二話

 清本るりはまるで空気のような女だった。色素の薄い亜麻色の髪はまっすぐに風になびいている。細くしなやかな外見は、決して目立たない訳ではなかったが、どこにいても自然と風景に馴染んでいた。絵になるといった方が正しいのかもしれないと、のちに思った。彼女は美しく、それが自らの恋慕であるという事に、気が付くのに時間はかからなかった。


 見学もせずに入った文芸サークルは、良くも悪くもなかった。特に情熱的な者もおらず、作品批判を繰り広げる目立ちたがりもいなかった。皆気まぐれに部室に現れては、本を貸し合うような、まるで老成した集まりだった。

今はもう会報すら作っていないとは聞いていたが、どうやら意欲的な活動が主ではなく、体を動かしたくない、出会いも求めない、そんな連中が集まっている掃溜めらしかった。

えばり腐るような上級生もいなかった。節度を守っている限り、誰が何をやろうと咎める者はおらず、一定の距離を保っていた。大学にいながら、落ち着いて物書きをする場所が欲しかった私には好都合だった。

 一番窓際の席で愛用の万年筆をいじくっていると、ふといい香りがした。別段可愛らしくもない、爽やかな匂いだった。清本だった。つい先日入部してきた同じ一年。他の女性と比べて背が高く、あまり笑わない女。

見た目の悪くない女性が入部となると、色めき立つものだが、そんな事もないのがこの部のいいところだ。

清本は音もたてず、いつの間にか椅子を窓のすぐ傍に持ってきて、そこに座って本を読んでいた。窓枠に置いた肘が、その腕が、あまりに白くて作り物みたいだと思った。その手にあったのは最近文庫として発売したミステリー小説で、女性作家特有の中々にえぐみのある作品だった筈だが、清本はまるで無表情だった。静寂が彼女の容姿を味方していた。意味が分からないが、何故だかそう思ったのだ。気が付けば手が止まっていた。

 ふいに、清本の瞳に捕まる。心臓が掴まれた感触がした。


「好きなの?」

 清本の目線で、それが自分の万年筆だと気が付く。国内メーカーの、銀グラの細字。祖父が高校合格の祝いにくれたものだ。田舎の文房具屋にありがちな、古い売れ残りだったとは思うが、使ってみると中々よかった。以来、これで文章を書いている。

「え」

素っ頓狂な声だったと、自分でも思う。

「高そう」

「そう、でもない。三万しない、多分、安い方だ。」

「へえ」

 尋ねたくせに、清本は興味がなさそうだった。すぐに手元の本に目を戻して、それから一言も喋らなかった。私と言えば、一文字も書き進められずに、目の端に移る清本をずっと意識していた。私は舞い上がってしまっていた。


 清本は彼氏を作る訳でもなく、特別親しく女同士でつるむわけでもなく、日々淡々と勉学に励み、ふと見かければ本を読んでいた。大勢の中で埋没してしまうような、物静かで平凡な生徒だった。

 それでいて暗闇でぼんやりと光を放つような、妙な魅力があった。生まれ持ったものなのであろう、清本の希薄さがそれを覆い隠しているように思った。誰も気づいてくれるなと思っていた。

 偶然を装い、清本の行動と合わせては、一言二言、言葉を交わし、やがて食堂で共に定食を平らげ、談笑するようになった。やがて一年が過ぎ、二年が過ぎ、我々は友人と呼ぶにふさわしい仲になった。好きだとは言えなかった。


 小説が賞を取ったら、本が出版されたら、そんな願掛けをしなかった訳ではない。清本に誰か、いい人が現れた時のことを考えれば、今の私には太刀打ちできまい。何せ、私には何もないのだから。


「清本」

「ん?」

「俺は小説家になるからな」

 度々思い出したように宣言する私を、清本は笑う。


「そんなの知ってるよ。」

 当たり前でしょと言わんばかりだった清本の笑顔は、私を無敵にさせた。

 こないだ書いてた金魚鉢って話、前のより面白かった。と、清本はまた笑った。私の拙い物語の細部を語り、私は高揚した。

 甘い考えだが、書いていれば叶う夢だと思っていた。しかしこの時、絶対に叶えるべきだと確信したのだ。


 やがて進級し就職活動を始める中、私と言えば何もせず、ただただペンを走らせていた。周りが社会へ溶け込もうと髪を黒く染め、スーツを着込み、確証のない情報に踊らされているのを横目に、私は原稿用紙と、万年筆のインクが切れないようにすることしか考えていなかった。

 家族は就職活動を蹴ることに長い間反対していたが、私が意固地な事をようやく受け止めて、「仕送りせんからね、お父さんとお母さんに迷惑かけんといてよ」という一言で終息した。生活費はバイトで稼げる。今は何よりも書く時間が惜しい。未来には絶望など存在しない。希望だけだ。あの時の煮えたぎる情熱を、私は忘れることはないだろう。


 清本は簡単に内定を取った。営業職だと聞いて、似合わないなと二人で笑った。大した遊具もない公園のベンチでコンビニのアイスを食べながら、仕事は何でもいいの、食べてさえ行ければいい。と言っていた。現実的で、現代的な考えの清本に、私は委縮したが、すぐに根拠のない自信で不安を覆い隠した。

 よもやあれから数年経ってまでも、私が同じ場所で地団太を踏んでいるとは、私自身思わなかったのだ。




 久しぶりの清本は、地獄のようなタイミングで訪ねてきた。

 そもそも清本は、好きな時に顔を出して去っていく猫のように気まぐれに来訪する。今日は私の心の準備ができていなかった。数十回目の落選通知と向き合っていた私には、何の準備も出来ていなかったのだ。


「だから、もう辞める。」

書くのをやめると、口にしたのは初めてだった。私自身驚くような言葉だった。言ったら、終わりのような気がしていた。


 学生時代から借りている六畳一間。ユニットバスと、申し訳程度の台所がついたボロアパートは、ここ数年で衰退の一途をたどり、まるでお化け屋敷に近かった。玄関横にある洗濯機は雨ざらしで日光に負け、バキバキと割れてしまった。階段は東京の酸性雨に負けたのか、錆びだらけだ。触ると手が汚れる。

 こんなところで燻っている自分が、急激に恥ずかしく思えた。清本は変わらず、学生時代よりも増して美しかった。初めは浮いていたスーツも様になり、しっかりと社会に溶け込んでいるように見えた。私の伸ばしっぱなしで、ぼさぼさの髪も、着古した部屋着も、汚れたスニーカーも、サンダルも、いつからか度が合わなくなった眼鏡も。全部全部無駄なものに思えた。

 万年筆が床に転がっている。愛用してきた万年筆を、衝動的に投げてしまった。コンバーターが抜けて、インクが飛び散っているところを見ると、軸が割れてしまったのかもしれない。ブルーブラックの染みが、手書きの原稿用紙にしみ込んでいる。もうどうでもいい。生きるために必要だったものが全てゴミに思えた。


 地面に這いつくばって、先にも後にも進めない自分が、急に具現化してしまった。

 いつでも何にでも、さして興味がないような態度であった清本が、今まで聞いたことのないような哀しい声で慰めの言葉をくれたが、煮えたぎった泥水である私には油だった。感情がコントロールできず、脳を通さず口が勝手に言葉を吐き散らしている。

 清本は黙って聞いていた。聞いていなかったかもしれない。私は、清本の顔を見ることが出来なかった。


 長年の目標を口から捨ててしまった事よりも何よりも、ずっとずっと好きだった女にみっともない姿を見せている自分に失望していた。きっと清本にはわからないだろう。私とお前は違う。別の惑星から為った人間なのかもしれない。

清本、お前はいつでも正しく、私はいつでも情けない。子供のような夢にいつまでも執着し、妄執し、仕事、生活、年齢、時間、何もかもを犠牲にして掛けていた。そうやって自分の首を絞める事を決めたのは、まぎれもない私自身だ。

それなのに叶わないとなると、癇癪を起こす。突然割れてしまった氷山の一角を、もう誰にも止めることはできない。激しく波を立てて、水底に沈んでいく。やがて海に溶けて、跡形もなくなってしまう。何も残らない積み重ねを私は何年も続けてきたのだ。馬鹿みたいだ。その程度だ。情けなくて、みっともない。


 本当はずっと前から、解っていたのかもしれない。それでも、お前から離れたくなかった。清本、いつかお前の前で、胸を張っていたかった。自分を、誇ってみたかった。

 清本、お前のことが、好きだった。

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あなたにはわからない 時田知宙 @mtogmck

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