第41話 水深二十メートル
深く、深く、潜ってゆく。
自分の呼吸と泡の音だけが聞こえる。
青黒く澄んだ色で視界が覆われている。
何もない。ただ青い世界が広がっていた。
上を見上げるとさざめき立った水面が太陽を反射してキラキラ輝いている。
智樹は静かに呼吸をしながらさらに潜った。
スキューバダイビングが智樹の趣味だ。
ライセンスを取ってからというもの、夏場は毎週のように海に出かけている。
水深二十メートルを越えたころ、急に水温が下がった。
ダイビングスーツに水がしみこんでくると、凍りそうなほどに背中が冷たい。
智樹は不思議に思った。深く潜ればそれだけ水温が下がるのは分かるが、これほど急激な温度変化は初めてだった。
二十五メートルを過ぎると、もう水の冷たさではなかった。体中を氷で撫で回されているような感覚で、手や足の先がしびれるように痛くなった。関節が強張って硬くなる。
あと五メートルほど潜ると海底だ。岩礁に魚が群れているのが見える。だが、とてもそこまで潜れそうにない。早く浮上しなければ、体が動かなくなってしまいそうだ。
智樹は潜行をやめ、あわてて浮上を開始した。
思うように動かない腕で水をかく。ときどき水深計を見て体に負担のかからない速度を心がけながら、なるべく急いで水面を目指した。
たった二十メートル先の水面が酷く遠く感じる。
酸素ボンベにはまだ充分な量の空気が入っているはずなのに、うまく呼吸ができない。
しだいに足の動きも悪くなってきた。
誰かに体をつかまれているような感覚があり、身動きがとれなくなった。
そのとき、智樹の目の前に女が現れた。彼女は酸素ボンベも背負っておらず、ダイビングスーツも着ていなかった。赤い瞳でじっと智樹を見つめてから、冷たい笑みを浮かべた。
気が付くと、智樹の周りには何人もの女が泳いでいた。彼女らはみな裸で、みな赤い目をしていた。あるものは智樹の体を抱きしめている。女の体は氷のように冷たかった。
低酸素状態のせいで幻覚を見ているのだろうか。
智樹は潜水病になるのも覚悟で、必死に手足を動かして、急浮上した。
水深五メートルほどまで上がると、急に水が温かくなり、呼吸も楽になった。先ほどまで凝り固まっていた体が、嘘みたいに軽やかに動く。
智樹は海底を見下ろした。
何もない。ただ青い世界が広がっていた。
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