか。
……必死に自身に言い聞かせた考えが、呆気無く木っ端微塵に吹き飛んだのは、まさにその直後の事だった。
「──但し、私も鬼ではない。寛容もまた、神の教えだ」
ローブの袖に覆われていた男の手が動き、何気無く、本当に何気無くティセリアの腰のくびれに置かれた。その指に嵌められたきらびやかな指輪が、月明かりや聖堂の燭台の光を貪欲に反射してギラギラと光る。
流石のティセリアもこれには本気で驚いたのだろう。あまりペースの崩れない彼女の声に、あからさまに困惑が滲んだ。
「あの、司教様……?」
「条件。条件によっては、貴様を私の所に置いてやろうではないか」
ティセリアの言葉は聞いていないらしい。男は片手だけでは飽きたらず、もう片方の手も彼女の腰に置く。否、捕まえる。
ゴテゴテと煌びやかな装飾の多い両手は、ティセリアの華奢な腰をしっかり掴んで離さなかった。
「あの……」
「貴様、私の下に来い。 聞けば近隣の者に聖堂を開放し、懺悔の真似事をしているらしいではないか」
はぁ、と息を漏らす音。
言うまでもなく男のものであるそれはねっとりと荒く、人というよりは獣のそれに近いように思えた。
その視線も、一カ所に定まっていない。
僅かな光の下でも尚白い首筋に、キラキラと輝く金髪。ほっそりとしていて艶やかな曲線を描いている腰のくびれや、衣服を大きく盛り上げている豊かな胸。
ティセリアの身体全体を、男はまるで舐めるようなねっとりとした目付きで見回していた。
「私の下で学ぶがいいぞ、ティセリア。なに、悪いようにはしない。最高の環境を提供すると約束しよう」
「えと、司教様……? その、痛い、です……」
ああ、そういう事か。
妙に納得した気分になり、シンは思わず口の端を吊り上げ、嗤った。
わざわざこんな時間に訪ねて来たのも、極端にティセリアを追い詰めるような発言を重ねるのも、そう考えれば全て辻褄が合う。
この司教とやらが執着しているのは修道院でも、ティセリアという修道女モドキでもない。
ティセリアという、“女”だ。
「……」
“メリア教”とやらがどれだけ立派な教えを説いているのかも、それ以前に具体的にどういう組織なのかもシンは知らない。覚えていない。
けれどたった今、一つだけ分かった事がある。
この男は、豚だ。
「胸糞悪ぃ」
気が付けば、シンは沈み込んでいた闇の中から勢い良く飛び出していた。
背後からティセリアの脇をすり抜けて前に出て、同時に男の豪奢な襟首を片手で捕まえながら、その身体を半開きの聖堂の扉に押し付ける。否、叩き付ける。
「わ」
「ぐぇッ!?」
あまり緊張感の感じられないティスの声。潰れた瞬間の蛙のような男の悲鳴。
男が叩き付けられた衝撃で扉が限界まで開き、壁に叩き付けられて鈍い音を立てる。押し付けるものが無くなり、シンは一本の腕で男の体重を支えなくてはならなくなったが、それは気にしない。気にならない。
脂ぎった肌はヌメヌメしていて掴み辛かったが、余り気味な肉を無理矢理掴んでカバーする。確実に気道は塞がっているだろうが、知った事か。
「ぐぉえ、がッ……!!」
「五月蠅ぇ」
司教の身体は、存外軽い。事態を把握した彼がジタバタと暴れ出しても、せいぜい多少の負担を覚える程度だ。
「なんッ、キサ……ッ!? はな、せ……ッ!?」
「やかましい」
男の言葉に適当に返しつつ、取り敢えずシンは背後を振り返ってティセリアに目配せをした。離れて欲しいと合図を送ったつもりだったのだが、どうやら彼女は状況が飲み込めていないらしい。オロオロした様子でシンの背後から動かなかった。
やり辛い。
「無礼な……ッ、私が誰だか知っての狼藉かッ!? この手を放せ、天罰が下るぞ……ッ!」
「天罰だァ?」
自身の声を聞きながら、シンは、自分がかつて無い程に腹を立てている事を自覚していた。
そもそもシンに、こんな風に首を突っ込むような権利は無い筈だ。シンは只の居候で、ティセリアは恩人だ。その恩に報いる事のは当たり前だが、頼まれてもないのに個人の問題に首を突っ込むのは、また問題が違う。
そんな事は分かっている。
分かっているのだが。
何時からかは分からない。直接的な原因が何処にあったのかも分からない。
ただ、シンは腹を立てていた。それも、猛烈に腹を立てていた。
「――……いいか、よく聞け」
首を絞める指の力を僅かに強めて、シンは声を低める。
少なくとも覚えている限りではこんな事をするのは初めての筈なのに、声の出し方にも、首を絞める力加減にも、不思議と困る事は無かった。
「──今後、もしこの女の前に現れたら殺す。この修道院周辺に現れたと聞いても殺す。この女の名前を口にしても、この女でいかがわしい想像をしても殺す」
一応は、脅しだ。少なくとも、シン自身はそのつもりだった。
だが、本当にそうなのだろうか。妙にスラスラ湧いて出て来る自身の言葉には、自分でも分かるくらいに過剰な殺意が込められている。
胸の内をグルグルと渦巻く、この黒く燃え盛るような感情は何だろう。「殺す」という殺意の宣告を何度も何度も紡がせる、この凶暴な衝動は何だろう。
「お前がどんな小細工を弄しようと、何処の誰を味方に付けようと、そんな事は関係無ぇ。次会ったら俺はお前を殺す。それが嫌なら二度とこの修道院に近付くな。分かったか?」
「……ふざ、けるな……ッ」
「分かった、な?」
欲しいのは素直な返事だけだ。「黙れ」という意味合いを込めて、シンは司教の首を締める力を強める。
いよいよ気管を締め上げられて、満足に息も出来なくなったのだろう。司教の身体がビクンと跳ねて硬直し、直後にジタバタと狂ったように暴れ出す。
本気で殺されると思ったのか、その顔には恐怖の色が色濃く浮き上がっていた。ついさっきまで天罰がどうとか抜かしていたあの威勢は、もう何処にも見当たらない。
「──選べ」
短く吐き捨てる。
「此処から失せるなら俺の手首を一回、首の骨をへし折られたいなら二回叩け」
「は、ぐ……ッ、あ……ッ」
「どっちだ?」
「か……ッ」
司教は答えない。従う様子も見せず、シンの手首を両手で掴み、気道を確保しようとするばかりだ。
まさか、ティセリアの前で死人を出す訳にもいかない。一先ず呼吸をさせてやるべく、僅かに手の力を緩めてやる。
それが間違いだった。
「──エイプマン!!」
直後、聖堂内に響き渡る、掠れた金切り声。
驚いたシンは一瞬思考を停止させてしまい、その空白は司教に更にに時間を与える形となった。
「何をしている!? さっさと私を助けんかッ!!」
とんでもなく大きな質量が落ちて来たのは、直後の事だった。
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