第43話 感傷

 アイスピックの冷たい感触がわき腹に突き立ち、続いて燃えるような痛みが体の芯からこみ上げてきた。悲鳴を上げそうになったが、声が出なかった。激しい痛みに額から脂汗が噴き出してきて、息が荒くなり、心臓が張り裂けそうなほど早く脈動する。

 麻美は自分の胸をつかみながら目覚めた。

 またこの夢だ。十五年ほど前から、頻繁に刺される夢を見る。凶器は日によって違っていて、果物ナイフだったこともあれば、フォークだったこともあるが、腹部を刺されるのは共通している。また、激しい痛みと苦しいほどの動悸もいつものことだ。

 麻美は枕元に置いておいたペットボトルを取って安定剤を飲んだ。

 三十分の我慢だ。そうすれば落ち着く。

 薬が効いてくれば、悪い夢からすっかり目覚め、嫌な気分から開放される。

 気分が落ち着いてくると麻美はベッドを出て、服を着替え身だしなみを整えた。

 家を出て五分ほど歩くと、割烹「みなぞこ」だ。四十歳になる年に開店して、今年で五年目の和風家庭料理の店である。

 麻美は裏口から店に入り仕込みを始めた。

 野菜を切り、湯を沸かし、昆布だしをとったり、根野菜を下茹でしたり。それが終われば、肉や魚の下ごしらえだ。

 肉の筋をとって、軽く叩いて、冷蔵庫にしまいなおした。

 次にいけすから魚をすくい出す。

 まな板の上に乗せられた魚が、混乱したように跳ねた。

 魚の頭をおさえ、包丁の刃先を魚の腹にあてがう。

 魚はばたばたと尾を動かした。

 刃が魚の腹を引き裂き、血と内臓があふれ出してくる。

 魚はいっそう激しく尾を動かす。

 麻美はいつもの夢を思い出した。

 腹を刺される痛みは耐えがたい。恐怖に鼓動が激しくなるのも辛い。夢から覚めても三十分ほど息苦しさにもだえなければならない。だが、麻美の場合はしばらくすれば苦しみから解放される。麻美の苦しみは所詮は夢の中の出来事だ。

 でも、この魚は。いまここで現実に腹を割かれている。痛みは本物で、いくら耐えていても、悪夢から覚めることはできないのだ。

 不意に昔の恋人の顔を思い出した。今でも独身を貫いている麻美が、生涯で唯一結婚を考えた彼。彼は死の瞬間に何を感じていたのだろう。

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