都市伝説系(心霊現象・不可解な事件など)

第3話 混線

 その日も、昭彦は一人きりのオフィスで残業をしていた。

 青白くて無機質な蛍光灯に照らされた部屋は、どことなく殺伐としている。目頭を揉みながら天井を見上げると、強い光に目がくらんだ。

 手術台に寝かされているような気分になって、落ち着かなかった。

 腹の内側に虫が這うような錯覚を感じる。

 昨年の春に昇進してから、ほとんど毎日、昭彦は残業をしている。

 管理職という立場はなかなか忙しくて、定時頃まで自分の仕事をし、そこから更に部下の仕事に目を通したり、必要な事務処理をしたりしなければならない。日が変わってから帰宅する日も少なくはない。

 連日の睡眠不足。夕食はカップラーメンばかり。辛くないと言えば嘘になる。

 もし、昇進したのがもう一年早かったら、昭彦はとっくに仕事を投げ出していただろう。

 昭彦は数字の並んだ表の映ったパソコン画面から目を離し、机の隅に置いてある写真立てを眺めた。そこには、タオルに包まれた息子と、息子を抱えて微笑む妻の姿がある。

 息子が生まれたのは一昨年の秋で、その半年後に昭彦は今の待遇になった。

 昇進してから、仕事は増えた。恐ろしいほどの激務だ。だが、給料は今までよりも二割ほど上がったし、管理職手当てもつく。これからの子育てを思えばありがたい。それに、ここで頑張れば、もっと上の立場に昇進するチャンスもある。泣き言を言っている場合じゃない。

 昭彦は眠たい目をこすり、再びパソコンに向かった。

 カタカタカタカタ。カタカタカタカタ。

 キーを打つ音が冷たく反響している。それ以外に音はない。オフィスは静まり返っていた。だから、携帯電話が鳴ったとき、昭彦は音に驚いて、背中をのけ反らせた。

 その音が携帯電話の着信音だったと気づいてからも、しばらく激しい動悸が止まず、心臓が潰れそうなほど痛かった。

 電話の画面には妻の携帯電話の番号が表示されていた。

 帰りが遅いのを心配しているのかも知れない。

 昭彦は通話ボタンを押して、電話を耳に当てた。

「もちもち」

 幼い子どもの声がした。

「えっ、えっと、君は?」

「パパ?」

 子どもが嬉しそうな声を出した。

 昭彦は困惑した。まだ一歳にもならない息子が喋れるはずはない。

「パパ、出た!」

「君は誰だ?」

 妻の電話からかけてきているのだから、赤の他人ではないだろう。

 姉が子どもを連れて家に遊びに来ているだろうか?

 もうすぐ五歳になる姪っ子が、妻の携帯電話でいたずらをしているのかも知れない。

 だが、それにしては、声がおかしい。子どもの高い声だが、男の子の声のように聞こえる。それに、姪っ子はもっと上手にしゃべれるはずだ。

「お名前を教えてくれるかな?」

 昭彦がていねいな言葉遣いでたずねると、子どもはキャッキャと笑いながら、たどたどしく自己紹介をした。

 子どもは、息子と同じ名前を名乗った。

 得体の知れない不安がこみ上げてきて、また動悸が激しくなった。

「――君だね。ところで、君は何歳なの?」

「三歳……」

 そこまで言ったところで、子どもの声が途切れた。

「勝手に電話しちゃダメでしょ。あっ、この番号。つながってる……」

 聞き覚えのある声が、遠くから聞こえている。

「もしもし。あの、すみません。子どもがいたずらをしてしまって」

 今度ははっきりと声が聞こえた。妻の声だった。

 昭彦は何も言えず、ただ黙っていた。

「この番号、夫が生前に使っていた電話番号なんです。登録したままになっていて。息子が間違えてかけちゃったみたいで」

「生前?」

「去年の夏に夫が亡くなって、電話を解約したんですけど、登録を消せずにいたんです。ご迷惑をかけてしまって、すみませんでした」

「亡くなった?」

「ごめんなさい、変な話をして。こんなの聞いたら気持ち悪いですよね……」

 それから、昭彦たちの間に沈黙の時間が流れた。

「あの、本当にすみませんでした」

「いや、別に、えっと……」

 また沈黙し、やがてどちらともなく電話を切った。

 それから、昭彦は妻の番号に電話をした。

「もしもし、昭彦?」

「なあ、さっき電話したか?」

「してないけど」

「――が電話をいじってなかったか?」

 昭彦は息子についてたずねると、妻はため息をついた。

「もうとっくに寝てるわよ。あなたの帰りが遅いから、寂しがってたわ」

 腹の内側に虫が這うような感じがした。

 昭彦の胃に大きな腫瘍が見つかったのは、それから半年後のことである。

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