見知らぬ天井⑤

「──ああ、そうそう。教会と言えば」


 が。


 翁はそんなシンの様子にはお構い無しに、さっさと話を進めてしまった。


「そろそろ、中央セントラルの方から本職の奴がやって来る頃だぁな。あんちゃん、あのの傍に居てやんなよ?」


「……せんとらる? 本職?」


「んじゃぁ、オイラはそろそろ行くぜィ」


「あ、おい!」


 まともに呼び止める時間すら与えてくれない。言うだけ言えば後は満足したとばかりに、翁はするりとシンから離れ、そのままヒョコヒョコと軽快な足取りで歩いていってしまった。シンはと言えば、言い残された言葉の意味を何一つマトモに理解する事が出来ず、ただただ呆然とその場に立ち尽くす他無かった。


「……行っちまった」


 いきなり現われて、一方的に爪痕を残して、気紛れに去って行く。“嵐のような”とは、まさにああいうのを言うのだろう。


 翁が消えた建物の角を暫く眺めていたシンだったが、やがて胸中の困惑を吐き出すのも兼ねて大きな息を一つ吐いた。残念ながら困惑を本当に吐き出す事は叶わなかったが、それでも気持ちの切り替えくらいにはなった……ように思える。


「人斬り、ねぇ……」


 斧の柄を握った自らの右腕を、シンは改めて見下ろした。


 翁にも指摘された沢山の古傷達。ティセリアは特に何も言及しなかったし、シンもあまり深く考えた事は無かった。或いは、考えないようにしていたのかもしれない。これらの傷跡は、この修道院ののんびりした生活の中では、明らかに異質なモノだからだ。シンが本当に人斬りであるかはさておいて、少なくとも記憶を失う前のシンは、斬られたり抉られたりしていたのは間違い無いようだ。全く穏やかじゃない。


 だが、そこに過去のシンの手掛かりがあるのは間違い無いだろう。薮蛇を突くようで気が乗らないのもまた事実だったが、せっかく翁によって事実を突き付けられたのだ。此処は一つ、今まで見ないようにしていた方面から、自身の過去を探ってみた方が良いのかも知れない。


「……」


 さて、先ずは何から始めるべきだろうか。自身が握る斧の刃が陽光を反射して鈍く輝くのを眺めながら、シンはそんな事を考える。 

 

 翁が指摘してきたのは、斧の握り方やその振るい方だった。何となく、この仕事を始めた時から無意識に続けてきたやり方だったが、改めて自身の身体に問いながら確認してみるのも悪くないかも知れない。


「──この握り。ブレない腰から上の上半身」


 新たな薪を設置し直してから、僅かな緊張を抱きつつその前に立つ。


 先程翁に指摘された事を口の中で唱えながら、ゆっくり、ゆっくりと自身の身体の感覚に身を委ねていく。


 斧の柄の先端を左拳で握る。但し、握り拳全体で力一杯握るのではなく、主に柄の先端に巻き付けた小指に力を込める。。手から得物がすっぽ抜けないよう力強く、けれど同時に、柔らかく。そんな握り方を実現するなら、この握り方が一番しっくり来る。


 対して、右手は添えるだけだ。飽くまで取り回しに支障をきたさないよう補助するものであって、力一杯握って良いものではない。


「……」


 息を吸って、吐いたのに特に理由など無い。やっている事は今までと変わらないのだから、こんなに構えなくていいのではないかとシン自身も意識の隅で思うのだが、どうも身体が勝手に畏まってしまっているのだから仕方が無い。これまでとは違う、さながら自身の技に誇りと自信を持つ職人が目の前の仕事に取り掛かるような気分で、シンはこれから断ち割るべき薪を見据えながら斧をゆっくりと振り上げる。


 これでいい。今までこのやり方で薪を割ってきたのだし、から真っ直ぐに振り下ろして対象を断ち割る。それであれば、別にこのやり方で問題は無い筈だ。


「んん……?」


 だが、シンの中には何か違和感があった。否、正しくはと言うべきだろうか。


 斬る。断つ。――絶つ。


 単純にその事だけに着目するなら、シンには


「おお……?」


 自身の記憶を探る試みに初めて進展があったような気がして、シンは思わず感嘆の声を上げてしまった。ヒントをくれた翁に感謝しつつ、シンは自らの身体に残された痕跡かんかくに従って、これまでの上段構えとは別の新たな構えへ、ゆっくりと、手探りで移行していく。


「──……こう、か……?」


 上体は対象に向けたまま、足を前後に軽く開いて腰を落とす。今まで柄の尖端部分を握っていた斧は、今までよりも少しだけ短めに持ち直し、腰に当てるようにして構える。


 ドクン、と。


 身体の内で、何かが身動みじろぎしたような気がしたのはその時だった。


「……!」


 今、身体の中で何かが嵌まった。それが何なのか具体的には分からないし、それが何を指し示すのかは謎なままだが、少なくともシンは、シンの身体は、今のこの構えを知っている。いや、それどころか慣れ親しんでいると言ってもいいだろう。「絶つ」という概念に着目して辿り着いた、この構えに。


 “人斬り”。


 あっけらかんと言ってのけた翁の言葉が、シンの耳の中に蘇る。


 体奥で跳ねる鼓動の音は、記憶を取り戻せるかも知れないという期待による興奮か。それとも――


「……」


 腰を落としたのは重心を据える為だ。基本的に、重心が高い時点で大概の構えや動きはその意味を失う。頭を初めとする上半身の重みに振り回されるようでは、身体制御など夢のまた夢である。


 呼吸は深く、ゆっくりと。気を抜いて良い訳はないが、緊張に支配されて全身を力ませれば、それはそれで拙い事になる。呼吸を乱さず、心には余裕を。基本だ。


「すー……っ」


 研ぎ澄ませる。


 世界から余分なものがぼろぼろと零れ落ちていき、自身と標的、その二つだけが残る。


「はー……」


 ピリピリと張り詰めた空気の中、シンは自身の体内の中を巡る“何か”を見つけた。


 意識すると、その“何か”は次第に勢いを加速させていき、奇妙な熱を以てシンの感覚を高ぶらせていく。自身の知らない何か――少なくとも、これまで自分が意識していなかった何か――が自身の身体の中を循環しているというのは、よくよく考えてみれば気味の悪い事なのかも知れない。が、その時のシンはその“何か”を不快なものとは思えなかった。寧ろ、自身にとって好ましいものだと当然のように自覚出来ていた。


(……遅いな。余りにも)


 構えを取って、既に何秒が経過しただろうか。。屈辱にも似た、焦げ付くような焦りを押し殺しながらも、シンは“その瞬間”が来るのを今か今かと待ち受ける。


 遥か頭上で、呑気な鳶が甲高い声で鳴き──



「────ッ!!」


 

 風が、叫んだ。


 一拍、二拍と時が止まったような感覚は、きっとシンだけが感じた錯覚だろう。


 三拍目で、世界に音が戻って来た。止まっていた時間が動き出し、“結果”も返ってくる。斧を横薙ぎに振り抜いた姿勢で止まったシンの目の前で、真ん中から両断された薪の上半分がポトリと落ちた。

 

「……ふー……」


 何時の間にか止めていた呼吸を、シンはゆっくりと吐き出した。斧を振り抜いてそのままだった体勢をゆっくりと戻し、深く、深く溜息を吐く。さっきまで感じていた高揚感、もしくはそれに似た感覚は、何時の間にか消えていた。


「……落第、だな」


 視線を動かせば、草の上に転がった薪の上半分の断面を見る事が出来た。見るまでもなく分かってはいたが、己の目で確認すれば改めて今の一撃のを痛感する結果となってしまい、シンは思わずその場でかぶりを振った。


「駄目だな。全然駄目だ」


 今の一撃は余りにも鈍過ぎた。我慢に我慢を重ねて放った渾身の一撃だったのに、振り抜く途中からスピードを維持出来なくなり、力任せに振るわざるを得なくなってしまったのだ。結果として身体が力み、太刀筋から力が分散してしまって、芯の弱い一撃に成り下がってしまった。


 殆ど慣性で斬ったようなものだ。薪だったから斬れたものの、ちょっと硬いモノが相手だったら両断なんか出来なかったに違いない。


「……」


 たかだか薪割りだ。それに元はと言えば、自身の記憶にまつわる何かを見付けられないかと思ってやってみた試みだった。上手く切れようが失敗しようが、結果そのものは本来どうでも良かった筈である。


 けれど、何故だろう。シンは自身の理想の結果を出せなかった事が、悔しいと思えて仕方が無かった。


 斬る前にも妥協を重ねたのに、結果すら出せなかったなんて。


 そんな思考が頭に纏わり付いて離れず、シンはもう一度溜め息を吐き、手に持っていた薪を頭上越しに放った。上手くいったなら、積み上げられた薪の山の上に転がった筈だが、正確な結果はちょっと分からない。そんな事より、もう一度さっきの構えからの薪割りを試そうと、シンは作業台代わりの切り株の上に残ったもう半分の薪に手を伸ばし――


「……!?」


 そこで、自身の身体に違和感がある事に気が付いた。何事かと思って服の裾を捲り上げ、特に違和感の酷かった腹辺りの様子を確かめる。


 真っ先に目に入ったのは、最後に残っていた真っ白な包帯。それからその真ん中に微かに染みている、赤い染みだった。少し経つ事にジワジワと広がっていくそれは、まぁ、間違い無くシン自身の血だろう。


 どうやら、傷口が開いてしまったらしい。


「あー……」


 やっちまったな、と他人事のように独りごちながら、シンはティセリアが居るであろう聖堂の方へと視線を遣った。


 まだ短い期間しか一緒に過ごしてないとは言え、シンは彼女が怒った所を一度も見ていない。


「……」


 言い付けを守らず無理に身体を動かし、挙げ句傷口を開いてしまった馬鹿を見ても、彼女は怒らないでくれるだろうか。



 ○ ◎ ●

 

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