見知らぬ天井③

 ○ ◎ ●



 シン、と名乗る事になった。


 自分で思い出した訳ではなく、また適当に新しい名前を考え出した訳でもない。がそう呼んでいるのをティセリアが聞いていて、それをそのまま使う事になったという流れである。


 ティセリアが語る事によれば、シンは彼女の住む森の中で倒れていたのだと言う。いわゆる満身創痍の状態で、傍目には死んでいるようにしか見えなかったらしい。ティセリアが介抱してくれたお陰で何とか死の淵からは生還出来たものの、発見から目を覚ますまでには優に三日は掛かったとの事である。自身が死にかけていたという実感は無いのだが、シンが彼女の家で、手当を受けた状態で目を覚ましたのは紛れも無い事実なのだ。無意味に疑うより、彼女には感謝するべきだとシンは思っている。


 しかし、知らない内に命を落とす事にはならなかったとは言え、問題は山積みだった。何しろ記憶が無いのだ。今後の方針を立てるどころか、行く当てすら無いのである。


 どうすればいいんだと途方に暮れていたその時、そっと声を掛けてくれたのが命の恩人であるティセリアだった。


『──ウチに居ればいいんじゃない?』


 何もかもを失って呆然としていたシンに対して、彼女はそう言って笑った。


『──行く当ても無いみたいだし、まだ怪我が治っている訳でもないんだから。当面は此処で治療に専念しちゃえば?』


 実際、有り難い申し出ではあった。


 彼女の言う通り行く当てなんて無かったし、何よりもう一つ、今のシンには扱いかねる問題があったのだ――



「──ん……」


 小鳥がさえずる音が聞こえる。閉じた瞼越しにも陽光は眩しく、息を潜めて此方の顔を覗き込む二人分の気配が少しだけ煩わしい。


 瞬時に意識が覚醒し、シンはに予告する事無く目を開く。


 途端に、シンの視界から弾かれたように跳び退る小さな人影が二人分。そいつらはシンに声を掛ける暇すら与えずに、部屋の外へと飛び出して行ってしまった。


 脱兎の如く、というのは正にああいう様子を形容するのだろう。最初の頃はシンも吃驚して跳ね起きた――それこそ、が精一杯足音を殺して部屋の中に入ってきた、その瞬間にだ――ものだが、今はもうすっかり慣れっこだ。彼女達の背中に声を掛ける事も無ければ、そもそも目を遣る事すら無い。


「……毎朝毎朝ご苦労なこった」


 欠伸を噛み殺しながら呟いて、シンはベッドから上体を起こす。そよ、と風を感じたので窓の方を振り向けば、昨夜寝る前に閉めた筈の窓が何時の間にか開け放たれていた。恐らくシンが目を覚ます直前に、あの双子がやっていったに違いない。


「……」


 視線を巡らせ、戸口の方に向ける。途端に、戸口から部屋の中を覗いていた二対の視線と目が合った。


「あ……っ!?」


 金と銀。


 左右でそれぞれ色の違う奇妙な双眸が大きく見開かれたかと思うと、彼女達はあっと言う間に首を引っ込めてしまう。直後、パタパタという足音が二人分聞こえて来たから、今度こそ本当に逃げていったらしい。


 ……今日こそ、“悪いな”とでも一声くらい掛けたかったのだが。


「……やれやれ」


 ヒナギクと、ホタル。


 それが彼女達の名前だという。シンが此処で初めて目を覚ました時も姿を見せた彼女達だが、どういう訳か一定の距離を保ってシンの傍には近付いて来てくれないので、まだ話した事は一度も無い。


 それだけであれば特にどうという事も無いのだが、厄介なのはこれからだ。


 なんと、。少なくとも、ティセリアが双子から聞き出した話によればそういう事になっているらしい。そんな事を言われてもシンには全く心当たりが無いのだが、どうやらシンには、あの双子と何らかの関係があったらしい。


 事実、彼女達はしょっちゅうシンの目の届く範囲に居るのである。


 一定の距離を保っているとは言え、逆にそれ以上離れていく事も無いのである。彼女達は日がな一日シンの周辺の物陰から、ただひたすらシンの様子を窺っているのだ。シンが記憶を失くしている事は既にティセリアから聞いている筈なのだが、その事について特に触れてくる様子は無い。


 何はともあれ、あの二人は元々シンが連れていたと言うのなら、此処を出て行く時はあの二人も連れて行くのが筋だろう。


 しかし接し方が分からない。過去のシンはあの二人にどういう風に接していたのか、そもそもどんな間柄だったのか、さっぱり思い出せないのである。マトモに会話すら出来ていない現状では、暫く此処に残って意思疎通を図るという選択がベストであろう。


 ……少なくともティセリアは、そんな風に言ってくれた。全く、彼女には頭が上がらない。


(アイツら、せめて何か言ってくれりゃあいいんだがな。人の顔見たら逃げ出しやがって)


 小さく溜め息を吐きながら、シンは腰掛けていた状態のベッドからと立ち上がった。視線を巡らせれば、枕元に黒い衣服の上下が置いてあるのが目に入った。恐らくは双子が持ってきてくれたのだろう。


 ティセリアが用意してくれた着替えは、黒や暗い色のものが多かった。どうしてなのか尋ねた所、助けた時にそんな服を着ていたからという答えが返って来た。派手な色よりはこっちの方がいい。そんな風に考えてしまう辺り、過去のシンは、随分と陰気な男だったようだ。


 部屋を出て一階に降り、住人が共同で使うバスルームに入る。シャワーを浴びてしぶとく残っていた眠気を飛ばし、持ってきた着替えを身に纏う。


 途中で洗面台の鏡に目を遣ると、やや目つきの悪い黒髪黒目の男がシンを見返して来るのと目が合った。


 東洋出身なのだろう。例えばティセリアなんかと比べると、明らかに顔の造りが異なっている。なんと言うか、こう、全体的に平べったいと言うか。


 ひょっとしたらそっちの方面に記憶が戻る取っ掛かりがあるかもしれないが、こうして毎朝自分の顔を見てみても、思い出せたものなんて一つも無い。こうして毎朝鏡越しに自分の顔を見てみても、毎回面白みの無い自分の顔を凝視するだけに終わってしまう。


「……」


 虚しくなると同時に馬鹿馬鹿しくなり、鼻で嗤ってシンはダイニングに向かった。扉を押し開けて中に入ると、芳ばしく焼けたパンの匂いがふわりと香る。


「おー、おはようだぜ」


「……ああ」


 扉の音を聞いたのだろう。奥のキッチンに居たティセリアが顔を上げると、柔らかくと微笑み掛けて来た。


「丁度パンが焼けた所だよ。あの子達とは話せた?」


「俺が目を覚ました途端に逃げていった」


「あらら。まだちょっと今のシンに慣れてないのかね?」


「……さぁな」


 慣れてないと言えば、シンもまた今の状態には慣れていない。


 朝起きたら、着替えや食事までが用意されている。何かの見返りという訳ではなく、寧ろシンが見返りを返さないといけない立場であるのにも関わらず。


 こういうのを、なんと言うのだったか。


 確か、ヒ――

 

「はい、じゃあ座って。シンはとにかくいっぱい食べないと」


「……ああ」


 止めよう。折角ティセリアが作ってくれた朝食を、自己嫌悪で吐き戻すような真似はしたくない。


 感情を殺しながら木製のテーブルに腰掛けると、程なくしてキッチンから出て来たティスが二枚の皿をシンの前に置く。


「はい、どうぞ」


「……ありがとう」


 二枚のトーストとベーコンエッグ。卵は最初は完熟、次に出た時は半熟と来て、以降は必ず半熟が出されるようになった。


 顔に出したつもりは無いが、もしかしたら反応を見られたのかもしれない。


 というのも、ティセリアはシンが食べている間は向かい側に座り、食事の様子を眺めている事が多いのだ。


「シンは、倭国で生まれた人なのかもね」


「うん?」


 今回も、その例に漏れない。付けていたエプロンを外しながら、彼女はシンの向かい側の席に腰掛ける。


 見られているとどうにも食べ辛く、最初の内はシンも若干辟易していたものだ。今は段々と慣れて来ているが、完全に気にならなくなるまでにはもう少し時間が必要だろう。


 ただ、慣れないとは言っても別に不快という訳ではないのだ。彼女の放つ雰囲気の成せる業なのか、思えばシンは彼女と対面している時に不快感を感じた事が無い。


「……いきなり何だ?」


「髪の色とか眼の色もそうだし、あの二人に付けた名前もね。“雛菊ヒナギク”と“ホタル”って、調べてみたら倭国の言葉だったから。雛菊っていうのは小さくて白い花で、螢は夏の虫なんだって」


「……へぇ」


 虫。


 どういうセンスだ。


「あ、虫と言っても暗闇で光る凄く綺麗な生き物らしいよ。暗闇で沢山の螢が光っている光景は、幻想的って言ってもいいくらいなんだって」


「そうなのか」


 一先ず、シンは自分のセンスに安心していいのだろうか。


 取り敢えず、螢という虫についてはシン自身も調べてみるべきだろう。


「えっと、それでね? 私が言いたかったのは、シンがもし倭国出身なら、パンよりライスが好みなんじゃないかって事なんだけど」


「ライス……?」


「覚えてない? ホカホカした白い粒々で、東洋では古くから主食にされてるんだけど……」


「あー……」


 言われてみれば何となく想像出来るような気もする。が、そのヴィジョンは酷く曖昧で、いまいちピンと来ない。良く分からない食べ物よりは、手の中で香ばしい匂いを立ち上らせているトーストの方がよっぽど美味そうだ。


「どうかな。俺はこれで十分だが」


「そう?」


 納得していない様子のティスを尻目に、まんべんなくバターが塗られたトーストにかぶりつく。ザクリとした食感とバターの芳醇な香りが口の中に広がり、思わずその余韻を反芻してしまう。


 美味い。


「ところで、今日も聖堂は開けるのか?」


「あ、うん。勿論」


「修道院に住んでるからって、義務があるわけじゃないんだろ? そもそもお前は修道女って訳じゃないんだよな?」


「人の話を聞くのは好きだし」


 あっけらかんとした調子でティスは言う。


 そう、ティセリアが住むこの家は、修道院なのである。元々はちゃんとした修道女シスターが管理していたが、今は訳あってティセリアがその役目を代行しているのだとか。


「興味あるの?」


「あー……いや。お前には悪いが、同じ所にジッと座ってるのはな……」


「そっか」


 努力くらいはするべきじゃないかとはシン自身も思う。それくらいの義理はあるのではないかと。が、どういう訳か、人の前に姿を見せるのは抵抗があった。理由は分からないし、住まわせて貰っている分際で、とも思っているのだが、どうにも受け入れ難い。


 幸い、ティセリアは特に気にした様子も無く、笑っただけだった。予め予想していた答えが、現実のものになった。そんな風に言わんばかりの、何処か余裕のある笑みである。


 実際、大して期待はしていなかったのだろう。ティセリアはそれ以上、同じ話題を引っ張ったりはしなかった。


「身体を動かすのは構わないけど、あんまり無理はしないでね? 怪我は大分治ったみたいだけど、完治って訳じゃないんでしょ?」


「ああ」


「あの子達だって心配してるんだから」


「……」


 つい、と何気無く逸らされた視線。


 それに倣って扉の方へ目を向けると、一体これで何回目だろう、金と銀の二対の双眸と視線がぶつかりあった。


「あ……っ」


 目が合った途端、双子はサッと身を翻し、その場からあっと言う間に居なくなってしまう。花と虫の名前を付けるには勿体無いくらいの反射神経だ。


「さっきからずぅっと貴方を見てたよ」


「みたいだな」


「気付いてたの?」


「ああも気配丸出しだったら、どうか見つけて下さいって言ってるようなものだろ」


「ほぇー……何か、達人って感じだね。すごいや」


 最後の一欠片になっていたトーストを口の中に放り込み、シンは然り気無く視線を落とした。


 感心いうか感嘆というか、ティセリアの賞賛の表現はストレートで惜しみない。それ故に、何だか気恥ずかしくなって来るから困りものだ。


「ひょっとしたら、シンは記憶を失くす前は騎士だったのかも?」


「騎士ィ?」


「うん。教会領の聖騎士様……なんていう可能性も、ひょっとしたらあるかもよ?」


「はは、どうかな」


 ティセリアの言った“教会領”や“聖騎士”という単語を、実はシンは良く分かっていなかったりする。ただ、騎士というのがどんな生き物なのか、それくらいの事は分かっているつもりだ。


 清廉で、潔白で、高潔。


 少なくとも、今のシンとはまるで正反対の生き物だ。


「──……全然想像が付かないな。多分、違うと思うが」


「むぅ……」


 きっぱり否定されたのがお気に召さなかったのか、ティセリアは少しむくれてみせた。最初の頃は彼女がそんな子供っぽい表情を見せるなんて想像も付かなかったが、いざ目にしてみると全然違和感が無い。


 シンが目を覚ましてから既に一週間が過ぎているが、この風変わりな家主の事は未だに全然掴めない。


「ごちそうさん」


「うわ、もう食べちゃったの?」


「思わず掻き込むくらいに美味かったからな」


 半熟卵の余韻に浸りつつ、シンはゆっくりと席を立つ。


 せめて食器を持って行くだけの事はしようと思ったのだが、それよりもテーブルの反対側から細い指先が伸びて来る方が早かった。


 シンの食べるスピードに驚いていた割には、ティセリアもしっかりと反応している。意地でも水仕事に関わらせるつもりは無いらしい。


「……ちょっと身体を動かして来る」


「うん。繰り返すようだけど、無理だけはしないでね?」


「ああ」


 彼女に向かってヒラヒラと後ろ手に手を振りながら、シンはダイニングから出た。パタンと扉が閉まる音を背後に聞き、ティセリアには聞こえなくなったであろうタイミングになってから、口の中で小さく付け加える。


「──要は、俺がキツいと思わなかったら大丈夫なんだろ」


 自分が恐らく勤勉な方でないのは感覚で分かっているし、仕事の選り好みをしている自覚もある。だが置いて貰っている身でぬくぬくと惰眠を貪っていられる程、シンは恩知らずでもないのである。



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