見知らぬ天井①
○ ◎ ●
真っ暗だ。
思考も自我も何もかも溶けていくような、深い、深い深淵の中。
ともすればそのまま闇の中へ消えていってしまいそうな意識を刺激し、その存在を留まらせてくれたのは、何処か遠くから聞こえて来た、優しい旋律のお陰だった。
「……?」
歌が聞こえる。
知らない声だ。
聴いた事の無い旋律だったが、優しげな声で紡がれるそれに自然と意識が吸い寄せられる。まるでその歌声に惹かれるみたいに、微睡んでいた意識が段々と浮上していく。
「……──」
目を開く。
最初に視界に入って来たのは、皹一つ、染み一つ無い真っ白な天井だった。真っ先に連想したのは病室だったが、それにしては薬品の匂いが一切無い。
「──ぉ……あ……?」
此処は、と口に出したつもりの疑問は、そもそもちゃんとした声になっていなかった。
けれど、直後に耳に心地良かった歌声が止まり、次いでパタパタと足音が近付いて来る気配がした。
「やぁ、おはよう?」
ややあって、誰かが此方の顔を覗き込んで来た。
薄く光を灯しているように見える、深く、澄んだ紺碧の双眸。柔らかそうな長い金色の髪は、まるで木漏れ日で織ったかのようである。白い肩開き式のカーディガンによって剥き出しになっている華奢な肩は、まるで白磁のよう。細やかだが嬉しい発見をしたように微笑を浮かべているその容貌は、名のある匠が丹精込めて産み出したかのようである。
女だ。まだ若い。
「……」
「……? おーい。大丈夫ですかー?」
人とは思えない。実は自分はとっくに死んでいて、天使か、或いはその類の何かが迎えに来たのだろうか。
上手く働かない思考を遊ばせたまま、ひたすらボンヤリと彼女の顔を眺める。それで彼女は、どうやら困惑してしまったらしい。ほんの少しだけ戸惑いに混じった声で、更に言葉を続けて来た。
「まだ少し、ボーっとしてるみたいだね? えーと……──」
不意に、彼女の手が伸びて来る。実に自然な仕草で此方の前髪を払い、そのまま額に触れてくる。
熱を計られているのだと一瞬で理解出来なかったのは、その方法があまりに子供っぽかったからだった。
「──わ。まだこんなに熱い」
「……」
此方に答えられるだけの気力は無かった。無理に声を出そうとしても、ガラガラに乾いた喉が、掠れて嗄れた声みたいな音を出すのがせいぜいだ。
「──……」
「あ。そか。ごめんね、気が利かなくて」
そして、彼女はそんな此方の様子に気が付いたらしい。不意に気が付いたように言うと、そのまま身を引いて、此方の視界から消えてしまう。
ぱたぱたと遠退いていく足音と気配。視線を動かしてその後を追い掛けると、部屋の出入り口らしき扉に向かって歩いていく彼女の後ろ姿が確認出来た。
「待ってて。何か飲むものを持って来るから」
最後にそう言い残して、扉の向こうへ消えていく。軽やかな足音が一定のリズムを刻みながら、次第に遠ざかっていく。
その音が完全に聞こえなくなってから視線を天井へと戻し、嘆息にも似た小さな深呼吸を一つ。熱く乾いた息が、ヒリ付いた喉を撫でる感覚は不快極まりなかったが、今はどうしようもない。飲むものを持って来てくれるというから、素直にそれを待つ事にする。
「……」
染み一つ無い天井。
当然の如く見覚えは無い。
此処は何処なのか。そもそもどうして自分はこんな所で寝ているのか。
分からない。思い出せない。
浮かんでは弾けて消えていく泡沫のような思考に纏まりは無く、中身を垂れ流すような意識に中身がある訳も無い。
ボーっとしていた。疼くような熱や溜まったような重みを持て余しながら、ひたすらにひたすらにボーっとしていた。
どれだけの時間が経ったのかは分からない。女は戻って来ず、そしてたかだか飲み物の用意に時間が掛かるとも思えないから、きっとそんなに経っていなかったのだろう。
扉が軋む微かな音を聞いて、ふと我に返った。どうやら、何時の間にかウトウトしていたらしい。
あの女が戻って来たのかと思って顔を扉の方に向けるが、半開きになった扉の隙間に彼女の姿は見当たらなかった。
「……?」
気の所為だったのだろうか。
そう思った所で、扉の隙間、その随分と低い位置から、此方をジッと見つめる二対の視線に気付いた。
「……ダれ、だ……?」
「「!!」」
子供だ。二人居る。
扉の陰に半分以上身を隠していたし、声を掛けた瞬間にパッと顔を引っ込めてしまったから、詳しい事は分からない。
「……――!」
ただ、何故か気になった。
気が付けば、呼び止めようと必死に声を絞り出そうとしていた。
が、小さな二つの足音はそんなものには頓着せずに、パタパタと急速に遠退いていってしまう。そもそも蚊の鳴くような制止の声が彼女達に聞こえていたのかどうか、それすらも怪しい。
「……ちィ……っ!」
顔を覆いたくなるような自分自身の体たらくに、殆ど鳴らない舌打ちを一つ。重たい身体に鞭打って上体を起こし、殆ど転がり落ちるようにしてベッドから降りる。
「……ぅ……ッ」
二本の足で体重を支える。
通常であれば難無くこなせる筈なのに、身体は早くも不服を訴えてくる。
どうしてこんな情けない状態になっているのか。過去の自分に問い質したい気分だったが、とにかく今はあの子供達だ。
歯を喰い縛り、休憩を訴える身体を意志の力で捻じ伏せて、一歩一歩を刻むような感覚で歩き始める。
扉を潜れば、そこは吹き抜けの廊下の二階だった。左は壁で行き止まり。右は廊下と、それに続いて一階と繋がっている階段。
勿論右を選んで階段を降りる。途中で部屋を一つ通り過ぎたが、半開きになった扉の隙間からは子供の姿は見えなかったし気配も感じなかった。
(ええい、何も取って食おうって訳でもねぇのに……!)
階段を下りれば、そこは広間だった。四方の壁には扉があって、今の状況の所為か、何だか選択を迫られている気分になる。
「……」
少し迷ったが、その中で特に目を引いたのは階段にの正面に位置する扉だった。というのも、他のは全部キッチリ閉まっていたのに、それだけが中途半端に開けっ放しになっていたからだ。
(……こっちか?)
先ずは深呼吸を一つ。休みたがる身体の手綱を締め直し、開き掛けていた扉の取っ手に手を掛ける。
「──!?」
瞬間、視界にノイズが走った。頭蓋に激痛が差し込まれ、一瞬、ほんの一瞬だけ似て非なる光景が重なる。
けれど、それも一瞬の話だ。
その次の瞬間には頭痛も光景も消えていて、自分はただただ阿呆のように立ち尽くしていた。
「……ナ……ん、だ……?」
嗄れた呟き声に、答えてくれる者なんて居ない。身体の怠さも相まって、考えるよりも先に目の前の光景に集中する形となる。
真っ先にに浮かんだのは、“荘厳”という言葉だった。
薄闇が広がるだだっ広い空間の中に、色彩豊かな陽光が差し込んで来ている。石で作られた床の上には沢山の長椅子が等間隔に並べられ、利用者が来るのを大人しくして待っている。
しんと静まり返った中を進んで行けば、足音が反響しながら四隅の闇の中へと吸い込まれていく。全体が石で造られている所為だろう、空気が若干重たくて、厳粛な雰囲気を醸し出している。
重い天井を支えている、自己主張はしないが決して粗雑でない彫刻の柱。四隅の暗がりや長椅子の側に据えられている、細かく繊細な銀細工の燭台。
そして何より、只の陽光を色取り取りの光に変換しているステンドグラス。仮に長椅子に座れば、嫌でも目に入ってくるような位置取りで据えられているそれは、その圧倒的な存在感で見る者の視線を離さない。
「……」
美しく、荘厳な場所。
何となく知っているような気もするのは、やはりさっきフラッシュバックした光景の所為だろうか。
懐かしいような、苦々しいような。
相反する二つの感情をゴチャゴチャにしたような、すっきりしない嫌な感じを覚えてしまうのは何故だろう。
「──ああ、こんな所に居た」
不意に、そんな声が聞こえた。柔らかくてのんびりした印象を受けるその声は、ついさっき聞いたのと同じものだ。
「ビックリしたよ。部屋に戻ったら居ないんだもん」
先程の女だ。
ステンドグラスの光を受けて、色素が薄い金髪がキラキラと輝いている。七色の光の所為でますます人間離れしているように見えたが、翼や天使の輪は見当たらない。どうやら人間らしい。
──そう言えば、飲み物を取りに行って貰ったんだったか。
自分と同じ扉から出て来た彼女を見て、今更ながらその事を思い出した。
「……す……ま」
「いいよ。そんな事よりほら、其処に座って」
そう言われてしまっては、素直に従うしか無い。
言われた通りに近くの長椅子の上に座ると、彼女は此方の近くまで歩いて来て、さも当然のように隣に腰掛けてくる。携えていた盆の上に乗っていた水挿しとグラスが、微かに涼やかな音を立てるのが聞こえた。
「はい、どうぞ」
「……」
渡されたグラスは、結構大きかった。並々と注がれた透明の水や、浮かんだ氷に冷やされて、ビッシリと汗を掻いている。
飲み込む唾も無いくらいに身体は乾いていたが、それでもゴクリと喉が蠢いたのはきっと無意識の内だろう。
気が付けば殆ど仰け反るみたいにしてグラスを煽り、中身を空けてしまっていた。大きく息を吐きながら身体を戻せば、浮かぶ媒体の無くなった氷がカラカラと涼やかな音を立てる。
「ふー……」
少し落ち着いた。けれどまだ足りない。
一息吐いて、それから直ぐに二杯目を要求しようと隣に視線を向ける。が、その時には既に、女は水挿しの中身を此方の持つグラスの中に注いでいる最中だった。
「──あれ? ひょっとしてお代わり要らなかった?」
「……いや、欲しかった」
「ふふ。どうぞどうぞ」
「……」
この女。出来る。
内心で素直に感嘆しながら、グラスが満たされていくのを待つ。注がれる水によって氷が踊り回るのを眺めているのは、熱を持っていた身体には心地良くもあり、焦れったくもあった。
「──……酷い怪我だったよ」
「?」
二杯目は少し余裕があった。さっきみたいに一気に飲むような真似はせず、少しだけグラスを傾けて一口分煽り、息を吐く。
相手が口を開いたのは、正にその息を吐いた直後。絶妙なタイミングだった。
「森の奥で、血塗れになって倒れてて。見つけるのがもう少し遅かったら、二度と目を覚ませなかったかもしれない程の大怪我だったんだよ」
「……」
助かったと喜ぶべきなのか。危なかったと安堵すべきなのか。
淡々と事実だけを伝えるような声は、却って現実味を薄れさせた。どんな反応を取るべきなのかよく分からなくなってしまい、つい沈黙を通してしまう。
その沈黙を怪訝に思ったかのかもしれない。女は少しだけ不思議そうな顔をすると、つい、と小首を傾げてみせる。
「関心薄い?」
「……そうかもしれない」
死んでいたかもしれない。
そう言われたら恐ろしがるのが普通かもしれないが、何故か実感が湧かなかくて、そうする事が出来なかった。
そもそも、なんでそんな事態になったんだったか。
実はさっきから思い出そうとはしているのだが、頭が霞んでいるみたいに思考が纏まらず、どうもハッキリしなかった。
「まぁ、私は部外者だからいいんだけどね。でも、あの子達には感謝しないとダメだよ?」
「……あの子達?」
「うん。あの双子の女の子。ヒナギクとホタルって、貴方が名前を付けたんだってね」
「……?」
双子と言えば、さっきまで追いかけていた子供も二人組だった。しっかり見た訳ではないので女の子だったかどうかは分からないが、ひょっとしたらあの二人こそが彼女の言う双子なのかもしれない。
……ただ。
「すまない。ちょっと待ってくれないか」
「え?」
ただ、今の話。
一つだけ、どうしても無視出来ない点があった。
「名前を付けた? 俺が?」
「あの二人はそう言っていたけど。違うの?」
覚えが無い。
というか、あの二人とは今日が初対面ではなかったのか。
半ば必死になって記憶の引き出しを漁るが、双子に名前を付けてやった覚えなんかない。というかどの引き出しにも強固に鍵が掛かっていて、漁るどころか何も取り出せない状態だ。
「……悪い。一つ聞きたいんだが」
「なぁに?」
嫌な汗が一筋、頬を伝っていくのを感じた。
完全にロックされている記憶。ついさっきベッドの上で目覚めた以前の事を、何も思い浮かべる事が出来ない。
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