見知らぬ天井④
○ ◎ ●
とは言え、シンに出来る事と言えば薪割りくらいのものだったが。
暖炉やストーブに使うには時期外れだが、何しろこの修道院は随分と古い時代に建てられたものらしい。現代に住むに至って多少の改装は施されてはいるものの、薪を始めとする燃料は必需品という訳である。
そんなに深い所ではないし、すぐ近くには街もあるとは言え、ティセリアもこんな鬱蒼とした森の中によくまぁ住もうと思ったものだ。
「……ふー」
もう何個目になるか分からない薪を唐竹割りにしてやった所で、シンは一息吐く事にした。
作業台代わりの切り株に斧の刃を突き立て、背筋を正して伸びをする。未だ包帯が取れない身体がギチギチと音を立てるが、痛みや不快感は殆ど感じなかったので良しとしておく。
ゴキリと首を鳴らして空を見上げれば、からりと晴れた気持ちの良い蒼天が目に染みた。突き進めば何処までも行けそうな空をボンヤリと眺め、大きく深呼吸を一つ。視界の先、遥か高くを舞っている
「……静かだな」
世界で最も広大な面積を持つローラシア大陸。
真ん中を縦断する大山脈
王国『フレイガルド』は
──らしい。
ティセリアからざっと教えられて一応は概要を把握したものの、飽くまでも教えられた知識を得たといった感じで、シン自身の記憶が蘇ったという感覚は無い。更に言えば知識と言ってもフワフワしていて頼り無い、非常に曖昧な形として仕上がっている。「地理の勉強とか、あまり興味が無かったんだね」とティセリアからは呆れた顔をされてしまったが、シンに言わせれば目で見て肌で感じた事も無いモノを実感して体得しろと言う事の方が不可解だ。
例えば、今シンが立っている場所。深い深い森林と、その中にひっそりと建っている修道院。これは今まさにシン自身が身を置いている環境だから、大して苦労も無く覚える事が出来た。
ネメアの森。開発やら何やらで現在は昔に比べて大分縮小されているものの、それでも未だに広大な面積を誇っている天然の“城壁”である。ティセリアの修道院はとある都市から伸びる国道のすぐ近くにあり、森の中心部からは多少離れているものの、それでも修道院から少し離れれば、そこはもう人間の領域ではないと主張するかのように野生動物の姿をあちこちに見掛ける事が出来る。
そんな鬱蒼とした森の中の修道院なんて、訪ねてくる人間がいるのかどうかシンには疑問だった。聞く所によれば、今現在修道院を管理しているティセリアは修道女ですらなく、実質建物を管理しているだけなのだそうだ。修道院が本来何をする所なのかシンは知らないし、興味も無かったが、そんな名前ばかりの場所に“敬虔な信者”とやらは来ないのではないかと思っていたのである。
だが、実態は意外とそうでもないらしい。実際、毎日毎日複数の人間が修道院に訪ねて来る事をシンは知っている。ティセリア曰く、「遊びに来ている」らしい彼等は日によって顔もバラバラだったが、中には毎日顔を見るような、
「──おお、いたいた。よぅ、若いの。病み上がりのクセに精が出るなァ?」
不意に、声が聞こえた。
挨拶も抜きでいきなりそんな風に話し掛けて来たその声の主も、
「爺さんこそ。農場サボって毎日毎日御苦労なこったな」
「別嬪さんに会う為なら、オイラァ毎日どんな所だって行くぜィ。ヒ、ヒ、ヒ」
小柄な老人である。腰は曲がっていて手足も節くれ立っているものの、杖は突いていないし声や呼吸にも乱れは無い。
修道院から最も近い都市に住んでいるという、
毎日顔を合わせる割に、お互いに名乗っていないからシンは彼の名前を知らないし、彼もシンの名前は知らない筈だ。ただ、それにしては随分と親密な部類に入るのではないかと、シンは個人的に思っている。何しろ彼は毎日この修道院にやって来ては、必ずシンと何かしらの話をしていくのだから。最初の頃は可能な限り頑張って喋っていた敬語も、何時の間にか消えて無くなっている有様だった。
「
「ひ、ひ。なぁに、そこの角に居た、小さな別嬪さん達にも挨拶しようとしたんだよ。……二人共、オイラに気付いた途端に逃げちまったがねぇ」
「あー……」
例の双子、ヒナギクとホタルの事だろう。そう言えばさっきから感じていた二人の気配が、何時の間にか消えている。シンが知っている限りでは、彼女達が気を許しているのはティセリアだけだ。シンも含めて、それ以外の者とは話すどころか近寄ろうとすらしない。
「どうだぃ? ちったぁあの二人とは仲良くなれたかい?」
「いや」
「ふふん。まぁ、その内慣れるだろうよ。慣れたら
「そんなもんかね」
到底信じられない事を言う翁の言葉を話半分に聞き流しながら、シンは切り株に突き立っていた斧を手に取り、薪割りを再開する。
切り株の上に新たな薪を用意。斧の柄の先端に左手の小指を強く巻き付けるようにして握り、右手を柄の適当な位置に添えて安定させる。切り株の上に直立している薪を目視してから無造作に振り上げ、軽く息を吸い――
「ひゅ……ッ!」
――……軽快な音を立てて薪が真っ二つに割れたのは、次の瞬間の事だった。
「いやぁ、お見事」
一拍遅れて、翁が鷹揚に掌を叩く。
たかだか薪を一つ割っただけなのに、そんな風にしてまで賞賛されると、何だかからかわれているかのようだ。
手を止めずに次の薪を切り株の上に立てながら、シンは改善は余り期待せずに抗議する。
「からかうなよ」
「いやいや、からかってなんかねぇさ。何せ、
「そんな大層な話でもないだろ」
「まさか。そんな芸当が出来るのは、得物の振り方を知ってる奴だけさ。ただ馬鹿力ってなだけじゃ、そうはならねぇ」
「……あー……」
得物だなんだと言われても、シンが振るっているのは只の薪割り用の斧だ。凶器に成り得る事は間違い無いが、ただそれを使っている所を見られて「得物の使い方が分かっている」だなんて言われても、いまいちピンと来ない。何しろシンがやっているのは、斧を振り上げて、振り下ろす、ただそれだけの事なのだから。
そんな訳で、シンは翁の言葉に対して曖昧な返事を返す事しか出来なかった。そして翁はそんなその反応が不服だったのか、いきなりテクテクと歩いて距離を詰めて来ると、驚いて斧を下ろしたシンのの握り拳を軽く叩いて来る。
「この握り。ブレない腰から上の上半身。敢えて振り切らず、途中で刃を止める手法」
掌から上腕、それからもう片方の手で斧の柄を軽く叩いていき、翁はシンの顔を見上げて人懐っこい笑みを浮かべた。彼はシンよりも遙かに背が低い。せいぜい、一四〇センチ程しかないだろう。近付かれれば必然的にシンは彼を見下ろす形になるのだが、シンはその時、人懐っこい笑みを浮かべる翁から得体の知れない迫力のようなものを感じた。
「間違い無いさね。
「……は?」
とは言え、翁の妙な迫力に気圧されていたシンの意識にも、その物騒な単語はしっかり届いた。
“人斬り”。
何と言うべきか、ただ薪割りをしているだけの男を捕まえて言う台詞にしては、余りにも大袈裟ではないだろうか。と言うか、もっと言えば単純に失礼だ。
もしかしたら、シンは怒っても良かったのかもしれない。が、吐いた言葉とは裏腹に余りにもあっけらかんとした翁の笑顔には悪気と言うモノがまるで見当たらなくて、怒ろうにも毒気を抜かれてしまう。
「人斬り」
「おぅ、人斬りだ」
何かの間違いかである事を期待して一応聞き返してみたが、翁は人懐っこい笑顔を浮かべたまま無慈悲に返してくる。
「だが、薄々感じてはいたんじゃないかぃ? まさかこの傷が、お遊びで付いたものたァ思ってないだろう? これも、ほら、これもだ」
半袖から飛び出しているシンの腕。それに刻まれている様々な古傷を無遠慮に指し示しながら、翁はニコニコと笑顔を崩さずに付け加える。
古傷。そう、古傷だ。ティセリアに手当して貰った新しいものとはまた違う、古い痕の跡達。
斬られた跡。刺された跡。中にはどうやって付けられたのかも分からない、ささくれ立った傷跡なんかもある。腕だけではなく、肩や胸、腹や背中など、シンの全身に刻まれているそれらは、どれもこれもが「普通の生活」の中では感じられない異質な空気を漂わせている。
──『人斬り』。
そう評した翁の言葉はもしかしたら、当たらずも遠からず、なのかもしれない。
「今朝、ティスにも似たような事を言われたよ」
「ほっほぅ。あの
「騎士だったんじゃないか、とか。確か、“きょーかいりょーのせいきし”だったんじゃないか、とか言っていたな」
「はっはっは!」
笑い飛ばされた。
「教会領の聖騎士サマか。成程なァ。人じゃなくて化け物を斬ってたって訳かィ。案外いい線行ってるかもなァ」
「……ん……?」
但しそれは、完全にシンの予想外な方向に、だったが。
「すまん。その反応は予想外なんだが……」
いい線ってどういう意味だ。的外れだったから笑ったんじゃないのか。
そして今サラリと呟かれたが、“化け物”って一体何の事だ。
記憶を無くして、ただでさえ分からない事だらけなのに、こうも新情報を次から次へと増やされては堪らない。せめて気になった単語はこの場で意味を教えて貰うべく、シンは急いで翁に待ったを掛けようとする。
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