あなたにはわからない

時田知宙

一話

 部屋中に、万年筆のインクが飛び散っていた。白い壁にはブルーブラックの軌跡が残り、まるで雑な星空のようだった。だから紙媒体にこだわる事などくだらないし、非効率的だと言ったのに、八橋やつはしは聞かなかった。

八橋は大学時代から小説を、このデジタル化が進む社会で、400字詰めの原稿用紙に万年筆で小説を書いていた。それを私が知って、もう8年になる。

書いた小説は本になる事がなく、タイトルさえ活字になる事もなく、それでも、八橋は書き続けていた。

その八橋が今、幾年分の原稿を、玄関からすぐ、部屋の隅まで一望出来るワンルームに足の踏み場もなく撒き散らし、中央に胡座をかいて座っている。その背中は丸く、じめじめとしていて、一城の王にはとても見えなかった。六畳一間は城ではないが。言葉の綾だ。

「どうしたの、なにこれ」

声をかけると、八橋のざっくばらんな髪が少し揺れ、

清本きよもとか」

と、私を呼んで確認した。


大学の文芸サークルの同期だった。私は、とりあえずで入ったサークルに顔を出しては、本を読み漁った。本を読むことが好きだった。彼はいつも窓ぎわの席を陣取り、何かを書いていた。小説だった。

私と八橋は特別仲良くなることもなく、反りが合わないこともなく、男女の関係になることもなかった。それでも同じ部室の中で時間を共有し、お互いにお互いの存在を許し合った。どちらともなく連絡を取っては近況報告をし合うような、奇妙な友人関係が続いている。


「どうしたの、これ 」

 繰り返すと、八橋は背を向けたまま振り向きもしないで語り出した。まるであらかじめ台本でも書いて覚えていたかのような雪崩のような言葉で、喋り出した。

頭の中で八橋が放った羅列を文書にしながら、黙って聞いていた。そうしないと、頭に入ってこないからだ。八橋は異常な程、早口だ。追い詰められると更に早口になってしまうのは、昔から変わらない。

八橋は、自分の書いた小説が箸にも棒にもかからずに、ただただ、資源ごみになっていく、この現状を嘆きに嘆いた。呪いのような、お経のような文言。私は黙って聞いていた。やがて頭の中で言葉を追いかけるのも億劫になったあたりで、八橋は言った。


「だから、もう辞める。」

 世界中の空気が凍ったみたいだった。

 書くのをやめると、八橋が口にしたのは初めてだった。不変であると決めつけていたものが崩れた事に、私は動揺し、八橋のように早口になった。

「どうして、別に続ければいいじゃん。仕事の合間にだって―」

 書けるでしょ。

 私の提案を八橋は無神経と取ったのか、耳まで赤くしてまくし立てた。唾を飛ばしながら、それは出来るが出来ない、と叫んだ。

「なんで」

「うるさい!」

 大声だった。初めて聞いた。少し裏返っていて間抜けだった。どうやら私は、割れかかっていた八橋の心のクレバスに、亀裂を入れてしまったようだ。

 八橋は、己の才能の無さを怒涛の文字列で並べ立てた。添削をするならこうだ。

 俺には才能がない、それでも書く事をやめられず、その為にしか生きられない。だからもう、無かった事にしてしまいたい。こんなにも小説を愛しているのに、応えてもらえないのが辛く、悲しく、

「馬鹿みたいで、悔しくてしょうがないんだよ!!!!!」

 八橋の唸り声が、ビリビリと薄い壁を揺らした。


「これまでの人生は無駄な時間だったんだ…。」


 地の底から呟いたみたいな八橋の暗い声を聞きながら、私は内心、怒りに震えていた。今すぐに走って逃げ出したい衝動と、外回りで履き潰した靴のまま、古い畳を踏みつぶし、八橋の首元に食らいつきたい衝動を必死に抑えていた。爪が掌に食い込み、唇の肉が八重歯に押し潰されているのがわかる。

 八橋だけは違うと思っていた。彼は屈強な精神を持っている訳ではなかったが、書くことだけは譲らないのだと尊敬していた。金や生活、自らの外見に頓着がないところを見て、何を犠牲にしても、貫いているのだと感心していた。例え賞を取ることが無くても、執筆こそが八橋の全てなのだと納得していた。諦めてくれるなと思っていた。


 夢中になれるものを見つけた人は、それが叶わないとなると、簡単に手放してしまう。なぜだろう。夢中になれるものを見つけただけで、幸せだと思えないのだろうか。好きなものに寄り添うだけの人生を、幸せだと思えないのだろうか。

 それだけで幸せだ。と、思えない傲慢を、何も無い私は許せない。


 散らかった紙だらけの汚い部屋と、いつ泣き止むのか分からない大の大人を、じっと、二歩進んだら終わってしまうような狭い玄関から眺めていた。

 八橋の顔は、情けないほどびちゃびちゃに濡れていたが、何か言葉をかけてやる事も、その肩に手を置く事も、震える体を抱きしめてやる気にもならなかった。今の八橋には、何一つも渡したくなかった。

 私の気持ちを、この憤りを、言ったところで、理解してもらえる筈はないのだ。

 あなたたちは何も無いと嘆いている私たちを見つけるや否や、あろうことか羨ましがり、これから見つければいい。見つかるよ。やりたいことはないの?と、子供のような無垢な瞳で、おせっかいを焼くに決まっている。自分の悩みを突然放り出してまで、他人を不幸と決めつけて、悪気無くこちらをほじくるのだから、救う気にもならない。

 あなたと私は違う。別の惑星の生き物だ。


 永遠に続くであろう彼の憂鬱を、私は妬ましく思った。

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